syuの日記・気まま旅

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清澄寺から鯛の浦

2015-06-27 | 気まま旅

「清澄寺を訪ねてー2009-12-12 07:40:27 | 気まま旅」すでに掲載したのですが今回再掲載です。

「清澄寺」
清澄山参道、65号線を清澄養老ライン81号線で鴨川に下る途中に、日蓮が入門し出家した清澄寺がある。
この道は険しくカーブ多し狭い、

境内中央の大杉は、樹齢1000年をこえる清澄寺の歴史を物語る霊木とされている。根回り17、5m 樹高47m。
  
771年天台宗の寺として開創、三大虚空蔵尊の一つとして、深く信仰されている。
日蓮宗の開祖「日蓮聖人」は1233年12歳のときに、小湊からこの寺に入り、道善法師に師事し、出家得度した。

JR外房線上総一の宮駅、一時間1本「清澄寺」まで、直行便マイクロバスが出ている。(時間の関係で参拝しません)  


「安房国」「房総」は、房総半島東西に連なる「上総丘陵の南斜面」に位置、海岸線に沿う狭い台地、黒潮の影響を受け、冬は暖かく・夏は涼しい。
最近は花卉・枇杷栽培が盛んに、平安時代初期の「古語拾遺」によると、「阿波の斎部(いんべ)の居る所、安房と名づく、太玉命を祀り安房の社
と云う」とあり、阿波(徳島県)の人々が移住したところから「安房郡」と名付けたと云う。
「続日本紀」718年「上総国、安房等の4郡を割き・安房国を置く」とある。4郡は、平郡・安房・朝夷・長狭である。国府は三芳村府中付近
その後武士団丸氏が活躍し、源頼朝の再起の地。
15世紀の滝沢馬琴「南総里見八犬伝」で知られた「里見氏」が勢力を張っていく。
豊臣秀吉時代「里見氏」江戸期「後北条氏」-幕府領・旗本領などに分割されていく。元禄期の浮世絵師「菱川師宣」は、鋸南町の出身

「天津小湊町」は、鯛の浦の面した漁港地区、日蓮聖人生誕地で「誕生寺」の門前町。

                  ー上総国一之宮玉前神社ー
    
永禄年間(1558年-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

祭神ー玉依姫命 ・海からこの地に上がり、豊玉姫命に託された鵜葺草葺不合命を養育し、のち玉依姫命と鵜葺草葺不合命は結婚し
初代「神武天皇ら」を産んだとされる。
「延喜式神名帳」を始めとして文献上は祭神は一座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている。そのほか、「大日本国一宮記」
では前玉命、また天明玉命とする説。
平安時代中期、927年、の「延喜式神名帳」では「上総国埴生郡 玉前神社」として、名神大社に列し、上総国一宮として崇敬されたとある。
江戸時代、1687年、に現在の社殿が造営、1871年の明治4年、近代社格制度において国幣中社に列し、1900年と1923年の大正12年、に社殿等の改修。

一宮町は、房総半島九十九里浜の最南端に位置し、一年を通して寒暑の差が少なく温暖な気候に恵まれた土地で、縄文弥生の頃から人々の営みがあったことが遺跡や貝塚などによって明らかに。 歴史の古いこの一宮町の名称の由来となった「玉前神社」は、上総国にまつられる古社である。
平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」では名神大社としてその名を列し、全国でも重きをおくべき神社として古くから朝廷・豪族・幕府の信仰を集め、「上総国一之宮」の格式を保っていた。
永禄年間の大きな戦火にかかり、社殿・宝物・文書の多くを焼失しており、ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていませんが、
毎年9月10日から13日に行われるご例祭には少なくとも1200年の歴史がある。
「上総の裸まつり」「十二社まつり」と称されるこのお祭りは房総半島に多く見られる浜降り神事の代表として広く知られ、壮大な儀礼をひと目見ようと、
大勢の人々が。
名称の由来ー祭神に由来するという説と九十九里浜を古くは「玉の浦」とたたえ太東崎を南端とするところから玉崎(前)となったと云う説など。

