墨田区から台東区蔵前に区の南東に位置する。都営地下鉄浅草線も乗り入れている。
1620年江戸幕府が米蔵を置いた。付近を御蔵前とよんでいた、周辺のは、札差業社が集まり、江戸の金融の中心地で繫栄していた。
現在は、浅草橋と共に玩具、文具の卸問屋がいを形成している。
1954年蔵前橋国技館が両国に移転した。
東京工業大学(旧蔵前高等工業)の発祥地でもある。
(先月「鳥越千貫神輿夜祭り」を掲載している)
「蔵前」駅へ
「鳥越神社」は、鳥越山にあり、神社が土地を失ったのは、江戸城築城と隅田川や当時鳥越のすぐ近くにあった「姫が池」の埋め立てのためにたくさんの土が必要になり、鳥越の丘を崩して使用した。
その後も、江戸城の城下町を形成するのと、旗本や大名屋敷の御用地とするために 幾度となく幕府に土地を没収されたもの。
白雉2年 651年、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。
例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇り、 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、6月上旬に開催される。
前回紹介した夜祭りの鳥越神社 拝殿 夜祭の写真から
「浄土宗寺院 西福寺」は、東光山松平良雲院と号し、京都知恩院末。
江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院(源祟院、法林寺、林照院、長應院、存心院、智光院)を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めている。(浄土宗江戸四ヶ寺触頭)
勝川春章の墓(都指定文化財)、育英小学校発祥の地(台東区旧跡)
西福寺 育英小学校 浮世絵勝川の墓
「西福寺の塔頭 法林寺」は、法林院 境内192坪余。開基諦蓮社深誉縁残真誠、本尊無量寿仏、立像2尺5寸、慈覚作。
文化財は、高嵩谷の墓 「高嵩谷は、1730年江戸に生まれ、江戸中期の画家。
名を一雄、号を屠竜翁、翠雲堂などと称し、画を英一蝶の門人佐脇嵩之に学んだ。
英一蝶は、市井の風俗を軽妙に描写し、英派という一派を開いた元禄期を代表する画家の一人である。
嵩谷は、一蝶風の風俗画を得意としたが、のちには、武者絵に新境地を開拓。
法林寺 画家高嵩谷の墓
「蔵前神社」は、元禄6年 1693年 徳川将軍家の祈願所として崇敬を受けた神社。
徳川綱吉が山城国男山の石清水八幡宮を勧請したことをもって創祀としている。今の社号標や玉垣は大日本相撲協会から、江戸時代以来の相撲との関わりを記念するものと云う。
蔵前神社 拝殿
1923年の関東大震災、後の1945年の東京大空襲で残念ながら社殿を焼失している。
1947年(昭和22年)、隣接している稲荷神社と相殿の北野神社を合祀し、1951年に蔵前神社となったという。
境内 古典落語「元犬」ゆかりの神社
蔵前駅の次が「新御徒町駅」次が「上野御徒町駅」と続いていく。
御徒町は、台東区の南西部、上野駅の南。江戸時代に将軍の行列の警護にあたった「御徒士衆」の組屋敷があった地域。
御徒町~上野間に「アメ横」庶民マーケットとして今でも人気がある。
「新御徒町」駅 昔の武家屋敷の御徒町 商店街入り口
「佐竹商店街」は、台東4丁目春日通りから南の台東3丁目清洲橋通りに至る全長330mの全蓋式アーケードの商店街。
佐竹の歴史は、明治の初年に秋田藩の屋敷跡に見せ物小屋、寄席、飲食の屋台等が並び、盛り場としてにぎわい、下町情緒豊かな商店街として発展を続けている。現在も、色々なイベントを行っていると云う。
シャターの降りてる店も 人混みの商店街が今は、
「秋田城主、佐竹右京太夫 藤堂和泉守の江戸屋敷」には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがあり、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあった。
そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったという。
しかし1682年の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失。
1683年には現在の台東区の地に移転した。
移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたという
幕末期の1855年には、日知館居住する人員130人以上に及んだと記録されている。
南には「おかず横丁」の商店街もある。
商店街を見つめてきた鎮守様 人も疎ら
「上野御徒町」下車。
東京北の玄関口「上野」区西部、忍ケ岡とよばれていた。藤堂高虎の屋敷があり、三重県伊賀上野にちなんだという。寛永寺の門前町で
江戸の盛り場として栄えた。この、寛永寺は彰義隊の本拠地になり、多くの堂字が焼失、新政府は市制定の5公園(浅草・飛鳥山・芝
深川・上野)に指定した。
第二次大戦直後、闇市で賑わい発展し「アメ横」など発展した。
東京北の玄関口「うえの」地下道
「徳大寺」は、創建年代等については不詳であるが、江戸時代前期の1653年に示寂した日遣によって開山されたと伝えられる。
京都本法寺の日達が下総国中山(現在の千葉県市川市)の法華経寺へ赴く際に感得した聖徳太子作と伝えられる「摩利支天像」が
1708年 寺に安置され、その後江戸における流行仏のひとつとして庶民の信仰を集めた。
アメ横中央通りにある「徳大寺」 終戦の上野を見ている寺
徳大寺に奉置される「摩利支天像」の姿は、左手をかかげ、右手に剣を持ち、走るイノシシの上に立つものである。
元来、厄を除き運を開く勝利の守護神であり、武士や芸道者に多く信仰を集めた。
その由来から武人の誉れ高い神を祀る寺として、戦前においての徳大寺は、半ば神社並みの寺風を擁していた。
この摩利支天像は関東大震災や東京大空襲などの災厄でも焼失を免れており、現在でも厄を祓う守護神として幅広く信仰されている。
浮浪児が寄り添って 本堂 弘法大師像
現在のアメ横は、食品、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中、特に年末には正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返し、年末が近づくと多くの店が正月用の食品を取り扱うようになる。
洋品店なども店を閉めて間貸し、通りは大きく様変わりする。
魚介類などの生鮮食品を中心に扱う店舗が集まっている場としては他に築地市場があるが、築地市場そのものは東京都管轄の公営であること、築地市場は業者向けの卸売の量販を主体とし、価格設定も基本的に値引き交渉をしないことを前提としているが、アメ横は、一般消費者向けの小売、店員との交渉次第で安く買えるなど人気がある。
現在の「アメ横」
「上野駅」は、東北・山形・秋田・上越・長野新幹線、宇都宮線・高崎線 、京浜東北線、山手線、常磐線、
東京地下鉄 銀座線、 日比谷線と大江戸線「上野御徒町駅」また、私鉄京成電鉄終点上野駅にも行ける。
台東区から文京区へ
次回は、「本郷三丁目」駅方面へ。