syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

三増合戦城跡へ

2015-07-29 | 気まま旅

神奈川県愛川町に入る。町は、愛甲郡・中津川流域、丹沢山地東に広がる町である。地名は、中津川の別名、鮎川、愛川に。
西部の半原は、養蚕業・撚糸業が発達した所。ミシン糸の生産が多い。
「宮ヶ瀬ダム」が1996年完成で「糸の町」は水没している。戦前は、陸軍飛行場が、台地は平坦で現在、宅地化が進んでいる。
「八菅神社」は、山伏の修験場で知られる「仏乗山・八菅山」が近い。(ハイキングコース)



関東88カ所霊場の 第62番札所 「児松山 華蔵院 慈眼寺」

            本尊 阿弥陀如来 真言宗智山派の寺
  

相模原市の北西端。
鎌倉往還の町田街道、相模湾へと注ぐ境川沿いに位置。
南の大門を目前にすると、樹齢450年とも言われる境内の大銀杏が。(市の保存樹木に指定)
明治の神仏分離まで五柱の神社の別当を勤めていた名 残で、牛頭天王懸佛の御神鏡を守護。
明治28年に近隣のもらい火で本堂などを焼失したが、平成9年に壇信徒の熱望により本堂、仁王門を造営。

            541年前に秀慶和尚により開創という。
    

「上原庚申塔」
            1700年頃造立と思われる石仏、庚申塔が。


「三増合戦場跡」-神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺 (戦国時代)

結果ー武田軍と北条軍の交戦で武田軍の勝利 。(武田信玄と 北条氏照・北条氏邦)
戦力ー武田軍・20,000 6,000〜20,000(諸説あり)・損害ー1,000余(北条五代記) 2,000余(諏訪家文書、武田信玄書状) 3,269(甲陽軍鑑)

            1569年10月ー三増峠の戦いが


武田信玄が小田原城攻めを行った際、相模原市内を進軍した。
武田勢の経路や日本最大規模の山岳戦として名高い「三増合戦」の激戦が。


北条氏政本隊は到着前であったが、八王子城ー氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。
これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦、10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。
緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死に。
武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。
合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた北条氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかったと云う。
もし北条氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあったと云う。自軍の勝利を見た信玄は軍勢を

   反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。
  

「伝説」-合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。
武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。
しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。
これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。

同様の伝説は北条軍側にも残されている。戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという。

またこの地では、合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が。
  

志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けている。
大将である浅利が戦死した左翼では、軍監であった「曽根昌世」が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。
緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利に、、、、、。後、北条は、駿河の今川・武田と「三国同盟」に。


関東88ヶ所霊場の61番札所「清徳寺」ー真言宗大師派ー
谷合いにある。石段の参道を上ると静かな境内の中に入母屋造りの本堂が、本尊ー大日如来。
  

相模随一の水子供養の寺、童水地蔵安置所。
  

空海・弘法大師 774-837  真言宗開祖 四国修行、入唐し、嵯峨帝から高野山を賜る。京都東寺、真言密教の道場。

  

次回は、厚木、飯山観音へ

富士 山荘 ある一日

2015-07-26 | 富士山麓日記
今日の富士山、雲が切れない、忍野から。忍野で鶏卵とうどんを買う。

山中湖 花の都公園 





 

富士吉田道の駅 ここは湧水が汲めるので大きなペットボトルなど水汲みで大混雑、大きな駐車場はいつも満杯。 

その後ランチ、鰻です。ここは山中湖近くの旅館ですが、値段の割に美味しい。ゆっくりした部屋。予約のみ。 

午後はルバームジャムつくり、この地にあっていたのかどんどん収穫できる。

我が家ではキウイと混ぜて作る。酸味があってなかなかの味。早く煮えるのが良い。




次回は、厚木・三増峠へ。

津久井城址公園と牢屋の沢

2015-07-24 | 気まま旅
「神奈川県津久井郡」は、県北西、鎌倉初期「津久井為行」が宝ヶ峰に城築城その名が「津久井城」したことからの由来と云う。
丹沢山地中心、蛭ヶ岳と丹沢山の北西に位置し、その中相模川・道志川・串川流域に集落や農地が分散、神奈川県・山梨県を結んでいる。
江戸時代は、養蚕製糸綿織で知られた「中野地区」が行政の中心。
相模川の中流部を堰止めた人工湖「津久井湖」がある(昭和40年完成)。

