syuの日記・気まま旅

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名勝 楽寿園と富士山宝永の大噴火

2018-11-30 | 気まま旅
「江川太郎左衛門」

世直し江川大明神ー享和元年の1801年、江川英毅の次男として韮山で生まれる。幼名は芳次郎。
江川家は、大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。
代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事した。
英龍はその36代目の当主・父・英毅が長命だった為に英龍が代官職を継いだのは、1835年、35歳の時とやや遅い。
この間の英龍はやや悠々自適に過ごし、江戸に遊学して岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしている。
甲斐国では、1836年、甲斐一国規模の天保騒動が発生し、騒動では多くの無宿(博徒)が参加し、江川は、騒動が幕領の武蔵・相模へ波及することを警戒し、伊豆・駿河の廻村から韮山代官所へ帰還して騒動の発生を知ると、斎藤弥九郎を伴い正体を隠して甲斐へ向かう(甲州微行)。
江川は、甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると韮山へ帰還し、その後も弥九郎との関係は終生続いたと云う。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られるが、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。
こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と敬愛、現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っていると云う。
海防に強い問題意識を。
江川は、民政の改革尽力し、幕府開明派官僚の一人高島流砲術習得し、佐久間象山などの門弟を集めている。・黒船来航2年後に激務過労で病死。
江川は、この地で農民を対象に洋式調錬を行っている。
「韮山反射炉」-幕末期の代官江川英龍が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。反射炉とは、金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉。

「農兵節ー富士の白雪朝日に溶ける 三島女郎衆の化粧水・・・」碑がある。

「小松宮彰仁親王」 1846-1903
安政5年の1858年、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。
慶応3年の1867年、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王と名乗る。明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられ、戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。明治3年の1870年、宮号を東伏見宮に改め、明治7年、勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、同10年、の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。
明治14年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。
明治15年、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。
親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。
明治23年に、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征、明治31年、元帥府に列せられる。


                          「二宮浅間神社」


「神社」は、三島駅南口の市芝本町にある神社。
「延喜式神名帳」にある「伊賀牟比売命神社(伊豆国・賀茂郡)」に比定される式内社・伊豆国三宮のち二宮に。
三嶋大社の摂社、あるいは別宮だったという。
三嶋大社八所別宮の一つとも。伊豆山神社の本地仏・十一面千手千眼観音の仏名から「浅間」の神名に転訛したとも言われる。
伊豆山神社やその境内社に比定される式内社「火牟須比命神社」の遥拝所、もとは伊豆国三宮であったが、二宮八幡宮が三嶋大社の境内に遷座して後、二宮に昇格、あるいは二宮として扱われるようになったという。

かつては富士登山をする者が必ず当社に詣でるのを常としたという。
境内周辺より湧き出た水は、下流町村の潅概用水、

御祭神は木花開耶姫命・波布比売命。相殿に瓊々杵命・火明命・火蘭降命・彦火々出見命を祀る。例祭は7月15日・16日。

明治10年3月の三島宿の大火に類焼し、明治12年、復興。
御祭神は高産霊神。本殿の下に大きな円形の石があり、霊石と称し、昔から子供の守神として知られている。



                            社殿


                三島市立公園「楽寿園」の庭園と隣接している。


「楽寿園」は、三島駅南口南側に位置する広さ約75,474㎡の市民公園。
今から約1万2千年前に富士山が噴火した時流れ出た、溶岩流の末端にあたると考えられている。この溶岩は、「三島溶岩流」と呼ばれ、現在でも小浜池を中心とする園内各所で見ることができる。
溶岩塚の集合した高まりが小浜山(現三島北高校~楽寿園付近)。
溶岩流の末端にあたるため小浜池、菰池・白滝などの湧水地になる。約1800年前の古墳時代では、耕作に不向きな土地のため居住地としては利用されず墓地として使用された形跡があり、楽寿園西口付近に1基、東口付近に1基古墳が確認されているという。
この地は三嶋大社との関わりも深く、小浜池は神職の「禊みそぎ」の場として使用され、三嶋大社の祭典中、大祭は沼津の千本浜で浜下りが行われ、小祭は小浜で浜下りが行われたことから、この地は「小浜池」と呼ばれるようになったともいう。
江戸時代の小浜池周辺は、数多くの寺社やお堂が建ち並び、農業用水や生活用水に必要な水源地、宿場北の小浜山一帯は、無宿人などのねぐらになったほか、処刑場(現在の三島駅北口新幹線ホームの西端付近)などがあったという。

          国の天然記念物及び名勝指定 楽寿園(三島市立公園) 有料


宝永大噴火は、歴史時代の富士山三大噴火の一つであり、他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火(800年 - 802年)」と「貞観の大噴火(864年 - 866年)」である。宝永大噴火以後、現在に至るまで富士山は噴火していない。
特徴は噴煙の高さが上空20kmと推定される[5]火山爆発指数VEI5[1]のプリニー式噴火と大量の火山灰である。
実際に100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。ただし溶岩の流下は見られていない。
地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水及び発泡と脱ガスが殆ど行われず、爆発的な噴火となったと云う。
噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、合計3つの火口が形成された(宝永山)。これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、互いに重なり合うように並んでいる。
                   1707年宝永大噴火の溶岩


