syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

河口湖のもみじ祭りは10/31から・・・少し早かった

2015-10-31 | 富士山麓日記
河口湖もみじ祭りは10/31からとの事、この日は10/27です。
いつもこの辺りは真っ赤に染まる所、河口湖から流れる川に立派な桜の木があります。
春は桜、秋は紅葉。富士山が霞んでいます。


河口湖美術館の前あたり、いつも両側真っ赤に紅葉します。


河口湖大橋から




1合目からの富士山。雪が少し。



遠野ー(1)   東北の旅10

2015-10-29 | 気まま旅

岩手県遠野市・県中南部・アイヌ語で湖のある丘原、地名もその転訛説、又遠隔地を意味するとも云う。
遠野三山ー早池峰山・六角牛山・石上山に囲まれた北上高地内の盆地になる。中心市街地は、「遠野南部氏」の城下町であった。
釜石街道・遠野街道ー三陸海岸と内陸を結ぶ宿場町として栄えた。古い民俗伝承・歴史的遺産が多い。
1910年・柳田國男「遠野物語」は有名。鹿踊・神楽・剣舞・大黒舞・虎舞等の民俗芸能も多い。
遠野と云えば「馬」の産地ー遠野馬市も有名である。母家と厩を接続した伝統家屋の「南部曲屋」も数多い。

釜石線は、小佐野ー洞泉ー上有佐ー平倉ー「遠野」-10番目の駅になる。-柏木平ー宮守ー土沢ー新幹線新花巻ー東北本線花巻の23駅



「遠野物語」1982年に公開された映画。監督・村野鐵太郎。
柳田國男の「遠野物語」と、阿伊染徳美の「わがかくし念仏」を原作としているが、柳田の「山の人生」からも材を採り、これらの作品の世界に
時空を超えた愛の物語を絡めた、ほぼオリジナルの脚本。
岩手放送開局30周年記念映画として制作。(昭和57年)

明治37年、岩手県南部、遠野郷ー土地の豪農、佐々木家の一人娘・小夜が十六歳の誕生日を迎え、寺ではオシラサマの祭りが執り行われた。
帰途、玉依御前と契った日月の白馬が吊され殺されたという満開の桜の巨木の下で、小夜はオシラサマの伝説に思いを致す。
その夜、兵役を終えた菊地家の武夫は、佐々木家に挨拶に訪れ、厩舎にいた美しい白馬に魅せられる。
約束通り帰ってきてくれた、と小夜は武夫の無事を喜ぶが、武夫は無言で去っていく。
ほどなくして白馬の世話をする馬小作として佐々木家で働き始めた武夫に、小夜は思いを伝えるが、「もう住む世界が違う」と言われてしまう。
菊地家は、かつては佐々木家と並び称された名家で、武夫と小夜は許嫁の約束をしていたが、武夫の父が事業に失敗し没落、二人の縁談も過去の話となってしまっていた。 日露戦争が激化し、村の青年達も召集されてゆく中、お互いの変わらぬ強い思いを確認し合った武夫と小夜だったが、武夫は全てを振り切るように姿を消す。
やがて、小夜の元に武夫から美しい着物が届けられ、武夫の出征を知った小夜は、オシラサマの前で髪を切り、いつまでも武夫を待つと両親に告げる。
そして嵐の夜、純白の軍服を着た武夫が白馬に乗って小夜を迎えにくる。
白馬は無数の鬼火の中を駆け抜け、二人を明王堂へと運ぶ、、、、。



「伝承園ーカッパ淵」
かつてカッパが多く住み、人々を驚かしたという伝説がのこる場所。
全国唯一のカッパ狛犬で知られる「常堅寺の裏手を流れる小川の淵」を云う。
淵の水辺にはカッパの神を祀った小さな祠が建っている。
カッパの神は乳の神であり、乳児のある母親が母乳の出がよくなるよう祈願するとよいとされ、祠には、女性が奉納した赤い布による
乳房を模ったぬいぐるみのようなものが置かれていると云う。

