syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

熱海の海岸散歩する

2018-02-28 | 気まま旅
                      「金色夜叉」
熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り 
僕が学校 おわるまで 何故に宮さん 待たなんだ 夫に不足が 出来たのか さもなきゃお金が 欲しいのか  夫に不足は ないけれど
あなたを洋行 さすが為 父母の教えに 従って富山一家に 嫁かん
如何に宮さん 貫一は これでも一個の 男子なり 理想の妻を 金に替え 洋行するよな 僕じゃない
宮さん必ず 来年の今月今夜 この月は僕の涙で くもらして見せるよ
男子 意気地から ダイヤモンドに 目がくれて 乗っては ...。

                     貫一お宮像


「尾崎紅葉」 1887-1903 門下生多い 泉鏡花ー浪漫主義・徳田秋声ー写実主義を受け継いだ。
小説、戯作など多数。江戸芝門前町生まれ、母方、荒木氏に引き取られた。東大法科入学し翌年和文科転校したが2度落ち中退している。学生時代
から石橋思案らと硯友社を結成して文学活動に入る。(日本初純文学結社と云う)食通でもある。
「我楽多文庫・金色夜叉・多情多恨など」

         お宮の松  「金色夜叉」明治30年読売新聞掲載された。


                  国道135号線と熱海ビーチライン


                  暖かい熱海 植物も違います。


                ムーンテラス 愛を誓う恋人の聖地


                      ヨットハーバー   


                       熱海ビーチ(夏は海水浴で賑わう)


                     カモメの雄と雌


                    一列に並んだカモメ


                      一時休み






                       向かい熱海城


              遊覧船(初島)湾を一望できる(本日は定休)




                    早咲きの熱海桜  1月下旬






「釜鳴屋平七の銅像」  和田浜南町
安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こり、マグロ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなる。
事態の中で網元の一人「平右衛門の長男釜鳴屋平七」は、
他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元側から脱退、漁民に味方して解決をはかったが、争いは増すばかり、
平七らは漁民250余人とともにムシロ旗を立て韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川太郎左衛門に訴状を差し出した。
代表者平七ら7人は捕らえられ、首謀者と見られた平七は島流しの刑を受け、1863年、江戸から八丈島送り。
しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島に降ろされ、11月4日35歳で亡くる。
漁民たちは平七の意志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取り、今もなお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っている。
「義人釜鳴屋平七・漁民の恩人 釜鳴や平七の功業・熱海漁業の先覚者釜鳴屋平七と英国初代公使Rオルコックと愛犬物語などがある。

                     釜鳴屋平七像

湯河原梅林 幕山

2018-02-25 | 気まま旅

「幕山  626m」
幕山浄水場、しとど庵という茶店、道を少し進むと左に「幕山公園」、右に4000本の梅林がある。
登山口。山頂まで2200m、右へ入って戻るように梅林の中の砕石道をいく、左手幕山の急斜面に露出した岩壁、梅や桜が植栽された道から松林、コナラの林に変わり、登山口から30分ぐらいで休憩舎のある展望所。
真鶴半島、城山方面の展望が、砕石の敷かれた丸太の段が、ゆるやかにジグザグと上っている。
上るにしたがい湯河原の街や真鶴半島、伊東方面の展望が広がって、休憩舎から40分くらいで幕山の山頂を周回する歩道に出る。
直に上れば山頂はすぐ。
幕山は丸い草山で、遠く東に房総、西に伊豆半島、近くに城山の山並み、これから登る南郷山方面など360度の大展望が得られる。弁当を広げるには絶好の場所である。
山頂からの展望を楽しんだら周回コースを一周してこよう。
周辺展望のよさに加えて四季折々の草花が咲き、楽しい散歩になるはずだ。
南郷山へ向かおう。北斜面の防火帯を下っていく。右が桧林、左がカヤトの草原である。途中から防火帯を左に入る。
右が桧林で左がカヤトの明るい道ですぐに自鑑水(じがんすい)への分岐。
まっすぐ行けば大石ケ平から一の瀬橋を経て五郎神社(鍛冶屋バス停)へ戻るコースである。
右のうっそうとした桧林の中に入る。白銀林道を突っ切って桧、箱根竹などの道を行くと、すぐに自鑑水に着く。
自鑑水は、源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、水面に映る自分のあわれな姿を見て、自害しようとしたのを、湯河原の豪族 土肥実平に引き止められたところといわれ、自害水ともいう。
桧や箱根竹の展望のない山道で自鑑水から10分足らずで再び白銀林道に出る。
ゆるやかに下って、左に南郷山500メ−トルの案内標から箱根竹の繁る急坂を登る。
尾根に出たら右へ行けば南郷山の頂上だ。
頂上といっても山の頂に来た感じがしない所だが、展望は良い。
下りは真鶴半島を目の前にしてジグザグと下ると白銀林道に出る。右に少し歩けば五郎神社への分岐。うっそうとした箱根竹の急な道を下る。
松が目立つようになるとゴルフ場の脇に出る。ゴルフ場に沿ってぐんぐん下る。10分ほどでゴルフ場を端の簡易舗装された道に出る。
ゴルフ場を左にし、右下に大島、初島、真鶴半島の展望を楽しみながら下る。

