syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

魚津城跡と蜃気楼ロード 

2012-07-28 | 気まま旅
魚津の歴史ある「たてもん祭り」じゃんとこい魚津まつりのメインイベントでもある「たてもん」は、諏訪神社周辺の7町内から7基のたてもんを曳き回し、
航海の安全と大漁を祈願する行事で昔は10基が曳かれていたという。たてもんの名称は、「神前に贄(にえ)を供え捧げたてまつる物」という意味。
これは300年以上も前から続いている、県有形民俗文化財に、1997年には、国の重要無形民俗文化財に指定された。

 
富山県酒は、蔵元 29、名柄 59種あるが、その中でもよく知られているのが「立山酒造」の銀嶺立山であろう。倉庫、事務所が、魚津港、
蜃気楼見晴らし台の海岸沿いにあった。

立山酒造が蔵を構えた、山県西部の砺波平野に開けた扇状地、庄川河畔の最も上流は、豊かな名水が潤す豊穣の大地と聞く。
創業は1830年、井波町新明屋仙助が幕府より酒造株の所持を許可されたことに始まり、明治には酒造石高が県内一位となる約二千石を記録、今では約三万五千石を
有する北陸屈指の蔵元として知られている。
日本三名山の一つ「立山」にちなんで名付けられたその酒は、品質追求の信条を基に、白山に源を発する花崗岩に濾過された清流庄川の伏流水を仕込み水に使用し、
原料米には酒造好適米の最高峰とされる兵庫の山田錦を主とし、北陸地方の代表的な酒造好適米「五百万石」といった良質の酒造好適米を用いて仕込まれている。


蜃気楼ロード展望台にて
    

蜃気楼ロードの「蜃気楼見晴らし台」の小さな公園に、万葉の大伴家持の歌碑があった。
ロードは、早月川河口付近から片貝川河口までの海岸線を走る蜃気楼ロード、ロードのほぼ中央に「懐かしの灯台塚」という展望台がある、
敷地内に越中万葉歌碑「信濃の浜」が建立され、家持がここを訪れた1260年前は、長浜が続く海岸線だったと思われる。


見晴らし台に万葉集家持の碑文   石碑
  

魚津の海は、急傾斜して、一大深層をつくっている。自然が生む三大奇観、幻想的な「蜃気楼」と「ホタルイカ」、太古の歴史をを今に伝える「埋没林」がある。
ホタルイカの群遊海と、埋没林は国の特別天然記念物に指定。
4月〜6月の暖かな日中には蜃気楼、夜にはホタルイカの「身投げ」と呼ばれる現象を見ることができ、魚津漁港に水揚げされる魚は種類も豊富な漁場として広く知られている。

展望台                  富山湾は少々ガスが
    

魚津市、滑川市沖に見られる「蜃気楼」。対岸の風景や海上の船が浮かびあがたり、伸びたりした幻想的な姿が見る事が出来る。
今日は曇空であった。


富山港の漁業市場 港オアシス魚津           ホタルイカの漁獲は      
  

特別天然記念物「魚津埋没林博物館」では、水中保存されている。「水族館」は、ロードを挟んで海より、独特の建物で,240tの
大海洋トンネルがある。有料

  

4-5月上旬観光船で「ホタルイカ」漁を見学できる。滑川観光。


蜃気楼ロードを挟んで「水族館」
  

「魚津城」跡、山城松倉城の出城、上杉謙信築城。

「魚津城の戦い」は、魚津城を早くも包囲された上杉方指揮官の「中条景泰」はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には
甲州征伐を終えた織田軍が駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとった為、兵を出せず救援を断った。
その代わり能登国の諸将、および松倉城主「上条政繁や斎藤朝信」を派遣した。
景勝は、1582年に魚津城救援のため、自ら軍勢を率い春日山城を出発、魚津城東側の天神山城に入り陣を張った。
一方織田軍は二の丸を占拠したため、景勝は魚津城に戦を仕掛けられず、信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が景勝の本拠、春日山城を
総攻撃する態勢に入ったため、退陣を決断した。
その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月に落城を悟った
「山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱」ら
上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。