手洗鉢                 本殿                献上樽酒
    

           末社           舞殿
    

境内には,芭蕉の句碑ー「たかき屋にの 御製の有難を今も猶」、「 叡慮にて賑ふたみや庭かまど」の二首。
    

                   落ち着いた境内


毎年7月・中旬に一宮海岸海開き、
宮薙祭~あんどん祭りが、 裏千家中村社中の「くらやみ茶菓接待」館広間・ 玉前神社総代会ー甘酒ふるまい・神楽殿脇、囃子奉納・神楽殿
点灯式・ 県指定無形文化財上総神楽奉納 …神楽殿ー 消灯。

田植えの無事終了を感謝し、ひと休みのこの時期に神社に詣で境内の草薙ぎ(草刈り)や神賑行事を行うもので、神社ではこの日、新麦の御飯と麦濁酒を供えて祭儀を、早盆の時期にあたることから夕刻より先祖迎えの行灯まつりが行われ、境内を彩る500基余りの行灯や地口行灯と呼ばれる大行灯が幽玄な風景を醸し出し、初夏の風物詩となっている。

    

神代の昔、天孫降臨に当って国譲りした事代主神が海路当地に移り東方鎮護の神として鎮座し、これを『庤明神』と崇敬したことが当社の始まりと伝えられている。

その後、治承4年(1180年)石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた源頼朝が源氏の再興を伊勢神宮に祈願し、御厨一処の寄進を祈誓したという[1]。また、寿永元年(1182年)に、頼朝の妻政子の安産祈願の祈祷のため、奉幣使として三浦義村が当社へ遣わされた[2]。頼朝は一ノ谷の戦いの後、寿永3年(1184年)[3]安房国に東条御厨(白浜御厨、阿摩津御厨)を設け、伊勢より神霊を勧請し以前より鎮座の『庤明神』とともに祀ったのが当社である。文治元年(1185年)には生倫神主が参籠したところ、霊夢の奇端があったので頼朝から飛龍と号する馬が奉納され[4]、以降も関東武家の崇敬を受け「房州伊勢の宮」と仰がれ今日に至ってる。

当社の境内にある「まるばちしゃの木」は、中国大陸南部や海南島、台湾などに生育している亜熱帯性の落葉喬木であり、その北限として価値が高く千葉県の天然記念物に指定されている。境内東側の山にはすぐれた極相林があり「神明神社の林」として鴨川市の天然記念物に指定され、山頂には伊邪那岐大神・伊邪那美大神を祀る諾冉神社が鎮座する

    

境内・「まるばちしゃの木」
中国大陸南部や海南島、台湾などに生育している亜熱帯性の落葉喬木であり、その北限として価値が高く千葉県の天然記念物に指定。
境内東側の山にはすぐれた極相林があり「神明神社の林」として鴨川市の天然記念物に指定された。

山頂には伊邪那岐大神・伊邪那美大神を祀る諾冉神社が鎮座する。

「両親閣・小湊妙蓮寺」ー誕生寺と逆方向すぐー
御廟堂の中にお大きな宮殿があり、その宮殿の中に日蓮父母の御廟があると云う。
宮殿後ろ左には妙日、右には妙蓮の石像が安置され、宮殿の真後ろには棟板本尊。

日蓮聖人の両親のご廟所・1253年、清澄寺のお山で立教開宗・山から降りた聖人は、父母を教化し、 父に妙日、母に妙蓮寺
    

      孝養父母第一に、小湊妙蓮寺  本堂


「日蓮の母感謝の心・ 誕生寺」 ー県鴨川市小湊ー

母は、病気の平癒祈願を感謝し信仰に励まれた地が誕生寺の所と云う 生まれた地は今は海となって居ると云うが海には大鯛が踊り岸には蓮華が咲き丘には清水が湧き出したと三奇瑞を今に傳えられて居ると云う。