                     梅の名所「幕山公園」


「正宗屋敷跡・製鉄遺跡」看板が
梅梅林へは道路を西方に、「新崎川」にかかり、幕山橋から展望すると前面の幕山の裾野一面が梅林。
橋の袂には、「正宗屋敷跡と製鉄遺跡」の説明版が建てられてあり、これによると「昔正宗屋敷跡と呼ばれ金山堂が祀られていたという」
関東大地震により壊滅的な被害を受け瑞應寺屋敷内に移転、平成16年試掘したところ多量の鉄滓が出土して、調査により西暦940年~985年頃の
(平安時代中期頃)の遺物と分析され、古代製鉄が営まれていたことがわかったと云う。(湯河原教育委員会から)
「鎌倉の正宗の井」は、
正宗が自分をいじめる意地悪な継母の病気治癒を祈って、水垢離をした井戸だという伝説が残る井戸。
井戸の近くから、刀に使われるはがねの断片やふいごの破片が発掘された。
しかし、それが正宗の時代のものか宗右衛門綱広の時代のものかは不明という。
正宗から9代目の宗右衛門綱広は小田原にいて、北条氏に仕えていた。
北条氏滅亡後は 徳川家康によって召し出され、扇ヶ谷に屋敷をもらった。それがこの辺りである。
そしてこの付近に地名が綱広谷と呼ばれていることから、宗右衛門綱広の屋敷跡ではないかといわれている。
また、この辺りは、鎌倉時代は「千葉常胤」の屋敷跡といわれており、 正宗とは関係がないという説もある。
正宗の屋敷は、刃稲荷の北側にあったといわれ、(JR鎌倉駅徒歩約5分。市役所近く)がある信号を右折。



                         新崎川


                  城山方面のハイキングコース・登山入り口でも


幕山
頼朝が、石を投げた運試した「自鑑水の窪地」長さ7~8m・幅5~6mは、山の中腹。
頼朝軍の逃走経路ー小田原石橋山から土肥の大杉~幕山中腹・自鑑水ーしとどの窟。



「幕山梅まつり」は、2月から3月11日まで

                4000本の紅白梅が山一面に


                    1月末の幕山




















「村社 五郎神社」
                      幕山の里山に鎮座












これで、湯河原は終了し、次回は「熱海」方面へ。

湯河原温泉への道

2018-02-24 | 気まま旅

「万葉集」-奈良時代、約1200年前につくられた日本最古の一大国民歌集ー。
上は天皇から下は一般庶民にいたるまで各階級の人々の歌が集められている。編者は、「大伴家持」といわれ二十巻からなり、
雑歌・相聞歌・挽歌の三種に分類され、種類は長歌、短歌、施頭歌など、約四千五百余首の歌がおさめられている。