小学校の中に
  

1537年、前田利家が生れる,幼名:犬千代。 1551年、元服(男子が成人したことを示す儀式)して前田孫四朗利家と名を改める。
1560年桶狭間の戦いに参戦。 1562年、長男利長が1月に誕生する。 1567年、稲葉山城攻めに従軍する。 1569年、織田信長の命で家督を相続する。
1570年、姉川の戦いに。 1575年、長篠の戦いで鉄砲足軽大将として鉄砲隊を指揮する。8月、越前一向一揆の討伐に従軍。
1577年、手取川の戦いにて柴田勝家に従い加賀に出陣するが、上杉謙信に敗北する。 1582年、小丸城を築城する。

1582年、魚津城包囲戦が始まるが、翌日本能寺の変を知って魚津を撤収する。荒山・石動山合戦が始まる、賤ヶ岳の戦いにて、豊臣側につく。

魚津城跡の碑が
    

名将言行禄「上杉謙信」1530-78  武士の鎧の袖を かたしきて 枕に近き 初雁の声

戦陣だは、野営して、武装したまま寝入ったようだ、枕元にありありと聞える、初雁の声、、、、。


歴史が書かれていた             上杉謙信の歌碑とときわの松
    

本願寺は浄土真宗、興山「照顕寺」、魚津城青山家菩提寺。

魚津城の裏にある寺で、「魚津城の戦い」に何等かの関係がありそうである。

織田軍の包囲は80余日におよび、食糧も尽き、救援も得られないまま、守将たちはことごとく玉砕して果てたちである。
魚津城落城の前日、織田信長は本能寺で家臣明智光秀に討たれている。

城の敷地内と思われる古寺
    

 
境内
  


「米騒動発祥の地」の石碑と修復中の旧十二銀行倉庫。旧十二銀行と倉庫(修復後)。(魚津)大町通り正面から
1918年(大正7年)の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため「伊吹丸」が寄航していたという。
荷積みを行っていたのは十二銀行(北陸銀行の前身)で、その倉庫前へ魚津町の女性労働者ら十数人が集まり、米の船積みを中止し、
住民に販売するよう求め、嘆願した。
この時は巡回中の警官の説諭によって解散させられたが、住民らは集会を始めるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月には
当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。
住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。これが地方新聞(8月9日高岡新報)の記事から始まり、
全国の新聞に「越中女一揆」として報道されることとなった「米騒動」の始まりといわれている。魚津では阻止する動きはあったものの、暴動は一切起こっていない。

説明板が                蜃気楼ロード沿いの公園内に
  

碑                   黒塗りの米蔵 
      


次回は鹿熊山、松倉城跡方面と向かいます。


宇奈月 黒部 魚津へ

2012-07-26 | 気まま旅
本州の中央、富山湾に面する水の王国、富山県。明治16年石川県から分立、東部は北アルプスで、飛騨山脈の急勾配、山の河川が湾に注ぎ込む、湧水も多く、
生活用水として利用されてきた。降雪は山地に蓄積され雪解け水となり街中へ、越中七大河川、片貝川、早月川などで「川を制するものは 越中を制する」
と云われている。

越中人は、自然とうまくつき合うという、保守的、忍耐強い、勤勉、倹約の気風が今も残って居る、「北陸の大阪人」という。
石川県加賀藩の支藩、前田家の支配下であったが、以前から農政など独特で、治水事業に力を入れており、全国でも水田率では上位にいる。
産業面でも、テクノポリスなど産業構想にいち早く展開させた。
1690年、江戸城で大名達が次々腹痛に苦んでいる時、富山藩二代藩主前田正甫が「反魂丹」を差出し服用すると、全員回復、その後全国大名から分けてほしいと
懇願されたと云う。

「脇子八幡宮」 朝日町横尾に鎮座
    

この社は8号線・横尾信号北に鎮座して、社は脇子神として日本紀略 889年に記載された式外社で、由緒有る古社。勧請年月・縁起・沿革等については不明です。

社頭 一の神明鳥居は見事であった。


山の上の社殿                長い階段を昇る
  

「宇奈月神社」は、昭和2年の創建で、大正12年(1923年)より当地、宇奈月の発展に伴い、当地への居住者が増加していった。
しかし、開拓地であった当地には、氏神がなく、これを遺憾に感じた居住者達が、地域周囲を説得し、各地より御分霊を勧請、創建を実現。
祭神は、天照大神、太陽の神・大山祇神:大山を司る神、金運の神・大山咋神、山水の神、地主神、殖産新興、開拓の神、安産の神・徳川家の氏神(江戸時代)
天台宗および延暦寺の守護神、比叡山の王、山王・象女命:水の神、井戸の神・祈雨、止雨の神得があるとされる。