                 山内には、幼少期の日蓮像


1276年、日蓮の弟子の「日家」が日蓮の生家跡に、高光山日蓮誕生寺として建立。(1498年・1703年、2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転)
(生家跡伝承地は沖合いの海中にあると云う。)
26代、「日孝」が「水戸光圀」の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称したが、1758年、仁王門を残して焼失し、
1842年、に49代「目闡」が現存する祖師堂を再建。
近代に入り、大正天皇の病気平癒の廟所が建立され、その後、昭和から平成にかけて、50万人講を発願して諸堂を復興、
1992年の平成4年、落慶法要が行われた。平成13年、風景100選に選定。

佛教の研鑽を逐え故郷に帰り父に妙日 母に妙蓮の法号を贈り自らは一字づつとり日蓮と改めたと云う。
    

御影体内文書(日静筆・室町期)
江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰。

現住は84世石川日命貫首(本山水戸久昌寺より晋山)。潮師法縁。
「文化財」-大壁画 散華霊鷲山(石川響作)・富木殿女房御返事 (日蓮真蹟)・薬王丸画像・誕生寺古図・ 御影体内文書(日静筆・室町期)

    

「仁王門」
1706年、建立ー平成3年大改修。
入母屋造二重門、間口8間、宝暦の大火の際焼け残った誕生寺最古の建造物。
金剛力士(仁王)像は松崎法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。(千葉県指定有形文化財)

「本堂」
1991年、建立。間口7.8間、奥行き8.8間の単層入母屋造り本瓦葺。
水戸光圀の寄進による十界本尊木像(大仏師左京康裕作)がある。天井に仏教植物の天井画(石川響筆)82枚。
日家、日保像等が安置される。

「祖師堂」
1842年、建立。入母屋造、総欅造り雨落ち18間4面、高さ95尺。建材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し、譲りうけたもの。
日蓮像が安置され、聖人像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進による。
堂内右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれ、堂内の天蓋等の仏具類は明治天皇の生母である中山慶子一位局や、大正天皇の生母・柳原愛子一位局による寄進。

「本師殿宝塔」
1988年、完成。総高26m、塔体印度砂岩切石貼。釈尊像(西村房蔵作)を安置。

「宝物殿」
1989年、に新築開館。面積366m²、日蓮真筆、歴代の墨蹟、里見家、加藤清正、水戸光圀等の遺墨、明治皇室よりの拝領品、日蓮聖人御一代伝記画十八枚等を展示。

「客殿」
1933年、建造。総檜造りで宮家の接待所として造られ、貴賓殿と称した。

「誕生堂、鐘楼堂、大田堂、竜王堂など」

    

「願満の鯛」
1991年、祖師堂の日蓮像を修理するため解体したところ、胎内から4代日静筆の古文書と薬草が発見。
古文書には「生身の祖師」の名と宗祖誕生の時と所が記され、日蓮が母を蘇生させた伝説から、当山の日蓮像は「蘇生願満の祖師」と呼ばれる。
この願満の祖師のお使いとして鯛が使われており、山内では鯛のお守り「願満の鯛」が売られている。
日蓮宗信徒に限らず、周辺地域では鯛を食べる事を嫌う人が多いと云う。(願満の鯛は近所にある清澄寺の五角の合格枡と共に有名な縁起物)

「立正安国論」(1260年)
鎌倉での日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結び、小町大路を中心に辻説法を行い、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として、他宗を厳しく批判。
(妙法寺、安国論寺、長勝寺が日蓮の旧跡に建てられたとしているが、その場所は定かではない。)。
1260年の文応元年、立正安国論を著し、宿谷光則を通じて、時の権力者「北条時頼」に提出した。
立正安国論では、天変地異や疫病は、法然の念仏宗や禅宗などの邪宗を信仰するからであるとし、法華経を信じなければ、「他国の侵攻も受ける」などの批判を行っている。

    

「鯛の浦遊覧船」
海面に群がる特別天然記念物の「鯛」。小弁天と大弁天の二つの島を周遊する遊覧船、船上・船内から水深10~20mに天然鯛の群れを眺められる。
今日は、天候不順で欠航。
                  誕生寺の前が遊覧船乗り場