中世は、北方を武蔵国、西方を甲斐国に接する相模国愛甲郡の北部にある宝ヶ峰(城山)に津久井城が、八王子から厚木、伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった。
「津久井城」の築城、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族、
「津久井氏」は、(築井氏)三浦大介義明の弟二郎義行が三浦郡津久井村を領し、津久井を名乗ったことに始まると云う。
義行の子「津久井為行」(一説に築井太郎二郎義胤とも)が宝ヶ峰に築城、以来、津久井と呼ばれるようになったと伝えられている。
(この説はそのままには受け取れない)  三浦氏は、三浦半島を本拠とした一族で、津久井氏の津久井は現在の横須賀市津久井から起こったもので、いかに三浦氏の勢力が大きかったとはいえ、相模の北方に位置する津久井にまで勢力を拡大していたとは考えられない。
しかも、津久井の一帯は武蔵七党の一つで、平安時代末期には横山党が割拠していたことが知られている。
(津久井城を築いたのは三浦党の津久井氏ではなかったのでは、「津久井」という地名が確実な史料に現われるのは、「光明寺文書」のうちの
「内藤大和入道」の寄進状で、1524年、以前の津久井周辺は、「奥三保」と呼ばれ、戦国時代にも奥三保と呼ばれていたことは、石楯尾神社に残された
1503年、銘の棟札などから知られる。また、15世紀の1469~1487年、の「長尾景春の乱」において景春に与した海老名・本間氏らが奥三保の山中に籠り、大田道灌の軍勢と合戦している。このとき、海老名・本間氏らが拠った城は、津久井城であったのか?。

「内藤氏の登場」、戦国時代になると、津久井=奥三保の地は相模国と甲斐国を結ぶ交通の要衝となり、小田原北条氏と甲斐武田氏がたびたびしのぎを削った。
甲斐の妙法寺の記録である「妙法寺記」によれば、「1524年、国中の勢が猿橋の御陣にて働き、奥三保へ働き矢軍あり」とみえ、ついで「大永5年、武田信虎と北条氏綱とが合戦、いまだ津久井の城落ちず」とある。津久井のあたりが「奥三保」と呼ばれ、そこにあった城が「津久井城」と呼ばれていたことが知られている。
大永4年から5年にかけて、甲斐の武田信虎が奥三保に入り津久井城を攻めたが落ちなかった。津久井城は後北条方の城で、城主は先の「光明寺文書」にみえる「内藤大和入道」である。
津久井城主内藤氏は北条氏の重臣として、関東の戦国時代を生きたが、その出自、系譜に関しては不明なところが多い。
「城山町史」は、1187年、京都の治安維持にあたった御家人の一人である「内藤四郎の家人内藤権頭親家」であろうとしている。
のちに、鎌倉に下った権頭親家は、雪之下に屋敷を与えられて居住した。
この権頭親家の子孫が鎌倉幕府滅亡後の南北朝の内乱期を生き抜き、室町時代にいたって鎌倉公方足利持氏に仕えた。
その後、永享の乱、享徳の乱と続いた争乱で、鎌倉公方家が幕府と対立を続けるなかで、上杉氏に仕えるようになったと云う。
「津久井内藤氏」は、大和入道のあと朝行─康行─綱秀─直行と続いたとされ、朝行の「朝」は扇谷上杉氏からの一字拝領で、康行の「康」は北条氏康からの一字拝領であろうと思われる。
このことは、大和入道・朝行父子の代までは、扇谷上杉氏に属して相当の身分にあったとみられる。
「快元僧都記」にみえる内藤左近将監(朝行か?)が、北条氏綱が発願した鶴岡八幡宮の再建費用の協力に応じなかった。
小田原を拠点とする後北条氏が扇谷上杉氏を圧迫するようになったことで、後北条氏に属するようになり、1541年、以降に津久井方面に移り、津久井一帯を支配する戦国武士団に成長したものと考えられる。
 