富山県代表する温泉地、宇名月 駅前にある神社
  

5年ほど前に雪の道を黒部へ行ったが、今回は遠望のみ。
立山・黒部アルペンルートを簡単に、475m、立山駅・977m美女平・1930m弥陀ヶ原・2300m天狗平・2450m室堂・3015m立山標高
                 2316m大観峰・1828m黒部平・1455m黒部湖・1470m黒部ダム・1433m扇沢・長野県大町
                 トロッコ電車、ケーブルカー、バス、トロリー、ロープウエイ、と乗り継ぎながらのルートである。


黒部渓谷大自然の中を走る 
    

黒部峡谷には、藩政時代 1600年代から多くの温泉(鐘釣温泉、黒薙温泉、祖母谷温泉)などがあることは知られていた。
しかしこれらは人跡未踏の原始林に囲まれ、道らしい道もなく、森林を見まわる一部の役人だけにしか知られていなかった。
やがて大正中期以降、黒部川の電源開発が進められるようになって、それらの関係者によって利用されはじめた。これがきっかけとなって、宇奈月温泉が開かれた。

「黒部渓谷トロッコ電車」は、宇奈月を出ると、そこは、秘境黒部渓谷、息をのむ断崖、「鐘釣」岩肌から温泉が湧き出ている。
「黒薙」は、中部山岳国立公園、後曳橋は深い険しい谷に架かる橋、黒部万年雪が見られる。
なお奥に、トロッコ電車は登ると「欅平」鉄道の終点駅、奥鐘山、人喰岩(岩壁をえぐり取って造られた歩道)、猿飛峡、梟の木などがある。

宇名月駅から
  

昭和38年、黒部川第四発電所(当時の出力252,000KW)が竣工。そのなみはずれた工事の困難さとスケールの大きさは世界的に有名で「黒部の太陽」映画にもなった。
宇奈月公園に昭和天皇陛下の歌碑で、「紅に染め始めたる山あひを 流るる水の清くもあるかな」と詠まれ碑がある。

駅前駐車場                             温泉街
  

国道8号線で、片貝大橋を渡り、魚津市に入る

片貝川(主流)、支流が布施川、 富山湾に注ぐ1kmほど手前で布施川と片貝川に分かれる。
布施川は上流まで漁業権があるが、片貝川は、合流点から2kmほど上流の片貝大橋までしか漁業権がない。
源流から海までの距離が短く、しかも積雪が多いので急流の荒れ川で、砂防堰堤や取水堰堤が多い。


橋を渡れば魚津の街へ
  

「JR魚津駅」は、富山地域鉄道管理の直営駅で、北陸本線の特急列車・急行列車の大半が停車する。
大阪方面への特急「サンダーバード」が1往復のみ乗り入れ、富山地方鉄道と接続しており、北陸本線から宇奈月温泉方面、黒部峡谷鉄道トロッコ電車や、
立山黒部アルペンルートへ向かうための乗り換え駅でもある。

魚津駅西ロータリーおよび広場は本新町であり、8月のお祭り「たてもん祭り」、高さ16mの大万燈、重要無形民俗文化財指定が飾られていた。

JR北陸本線 魚津駅                        駅前
    

「新庄山・照善寺」は、浄土真宗の寺。魚津神社前の中央通りにある。

    

「魚津神社」市中央通りに鎮座。例祭 6月・ 愛宕社の火祭り1月、元は、神明社という名前の神社。
1956年に魚津大火が発生し、その復興事業として火災地域にあった4つの神社を統合し、「魚津神社」となった。

1966年に魚津市立大町小学校敷地内にあった愛宕神社(昔は魚津城の守護神として有名だった)を本殿の北隣に移している。
社殿は、1965年。愛宕社 神明社(神明町)、 火の宮神社(下村木町)、稲荷神社(金屋町)、市姫神社(新金屋町)、鳥居の掲額と狛犬一対が、1979年に移される。

    


夕陽の富山湾 蜃気楼ロードから湾を
    

次回は、魚津市内へ。



天下の剣「親不知・子知らず」

2012-07-24 | 気まま旅
新潟市万代橋―長岡ー糸魚川ー北陸三県―京都まで結ぶ「国道8号線」、高速北陸道の最大難所で、我が国初の海上インターチェンジでも知られている
「親不知・子不知」に入った。JR北陸本線「親不知駅」を挟んで西側を親不知、東側を子不知と云う。
この地域、断崖と日本海の波打ち際を、波間を縫って、親子がお互いに顧みる間も無く走り抜けなければならない険しい所であった。