富士山の噴火は、御殿場・三島~駿河湾とかなりの量の溶岩・火山灰・泥流などが堆積したのが判る。

                 三島駅の中心地に溶岩が今でも


                   小松宮親王別邸跡 梅御殿


                      名勝 小浜池






                        寿橋






 霧時雨 富士を見ぬ日ぞ 面白き 芭蕉



三島は終わります。

富士山の伏流水柿田川と三島と文学

2018-11-28 | 気まま旅
柿田川といえば狩野川水系の一級河川である清流として有名。
柿田川はこの柿田川公園の『わき間』から始まっている。
柿田川、名水百選にも選ばれる全長約1.2kmの清流、 多くの自然を保っている柿田川公園は地域住民の憩い・癒しの場所として、また観光地として親しまれている。
自然がいっぱいの柿田川ー水温は一年を通して約15度前後で安定し、またミシマバイカモなどが有名。
柿田川湧水郡は名水百選にも選ばれる名水で、湧水量は日に70万トンから100万トン程度で東洋一を誇っている。
三島は、北東部に箱根連山西斜面と西部に愛鷹山東斜面と東に境川・西に黄瀬川が流れ両河川の扇状地上に市街地が広がり、地方行政の中心地。
江戸時代下田街道の分岐点「東海道宿場」と箱根越えの拠点と代官所として栄た。

                富士山の伏流水の湧水地が多いところ「三島は水の都」


三島駅南口広場「白滝公園」を過ぎると左手にゆったりと流れる「桜川」。右手には柳の木と大岡信から始まった文学碑が、
宗祇(1421年~1502年)、正岡子規(1867年~1902年)、十返舎一九(1765年~1831年)と続く。

室町時代の連歌師、宗祇は、古今和歌集の解釈を秘伝として継承する“古今伝授”を三島の地で、
その時に詠んだ句の「すむ水の 清きをうつす 我が心」が文学碑が、

       桜川の「水上通り」を三島神社に向かって行くと三島を題材にした文学碑が並んでいる。


「白瀧観音堂」
お堂は、平安時代末からここ水上の地に在って、観世音菩薩が祀られ、白いしぶきを上げながら瀧が落ちていたところから白瀧観音と尊称されたと伝えられる。
江戸時代現在地に移り、一時荒廃したものを常林寺17世達玄大和尚これを見出し寺内に拝し奉祠されたとある。



「正岡子規」
三島の町に入れば 小川に菜を洗ふ女のさまも やや なまめきて見ゆ
面白や どの橋からも 秋の不二
  
               「旅の旅の旅」(明治25年(1892)作)より


「十返舎一九」 1765-1831 滑稽本戯作者 駿府同人の子 38歳で代表作「東海道中膝栗毛」弥次喜多道中記20年間続編刊行された。
「この世をばどりゃおいともせん香とともにつひには灰さようなら」辞世の句

日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
 このとき、ようやく三島の宿へとつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・
女「お泊まりなさいませ、お泊まりなさいませ」弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら泊まるべい」女「すんなら、サア、お泊まり」弥次「あかんべい」
・・・喜多「いい加減に、此所へ泊まるか」女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・と、はだかになりてかけ出す。
女「モシ、そこは雪隠(せっちん)でございます。こっちへ・・・」
弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく・

            東海道道中膝栗毛(享和2年(1802)初刊


カモ・コイ・淡水魚ハヤ、水草と整備された柳並木の遊歩道。
文学碑は、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉(1644年~1694年)、旅を愛した歌人・若山牧水(1885年~1928年)、坂の上の雲などの歴史小説を手掛け、随筆・評論の司馬遼太郎(1923年~1996年)へと碑が続いている。

作品だけではなく三島との関係が深い文学者たちの碑も


 
「若山牧水」
宿はづれを清らかな川が流れ
其処の橋から富士がよく見えた。
沼津の自分の家からだと
その前山の半ばを隠しているが、
三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、
富士のみがおほらかに仰がるるのであった。
克明に晴れた朝空に、
まったく眩いほどに その山の雪が輝いていた。
  
               「箱根と富士」(大正9年(1920)作)より


                            桜川


「一遍」 1239-89 時宗の僧 伊予豪族 河野通広の子 証空の弟子 念仏札を配り全国を巡り教えを説いた。「南無阿弥陀仏」

「西福寺」 時宗の寺
1282年、教えを広めていった一遍上人が三嶋大社を訪れた際に、7,8人の従者が同時になくなりこの地の高台に葬られたと云う。
当時は、お念仏の道場水上道場と呼ばれ、1309年一遍上人の弟子の通年によって「西福寺」が開かれた。
三島市のお寺の中でも古い、山門を入ると右手の地蔵堂に祀られている成就地蔵尊・南北朝時代南朝側の天皇家の方(尊観親王)が西福寺の第6世になり、南朝の復興を願って地蔵に祈りを捧げたといわれている。
地蔵尊には菊の御紋があり、お勤めをする畳の台は二畳台(武将や高貴の方が座られる畳・普通より高い)が今でも使われている。
本尊の阿弥陀如来立像は慶派の作「県文化財」。