1546年、小田原北条氏の勢力拡大を危惧した関東管領山内上杉憲政は駿河今川氏と結び、扇谷上杉氏、古河公方を誘って、北条方の河越城を包囲、
これに対して、北条氏康は寡勢をもって対抗、翌年、十倍ともいう伝統勢力連合軍を撃破し、世にいわれる「河越の戦い」。
一躍、北条氏康は関東の覇者に躍り出し、この戦いに内藤氏がどのように行動したかは不明だが、後北条方にあったものと思われ、朝行の子康行は氏康から一字を賜る後北条氏の重臣に列らない、内藤氏が北条氏家中にあって相当の重臣であったことは、残された内藤氏関係文書からも確実である。
伝えられた文書は24通だが、何万人もいた北条氏家臣のなかで、独自の文書を発給した内藤氏は、後北条氏の一族につぐ立場で遇されていたことを物語っていると云う。
1559年、に北条氏康が作成した「北条氏所領役帳」には、津久井衆として内藤左近将監「千二百二貫」とみえている。1590年、の「北条家人数覚書」
には「内藤 つくいの城 百五十騎」とあり、相当の地位にあったことを裏付け、豊臣秀吉が小田原陣に先立って作成したという
「関東八州諸城覚書」にも「つく井 内藤」とあり、津久井城主内藤氏が中央からも注目される存在であったことが知られる。

津久井城主内藤氏が束ねていた「津久井衆」は、「敵半所務」あるいは「敵知行半所務」であったという。
後北条氏は武田氏と今川氏と三国同盟を結んでいて、敵対関係になかったころ、津久井衆の半分は武田氏の重臣で郡内を支配下におく小山田氏に味方する土豪たちでもあった。
1568年、甲斐の武田信玄は、相甲駿三国同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、今川氏真を追放して駿府を占領、これに対して、北条氏康は氏真を支援して駿河に出兵、信玄は一旦兵を引き上げた。
翌12年、信玄は碓氷峠を越えて関東に出兵し、、、、、。



「城山ダム」
高さ75m・の重力式コンクリートダムで、相模川の洪水調節、横浜市・相模原市・川崎市及び湘南地域への上水道・工業用水の供給。
寒川取水堰(相模川本川・固定堰)から相模原沈殿池(アースダム・18.5m)を経て各地へ送水されているほか、相模導水を通じて宮ヶ瀬ダム(中津川・国土交通省関東地方整備局)や道志ダム(重力式コンクリートダム・31.4m)との間で貯水を融通し、効率的な水運用を図っている。

目的の一つに発電があり、揚水発電用のダムとしても利用されている。神奈川県営発電所、城山発電所は境川の本沢ダム湖(城山湖)を上池、城山ダム湖(津久井湖)を下池として水を往来させ、主に昼間の電力消費をまかなうことに特化した発電を行っている。尚、発電時に落水させた水をダムに戻すのにも電力が必要であるが、これは夜間に各発電所で発生する余剰発電分を使用している。揚水発電所は電力会社が主体となって運営されることがほとんどで、城山発電所のように地方自治体による例は極めてまれである。
ダム天端を国道413号が通過しており、城山大橋とも呼ばれている。
国道16号及びJR 横浜線 橋本駅等の相模原市中心部へ通じる主要幹線道路、ダムが幹線道路に使われる例は全国でも珍しい。 流域面積ー1,201.3 km²



「根小屋地区」
公園の中心地。戦国時代の城の名残りが。

「牢屋の沢」
牢屋があったといわれる沢。
牢屋は、江戸時代初頭に代官がいたときに使われたとされたと云う。「水牢(みずろう)」といわれ、水で罪人を苦しめたものと思われ、戦国時代に地形を削って「堀」として使っていたとある。
  

山城、丘城、平山城、
独立した山に築かれたものが山城、平地の面積が狭いために城主の館や家臣の屋敷などを山麓に置き、これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城という。
津久井城は、地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置し、八王子から厚木・伊勢原・古代東海道を結ぶ八王子道と、
江戸方面から多摩丘陵を通り津久井地域を東西に横断して甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前を流れていることなどから、交通の要衝の地、津久井地区は、その豊かな山林資源から、経済的に重要な地域であった。
中世の早い時期から政治・経済・軍事上の要衝で、利害の対立する勢力のせめぎ合いの場でもある。