大納言 平頼盛の妻が、「親不知 子は この浦の 波枕 越路の磯の泡と消えゆく」と詠んでいる。
海食崖下には、大ふところ、小ふところ・大穴、小穴がある。昔から現在も避難所としている。

平清盛の弟「頼盛」の夫人が二歳の愛児を波に、、           JR北陸本線・親不知駅       
  

朝日岳は、新潟県、富山県に跨り北アルプスの最北端で、日本海に展望が開け、遠く佐渡島が望める。朝日の名は、朝日が最初に当たる山で、新潟で呼んでいた、
富山県では、エフリガ岳と呼んでいた。標高2418m 黒薙温泉がある。

日本海                 駐車場                       急な崖
    

「歌が浜」聖徳太子が馬と馬子の跡見市兵衛を都へ返し、海岸の大岩に「萬代と波ははたち来て洗えども変はらぬものは水茎のあと」と書き付けた。
馬子の市兵衛はついに都へ帰れず、真宗運晴寺を開いてこの地に永住しました。
その後、太子の歌の横に親鸞聖人が「水茎のあとも遠かれ歌が浜洗ひ流すな八重の白浜」と書き付けた。歌のちねいはこのでんせつからきている。

「水上勉文学碑」小説「越後つついし親不知」の舞台となった地として小説の一節が刻み込まれている。

北陸高速道と国道8号線                    水上勉文学碑
  

次回は

「駒返し」この道は石が崩れ往来が難しく、聖徳太子、木曽義仲など、愛馬を返しと伝わる、駒返しの名は今にとどめている。

「タブの木」枝葉には粘液が多く、乾かして粉にするとタブ粉が得られる。タブ粉は線香や蚊取線香の材料の1つ(粘結材)として用いる、
樹皮や葉は染料に用いられた。


駒返しとタブの木                                   碑                    
    


「大雲寺」の話・・・・親鸞は外波村の神主、大文字屋右近の戸をたたいて「旅の僧ですが、一晩泊めて下さらんか」と頼むと、家の中から
「せっかくですが、お断りします」とすげなくいわれたとさ。親鸞は野宿の覚悟を決め、軒下の石を枕に横になったが、風が冷たく体が冷えきって寝つかれんでおった。
家の中では右近夫婦が、昼間、浜辺で旅の僧を背負って親不知の難所を渡った漁師の話をしておったとさ。右近がなにげなく仏壇をみると、妻の佐野が信仰している
如来様の腰から下がぬれ、足に砂がついて後ろ向きになっておられたとさ。
「もしや、旅の僧を背負って、あの難所を渡ったのは、この如来様だったのでは…」右近は慌てて外へ出、石を枕にして横になっていた親鸞と弟子に
「申し訳ないことを…」と謝り、家の中に招き入れたとさ。 そして夫婦は親鸞のありがたい教えに感服して弟子となり、如来様を本尊として「大雲寺」を開いたそうな。
この如来様は〝立ちすくみ如来″といわれ大雲寺の本尊として大切にまつられているそうな。親不知・外彼の大雲寺に伝わるお話です。、


大雲寺                            境内にたつ親鸞と蓮如像
     

「立すく如来」が漁師の姿に変え親鸞聖人を背負って親不知の難所を渡したと伝わる。

親鸞 1173-1262 浄土真宗の開祖 教行信証・歎異抄 越後に流され、その地で結婚
蓮如 1415-99  浄土真宗本願寺8世 越前に吉崎御坊を建てる、加賀守護より圧迫を受け、京都山科本願寺を建てる。

親不知難所
    


「海亀像ミリオン、パブリックアート」は、北陸自動車道全線開通記念として、全長6m、重さ5t、ブロンズ製海亀像が海を背に親子でパーク広場中央で出迎えてくれた。

パーク広場 休憩所
  

親不知展望台は、国道8号線に、母子像のある展望台が眺望一と云う。明治に絶壁を削り一枚岩に「如砥如矢」掘られて、矢のように通れる所、
明治の英国登山家ウエスットンが訪れ、記念としてブロンズ像のある展望台。名勝・天下の剣、昔も今も変わらない険しい親不知を見るこたが出来た。