次回は、勝浦朝市から。

リゾート鴨川 山と海

2015-06-26 | 気まま旅
富士山麓を終わり千葉県に戻ります。

市名は、古代豪族「加茂氏」に由来すると云う。
「加茂氏」は、神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族。
代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。
子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となり、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。

「源頼朝家臣・金山城主 東条氏」が支配
天正八年の1580年に大多喜城主・正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こした「正木憲時の乱」で攻め落とされたのが史料上の唯一の所見という。
長く正木氏の属城として、長狭郡の支配拠点となっていたとみられる。
1180年、石橋山合戦で敗れて安房に渡った源頼朝を貝渚で襲撃した「長狭六郎常伴」が金山城主であったというが不明。
1445年、「里見義実」が「安西景春」を降ろした後、金山城に立て籠もる「東条左衛門常政(秋重、重永)」を攻めて落城させ、常政は討ち死にし、
里見義実は安房の統一を完成させたという。
天文年間には、正木氏の属城となり、金山城には「勝浦城主・正木時忠の弟、弘季」が在城したという。
1580年、正木憲時と里見義頼の抗争(正木憲時の乱)では、憲時は金山城に弟の正木石見守道俊を守らせており、里見義頼は、勝浦城主・正木左近大夫頼忠を先鋒に東安房へ侵攻、葛ヶ崎城を落とし、金山城も攻め落として、正木道俊を「興津城」に追ったと云う。
正木憲時は、1581年、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定された。
金山城はこの頃廃城になったと考えられている。

JR千葉市蘇我駅ー内回り木更津・君津・館山と外回り茂原・御宿・勝浦の発着駅ー安房鴨川駅
    

眼下は太平洋が広がる「魚見塚展望台」が
海抜約110mから見る海岸線は、素晴らしいが、あいにく、今日は、朝から大雨、鴨川松島は隠れていました。


「長狭街道」ー房総半島を横断する主要道路で江戸時代より東京湾と太平洋を結ぶ街道として栄えた。
毎年冬に「長狭街道駅伝」が、鋸南町保健福祉センター「すこやか」 - 鴨川市総合運動施設間で毎年スタートとゴールを交代して開催。
起点は、鴨川市横渚 長狭街道入口スクランブル交差点(千葉県道247号浜波太港線交点)・終点は、安房郡鋸南町保田 保田交差点(国道127号・千葉県道238号保田停車場線交点)総延長:27,007m。「東京湾アクアラインで鴨川市亀田病院までバスが出ている。約85km」。

「久留里街道」ー鴨川市外房地域より都心への最重要幹線道路。
千葉県道路公社管理の有料道路「鴨川有料道路」も含んでいる。鴨川日東バスなどの高速バスも走行。
起点は、 千葉市中央区塩田町 (蘇我陸橋南交差点、国道357号交点)ー終点は、 鴨川市横渚 (横渚交差点、国道128号交点)
有料道路あり、鴨川有料道路(君津市笹 - 鴨川市打墨)。

                 海岸沿線、国道128号線から


二級河川・「加茂川」は、安房地域で最大規模となる河川で、長狭平野の中心を貫く長狭街道に沿うように流れている。
鴨川市西部に源を発し概ね東に流れ、鴨川市貝渚と鴨川市前原の境界から太平洋に注ぐ。
流路延長24.7km。二級河川指定区間は鴨川市金束谷川合流点から河口までの22.25km。支流ー川音川・銘川・金山川など。

             近代的ビルの亀田総合病院近く
    

            龍性院ー山号・飛梅山    真言智山派
    

「須賀神社」
須佐之男命を主神とし罔象女神・源義家公を合祀する神社。
創立年代は不詳であるが社伝によれば、天正の1573~1593年頃、京都より勧請したといわれる。
鴨川市広場地区の鎮守し明治6年村社に列し、さらに大正14年神饌幣帛供進指定社となる。
明治14年同町内にあった無格社水神社及び白幡神社を合祀した。本殿は、1850年の修築と云う。