                 釜石線遠野駅前


南部曲屋の千葉家住宅
作男15人等25名の家族と馬20頭が同じ屋敷で生活していた。

           千葉家住宅は、駅から約8.2kmに


「遠野まつり」
郷土芸能(神楽、太神楽、田植え踊り、南部 ばやし、しし踊り、さんさ踊り)が各地区から集まり盛大に開催。
見ごたえ抜群、祭りは、9月中旬・土日。
                 市街地・遠野郷八幡宮。
    

「とおの物語の館・昔話蔵」-昔話の世界を体感出来るー
昨年の10月から展示改装のため休館していたとおの昔話村が、平成25年4月、「とおの物語の館」としてオープン。
昔話を映像や音声で楽しむことがで、「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞くこともできる劇場「遠野座」などのほか、
お食事処と、見て、聞いて、食べの館。

「昔話蔵」- 遠野で語り継がれてきた昔話の世界を見たり触れたりしながら体験・体感できます。シアターや映像ライブラリー、絵本コーナーも
昔話に出てくるアイテムにさわると影が動きだします。   南部鉄器のお椀に手をかざすと「つぶむすこ」のお話がはじまり、主人公や登場人物を選んで、オリジナルの昔話を作ること藻。 柳田國男展示館では、遠野物語の著者・國男氏が滞在した宿「高善旅館」と晩年を過ごした「旧柳田國男隠居所」で、その生涯と功績を紹介。入館¥500円。

       遠野の物語の館        柳田国男像
    

一級河川北上川水系「来内川」
遠野市の生活貯水池・昭和32年遠野堰堤(遠野ダム)貞任山水源ー遠野市内ー北上川
昭和56・63年・平成2・11年台風などの災害が

            来内川ー市内中心に住宅床上浸水が。鍋倉城の堀の役目も?
    

武田忠一郎ー東北民謡の父ー
1892年、遠野の士族の家に生まれ、県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43の1910年、岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送る。
1916年、民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東洋音楽大学)で学び、岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。
昭和16の1941年、-NHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、「民謡採譜編集業務」担当、昭和17年、「東北の民謡第一篇~岩手県の巻」発刊。
昭和37年までに「民謡集全8巻」を完成。
昭和30年、仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任。
作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲、昭和30年作曲の
「県南バスの歌」は、岩手県初のコマーシャルソングとして多くの人々に親しまれた。
南部牛追唄など岩手の民謡を合唱曲に編曲したり、民謡にオーケストラの伴奏をつけたりするなど民謡界に新風を吹き込んでいる。
昭和44年、勲五等瑞宝章を受章、1970年、82歳で生涯を終えた。

                 武田忠一郎の碑


「南部神社」
主祭神ー南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信光命、南部信政命、南部政光命
創建ー南北朝時

江戸時代までは鍋倉城跡の麓にあったことからー鍋倉神社ーとも呼ばれている。

                    大例祭ー5月4日
    

「鍋倉城」-陸奥国ー遠野市史跡文化財・別称遠野城・横田城
築城主ー阿曽沼広郷   築城年ー天正年間初期         改修者ー南部直義    廃城年ー1872年 。
鍋倉山に本丸を築き、猿ヶ石川と早瀬川を外堀、来内川を内濠、 寛永4年(1627年)八戸直義が横田城を修理して鍋倉城と改め、

         最高所を本丸としその南に二の丸、東に三の丸が配した。


「南部氏初代・南部光行の3男・実長を祖」
実長は甲斐国波木井郷を領して波木井氏を称し、彼の嫡男・実継の系統が陸奥へ移って「八戸氏」に繋がる。
実長の4男、長義の系統は甲斐国に勢力を保った。
南北朝時代ー波木井実継の家はその子・長継の代になって、長継の又いとこ・政行と長継の姉妹との息子・南部師行を養子に迎えた。
師行は南朝方に参加し北畠顕家の陸奥下向に従って甲斐国から八戸に移った。
以後、八戸氏(根城南部氏)は南朝方として活動する。また師行は八戸根城を築いたとされ、1338年、師行は、北畠顕家とともに足利尊氏に敗れ戦死し、実弟・政長が家を継いだ。政長の跡は嫡男・信政の死去のため孫の信光が継ぎ、信光の弟・七戸政光(南部政光)は七戸城を領し、八戸から
甲斐国波木井へ移った。
八戸は三戸南部氏に管理をゆだねたという。
その信光が死去すると、その子らが若年だったため「七戸政光」が根城南部家を一旦継いだ。この時期の活動から、盛岡藩主となる三戸南部家ではなく、根城南部家(八戸氏)こそが南部氏の惣領だったともみられている。