国道8号線にある展望台
    


「護国寺」は、県境の静かな山手にたたずむ寺、壇信徒や地元の人々から「石楠花寺」として親しまれ、深い信仰を集めている。
庭園は、住職の高島清祐氏が20年の歳月をかけて、山地の地形を生かした池泉回遊式風に仕上げた名園。
シャクナゲが咲き誇るゴールデンウィークの頃は、県内外から多くの人が訪れ、シャクナゲの後も、ツツジ、サツキ、アジサイと四季の花が庭園のしっとりとした
緑の中に彩りを添える。


護国寺                                            本殿
    

護国寺は、弘法大師によって創建されたと伝えられている。

境内            寺の庭園                     お笑い地蔵
    


「境関所跡」

町の中央の境小学校前にある関所跡の辺をコの字状に海に向かって囲む形で進んで、朝日町立境公民館の北側「境関所跡」と記した大きい板状の石碑が立っている。
資料館、石碑、境関跡、関所の池等があった。1614年に開設。
加賀藩最大の、また日本随一の厳重な警備体制で、役人・武器などは、小さな城に匹敵する武力を持っていた。
街道筋には「岡番所」浜には「浜番所」を置き、陸と海と山から旅人の出入りを監視していた。
徳川幕府は各藩が私関を置くことを禁じ、藩の関所は「口留番所」と称したが、加賀藩では境については幕府と同様に「関所」と呼び領内に6ケ所ある中、区別をしていた。
加賀藩最大の関所で、箱根の関所より大きかったといわれる。加賀藩領に6ケ所、富山藩領に2ケ所の計8ケ所に関が設けられていた。
街道は町はずれに進み、越後の市振の関へとなる。越後の市振の関は、松尾芭蕉が宿に選んだ所で知られている。

境関の館                                             関所跡
    

境小学校跡に関所の池が
    

「境神社」
境の関跡、公民館の小山に鎮座。創建等の由緒不明、町の中心部に鎮座。町役場はすぐそこだ。家一軒分位の社地に本社と末社が鎮座。
若干の木々があるけれど、さほど多くは無い。現在でこそ町の中心地だが、関所のあった昔は、その敷地内であったであろう。

小山の神社からの見晴らしは良かった。

境神社鳥居                            境内から見た日本海
    

参道から階段                                              本殿
   


「境一里塚跡」(越後国境)
旧北陸道の整備・宿駅・1里塚について、街道の整備は江戸幕府がその幕藩体制を保持するために、江戸を中心とする交通体系に改編することによって進行した。
特に1635年の参勤交代制の確立以後、宿駅制度も完備、越中国内での北陸道は、1601年に加賀藩の指令によって並木が植えられ、一里塚も築かれるなど、
着々と整備が進み、1609年に前田利長が高岡に築城し、ここを居所としたために高岡を通る迂回路を開き、1640年に富山藩が分封されてから、
加賀藩は富山城下を
通過しない下街道を「官道」に指定、黒部川流域では渓口部の愛本刎橋を迂回する上街道が開かれるなど、1658から62年にかけての、街道の変遷や新駅の設置された。
当時は、河川を渡るための大きな苦労があった。「往還の松」2間に1株の割合で1里の間の片側830株の割合によって植えられ、道路の清掃や修理などの、
道の管理のため道番人がおかれた。


境国境一里塚跡                                    お亭の看板
    

次回は富山魚津方面へ

北陸の旅 松本から糸魚川

2012-07-22 | 気まま旅
夏の前に北陸3県を回る旅に出ました。しばらくお付き合いください。
長野県松本からスタート、新潟県糸魚川、富山県、石川県、福井県と回ります。

長野県松本市塩尻から新潟県糸魚川市を結んでいるのが、「塩の道」千国街道、国道148号線、JR小糸線の山岳地帯。飛騨山脈、筑摩山脈、乗鞍、
白馬岳に後立山連峰と、梓川、犀川、高瀬川が合流して信濃川。その後、水力発電地帯となりダムの銀座と云われている山、山である。

長野県大町は、電源開発建設基地となった、黒部ダム、高瀬ダムなど。この街道は、北陸と信州の水産輸送路で、古事記、万葉集に、ヒスイ峡で詠われている。
現在は、大糸線と並行して全舗装の国道148号線で松本ー糸井川間2時間足らずで走れ便利になっている。