7月例大祭・南房総最大神輿2.6tと神社前に「万灯」が集合する。
    

諏訪神社、長野県諏訪(高島城の諏訪一族、高梨・望月氏等が)安房鴨川などに移住の記録があると云う。

「高島城」-長野県諏訪市高島にある。別名は、諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていた が、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われたと云う。
                    諏訪神社
    

「前原・横渚海岸ー 海浜プロムナード」
弓なりに美しくカーブした海岸線が魅力的な前原・横渚海岸は、日本の渚百選のひとつ。
右手には名勝・鴨川松島の一角をなす荒島が望め、硬軟合わせた海岸風景が満喫 できる。
夏には市内最大の海水浴場となり、早朝から多くの人々が詰めかける

                 夏は、花火大会
  

「小松原山・鏡忍寺」ー日蓮宗本山(霊蹟寺院)。山号は小松原山。

1264年の文永元年、日蓮聖人が、「東条景信」に襲撃され、同行の「鏡忍坊・日暁」と共に天津の城主「工藤吉隆」が討たれた。
1281年、小松原法難の地に、工藤吉隆の子、日隆が日蓮の命により建立。妙隆山と号し、後に鏡忍坊の名に因み小松原山鏡忍寺と改める。
現住職は43世ー 原 日透貫首。

日蓮宗は、昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。岡本山日宣寺(南房総市犬掛)・袈裟山掛松寺。
また、鏡忍寺は特定の法縁に属さない別格山である。

  宗祖四大法難・小松原法難霊ー鏡忍寺                      手洗鉢
    

「東条 景信」-生没不詳、鎌倉時代前期の武将。安房国長狭郡東条郷の地頭を務めていた。
1253年の建長5年、「日蓮聖人」は、比叡山で修学を終え、清澄寺において自己の法華経信仰を説いた。
このとき東条景信の信仰している念仏も住生極楽の教えどころか無間地獄に落ちはいる教えであると述べ、法華経のみが成仏の法であると述べたことに怒り、日蓮を殺害しようとしたが清澄寺の道善坊の取り計らいで事なきを得た。
日蓮は念仏宗を批判することをやめず、その後も他宗教排撃を弘通活動の中で盛んに行っている。
景信はこの信仰上の恨みとともに、日蓮やその両親が恩顧を受けた領家の尼の所領を景信が侵略した時、日蓮が領家の尼の味方をして領家側を勝訴に導いたことなどから、一層の恨みが募ったのではないかと思われている。
景信は1264年、日蓮聖人が天津の領主「工藤吉隆」のもとへ招かれた帰途を待ち伏せ襲撃したが討ちもらした(小松原法難)。
東条景信のその後の消息に関しては現在のところ正確にはわからないが一説によると1291年、63歳にて病死したとされる。
この説によれば小松原で日蓮を襲撃してから27年後に没したことになる。

              仁王門                             降神槙
    

「工藤吉隆」- ?-1264 鎌倉時代の豪族。
安房天津の領主。
日蓮に帰依する。
文永元年、安房滞在中の日蓮を館にまねいたところ,日蓮と対立する「地頭・東条景信」らが長狭郡東条郷小松原で一行を襲撃したので現場に急行し,
日蓮の弟子ー「鏡忍坊日暁」とともに討ち死にした(小松原の法難)。

「加藤清正」は、熱心な日蓮宗の信徒であり、日蓮宗の寺を数多く創設して いる。
鏡忍寺は、波の伊八として名高い武志家の菩提寺で、「祖師堂裏 の墓地には、初代伊八信由から五代伊八信光までの墓があるという。

清正、1562-1611 賤ヶ岳の七本槍の一人、猛将、肥後国の大名、関ケ原の戦いでは東軍に。熊本城築城、家康による毒殺説あり。

鐘楼堂                       境内(報恩塔など)
    

小松原は、松の木が多く見られ、中でも祖師堂前の「祖師御手植菩提松」はひときわ目立つが、現在の境内には松の大木はほとんど見られない。
「降神の槙」と称され、日蓮遭難時に鬼子母神が降臨して助けたと伝えられる槙の古木は、「二王門」近くに今もあり人目を引いている。

                 「降神槙」は千年以上古木
    

東条景信の一団に襲われた際に、路傍の樹の上に鬼子母神が現れ、危うく難を逃れたと伝えられるマキは市の天然記念物に指定され、今でも境内に大きく枝を広げています。
祖師堂の欄間を飾る「波の伊八」の七福神の彫刻三面、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門が、市の有形文化財に指定.