                       桜川に沿って 寺正面 


「司馬遼太郎」
この湧水というのが、
なんともいえずおかしみがある。
むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、
溶岩流が奔(はし)って、いまの三島の市域にまできて
止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のように
そのすきまに多くの水脈をつくった。
融けた雪は山体に滲(し)み入り、水脈に入り、
はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺(はし)
である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。

小説新潮昭和61年(1986)2月号掲載  「裾野の水、三島一泊二日の記」より


                     歌集の 卓上の灯 


町中を水量たっぷりの澄んだ小川が
それこそ蜘蛛の巣のやうに
縦横無尽に残る隅なく駆けめぐり、
清冽の流れの底には
水藻が青々と生えて居て、
家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、
台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、
三島の人は台所に座ったままで
清潔なお洗濯が出来るのでした。
  「老(アルト) ハイデルベルヒ」(昭和15年(1940発表)より 

太宰 治 1909-48 青森津軽の大地主で封建的家庭で育つ、 弘前高から東京帝大仏学科 人間失格など


                  ジンタの音 小出正義の碑                    


                   大小の瓢箪が軒下に

 
穂積忠 歌集より  町中に 富士の地下水 湧きわき 冬あたにかに こむる水もや。 昭和30年


「桜川」
菰池や白滝公園を水源とする桜川は、三ケ所用水とも呼ばれ、旧三島宿・錦田村字中・旧中郷村字中島の三カ所の農業用水。
農業用水としての利用が主であるため、横浜ゴム付近で複雑に分水されている。
それぞれ中、藤代町、森永製菓南の耕地などへ導水され、流末は、大場橋付近で暗渠になっており、梅名橋付近から御殿川に流れている。
白滝公園付近には”はや”が生息しており、川沿いを歩く人が、白滝公園は昔から「水泉園」と呼ばれ、富士の湧水にふさわしい地名。



               三島水辺の道「碑」 三島駅前の楽寿園・白滝公園~三嶋大社まで。


源頼朝は、流された蛙ガ小島からここ三島神社で「百日祈願」しいる。

                             頼朝の井戸                         



「三嶋大社」

伊豆国一宮。三島明神とも称した。
祭神は、大山祇命と事代主命、創建ははっきりしていないが平安初期には文献に。                      
江戸時代は、朱印地530石を領有した神社。
境内には、天然記念物金木犀が、資料館に頼朝らの歴史資料が展示されている。北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」・頼家筆の般若心経など。

源頼朝・北条政子腰掛石がある。 治承4年に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に、腰をかけて休憩したと伝えられている。
向って左側の石が源頼朝、右側の石が北条政子が腰掛けたと云うが。?
                         


                        参道入口


                          中門


                          社殿

神楽坂の光照寺は牛込城跡だった

2018-11-25 | syu散歩

「夏目漱石」 1867-1916 思想家・小説家・英文学者・漢文、俳句作り(正岡子規)。東京帝大英文科、江戸牛込生まれ。
小説は、心・三四郎・坊ちゃん・虞美人草など。時代は、英語を学ばなければ大学に進学できない時代に。

夏目漱石が晩年の9年間を過ごしたのは「早稲田南町の借家、漱石山房」。漱石山房で、文壇第1作の虞美人草 を完成。
我輩は猫であるは、ホトトギスの連載 小説で、文壇デビュー前の作品と云う。
三四郎、それから、門などの代表作を 次々と朝日新聞に発表し たが、明暗を 執筆中、持病のため50歳を目前に亡 くなる。
夏目漱石の死後、遺族は漱石山房を購 入したが、戦災で焼失している。戦後、新宿区に移管され区立漱石公園 が造られた。
夏目漱石誕生150周年平成29年 (2017)に向けて、漱石山房記念館の 竣工が進行中と云う。

神楽坂通り「相馬屋」は、夏目漱石をはじめ多くの文人たちの原稿用紙を扱ってきた老舗。
江戸時代に紙問屋として創業し、将軍家、宮内庁御用達をつとめてた店で、漱石は、相馬屋製と銘打った原稿用紙で多くの名作を書いたと云う。

                      変貌する神楽坂


                  昔ながらのお茶店 親子連れが多い。


                       街路時の樹木


「善国寺」 日蓮宗
安土桃山時代の文禄4年の1595年、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建されるが、火災に見舞われ、麹町を経て1793年、に
現在地へ移転した。
本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれる。
現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられている。