国道148号線
 

安曇野は、常念山脈を水源とする犀川、穂高川、高瀬川が形成する扇状地が重なり合った複合扇状地の扇末部に位置。
安曇野の至るところから地下水が湧き出しており、その水量は日量70万tと言われ、安曇野の名産であるワサビやニジマスを育てている。
名水百選に選定され、平成7年には、水とロマンあふれる安曇野として水の郷百選に。

「穂高連峰」は、奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳、前穂高岳、西穂高岳などの峰々からなる。
主に長野県松本市と岐阜県高山市の境界に位置し、主峰は奥穂高岳であり、長野県 (信州) と岐阜県 (飛騨) の最高峰。
北は大キレットの峻険な登降を経て、南岳、大喰岳の先の槍ヶ岳に連なっている。

「穂高神社」は、仁科濫觴記によれば、653年に、「皇極ノ太子」(天武天皇に比定される)によって建立されたとある。
それによると、この地が「安曇郡」の名の起こりとなった保高見ノ熱躬の舎跡であったことから、「保高(穂高)神社」と呼ばれるようになった。
祭神は、本宮中殿に穂高見神、別名「宇都志日金析命、左殿に綿津見神、右殿に瓊瓊杵神、別宮に天照大御神、若宮に安曇連比羅夫命、
相殿に信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる)を祀る。
 
穂高神社
    

「安曇族」は、古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島一帯から離れて全国に移住した。 
  


安曇族は九州に進出後、海流にのって太平洋岸、または日本海側を移動しこの地に移動したといわれている。
太平洋岸または一部紀ノ川などをさかのぼって伊勢湾にで、渥美半島をとおり、大鹿村、高遠、諏訪をとおり安曇野に進出した人たちもいたと云う説もある。


  

千国街道、塩の道は、 松本宿、 成相新田宿・安曇野、 保高宿、 池田宿、 大町宿、 海ノ口宿、 沢渡・佐野宿、 飯田・飯森宿、白馬村、 塩島新田宿・白馬村、
千国宿・小谷村、 来馬宿小谷村、 大網宿(小谷村に塩庫が現存)、 山口宿・新潟県糸魚川、 糸魚川宿。
信濃側では糸魚川街道、越後側では松本街道と呼称され、沢渡宿と佐野宿、飯田宿と飯森宿は併せてひとつの宿として機能した。
千国街道は積雪3~5mに及び道が険しく、牛を引く業者の牛方が、7頭の牛を引いて運んだという。

三州街道は、長野県塩尻ー愛知県までを云う。

  

越後の上杉謙信は、「争うべきは弓箭にあり、米・塩にあらず」として、糸魚川の浜塩(北塩)を取りにくるように命じた、という。
この話しが「敵に塩を贈る」美談のもとになったが、これは逸話。
糸魚川の北塩は、それ以前から松本地方の市場に運ばれていた、上杉鎌信がことさら塩の流通を停止させないかぎりは、自然に品物が流れていっただけのことらしい。
小谷村の番所、山口にあった関所は自由開放で、「塩どめ」の記録はみあたらないと云う。

                                      青木湖
  

大町市仁科三湖、青木湖、中綱湖、木崎湖は、148号線で、北アルプスを望み、三湖は繋がっており、農具川、稲尾沢川から高瀬川に至る。
湖の大きさは、周囲約6.5kmと小型であるが、水深で青木湖は58m、湧水量も多く、透明度が高い。

中綱湖                                    木崎湖
  

新潟県南西部姫川の西頸城地方の中心都市糸魚川に入る、信州への塩と水産物輸送路「千国街道」の起点である。糸魚川は、日本唯一の「ひすい」の産地でも
知られている。
意外に知られていないのが、象の話、象と云えば熱帯動物であるが、しかし一万年前滅亡した、「ナウマン象」が、30万年前にわが日本に渡っていたという。
旧石器人に全て食べつくされてしまった。それが、フオッサ・マグナの西の線。糸魚川ー静岡構造線で、糸魚川市は、その北の起点である。