           あしがりのとひのかふちにいづるゆの よにもたよらにころがいはなくに

万葉集の中で、温泉の湧き出ている有様を歌っているのは、この一首。巻十四の東歌の中の相聞歌として、
相模の国の歌十二首の中の八首目に出てくるが、
             「足柄の土肥の河内に出づる湯」
温泉は湯河原であることを、有名な歌人佐々木信綱博士によって考証され、この歌の意味についてはいろいろな解釈をされている。
一つを挙げればー「湯河原の温泉が、夜となく、こんこんと河原から湧いているが、その湯河原温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺の事を思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」と解釈されている。
湯河原地方は、その頃から「土肥」と呼ばれていた。
大化の新政令が公布された頃は、箱根山の東の麓に足柄の国というところがあり、上・下の二郡に分かれており、土肥郷は、足柄の下郡に属する五郷の中の一つの郷であったと云う。(その範囲は北は小田原市から、南は熱海市まで、箱根を含む広い地域)
湯河原の人口密度はきわめて低く、せいぜい七戸くらいで、30人から50人位の人しか住んでいない未開の地、が、この歌が万葉集初期の歌として多分に民謡性を帯びていると思われているところから想像すれば、すでに、湯河原の渓谷には温泉が湧いていたことは勿論、その頃の人々が、その温泉が湧き出る様子を女の情熱にたとえて、酒の酔いに浮かれながら歌った素朴な生活ぶりがほのかに思い出され、今は、温泉場の中央、千歳川と藤木川が合流するところに「万葉公園」がある。
万葉植物約八十八種類の自生のものが保護育成されており、椎の大樹が茂り散策が、画家「竹内栖鳳」の筆によって「足柄の土肥」歌が書かれ、椎の木の陰に、国木田独歩・芥川龍之介など文学碑等がある。
                         JR湯河原駅前


                 「土肥実平」像    頼朝に信頼された武将


                     次回に取り上げます


                   土肥城跡は、駅裏側の山


「五所神社」
天智天皇の御代加賀の国の住人「二見加賀之助重行」らの手によりこの地方が開拓されたとき、土肥郷(吉浜、鍛冶屋、門川、堀ノ内、宮下、宮上)
の総鎮守として天照大神以下五柱の神霊が鎮座されたとある。



土肥一族を始め藩主、領主、庶民の崇敬厚く、1060年,源義家奥羽征討に際し社家荒井刑部実継神霊の加護により軍功を立て、
1180年、源頼朝伊豆に挙兵の時、この地方の豪族土肥次郎実平主公のために戦勝を祈願し佩刀を納めたとある。
1621年、代官守屋佐太夫社殿を再建、1636年、地頭松平美濃守、ついで1661年、地頭稲葉美濃守社殿を再建し、
1740年、地頭大久保出羽守社殿を修覆。



             「明神の楠」 御神木の楠木老木。




湯河原・縦に細長い町、箱根山嶺の麓から相模湾の海岸に向かって一直線に下り落ちている。

                          千歳川(神奈川県よ静岡県の境に)








                        泉公園


                        園内


                     街並みにアロエが


                     「豆相人車」明治29年。




                       街角の石仏


「湯河原温泉」 神奈川県湯河原町、県南西端
藤木川と千歳川が合流する落合橋が中心地の温泉街 温度44~88度。





次回も湯河原。

土肥氏菩提寺 成願寺

2018-02-23 | 気まま旅
昭和11年2月26日に日本帝国陸軍若手将校が決起・「2.26事件」
陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の 打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等 を襲撃した。

元内大臣であった「牧野伸顕伯爵」が宿泊していたのが
「伊藤屋」
東京以外で唯一事件の舞台がここ湯河原でした。
宿泊者は牧野元内大臣夫妻・お付の女中、看護婦、 護衛の巡査の計7名。
宿泊先の条件は独立した建物であるという ことから、弊館別館「光風荘」が選ばれましたと云う。
牧野伯は、滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。 襲撃の責任者 河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助 夫妻と偵察のため弊館本館に宿泊し、牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻ります。
その後、兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って「光風荘」を 襲撃、牧野伯は、お付の女中の機転で女物の着物を かぶり勝手口から脱出、
塀を乗り越えて裏山に逃れた。
河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったとの ことです。
襲撃の際、「光風荘」は全焼。(現在ある建物はその後建て られたもの)