                 池上法類神楽坂法縁縁頭寺。


「文化財」 毘沙門天像 - 新宿区指定有形文化財(彫刻)像高30cm、木造の毘沙門天像。(製作時期は不明)
開山の日惺上人が池上本門寺へ入山する際、関白二条昭実より贈られたとされる。 
なお通常は御簾が掛かっているため像を直接見ることはできない。
御開帳の日は、(毘沙門天が寅年、寅の月、寅の日に初めてこの世に姿を現したとされる古事に因み)毎年1月・5月・9月の寅の日とされている。

                        浄行菩薩


石虎(狛虎)阿形石虎 - 新宿区指定有形民俗文化財。
本堂の左右には神社の狛犬のように阿吽一対の狛虎像が置かれている。
案内板には「石虎」と表記され、制作は江戸時代後期のもので、保存状態は向かって右側の阿形が比較的良く残っている。
向かって左の吽形には全身にヒビ割れや多少の欠けと縞模様に若干の磨耗がありこれは東京大空襲による損傷とその後の修復の痕と云う。
虎の作風は頭部が扁平し前肢が長大でどちらかといえば類人猿にも近い印象の肉付きの良い作風の像で、台座部にも虎のレリーフ彫刻が施されている。

                       毘沙門天と狛虎


                          本殿


                          石塔


                        老舗のうなぎ屋


                 店内には横綱「白鵬関」のポスターが


                     ウナギの骨で日本酒を


                  中町公園(小さい公園がいくつもある)


浄土宗の「光照寺」牛込城跡

14世紀、赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が今の光照寺辺たりに牛込城を築いたのが神楽坂の始まりという。
神楽坂上付近は牛込城の城跡と云う。光照寺を見てもここがお城だったとは全く想像できない。家康公の江戸開幕のころは、荒れ地や沼地だった新宿区で唯一、町としての形態があったところだといわれている。開幕後、牛込城は、軍事的必要性が無くなり廃城に。

                         光照寺


「大胡氏」は、鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。
上州八家の一つで、藤原秀郷の子孫・藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別系統)の庶流にあたると云う。
足利成行の庶子重俊が大胡太郎を称した。永禄年間には既に牛込にいたとされ、赤城神社(現在は移転)を創建したと伝わる。
牛込に移った大胡一族は勝行のとき「牛込氏」を称している。

現在は土塁等の遺構は残念ながら見当たらない。
                         近くの公園


小田原の後北条家に仕えた牛込氏の居城跡と云う。
                        光照寺の境内


城主・牛込氏は、
群馬県の赤城の領主だった大胡氏を始めとし、南関東へ進出後、牛込の姓を名乗るようになり、神楽坂駅の裏側には「赤城神社」という神社が、
北条家と対立する上杉方の太田道灌氏の地で関係は不明。
後北条家が滅んだ後は、牛込氏は、徳川家康につき、その際にこの牛込城は取り壊しに、現在の光照寺も一般の墓地のみが広がる小さなお寺で、
周りも普通の住宅街、寺院前に設置された案内板ある。

                         周りは住宅


                        寺の前は、地蔵坂が。


                         大久保通り

 
                      JR飯田橋駅へ 牛込橋


千代田区飯田橋、江戸時代、外堀に機能を果たし、神田川が流れていた。新宿区と結び、東端の日本橋川の河岸として栄えた。
明治に入り、「靖国神社」が創祀され、その門前町となる。

               JR・営団地下鉄東西線・有楽町線・南北線の飯田橋駅が 


「甲武鉄道飯田町駅」
明治22年、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、28年、には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅に、37年、我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置した。
その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長し、明治39年、甲武鉄道は国有化され、昭和8年、飯田町駅は貨物専用駅・
この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川側にあった。


「飯田橋」
江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありません。
明治初年の1868年、簡単な木橋がかけられ、明治14年、土居が掘切られて車の通行ができる橋になった。
1890ねん、鉄製の橋にかわり、昭和4年の1929年、現在の橋がかかった。
現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われ、戦後の町。


市ヶ谷から 明治・大正を忍ぶ神楽坂

2018-11-22 | syu散歩

「四谷濠(真田濠)」
この部分はもともと台地であり、東西に延びる分水嶺の南北を繋げる形で開削して作られた人工の地形である。
戦災の瓦礫により埋め立てられ、現在は、南半が上智大学のグラウンド、北半はJRおよび東京メトロ丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっている。
四ッ谷門(四ッ谷見附)現在の四ッ谷駅付近には、甲州道中へとつながる西の要衝として四ッ谷門が構えられていた。
石組みがいくらか遺され、市ヶ谷濠濠を一部埋める形でJR中央線が走るほか、南半は外濠公園の敷地であり、野球場やテニスコートなどがある。
東半には水面を遺し、JR市ヶ谷駅からの景観に独特の風致を与えている。
市ヶ谷門(市ヶ谷見附)JR市ヶ谷駅前付近に存在した。別名「桜の御門」と呼ばれ、春には桜が人々の目を楽しませ、現在は、バラバラになった組石を数個遺すのみとなっている。
南北線駅に通じる地下コンコース内には濠の石組みが再現されているが、説明板によれば、これは雉子橋付近から出土した石を移築したものと云う。
新見附濠〜新見附橋〜牛込濠市ヶ谷門から牛込門までは、もともとあった川筋を拡張したもの。
鉄道(現JR)の開通によってやや幅を狭めてはいるが、現在まで非常に広い水面を遺している。
土手部分は外濠公園として遊歩道が整備され、春には桜の名所となる。
市ヶ谷門寄りには旧い釣り堀があり、長年親しまれている。
また牛込門寄りには、大正時代に開業した貸しボート屋が前身の、水辺のカフェレストランが営業し、脇には、ややわかりにくいが、かつて旧牛込駅への通路であった遺構が残存する。
                         市ヶ谷マップ


