「満福寺」 744年、聖武天皇の命で「行基」が建立した寺と伝わり、東国の疫病が流行して、行基が呪力で収めようと、ここ腰越の地で霊感をえて
「薬師如来」を刻し、祀ると流行病は去ったと云う。その後本尊が満福寺で、お薬師さんで知られている。
行基の仏像は、一本の自然の樹から彫っていると伝えれる。
腰越は、鎌倉の西で入口で、宿場として栄えている。
義経を主人公にした能・八島・義経と漁師を語るのは「腰越」では。
寺には、弁慶が「大江広元」に「腰越状」を。その下書きをしたためたと云う書(以前は展示されていたが、今は無い)
義経は、1185年「平 宗盛」らを護送している。
兄、頼朝は鎌倉入りを許されず。
神奈川県鎌倉市「腰越」源義経、弁慶らが滞在した 「真言宗万福寺」山門
「行基」 668-749 奈良時代百済渡来氏族出の僧侶・社会事業で多くの人々を救う(法相宗の道昭で学ぶ)、広く諸国を巡り、池・道路
大仏建立などを助け、大僧正に任じられた。僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・直道1(行基年譜より)
第二の行基は出ず
満福寺 本殿
「武蔵弁慶」 1189年前後 民衆がつくった英雄、義経の従臣で僧、「吾妻鏡に登場している」・義経前の牛若丸からの知り合い。
知識、知恵、ユーモア、友情、大男であったと民衆がつくった。
襖絵 義経が持仏堂で自害した時、弁慶は、堂ノ前で、無数の矢を受け立ったまま死んだとある。
襖絵 江島
「源 義経」 武将 1159-89 義朝の9男 鞍馬寺脱出し奥州平泉「藤原秀衡」の庇護を受ける。兄頼朝の挙兵を知り参加し大功を立てたが
頼朝の許可なく任官し怒りをかう。対立し九州へ逃れたが船が難破、再び奥州へ、秀衡死後、その子泰衡に襲われて自殺。
襖絵 義経・弁慶
襖絵 「勧進帳」能の演目「安宅」を元に創られ、歌舞伎の演目。(歌舞伎十八番の一つ)、
襖絵 義経の持仏堂前で無数の矢を受け立ったまま死んだとある。
義経物語り「腰越状」の
「孤子となって、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来」の一文がある。(母・常盤御前)
「吾妻鏡・義経記・義経物語・平家物語」にも、この文が。
襖絵 静御前
「静御前」 義経を慕って舞った白拍子・鶴岡八幡宮回廊で舞を
「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき」と歌っている。頼朝は怒った、政子がそれをとりなしたとある。
静は、男児出産するが殺されている。その後は不明
襖絵 義経と静御前
襖絵 義経の鎧
弁慶腰かけ石
「日蓮」 1222-82 安房生まれ、日蓮宗の開祖・法華仏教至上、鎌倉に出て「立正安国論」を書き、北条時頼に提出したが無視され伊豆へ流される。
他宗の僧から憎まれ佐渡へ流される。
佐渡に流される前ー役人が竜の口で斬ろうとしたところ、雷鳴とどろき稲妻が突如走り刀は折れ命助かったと云う。
竜口神社鳥居
「龍口寺」 日蓮宗(霊跡寺院)
1337年創建 開基 日法。
この地は、刑場跡、文永8年の1271年9月、「日蓮宗の開祖日蓮」が処刑されそうになった。
この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼んでいる。その後、1337年、に日蓮の弟子、「日法」がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。
本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が1601年、土地を寄進して以来のこととされている。
明治19年、までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していたと云う。現住は15世本間日恩貫首。(池上法縁五本山の一つ)
本堂は、1832年、竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため「敷皮堂」ともよぶ。
木造欅造り。五重塔は、明治43年竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一と云う。
彫刻は、一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つと云う。
伽藍づくり
一元安信作の彫刻
五重塔
御霊窟
本堂
「薬師如来」を刻し、祀ると流行病は去ったと云う。その後本尊が満福寺で、お薬師さんで知られている。
行基の仏像は、一本の自然の樹から彫っていると伝えれる。
腰越は、鎌倉の西で入口で、宿場として栄えている。
義経を主人公にした能・八島・義経と漁師を語るのは「腰越」では。
寺には、弁慶が「大江広元」に「腰越状」を。その下書きをしたためたと云う書(以前は展示されていたが、今は無い)
義経は、1185年「平 宗盛」らを護送している。
兄、頼朝は鎌倉入りを許されず。
神奈川県鎌倉市「腰越」源義経、弁慶らが滞在した 「真言宗万福寺」山門
「行基」 668-749 奈良時代百済渡来氏族出の僧侶・社会事業で多くの人々を救う(法相宗の道昭で学ぶ)、広く諸国を巡り、池・道路
大仏建立などを助け、大僧正に任じられた。僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・直道1(行基年譜より)
第二の行基は出ず
満福寺 本殿
「武蔵弁慶」 1189年前後 民衆がつくった英雄、義経の従臣で僧、「吾妻鏡に登場している」・義経前の牛若丸からの知り合い。
知識、知恵、ユーモア、友情、大男であったと民衆がつくった。
襖絵 義経が持仏堂で自害した時、弁慶は、堂ノ前で、無数の矢を受け立ったまま死んだとある。
襖絵 江島
「源 義経」 武将 1159-89 義朝の9男 鞍馬寺脱出し奥州平泉「藤原秀衡」の庇護を受ける。兄頼朝の挙兵を知り参加し大功を立てたが
頼朝の許可なく任官し怒りをかう。対立し九州へ逃れたが船が難破、再び奥州へ、秀衡死後、その子泰衡に襲われて自殺。
襖絵 義経・弁慶
襖絵 「勧進帳」能の演目「安宅」を元に創られ、歌舞伎の演目。(歌舞伎十八番の一つ)、
襖絵 義経の持仏堂前で無数の矢を受け立ったまま死んだとある。
義経物語り「腰越状」の
「孤子となって、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来」の一文がある。(母・常盤御前)
「吾妻鏡・義経記・義経物語・平家物語」にも、この文が。
襖絵 静御前
「静御前」 義経を慕って舞った白拍子・鶴岡八幡宮回廊で舞を
「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき」と歌っている。頼朝は怒った、政子がそれをとりなしたとある。
静は、男児出産するが殺されている。その後は不明
襖絵 義経と静御前
襖絵 義経の鎧
弁慶腰かけ石
「日蓮」 1222-82 安房生まれ、日蓮宗の開祖・法華仏教至上、鎌倉に出て「立正安国論」を書き、北条時頼に提出したが無視され伊豆へ流される。
他宗の僧から憎まれ佐渡へ流される。
佐渡に流される前ー役人が竜の口で斬ろうとしたところ、雷鳴とどろき稲妻が突如走り刀は折れ命助かったと云う。
竜口神社鳥居
「龍口寺」 日蓮宗(霊跡寺院)
1337年創建 開基 日法。
この地は、刑場跡、文永8年の1271年9月、「日蓮宗の開祖日蓮」が処刑されそうになった。
この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼んでいる。その後、1337年、に日蓮の弟子、「日法」がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。
本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が1601年、土地を寄進して以来のこととされている。
明治19年、までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していたと云う。現住は15世本間日恩貫首。(池上法縁五本山の一つ)
本堂は、1832年、竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため「敷皮堂」ともよぶ。
木造欅造り。五重塔は、明治43年竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一と云う。
彫刻は、一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つと云う。
伽藍づくり
一元安信作の彫刻
五重塔
御霊窟
本堂