南北朝合一が成ると、南朝方の根城南部家は劣勢となり、足利義満に仕えていた三戸南部氏当主・南部守行の勧めで政光は北朝へ帰順し、
根城南部家は甲斐を去って八戸へ再び下った。これにより根城南部氏は三戸南部氏の影響下に入ることになる。

八戸ー守清の跡は甥の八戸政経(守清実弟・新田清政の子)が継いだ。根城南部家は南部政光が八戸に住んで以来、八戸侯とも呼ばれてはいたが、
この政経以前は南部氏を名乗っていた。
しかし政経以降は八戸氏を称するようになり、政経のあとは八戸信長・八戸治義・八戸義継と直系で続き、義継の跡は弟・八戸勝義が継いだ。
しかし勝義には男子が無く、一族の新田行政の子・政義(政栄)が養子に、政義は、三戸南部信直の小田原参陣の際に留守を守っている。
南部藩では家老を務めた。
養子による継承と遠野移封ー政義の家督は子・八戸直栄が継ぎ、そのあとは直栄弟・八戸直政が婿養子となった。
しかし直政は、越後高田の松平忠輝のもとへ南部藩の使者として赴いた際に急病で死去。
この断絶の危機に対し、直栄の娘で直政未亡人・清心尼が家督を継ぎ、跡継ぎには一族の
新田政広の子「八戸直政」を婿養子に、相続で、当時の八戸領1万5500石のうち、田名部領3000石を藩に返上させられ、さらに八戸など下北地方から
伊達領境の遠野へ移封された。
以後は世襲筆頭家臣となり、中野氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。
1818年、南部藩の家格昇進を祝って北氏、南氏、中野氏、東氏とともに嫡子嫡孫まで南部の称号を許され、南部姓へ戻っている。

直義の跡、嫡男・八戸義長が継ぐ際、義長の弟・八戸義也が2000石で分家している。ただし義也家は次代・八戸竹之助が早世し、北氏から養子・八戸義謀を迎えたが1000石に減封され、没収分は本家の義長のもとへ戻っている。八戸義涛の代に加増され1500石となり続いた。

明治維新後は旧藩士なので士族であったのだが、明治29年、先祖の南部師行が南朝忠臣として正五位を追贈されたのに伴い、
子孫にあたる遠野南部当主南部行義は、明治30年、男爵となっている。

               鍋倉城址と鍋倉山公園


天正18年の1590年、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収。
「南部氏配下となり、1592年、「諸城破却令」には「横田 破 信直抱 代官 九戸 左馬助」とあったが、
1600年の阿曽沼一族内訌によって、遠野は南部氏の領するところとなり、破却はまぬがれたと云う。

                 土塁と鍋倉神社 
    

阿曽沼氏の旧領の内、横田城代として内陸部を上野・平清水両氏を知行させ、海岸地帯を大槌氏、田瀬を江刺氏に分知させた。
城代の「平清水氏」は、1615年刑死し、ついで、上野氏病死、遠野奉行の「毛馬内三左衛門」を横田城代として赴任。
が、治安の乱れが続いたため、「南部利直」は、1627年、治安維持と仙台領との境目警護を理由に、
「八戸直義」を八戸根城から横田城へ陸奥国代として領内の独自の裁量権を認められて入部させ、

   横田城を修復して鍋倉城と改め、当城を領内統治の拠点に
  

城下町は、横田村地内に形成され、「遠野城下」と呼ばれたが、
一国一城令以降は城ではなく館の呼称が正式であり、「要害屋敷 閉伊郡横田村 遠野」とされていた。
明治2年、廃城、現在は、鍋倉公園として整備されている。

                 城址から見た街並み


江戸時代の建築「伊東家」-市内ー
食事処と物産館、建築物は、寄贈された歴史的に価値の高い建物。
「伊藤家」は、遠野名物のジンギスカンや伝統食と、そばなどが、隣接の「赤羽根蔵」は、お土産として遠野の銘菓や工芸品などを販売。