1520年頃 北条早雲は内藤景定を城主とし、津久井衆を組織して甲斐からの侵攻に備えた。
  

1569年、 三増峠の戦い。武田氏側の加藤丹後によって押さえられ、出陣できず。
   

1590(天正18)年 小田原征伐の際、城主・内藤景豊は小田原城に籠城しており、津久井城は老臣等が守っていた
  

徳川家康の家臣・平岩親吉らの攻撃を受け、6月25日に開城。その後、廃城
  

「尾崎咢堂記念館」
「憲政の神」といわれたー尾崎行雄(咢堂)ーの生誕地である尾崎家代々の屋敷跡に昭和32年に建設された。
敷地内には、尾崎自身の筆による「善悪乃標準の碑」が建てられており、
館内には写真や肖像画、遺品のほかに幅広い活動の足跡を物語る資料が保存、展示されている。

                 休館日でした。
  

「尾崎行雄」 1859-1954 政治家 号が「咢堂」
憲政の神様と云われた。慶応義塾で学び、雑誌編集・新潟新聞主筆・郵便報知論説委員・立憲改進党創立に参画している。

  

1890年、三重県から衆議院初当選、連続25回の議員生活を送っている。
1898年、文部大臣。  1900年、立憲政友会創立参画ー憲政擁護運動。

       桂太郎内閣を攻撃し「憲政の神様」と云われた。


       反軍国主義を貫いた政治家・1953年、名誉議員に。


次回は、富士山荘から

正覚禅寺 滝つつじ

2015-07-21 | 気まま旅

「禅の6つの修行要素」
「座禅」- 坐禅中は、姿勢を正し(調身)、呼吸を整え(調息)、心を整える(調心)心身のバランスを取り戻していく。
「規則正しい生活」ー生活を送るうちに、計画した生活リズムで、心身を健康な状態へと導く。
「修行と仲間」-心の交流は、疲れた心を癒やし、他の修行仲間との会話の中で、多様な考え、価値観に触れ、視野を広げる。
「自然」- 天気の良い日に大空の下で作務を、土に触れ、自分の悩みが小さく感じられ、自然には人を癒やす力があります。
「作法」- 身体の動きには、その人の心がよく現れ、禅のこころの動き方である作法を実践することで、自分の心が少しずつ仏のこころに近づいて行く
「法話」-人が生きていく上で、もっとも大切な事、法話から説き、「陰徳」、「下座のこころ」など、修行生活に欠かせないこころのあり方を学ぶことで、現代社会の中で忘れがちになっている、人生の宗教的意味と価値に目が開く。

「津久井町相模湖・正覚禅寺」
臨済宗建長寺派の禅寺で創立は嘉慶元年の1387年創建。津久井33所観音霊場
雲居寺の「大雲禅無和尚」 (建長寺第202世)発起と云われ、自坊の寺を第一番にして「臨済宗、真言宗、曹洞宗等」の寺で、

「西国、秩父、四国百観音霊場」お参 り。
津久井地方に観音霊場を開設し、「午」歳本開帳、「子」歳 中開帳があり六年毎の御 開帳。霊場は加盟45ヵ寺と成った為、
「津久井33観音霊場・津久井観音霊場」に。

             本尊ー木造聖観世音菩薩で行基菩薩の作


本尊の木造聖観世音菩薩・ 像高ー67・3㎝・造立年代 南北朝時代(14世紀)、行基菩薩御作
名付観音・寺の檀信徒や縁のある方には正覚寺で昔から産れた赤子に名前を授け来ていると云う。病気平癒の聖観世音菩薩様としても昔から信仰。
第15番「南無大慈大悲観観世音菩薩」は、中番と言われ、昔は、ご開帳の年に33ヶ所全部巡礼する事は、 時間的に困難な為、第1番から十四番迄の霊場巡拝を終えたら、次の第十五番(正覚寺)から三十三番迄は、次の御開 帳の時に巡礼をしたと云う。
正覚寺は「中番」と言われ、次回霊場巡拝の重要な出発寺でもある。

ツツジが滝のように咲く。ツツジは終わってしまったが咲いたときはどんなに美しいことでしょう!