「湯河原・伊東屋」と云えば、長編小説「夜明け前」の島崎藤村が一番気に入っていたとある。

                    土肥城跡公園登山コース入口


                   城まで3600mの登り


「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍
平清盛に敗れ、頼朝の父「義朝」は殺され、頼朝は伊豆へ流された。
以降20余年流人ー以人王の令旨を受けて挙兵する。伊豆目代「山木兼隆」討ったが、石橋山(小田原市)の戦いで「大庭景親」二敗れ房総へ逃げた。
兵を集め鎌倉へ・富士川の戦いで平家方を敗走させ、常陸佐竹氏を討って関東を固める。
後白河院に蜜奏し、勅命を得て弟範頼・義経を代官として 木曽義仲・平家を滅亡させた。
義経謀反事件が起こり、院に強要して守護・地頭の設置を認め、 奥州藤原氏を討った。  (挙兵して10年)
平清盛継母「池禅尼」は、頼朝が、我が子家盛を生き写しで、清盛に命乞いをしたと云う。

                       山里


「土肥実平」 頼朝に信頼された武将・相模国中村荘司土肥宗平の子、頼朝を庇護した。
弟土屋宗遠・子小早川遠平を共に最初から挙兵に参加している歴戦の勇士で、行政の手腕もあったと云う。
平家滅亡後、備前・備中・備後の守護になった。真鶴岬(岩海岸)脱出の成功者である。このことを「北条政子」に伝えたのが、子遠平と云う。
小早川氏は、後の「安房」戦国時代の武将。

              土肥氏の菩提寺・「城願寺」の参道


「鎌倉時代」頼朝が守護・地頭設置の1192年・征夷大将軍になった時点と云う。
幕府は、侍所・公文所(政所)・問注所・・。長官(別当)に「和田義盛・大江広元・三善康信就任」-頼朝の独裁が強かった。
長男「頼家」将軍後・独裁を廃して「13人御家人代表の合議制に改め、「梶原景時・比企能員・和田義盛が謀反」の理由で討たれる。
「北条氏」が実権を握り始める。~二度の蒙古軍来襲・武士は総動員・・御家人は幕政に参加できず。貨幣経済の発達で衰え始める。
文化面で、貴族文化「藤原定家」新古今和歌集・・、権威であった。
源実朝も万葉調の歌を詠んでいる。運慶・快慶の彫刻・西行・鴨長明などの文学や「平家物語」の悲劇の活写された。
仏教も、栄西・道元・法然・親鸞・日蓮・一遍らが新仏教を興している。

                       城願寺入口


頼朝・実平の強運は、「城願寺」から。
                        山門


                        六地蔵


パワ―は、ビヤクシン(樹齢800年)・五所神社の楠木・・・

                古木ビヤクシン(天然記念物指定)






                     棟木の木(縁結びの樹)


                          鐘楼


                         七騎堂


                      土肥実平腰かけ石


                      謡曲「七騎落」


                         本堂


                     土肥氏一族の墓






                    源頼朝の腰かけ石


                    幕山の「しとどの窟」


           「山神樹叢」(天然記念物指定) 土肥実平の居住












4月第一日曜日 「土肥祭」 城願寺で法要ー「焼亡の舞」が奉納される。(武者行列など)

次回は、梅の名所、幕山梅園へ。(一月下旬)

2月 雪の富士山

2018-02-20 | 富士山麓日記
一か月ぶりの富士山、今日の富士山はやはり雪が厳しい姿です。
雪が残る河口湖周辺は気温低く寒い日でしたが外国旅行者はいっぱい!往復の高速バスは満員でした。所用あり日帰りしました。



さすが富士急ハイランドは人は少なくいつもの賑やかな歓声は聞こえませんでした。



富士急ハイランドホテル