                遠野旧宿場の中央に


「智恩寺」-日蓮宗・1889年の明治22年開山。
北身延智恩寺。日蓮真筆の曼荼羅を所有しており、遠野市の文化財に指定されている。

                 山門と仁王像
    

「多賀神社」ー祭神・伊邪那岐神 伊邪那美神
鍋倉城跡にある鍋倉公園の北西麓にある。1574年、城の鎮守として勧請したといわれる。

「遠野物語拾遺」遠野の狐や狢、蛇や河童などの、いわゆる妖怪化物の話がある。
遠野の城山の下の多賀神社の狐が、市日などには魚を買って帰る人を騙して、持っている魚をよく取った。
いつも騙される綾織村の某、ある時塩を片手につかんでここを通ると、家に留守をしているはずの婆様が、あまり遅いから迎えに来た。
どれ魚をよこしもせ。  おら持って行くからと手を出した。
その手をぐっと引いてうむを言わず、口に塩をへし込んで帰って来た。
その次にそこを通ると、山の上で狐が塩へしり、塩へしりといったそうである。-「遠野物語拾遺 第百九十三話」より-

柳田國男氏ー社殿の左手には境内社が3つ。鳥居が赤なので、稲荷を祀っているのだろうと思う。「多賀山神大明神」と書かれた木札もあった。

                 大雨の為石段下から参拝
  

「伊能嘉矩」1867ー1925ー日本の人類学者・民俗学者ー
明治時代においていち早く人類学を学び、台湾原住民の研究では膨大な成果を残したと云う。
遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われ、梅陰子という筆名での著作も多数ある。
自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受けている。
その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経た後、明治26年、東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学んで、同門の鳥居龍蔵と出会い、明治27年
鳥居と週一回行う人類学講習会を催した。
1895年、日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に目を付け、台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。
その調査結果は、「台湾蕃人事情」として台湾総督府民政部文書課から刊行。明治39年、帰国後は、
郷里遠野を中心とした調査・研究、著作に「上閉伊郡志・岩手県史・遠野夜話などがある。
研究を通じて柳田國男と交流、郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の「遠野物語」成立に影響を与えたと云う。
59歳で病死、死後、柳田は、伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは昭和3年の1928年、「台湾文化志」として刊行された。

                    伊能嘉矩の碑
  

釜石街道城下町「遠野宿」の防御のための道路の出入り口に関門を設置されていた。
関門は、土を盛り升の形に作られたと云う。
下横丁の朝市ー盛岡市にも、朝採り野菜などが出店し人気と聞く。

                下同心T升形・下横丁
    

「伊勢両宮神社」 市六日町
桜の名所ともなっている。地元では、通称「お神明さん」の名で親しまれている。
遠野三社の一つとして古 来より領主や町人達の信仰が厚かったと云う。
境内地には松尾神社が祀られていた。境内を取り囲むように桜の木が。

                   伊勢両宮神社
    

次回も遠野市内「福泉寺」などへ。

鉄の釜石 東北の旅9

2015-10-24 | 気まま旅
[東日本大震災」
釜石港では、ギネスブックにも登録された世界最大水深(63m)の湾口防波堤が31年の歳月をかけて「2009年3月」に完成。
中央の開口部300mを大型船の航路として確保し、その両面に北堤990mと南堤670mの2本の防波堤をハの字型に配置、「明治三陸地震津波」規模の
大津波に対して湾内の防潮堤の天端高(おおむね4m)より低い水位に減水させることで市街地への浸水被害の拡大を防ぐ機能が期待されていた。
「東日本大震災」では、設計外力を超える大津波の威力により、防波堤は大きく損壊し、津波は湾内の防潮堤を越え、ハザードマップで想定していた
浸水域を大きく越えて被害が広がったと云う。
現在、防波堤の被災要因を検証、災害対策に活かしてほしい。