西行の歌碑 正覚寺の裏山一帯を「間の山」と称し、別に「嵐山」。
嵐山とは今より千百余年前、 大和の隆弁僧正この地に遍歴の際、山城の嵐山に似たるとてこの名を附せりとあり、西行法師はこの嵐山に 憧れて、歩をこの「間の山」に進めしものという。
正覚寺本堂に掲げてある(現在不明)額面に、この消息を 伝える文面、西行は、天台宗の僧、一名歌僧とも云われ、号を円位、
鎮守府将 軍藤原秀郷の孫にして左衛門尉康清の子、後鳥羽上皇に仕えて北面の士となり、 吾妻に下向の折、将軍頼朝これを聞き、人を遣わして西行を鎌倉に召すとある。
和歌、弓馬の事とを問わるるに、 西行辞する事を能わず、通宵大いに談ず、頼朝感謝して愛玩の銀猫を贈る。
西行これを受けて門前に出ずるや、 路傍の児童に与えて呉れ去る。
全く人口に膾灸する所にあらず、西行法師常に謂うらくは、「凡そ密教を 学ばんとすれば和歌を学ぶべし、さらではその奥旨を悟り難し」と、師の和歌に対する意見なり。それより 鎌倉を辞し、かって大和の隆弁遍歴のみぎり、山城の嵐山に似たるとて、その名を附すせりという間の山に 歩を進めて・
と有ると云う。



              『吾妻路や間の中山ほどせばみ心の奥の見ゆばこそあらめ』
山家集の恋歌ーの一首を詠じ、佐賀の大覚寺に摸し、字義を同じうする正覚寺に投宿し云々。
最近、当寺へ愛好家の訪れ、西行法師の歌碑も 時代の脚光を浴びるに至っていると云う。(怪石のある石老山と小仏峠の間は、現在相模湖ピクニックランドの用地となっている)

正覚寺大樫の根元の子持石に西行の歌碑を刻む、西行の腰掛けたと言う「西行法師腰掛石」もあり。信玄道 武田信玄と小田原北条氏が三増峠で合戦、信玄戦勝し、正覚寺面前を通り甲州へ帰る。正覚寺古屋敷は信玄帰途の際、 道明かりとして焼失す。相模湖町には「信玄道」は二道あると云う。

    

1775年、再建と成った、鎌倉建長寺の「山門建立」に関わる「狸和尚」の話しは各地方に昔から伝わる。
当寺正覚寺にも「狸和尚伝説」の話しが遺されていて、その伝説に関っ ている山門化縁主萬拙和尚の掛軸や、正覚寺がその檀信徒に山門建立の為の柱木欅を請け負わせ、相模川の 水運を利用して鎌倉へ搬出する事に関係した古文書、更に、「狸和尚の人面石」等が伝説と共に現存してると云う。