新宿区市ヶ谷は、JR中央線と江戸城外濠を境に千代田区と面している。名は、市ヶ谷と云う大きな谷に由来。
江戸時代は、寺院・武家屋敷が多く、市ヶ谷見附があった。
現在は、オフィスビル・学校・マンションが達ち並んでいる。

                         市ヶ谷見附


                上智大・大妻女子大・靖国神社・防衛庁などが。


                          外堀通り


                          靖国通り


                        営団南北線「市ヶ谷駅」 


「日本福音ルーテル市ヶ谷教会」
1888年に、アメリカ合衆国の南部一致ルーテル教会は、外国伝道局を創設して、日本伝道を計画し、1892年2月にJ・A・B・シェーラーを日本に派遣。
シェラーは、横浜に上陸し、東京築地12番地に住み、山内量平(植村正久の義弟)に日本語を習ったと云う。
1892年、R・B・ピーリーが派遣されてきて、シェラーと共に山内量平や量平の妻・幹枝から日本語を学び、南部一致教会伝道局の意向により、地方伝道のために九州地方を選んだと云う。
佐賀中学校の英語教師としてシェラーは赴任して、松原町に家を借りて仮会堂として、佐賀十字教会(現 日本福音ルーテル佐賀教会)と名づけた。
明治26年の1893年、復活祭にあたる4月2日にR・B・ピーリーとJ・A・B・シェーラーと山内量平により佐賀県佐賀市松原の住宅を改装した仮会堂である佐賀十字教会で最初の礼拝を行った。
この日が日本福音ルーテル教会の始まりであるとされている。
1893年より1902年までが、日本福音ルーテル教会の日本伝道開拓の時代とされ、
1963年、にそれまでの日本福音ルーテル教会と東海福音ルーテル教会の合同総会が、ここ、東京市ヶ谷に在る救世軍エバンゼリン・ホールに於いて開催されて誕生。
                        日本福音ルーテル市ヶ谷教会 


「浄瑠璃坂の仇討」
寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)に、宇都宮藩を脱藩した奥平源八が父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件がこの坂で。

                          浄瑠璃坂


                        庾嶺坂ー若宮町。


「坊ちゃんの塔」
夏目漱石 の小説”坊ちゃん ”の主人公が、「東京物理学校」を卒業した数学教師であったことに由来。
主人公は、卒業後四国松山の中学に赴任して、反俗精神に貫かれた豪放磊落な熱血教師として描かれている。
本学が明治の時代から”坊ちゃん”のような、人間味にあふれた実力ある理数系教師を多数輩出し、理学の普及に果たした役割を誇りにさらに未来に亘って脈々と継承していくことを期して、このモニュメントは建設されたという。
幾何学的な形状は鏡映対称な一対の五面体”ペンタドロン”を最少単位の”個”として、それらを組み合わせて構成。

                            東京理科大


「飯田濠・神楽河岸」
万治3年の1660年、幕府は、仙台藩の伊達綱宗に神田川の拡張工事を命じ、江戸城防備のための濠から船運用の水路にと発展させていった。
それは江戸城拡張によって市街に人口が増え続け内陸の奥まで物資をすみやかに供給する必要に迫られていたからと云う。

                          市ヶ谷船岸原町  


                           神楽坂マップ 


                           飯田橋交差点


「神楽坂通り」
17世紀前半の江戸時代、三代将軍家光の時代に牛込御門と酒井家下屋敷を結ぶ形で開通、元々この地域には以前から町屋が存在していた。
江戸幕府開府以降、一帯には幕府旗本の武家屋敷や寺社が多く配置されていた。
江戸城外堀が掘削され、神楽河岸が造成されましたが、この物流拠点の存在が、後の神楽坂の発展に大きく寄与する。
江戸時代後半になると、江戸は、様々な文化が発展し、八代将軍吉宗の政治顧問であった荻生徂徠や、戯作者として江戸町民から喝采を浴びた太田南畝は、牛込地区の住人で、18世紀末に「毘沙門天善国寺」が麹町から神楽坂に移転してくる。
寅の日の縁日で大いに賑わい、行元寺や赤城神社では岡場所が発達し、幕末には地蔵坂の牛込藁店の寄席は多くの人を集める人気の場所繁華街に。
神楽坂の最初のピークと云う。
                           商店街が続く