                     見事な彫刻が
  

「日蓮四大法難ー伊豆法難 - 佛現寺、蓮着寺。小松原法難 - 鏡忍寺。松葉ヶ谷法難 - 本圀寺。龍ノ口法難 - 龍口寺。

                       祖師堂
    
   
   碑ー小松原の 秋静かなり かくりせの 人呼ぶ如く 百舌鳥の 高鳴く


2009年12/10掲載した「大多喜城」の記事を参考に」。

大多喜城は中世の頃、小田喜城(小田喜の城)と呼ばれ16世紀前半代に武田氏が入城したと言われている。
1540年頃は安房の里見氏の重臣正木氏が入り、以後4代に渡り上総正木宗家の居城として発展した。
1590年北条氏の小田原城が「秀吉」に攻め落とされると、「家康」が江戸城に入った。

1609年スペインのドン・ロドリコは「濠に囲まれた高台にあり、門は鉄で出来、内部は金、銀の配色で美しい城」と驚いている。
  
初代の本多忠勝(1548~1610)徳川の四天王の一人、通称「平八郎」は幼少より家康に仕え、数々の武功を揚げた。
上総国で10万石を貰い大多喜城に入る。関が原の戦いでは軍監を務めた。

忠勝は伊勢国十万石に転封となり桑名城主となる。
武田信玄は「家康に過ぎたるもの二つ、唐の頭と本多平八」と褒め讃えた。

その後59度の合戦に参加し、抜群の功を立てながら一度も傷を負わなかったという。
          
城内は、博物館になっており、武器、武具など武家社会に関する資料が展示されている。入館料 ¥200
大多喜の街並みは、房総の小江戸とも呼ばれている城下町、薬草園、忠勝の墓所などがある。

次回は勝浦方面です。

山中湖から道志道 尾崎城

2015-06-24 | 富士山麓日記
デンプレートを代えてみました、いかがでしょうか?

日本中部南東部、東は東京・神奈川・埼玉ー西は長野県ー南は静岡に接する内陸の山梨県。山があっても山梨県で平地が少ない、
その為「甲斐」山斐の地とも云う。
その山斐の南東部が「富士山北東麓にある富士五湖の一つ「山中湖・臥牛湖とも云う。冨士山溶岩堰止湖である。
5湖中最東端・湖面高度最高・面積最大・深度最浅・県天然記念物フジマリモが生息・東部噴火跡、、、。

与謝野晶子は、「富士の雲つねに流れて束の間も心おちいぬ山中湖」と詠んだ。


山梨県南都留郡道志村、神奈川県と接す道志のみちへ。
道志山地の山伏峠(1148m)に源を発し神奈川県津久井湖で相模川に合流する「道志川・渓谷」にそって運転、断層谷沿いに蛇行、山岳地「道志七里」
所々に集落。





「道志川」一級河川・延長ー21.7km。
山梨県南都留郡道志村長又の山伏峠(山中湖村との境)付近に端を発し、道志山塊・丹沢北西部の山地に広がる森林が貯えた水を集めて道志村を横断し、神奈川県に入ると右岸が相模原市緑区津久井地区、左岸が同藤野・相模湖両地区の境を概ね東方向へ流れ、相模原市緑区三ケ木の津久井湖最上流部で相模川に合流する。
水源の標高は約 1,120m、相模川合流地点は約120m。ほぼ全域で両岸は山地になっており、その狭間を縫うように蛇行しながら流れ、途中で多くの支流や沢を合流し、渓谷を形成。
                       道志村道の駅付近