350年程前、 鎌倉建長寺の住職、「萬拙和尚は山門を建立するため勧進といってな、寄付金募集の旅をしておった。 和尚が山口の正覚寺へ立ち寄ったのは、峰々の雪も解け始めた春の事じゃった。正覚寺へ宿泊した 和尚は、この地に山門柱木の適材のあることを聞き、早速不足分の七本を調達して、ひとまず建長寺へ 戻る事と成った。ところが疲労からか、和尚は帰るとすぐ病気になってしまってな、それから先の勧進 を続ける事が出来なくなってしまった。この事を知って喜んだのが、建長寺の裏山に五百年もすんでい るという古狸じゃった。
「これはシメタ」とばかりに、さっそく萬拙和尚に化けて勧進に出かけてしま った。
藤沢から伊勢原、厚木へと進み、ついに正覚寺へ着いたが、正覚寺には泊まらず、義海和尚にあ いさつを残しただけで次の投宿場、甲州街道小原宿の本陣へと向かって行ったそうじゃ。本陣へ着くや、 出迎えの者に「わしは犬が大嫌いでのー、つないで置きなされやー」と命じたり、女中からお風呂を進 められても、「いや、風呂はあまり好まんでのー」と断ったりする。
女中が「でも道中汗をおかきに成 ったでしょうから」となおも進めると、「では、いただこうかな」とシブシブ腰を上げたが、入る真似 をするだけである。さらに「夕食を召し上がれ」と、女中がお膳を運んでいくと「お給仕はいらんでの ー、そこへ置いていかっしゃれーという。女中は、手がかからなくていいと思う反面、なんとも言動 が奇妙なので不思議に思ってたが、翌朝もっと驚く事があった。床を上げようとすると、和尚の布団 に獣の毛がたくさんついておったのじゃ。女中が「どうしたものか」と思案していると、ちょうどそこ へ次の投宿先、多摩の法林寺から迎への者がやって来た。そこで女中は、その者にこれまでの奇妙な出 来事をそっと耳打ちして、和尚を送り出した。法林寺でも、和尚の言動は女中から聞かされとおり奇妙 なものだったので、寺中の者が怪しんだ。そこで、なんとか正体を見とどけようと、まずお風呂をすす めた。すると入ったものの、あまりにも静かすぎるので、寺男が湯加減を尋ねると「いいあんばいじゃ」 と答えながら「ボチャボチャ」と音るをたてている。
なんとか中の様子をのぞいてみようと羽目板の穴 から覗いた寺男は、驚きのあまり思わず声をあげそうになってしまった。
なんと体中に毛が生え、浴槽 のふちに腰をおろして尻尾でお湯をたたいていたのである。
夕食の時も、小原の本陣と同じように「つ いていなくてもよいでのー、終れば呼ぶでのー」と、寺の女中を追い立てるように言う。だが、機転を きかした女中が、襖が跳ね返るようにピシャリト強くしめ、その隙間からのぞいて見ると、これは大変、 お膳の上へ飯をあけ、汁をかけてピシャピシャ、クチャクチャ食べている。
いよいよ、これは狸か狐が 萬拙和尚に化けているのに違いないということで、和尚が便所へいくのを待って、犬を追放したからた まらない。
「ギャアッ!」という悲鳴と共に犬にかみ倒され、そこを寺男に山斧でバッサリと首を落と されてしまった。
寺男はその首をすぐさま箱に入れ、建長寺へ行こうとしたが、「首をあらためてもら うなら、何も鎌倉まで行く事はない、正覚寺の和尚に見てもらえば分かるだろう」という者があり、さ っそく山口の正覚寺へ出向く事に成った。
さて、法林寺の寺男が持参したその箱を、 正覚寺の義海和尚が「それはご苦労、さあ、お集まりの者もご覧じろ」と開けて見ると、誰も息がとま るほど驚いたそうじゃ。
なんと、それは一個の人面の石と化していたそうじゃ。
なになに、「それはほ んとーの話しか?」じゃと。ほんとうじゃとも。それが証拠に、今も正覚寺にはその「 狸の化首(現存) が残っているそうじゃ。」

    

八方睨み達磨・七転八起達磨はあるが,「正覚寺の 首廻り達磨」は珍しい。
達磨の掛軸を見つめながら左、真中,右と部屋の中を、達磨の目を睨みつけながら移動すると、 あら不思議、自然に達磨の顔もこちらを睨みつけながら移動・・・何処に立って居ても達磨は その人を睨んでいると云う。
この「首廻り達磨」は、よく首が廻ると云う事で縁起物となって、不況救いの達磨様。借金も首が廻るようになる。参拝。

                                           化首と首廻り達磨や夏涼し   児草
    

「正覚寺境内のつつじ」
約千本植樹され、4月下旬から、 5月初旬に掛けて、これらのつつじが咲き誇るとそれは見事な景観と云う。

「滝つつじ」は、寺の西側、傾斜を生かした滝つつじ。
  

次回は、津久井城址と公園へ。

相模湖から「顕鏡寺ー石老山」

2015-07-18 | 気まま旅

山梨県の山中湖発し忍野八海の湧水を集め、桂川・馬入川・・神奈川県山間部の相模湖(相模ダム)・城山ダム(津久井湖)・がつくられ道志・
串川から厚木中津川・小鮎川・寒川目久尻川・茅ヶ崎小出川、、と合流が「相模川」県最長の河川である。
水上交通路と農業用水と利用されてきた。(浄水場は寒川町)
神奈川県北西部、相模川の中流に、「相模湖・相模ダム」の人造湖がある。
中央高速では、八王子ー高尾ー相模湖でここは神奈川県、この先が、山梨の上野原ー大月へ。
相模湖ICを出ると、1940年の昭和15年に着工し47年完成した、我が国の総合開発事業の先駆となった「相模ダム」に。