                        横に入ると「神楽小路」に


「明治時代の神楽坂」
大政奉還を迎え江戸時代が終わると、多くの武士が帰郷し江戸の人口は半減・武家屋敷中心だった神楽坂一帯も空家が目立つようになり、一時には桑茶畑までが出現したと云う。
東京遷都が決まると、徐々に官庁の役人や企業の社員等の新住民が増加し始め、また行元寺の岡場所から発展した花街が形成されていきます。
神楽坂の商店街もこの頃から急速に発達し、東京で最初の夜店も始まり多くの人で賑わったと云う。
尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥といった近代文学の祖と言われる文人たちがこの地に住むようになると、寄席演芸場や門前町の賑わいも加わり、
神楽坂は文化の香りも漂う街になっていきます。
明治28年には飯田町駅が開通し、甲武鉄道の始発駅となるなど、山の手と下町との結節点として神楽坂の街は一層発展していきました。







                     昼間でも厚揚げでビールを一杯。






大正12年の関東大震災で、
東京下町が甚大な被害を受けたのに対して、台地の神楽坂は、大きな被害が無かったため、震災後は銀座の有名店が軒並み神楽坂に出店することとなり、一時期「山の手随一の繁華街」「山の手銀座」と言われるまでに繁栄し、花街も東京で最大規模となり、複数の常設の寄席演芸場も開かれ、神楽坂はこの数年間が最も賑わいを見せた時代と云う。
しかし、その後は新宿や渋谷といったターミナル駅の発展により東京の中心地が西に移動すると、神楽坂の地位は少しずつ低下。
それでも独特の情緒を持った落ち着きある街として魅力を放っていた神楽坂ですが、太平洋戦争末期の昭和20年の空襲により、江戸時代以来の街並みは遂に灰燼に帰してしまいす。



バブル経済の時代に一部無秩序な開発が進み、以前の「神楽坂らしさ」が失われていくことに危機感も醸成されてきたことから、現在では独特の江戸の風情を残す様々な取り組みが行われていると云う。法政大学をはじめに学生が多い。


上野公園 彰義隊の悲劇から秋葉原 変貌する神田川

2018-11-19 | syu散歩
「彰義隊」

一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した徳川慶喜の復権や助命について話し合った。2月には四谷鮫ヶ橋の円応寺に場所を移し30名ほどで会合を行っている。
次の会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加し、その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国」とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成した。
翌日、浅草本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成。
頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付いた。天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ中心人物となった。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じた。
結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模になった。4月3日に本願寺から寛永寺へ拠点を移動している。
4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が水戸へと退去すると、千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。
慶喜が水戸へ移ったのちも、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けた。
勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がる。
渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は、江戸での駐屯を主張したため分裂。
天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため渋沢は彰義隊を離脱(渋沢が一時期軟禁されたとの説がある)、一時姿を隠していたが、同志とともに、
飯能市、の能仁寺で振武軍を結成し独自に活動を展開した。
渋沢の離脱に伴い彰義隊は隊を再編成したが、天野は頭並の地位に止まっている。
江戸開城以降、関東各地で旧幕府陸軍兵士等の盗賊が各地で幕府復興を名目に放火や強盗を起こし、江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。
事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊と同じく徳川慶喜の警護役をしていた幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行った。
しかし覚王院義観は彼を裏切り者と呼び説得に応じなかった。
京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考え、新政府は彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げ彰義隊を討伐する方針を決定し、京都から西郷隆盛に代わる統率者として「大村益次郎」が着任。
                         日暮里駅前お地蔵様
           

川上音二郎       (1864^-1911)俳優、芸人。一座を素人集団の演劇で立ち上げた。
「書生芝居」などは、やがて新派になる。

博多生まれ、14歳で東京に、福沢諭吉の書生、給仕、巡査など職を替え、政治運動にも投じている。
落語家桂文之助に入門、東京中村座で「オッペケッペー節」が大流行。1893年フランスに渡っている。翌年芸者の貞奴と結婚。

谷中墓地に                    川上音二郎の墓            
               

「五重塔」跡地脇に「高橋お伝」の墓がある。(1848-1879)群馬利根郡出身、
明治の毒婦と称された。「毒のある花は美しい」。

1867年結婚、1872年市太郎と恋仲、1876年蔵前で古物商後藤吉蔵殺害、その年逮捕、1879年日本史上初の女性死刑。
歌舞伎では、「綴合 伝仮名書」。小説で「高橋阿伝夜又譚」「お伝地獄」。映画10本以上。
お伝の墓に参ると三味線が上達すると今でも言われている。

高橋お伝の墓                        都立上野高校
          

都立上野高校は、1924年第二東京市立中学校として開校された。
上野動物園裏、公園、東京芸術大に接している。進学校で越境通学者が多い。

清水坂は、高校に沿っている坂で、高台の摺鉢山に寛永寺の観音堂があった。
1631年京都の清水寺を模し創建、1691年に上野公園、西郷隆盛像の裏(現在地)に移った。坂の名は残った。