山梨・神奈川県境の峠「犬越路峠・月夜野」
戦国時代に甲斐国の武田信玄が小田原の城主・北条氏康を攻める際に犬を先導させて峠を越えた。
犬越路と呼ばれるようになったと伝わる。犬越路の犬(イヌ)はイノの転化であり、現地の方言で険しい道の意味である。
犬越路の約200 m西側に位置する大杉丸(1,168.6m)の三等三角点の名称はイノコイシ峠となっており、イノに由来した地名が武田信玄の伝承に結びつけられ、いつしか犬越路になったとの説もあると云う。
大界木山と菰釣山の鞍部にある城ヶ尾峠においても武田信玄が小田原を攻める際に越した峠として伝承が残され、この峠の近くには陣を張ったとされる
信玄平や、甲州兵の炊事の際、米のとぎ汁で沢が白く染められたとされる白水ノ沢など武田信玄に由来する地名が点在。
行軍の経路については未だ不明な点が多いが、城ヶ尾峠に比べて犬越路は急峻な峠道であり、信玄が本当に犬越路を越したかについては定かではない。

               今は、渓流釣り・キャンプ場などが点在


「尾崎城」伏馬田城
相模・甲斐の国境で一番の遺溝を残す城。しかし地形に依存した城で複数の腰郭と堀切が一条あるのみ、かなり埋まってしまっています。

伏馬田城は後北条氏家臣の津久井衆の尾崎掃部助が守っていた。 道志川沿いに甲斐から相模に通じる間道の監視を目的とした
城であり城主にちなんで尾崎城とも呼ばれていたと云う。

天文5年(1536)には小山田氏の家臣小林氏が秋山口より侵入して城を攻めたといわれ、「議会政治の父」といわれた尾崎行雄氏は城主の尾崎氏の末裔
とも云う。

「現地案内板」                     


「道志みち・源頼朝伝説」
試し切りの石・兜岩ー 道志川の上流「長又地区」で武道鍛錬に時間を費やした「源頼朝」は、所持していた名刀を研ぎすまし、近くにあった石を切り付けたところ真っ二つに切り裂かれたと云う石と近くに兜岩が、(石英閃緑岩)

的様ー 清流室久保川(道志川支流)の川底に「的様」という一枚岩(1つの黒点を中心にして3重の白い標的の円紋を描き出した花崗岩(石英閃緑石))があり、「源頼朝」がこの周辺で武道訓練をしたという伝説が残され、五穀豊穣と雨乞いの神様として石祠が建てられたと云う。

矢頭山(矢納山)ー 頼朝は、山伏峠を越えて、この山に登り、きりきりと豪弓を満月のごとく引き絞り矢を放ち、矢はうなりをあげながら白井平・板橋・善之木の各集落の上を通過して、遠く一里(4km)も離れた神地まで飛び、見事に標的を射ぬき。
村びとが矢の根を拾い、頼朝公の武勇をたたえ、この矢の根をご神体とした「矢の根神社」を祀ったと云う。

矢先(矢崎)源頼朝の豪弓伝説ー山伏峠を越えると、道志川に面した山鼻に「矢頭」と呼ぶ台地がありこの地で頼朝は、豪弓を引き絞って矢を放ったところ、遠く一里の山里を隔てた「神地」の矢先に達したといわれている。

櫓沢ー頼朝が富士の巻狩の折戸渡地内に大きな櫓を組み立てており、ここから室久保川の「的様」矢を放ったといわれている。
この言い伝えにより「やぐら沢」・「的場」の地名が残ったと云う。

足型石(大室指)- 源頼朝が富士の巻狩りの帰り大室指まで馬に乗り馳せ下ったが、ここまでくるとワラジの紐がゆるんだので馬を止めて石に足をかけ紐を締め、この時、かかとの跡が残った石・足型石。

馬蹄石(月夜野)山梨・ 神奈川県との境にある月夜野に「子ッ沢(ねつさわ)」という沢が有り、源頼朝は、馬に乗り一気に沢を駆け下り、川床にあったハラミダナという大きな石に馬蹄形の凹みをつけたと云う。(馬蹄石)
等,この辺りには、多くの伝説が残されている。