                  中央高速相模湖IC


堤高ー58.4m、ダム頂長さー196m、有効貯水量ー4820万m3.湖水の総貯水量ー6320万m3・面積3.3km2・湖面の高さ167m。

                 JR中央本線相模湖駅


県北部の相模原は、甲州街道の宿場町として発展、中央に相模湖がある。県立公園・漕艇場(東京オリンピック・カヌー競技場)・ハイキング
ボート・釣り、、観光の中心地でもある。

                  相模湖畔


近くの史跡に「寸沢嵐石器遺跡」がある。
神奈川県相模原市は、相模川左岸。昭和48年座間町と分離した。江戸時代は、新田開発が盛んであったと云う。今でも広大な山林原野・桑畑が分布
大戦後は、米軍に接収され、基地の町に、現在は、人口急増地域で宅地化が進んでいる。

相模原台地ー東西約8km・南北40km・高さ160m~50mを云う、北から城山・相模原・大和・座間・綾瀬・海老名・藤沢・茅ヶ崎に及ぶ台地
崖で区別されている。海老名~橋本(沖積平野・相模平野)から段丘崖を通って相模原面へ登って行く地形から、地下水面が深いので開発が
遅れたと云われている。



相模ダム・津久井ダムの完成で宅地化と人口増加最高地域となった。

「国道412号」は、陸上区間ー48.6 km・県平塚市高浜台ー厚木市、愛川町 ー終点は、県相模原市緑区吉野(相模湖IC)
接続・国道134号、国道1号、東名高速道路・国道271号小田原厚木道路・国道246号・国道413号・国道20号(八王子市方面、大月市方面・中央自動車道

                      相模湖大橋


「顕鏡寺ー石老山」
奇岩・怪石・巨木等が。 相模湖の散歩道

「境内の名木」
寺の境内は樹齢数百年の巨木が生い茂っており、荘厳な雰囲気をかもし出し、その中で蛇木杉は津久井の銘木に選ばれた巨木。
巨大な杉の根が2本露出しており、その姿があたかも大蛇が寝そべっているように見えることからこの名が、(県名木100選に選・樹齢400年)
                      
            蛇木杉・根元 神奈川名木100選のイチョウもある。
    

平安時代の851年、「源海法師」によって創建されたという真言宗の古刹。
山号が石老山、寺の縁起によればー「平安のころ、高貴な身分の若君と姫君が恋に落ち、都を捨ててこの地に身を置き子をもうけ、その子が成長し、僧となって源海と号した」とある。
親子が住居にしていたところが境内の一角にある道志岩窟で、岩窟内には福一満虚空蔵尊が安置されており、寺の寺宝。

                        顕鏡寺山門
    

                      顕鏡寺参道入口
    

                         鐘楼


                        顕鏡寺本堂

石老山登山道の巨岩・怪石ー参道入口から顕鏡寺、石老山登山道に至る道筋には見事な天然の創造物である巨岩・怪石があちこちに見られる。
顕鏡寺 仁王岩・ 駒立岩・ 奇岩・怪石が。

    
                       
                      顕鏡寺道志岩窟
    

顕鏡寺からの眺望
  

顕鏡寺へは相模湖駅から三ヶ木行バスに乗って、石老山入口下車。
赤い欄干の橋を渡って15分ほど歩くと相模湖病院、顕鏡寺への参道の入口に、奇岩怪石が連なるうっそうとした森林の中を登って、約15分
で顕鏡寺に。

石老山ー第三紀地層の礫岩が全山に分布し、巨大な奇岩怪石を見ながら顕鏡寺を経て石老山頂へ。
さらに、尾根づたいに歩いて「大明神展望台」がある。
丹沢や富士山、南アルプス、高尾や相模湖などが一望できる。
    

次回は、津久井方面へ。