                          精養軒
          

精養軒は、1872年三条実美や岩倉具視の援助により築地に西洋館ホテル洋食店を創業。
1876年上野精養軒として開業した。老舗の西洋料理店、現在結婚式場もある。

医薬祖神「五條天神社」1641年創建、祭神菅原道真を尊像。昔はアメヤ横丁入り口にあったが、関東大震災で移築された。
江戸三大天神(亀戸、谷保)の一つ、千貫神輿が有名で、三年おきに上野、広小路と練り歩く。

                          五條天神社
  

戌辰戦争(上野戦争)で伽藍など焼失。1873年日本で初の公園指定になっている。

1868年、「大村益次郎」が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を。
午前中、新政府軍は上野山王台に陣した関宿藩卍隊の正確極まる激しい砲撃と屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退された。
しかし正午から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王山に着弾し始め、午後は射程と圧倒的人数に勝る新政府軍が優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名という。
大村が立案した彰義隊殲滅作戦を実施するには50万両もの大金が必要だった。この調達の為に大村は米国より軍艦ストンウォールジャクソン号購入の為の資金25万両を交渉役の「大隈重信」から分捕り、更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払い、最終的には新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃えた。
これにより作戦実地に必要な銃砲弾その他の物資を揃え開戦したと云う。
渋沢成一郎が率いる振武軍は彰義隊の援護に赴いたが、行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却した。

                          上野公園
  

                    西郷隆盛銅像下 似顔絵画家達


上野は東京の北の玄関口、終戦後闇市のアメヤ横丁を中心に下町の町として繁栄したが、山の手の副都心の著しい成長、東北、上越新幹線東京駅乗り入れにより、副都心としての地位は、低下していった。

寛永寺の門前町として発展してきた上野広小路、春日通りが横断、老舗デパート松坂屋があり、江戸時代は将軍家の寛永寺参拝路、黒い門があり、このあたりは日本橋と共に盛り場として栄えた。

明暦の大火(1657年)のあと火除けの為広場を作り、その後「広小路」と呼ばれた。現在の上野1~3丁目は黒門町で、1698年頃から町屋が転入し鍛治町、無門町などができていった。

                          上野広小路交差点
  

広小路から中央通りを万世橋に向い、亀住町、栄町、佐久間町、五軒町、末広町、など神田に入るが、
この辺は武家屋敷が多く、中でも豊前小倉藩の中屋敷があったが、江戸の大火で焼かれた。

明治2年の大火後、延焼をくい止めるために、このあたりを空き地、火除地とされた。

秋葉原はJR総武、山手、京浜東北、地下鉄日比谷線などが乗り入れ、若者にも人気の駅。
終戦後は上野と同じ焼け野原であったが、1870年秋葉神社を勧請し「秋葉原」とよばれた。

その後、今の外神田を中心に露天商が連なっていたが一斉撤去し、ラジオ部品関係の商店がふえていった。

                          秋葉原電気街入り口
  

秋葉原駅は明治23年、貨物駅として発足、万世橋(現在の橋)が明治6年、大正から昭和の戦前までは古着店が多かった。
その後繊維の織物店問屋が生地物を並べ商売をしていたが、50軒程あったという。

こうした問屋街の伝統が、戦後電気製品に変わっていった、問屋が直売すると言うイメージは今でも残っている。

中央通り 電気街                       路地
         

神田川水源は、三鷹市の井の頭池の湧水、善福寺川と妙正寺川が合流して御茶ノ水、神田から墨田川に注ぐ。
江戸時代は、江戸城の外堀を兼ねていた。

江戸三大地震と言えば、慶安、元禄、安政と言われているが、関東大地震は、はるかに上回るもので、
江戸の中でも万世橋付近は被害が多く橋、神田郵便局などすべて焼きつくした。
焼失戸数28万9千 倒壊戸数1万5千 死者7万4千 行方不明25万。

秋葉原駅                          神田川
         

「万世橋」神田川に架けられた橋、江戸時代は中仙道と日光御成街道の分岐点で、江戸城の防御のために筋違見付と筋違門があった。
1873年アーチ型の石橋(めがね橋)が建築された。

中央本線万世橋駅は、明治45年開業オランダのアムステルダム駅を模していた。
一階は、格等待合室、婦人待合室、駅長室、手荷物扱い室、二階は、大食堂。

駅前は広瀬中将銅像がありロータリーになって、東京の名所の一つであった、そのレンガ壁は一部残っている。

万世橋                          交通博物館跡
         

交通博物館は、1911年後藤新平の提案、鉄道開通50周年を記念して最初は東京駅に開設、関東大震災で焼失、
1936年万世橋駅跡地に移転、約70年間の歴史に幕、子供の時はよく通ったところ、思いで多く残念である。