JR糸魚川駅
  

街中央に「加賀の井酒造」がある。ここは、現存する江戸期から酒造りをしていた蔵。
1650年 小林家二代目の九郎左ェ門が古賀坂家から酒屋を譲り受け、酒造りを始める、 1652年 小林家敷地内に加賀藩糸魚川本陣が置かれ、
前田利常が献上された酒をいたく気にいり、加賀国でないのに加賀の字の使用を許された。
酒銘を「加賀の井」とし、小林家は本陣の役と糸魚川の町年寄を兼ねて、幕末まで踏襲した。酒造りは現存する敷地内の蔵(現在は出荷蔵として使用)でおこなわれていた。
1782年以降、加賀藩、大聖寺藩、富山藩の宿泊記録とともにたびたび酒が献上され、藩主や家老の献立にも用いられたことが記録に残っている、
明治以降も前田家に献上されていた。

前田利常 1593-1658 利家の四男 農政改革推進 藩政基礎確立、幕府・幕閣には奇行を繰り返し油断させている、名君であった。

並びの寺「経王寺」境内に牛を繋ぐ石があった。

  


「経王寺」
寺の創建年は不詳、1596年に日言上人が中興開山した日蓮宗の寺院。
経王寺の梵鐘は天津神社の別当だった宮神宮寺が所有していた、天津神社は江戸時代以前は神仏混合の形態を持っていたが明治時代初頭に発令された
神仏分離令により宮神宮寺が廃寺となり梵鐘は経王寺に移された。
鐘楼の銘文には永享4年と刻まれていて製造年代が明確のものとしては新潟県最古の梵鐘と言われている。中世の文化を今に伝える貴重なものとして、
新潟県指定文化財に指定。


  

                        本殿
  

加賀の井酒造 
    

糸魚川駅前通りを背に進むと、海岸に出た。ここが国道8号線である。右に行くと新潟県上越高田方面、左が富山県魚津方面でハンドルを左に切り、姫川橋を渡る。

国道8号線
    

1200年前の玄武岩の地層、大断層の露頭が海岸に飛び出す、「親不知・子不知」富山県に向かう。

糸魚川から富山県「親不知」へ向かう
  

次回は魚津方面へ。

戦争シリーズ その5

2012-07-20 | 諸々日記
現在でも、地下鉄工事で、人骨が出てくると云う。東京の土の中には、多数の無縁骨がある。合掌しながら仙台堀りを。

「仙台堀川公園」は、江東区立の公園。区内を流れている仙台堀川の多く部分を埋め立てて造られた親水公園で、総延長は3700mになり、都内最大の規模を持つ。
歴史は、仙台堀川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しくゼロメートル地帯となっていた。
それにより川より低い土地が出来上がり、護岸壁の高さもどんどんと上げていかなくてはならない状況で、特に仙台堀川一帯は台風の時などは護岸壁を超えて
川から水が溢れる危険があった。
このような危険を回避するために、川を埋め立てて公園とする工事が進められ、工事は1978年に始まり公園としては1980年に開園した。
その後も工事は進み、1986年に全面的に完成し、仙台堀川の多くは樹木と川とを身近に感じることのできる親水公園と大きく変わった。

総延長は約3700mの細長い公園で面積は約103,850m²にも及ぶ。西は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点までとなっている。
西の大横川合流地点より先はまた仙台堀川として河川になっている。
地名としては北砂、東砂、南砂、千石、東陽にまたがる。いずれも江東区の公園、各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっている。
途中に同じく河川を埋め立てて作った横十間川親水公園と合流する。

細長い公園なので、鉄道駅としては都営新宿線・大島駅、地下鉄東西線・南砂町駅・東陽町駅の各駅と結んでいる。


仙台堀りに沿って、横断する道路に合わせ変化している、
    

全長900mの桜並木には、ソメイヨシノ、カンヒザクラなど350本の桜の木が植えられている。南砂緑道公園は旧都電敷地に植樹され、100本のソメイヨシノが
桜のトンネルをつくり見事である。

「父の再婚」母が亡くなって2年、小学5年の時、父は見合いし再婚した。その再婚で我が家は、なお苦労が重なっていく、四人姉兄弟に、男の子が生まれ五人に、
父は、当然妻とその子が大事になっていった。


釣り堀の出来る池                    古い漁村の家
  

築,江戸時代 「古民家住宅・民家園. 旧大石家住宅」仙台堀川公園内にある。
旧大石家住宅は、江戸時代に建てられた区内最古の漁村の民家。「安政の大地震」(安政2年、1855)でも倒れなかったという。