次回、千葉県外房に戻ります。

頼朝が一夜の陣 陣馬の滝と太鼓岩

2015-06-21 | 富士山麓日記
陣馬の滝駐車場付近、珍しい田植えの様子

陣馬の滝入り口付近



冷たい湧水

陣馬の滝については下記掲示を

直ぐ近く、遠照寺 太鼓岩がある付近の澄んだ小川

甘茶つるが繁茂していた、嬉しくなって沢山収穫。干してお茶にする。我が家では苦みのある甘い健康茶として愛飲している。
その他にびわ、どくだみ、ささ、柿、いちょうなども混ぜる。

ここではクレソンも収穫
  




遠照寺

太鼓岩

民宿水口にてランチ。マス料理、鱒のさしみ、焼魚、フライ、そのほか自家製の蕨のお浸し、わさびの茎の煮物、梅干しの甘酢漬け、
大根の漬物(とてもおいしかったので作り方を聞いた、大根を塩漬け1週間、水からあげて酢、砂糖、焼酎で漬ける。2回目石は軽く)
自家製の山菜が盛りだくさん、大サービスでした。


「鱒の養殖」
明治10年以降、アメリカから移入され、全国で養殖され、河川にも放流されている。
上流~中流、湖沼に棲み水温20℃以下を好む。体側に虹色の縦条があり、幼魚時にはパーマークがある。
塩焼き用の小型サイズが一般的だが、刺身、スモークなどの用途に大型サイズも利用されている。
山の方に足を運べば、管理釣り場やキャンプ場があり、そこには生きたマス類が、また、全国の渓流には天然のマス類のほか、放流された魚も育っています。国産養殖マス類の魅力は、なんと言っても鮮度の高い魚が、すこし足を運べば比較的手軽に手に入れることができること。
鱒の味は、淡白で刺身・天ぷら・炊き込みご飯、、で、手軽に食べられている。
民宿水口は、鱒養殖所の前にある。定食セットで2000円前後。

田貫湖の釣り人達

2015-06-19 | 富士山麓日記
1年に数回も訪れている田貫湖、静かで憩いの湖です。今日は曇り空で富士山も見えませんが、美しい富士、ダイヤモンド富士など
撮影場所としても有名です。



田貫湖、静岡県富士宮市にある湖。断層活動により隆起した古富士泥流の窪地を拡大させて形成された人造湖で、
富士山の西麓・朝霧高原の一角に位置する。

元々は狸沼あるいは田貫沼と呼ばれていた小さな沼地であったが、1923年に発生した関東大震災の影響で、
周辺の水の供給を賄っていた芝川の水量が減少したことから、農業用水を確保するために1935年(昭和10年)から狸沼に堤防を建設し始め、
沼を人工的に拡張。これにより706,000m³の貯水ができる人造湖となった。
その後も水の需要増加に応じて堤防の拡張工事を行い、東西1km、南北0.5kmの大きさになり、貯水量が1,200,000m³にまで増えた。

湖の周辺は自然と触れ合える場所として整備され、自転車で湖を1周することができる道路のほか、宿泊施設やキャンプ場、レストハウスなどがある。
長者ヶ岳への登山道も整備されている。

周辺にはボート乗り場があり、ヘラブナ釣りも盛んに行われている。北岸では4月中旬~5月中旬に多くのレンゲツツジ・ヤマツツジが姿を見せる。
各種の野鳥やホタルの観測スポットとしても知られる。レンタル自転車があり、湖を1周20分~30分位で楽しむことができる。徒歩で45分。
田貫湖は富士山の大沢崩れのほぼ正面方向にあたり、富士山の険しい山容を望める適地である。

4月20日と8月20日頃の天気の良い早朝に、湖畔にある休暇村富士の正面からダイヤモンド富士を見ることができ、多くのカメラマンで賑わう。
キャンプ場もある。



雨上がりの今朝、釣り人達があつまりこれから一日中釣り三昧です。