現在建物の老朽化と展示品目の増加により取り壊している。跡地はJR東日本が建設主でオフイスビルに、2012年完成予定。
1980年頃は、入場者年間83万人以上、ここの展示品は埼玉大宮と北区大成町に移した。

レンガ造り 万世橋駅跡                  旧交通博物館
  

上野戦争後は、
逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦した。転戦を重ねて箱館戦争に。
彰義隊の生き残りは厳しく詮議された。
首魁の天野八郎は投獄後数ヶ月で死亡、江戸時代から明治時代初期にかけての牢獄は環境が劣悪で、囚人の生存率が低かったと云う。
改善されるのは明治の不平等条約改正運動以降のことである。
上野で戦死したことにして故郷にも帰れず、明治時代を戸籍なしで送った人もいたという。
鈴木貫太郎の叔父は上級武士だった為に生死が徹底的に調査され、全国へ指名手配された。
原田左之助は上野戦争で戦死したとされるが、家族に迷惑が掛かるのを心配し戦死した事にしたという説もある。
獄中の彰義隊士が自由の身になったのは、明治2年、である。
新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊のなかで最も厳しかったといわれるが、謹慎後に明治政府へと登用され官吏や重役に就いた者も少なくないと云う。捕縛後の天野の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり、後ろを見たら誰もいなかったというものがある。
彰義隊は、江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し、新政府兵士へ集団暴行・殺傷を繰り返した存在としては覚悟が足りず、実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かったことが、一日の戦闘での崩壊となったとする説もある。
江戸では彰義隊の壊滅後、特に戦闘も起こることもなく新政府要人が集団で移転して来た。
さらに明治天皇を迎え元号は明治へ、街の名前も江戸から東京へと変わり、明治新政府の首都としての歴史が始まっている。


「千住宿場町横山家に残る彰義隊士の刀痕」
横山家は、日光奥州街道に面しており、その街道に面する軒を支える柱に刀痕が見られ、柱の現在は、同家のガレージに取り込まれたため、ガレージを囲う塀内になって道路からの外見は出来ない。 柱の材質は檜材、太さは一辺15cm位角で、地上80cm位の位置に認められ、痕跡は2段の打込み傷。
横山家は屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前迄は手広く地漉紙問屋を営んでいたと云う。 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われ、間口が9間、奥行きが15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建てである。
広い土間、商家の書院造といわれている帳場、二階の大きな格子窓等に、一種独特の風格を感じる。
上野の戦いで、敗退する彰義隊が切り付けた玄関の柱の刀傷や、戦争中に焼夷弾が貫いた屋根等、風雪に耐えて来た百数十年の歴史を語る住居。
千住には、旧家や当時の雰囲気を残す医院の建物等が、今でも散見できる。

                            円通寺


境内に、今でも風雨に晒され「上野黒門」が、片隅にある。
1868年上野彰義隊の戦いで激戦の場となった「上野山本門」いたるところに弾痕や刀傷がのっこて寂しく残っていた。



当時の激しい戦いが生々しく物語っている。



彰義隊は、上野寛永寺を本拠に官軍と戦い、壊滅したが、戦死者200数10人は、みせしめのため放置された云う。



            上野公園内の清水寺(官軍の砲弾が展示されている)


                      清水寺画


                     上野戦争の画


             上野公園内、彰義隊供養塔と墓(薩摩西郷隆盛像の裏に)


これを見た円通寺「仏磨和尚」が上野の山でダビに付し、現在地円通寺に収め墓石死節之墓を建てたという。



                       上野黒門                       


                       彰義隊戦士の墓


                           墓


                           墓


                           墓


「岩倉具視」 1825-83 倒幕運動と王政復古を成し遂げた。
「能久親王」 1847-95 皇族・軍人 
伏見宮邦家親王第9王子ー寛永寺山主・輪王寺宮の能久親王、宮様をを朝敵した。

岩倉は、
能久親王宮様と和宮(孝光天皇妹・14代将軍家茂と結婚)宮様・和宮皇族の二人は、戦を避けるため京都入りしたかったが、岩倉は、天皇に会うことを禁じ阻止した。



江戸の治安の組織として武士300名の彰義隊が存在していた。
将軍 徳川慶喜・宮様・和宮様の警護で彰義隊は2000名以上に増えている。



「大村益次郎」 1824-69 長州藩士兵学・蘭学者。
慶応2年幕長戦争で参謀を務め、戊辰戦争で、彰義隊攻撃のあたって激戦を予想し、薩摩兵を配置、西郷隆盛が驚いたと云う。
益次郎は、西郷に「そうです、激戦のため、最強の兵を投入、、」


                 勝てば官軍・負ければ賊軍(上野戦争から)


旧幕府軍は、すでに大政奉還しており「最後まで天皇に、戦いを避け話し合いを求めるべく親王と和宮をお守りし京に」。
それに対し、岩倉は、倒幕のみと、長州の大村氏を参謀に置き「京に行かせず、敵は、賊軍、、」それが上野戦争であった。