古民家の土間                          部屋の中
  

1624~1644年に開鑿されたと伝えられる運河。仙台堀川の名称は、清澄1丁目付近に、仙台藩主・伊達家の蔵屋敷があったことによるという。


近代的な住宅マンション 
    

昭和22年学校給食が始まった。最初は副食で、翌年から弁当そのものが要らなくなった。何と云ってもこれほどうれしかったこたは無い。
全クラス同じ食事を差別なく食べると云うことである。私の弁当は、常に外米(縦に赤筋が入りぼそぼそして粘りが無い)か、さつま芋であった。
中には、ギンシャリ(全ては白米)に厚焼きの卵で、自慢して食べている生徒もいた。弁当箱を隠しながら食べる必要がなくなったのだ、嬉しかった。

今日は大島商店街の有名な「アンパン」を購入した。子供頃、甘いものに飢え「ズルチン」を舐めすぎて下痢したことを思い出した。
今の贅沢な溢れるほどの食料は、子供の頃想像もしなかった。


あんこの一杯のアンパン    大島商店街内に
  

「旧安田庭園」は、隅田川の水を導いた汐入り回遊式で、江戸名園の一つとして数えられている。
明治24年、安田善次郎の所有となり名が付けられたが、震災、公害の影響などで名園としての面影を無くした時期もあった。
区が全面改修工事を行い平成8年、都の文化財に指定された。


「新聞配達」私は中学生となり、学用品もままならず、近くの新聞店でアルバイトをした。当時は、全ての新聞を扱っており、担当地域の一軒一軒
積み重ねて配達していた。新聞店を出る時は、新聞・チラシなどの重みが肩に食い込み、冬、夏の辛さは頭から離れない。


    


「俵星玄蕃」尾張家の家来の浪人,横網町で道場をやってる槍の名士で、土とか砂の詰まった俵を槍で突いてポイポイ放り投げる「曲突き」という特技を持っていた、
三国一の槍の名人。忠臣蔵に参加を申し出たが受け居られなかった。

「舟橋聖一」(1904―1976)小説家、劇作家。明治37年、ここ本所横網町に生まれ。幼時から芝居、芸者、相撲取りなどに親しく接し、後年の舟橋文学を
形成する世界を存分に吸収。
旧制水戸高校を経て東京帝国大学国文科を卒業。劇作家から小説家へと転身。太平洋戦争中に書き継がれた「悉皆屋康吉」(1941~45)には、時代に抵抗して
伝統的な美の精神を守ろうとする。
第二次世界大戦後は第一線の人気作家として「雪夫人絵図」「芸者小夏」、井伊直弼を主人公とした歴史小説「花の生涯」などを発表し続けて行く。

                              船橋聖一の誕生跡の碑
  

「両国国技館」
昔は、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。現在の国技館は、1906年着工、3年後の1909年に竣工し、6月に開館式が行われ、6月場所より使用された。
それまでは小屋掛け、臨時に設備を設けて行い、「回向院場所」が行なわれていた。しかし1906年6月場所の番付上は「常設館」とだけあって国技館の名は無かった。

両国国技館正面玄関
  


おきゃんは、辰巳芸者の気風は勇み肌で「きゃん」とよんだ。侠のことであるという。おそらく長崎で通商する清国商人が、長崎丸山の遊郭あたりで、
勇み肌の芸者をそのようによんだところから帰化したことばであるらしい。江戸で定着し、とくに深川芸者の心意気をあらわすことばとして使っていた。
おきゃんというと、娘らしさと、気っぷの色気とあわせたように響くが。


国技館・江戸博物館・都慰霊堂・安田庭園と並んでいる
  

隅田の花火大会は、子供の頃の思い出の一つである。夜空を金色に染め、見事な光の花模様広がり、音が良い、ドドドーン。
夏の夜空一面に打ち上げられると爽快になる。花火の火薬の臭いと煙が風に乗ってくると夏休みの残された宿題を忘れられた。
花火と云えば隅田川、打ち上げ数でも全国でも群を抜いていた。歴史も280年前の江戸時代から続いている。戦前は、親戚も呼んで屋形船に乗り花火見物をしていた。
母の死の翌年、昭和24年父の会社が台風被害で製品が水につかり倒産、我が家に差し押さえの赤紙が張られた。父とその子供の五人家は・・。

今回の戦争シリーズはここまでとします。5回の戦争シリーズご訪問ありがとうございました。