「鉄と魚の町・釜石、仕事で一度来ている懐かしい街」
アイヌ語で魚を干す場所ークマウシと釜をつくる石の産地説など市の名は諸説ある。
鉄と云えば、「大島高任」我が国初の洋式高炉を築いた人物で、出銑に成功し、「釜石」は、日本近代製鉄業の歴史と共に歩んできた。
1874年明治7年に官営製鉄所・1886年民営「釜石鉱山田中製鉄所」が設立され製鉄業の中心的地位を保ってきた。
1980年以降は、鉄鋼業構造的不況で、高炉が相次いで休止されるにいたった。

魚ー三陸漁場、水産業の基地としても知られている。釜石湾を中心に16以上の漁港を持っている。
遠洋・沖合漁業の水揚げが盛んな所で、魚市場は活況を呈していたが、近年200カイリ漁業専管水域や資源等、状況は厳しく、人口の流出が続いていると云う。市では、観光の街へと、1992年「三陸 海の博覧会」「海洋研究開発都市」「観光リゾート都市」発展を志向していると云う。
東部、「陸中海岸国立公園、三貫島・尾崎半島」・南西部、五葉山自然公園」
伊能忠敬測量碑と星座石、釜石製鉄所史料館などがある。

東日本大震災)により被災するも、駅舎は倒壊や流失を免れ、駅舎改装、平成26年、 三陸鉄道南リアス線吉浜駅 - 当駅間復旧。
釜石東線が開業する前の明治44年から、釜石 - 大橋間には鉱石輸送のための釜石鉱山鉄道が存在し、釜石線全通後昭和40年、まで運行。

JR釜石駅鉄          新日鉄住金釜石工場                   父大島高任像
    

「大島高任」 1826-1901 近代製鉄の父 盛岡下仁王小路生まれ。
江戸で蘭学を学び、長崎で西洋兵学・砲術・採鉱・冶金を学び、盛岡へ。再度江戸で西洋砲術学、29歳で水戸藩(徳川斉昭)「反射炉築造」
32歳で現釜石市で洋式高炉着手・36歳高炉2基、44歳新政府に登用ー大学校教授・46歳欧米派遣一行加わるードイツで学ぶ。
鉱山権頭・鉱山各地局長ー61歳佐渡工業所長・63歳病で東京療養・65歳日本鉱業会初代会長・70歳で隠居山形で葡萄苗輸入し「葡萄酒醸造」
明治34年の1901年76歳で没す。

釜石市の北側に隣接する大槌湾
ぽっかり浮かぶひょうたん型の島でNHKドラマ「ひょっこりひょうたん島」のモデルと言われ、島まで歩いて渡ることができ、
また、釣りのメッカとしても人気のスポットとなっている。

井上ひさし作詞・宇野誠一郎作曲ー波をちゃぷ・ちゃぷ・ちゃぷ・ちゃぷかきわけて・・・駅前ロータリーに歌碑が


昭和25年の1950年・富士製鐵(株)が発足し、富士製鐵釜石製鉄所・36年ー線材工場操業開始・45年ー富士製鐵(株)と八幡製鐵(株)が合併、
「新日本製鐵」
昭和60年ー当所ラグビー部が日本選手権7連覇。平成1年ー高炉・製鋼工程を休止。銑鋼一貫体制から複合事業へ・12年の2000年、IPP卸電力事業
平成17年ー生産量累計2000万トン達成・18年ー創業120周年ー24年ー新日鉄住金(株)。

            釜石駅前の「新日鉄住金釜石製鉄所」
    

1857年、「大島高任」が洋式高炉を釜石の地に建設し、銑鉄の製造に成功したことから、釜石は近代製鉄発祥の地と呼ばれ、明治政府はお雇い外国人
ビヤンヒーの建設案にもとづき官営製鉄所を建設しますが、わずか5年で民間に払い下げ、製鉄所は東京の鉄商社の「田中長兵衛」でした。
田中は、地元の高橋亦助、村井源兵衛を雇い、製鉄所の再開にむけ動き、1886の明治19年、連続出銑に成功。
田中製鉄所は、鉄の品質向上と生産品種の拡大に取り組み、明治36年、には民間初の銑鋼一貫製鉄所となり、
田中製鉄所は、その後三井鉱山、釜石鉱山と経営が変わり、昭和9年、日本製鉄が発足、富士製鉄の時代を経て、新日本製鉄となる。

                    嬉石橋ー石浜橋ー大平・平田方面へ


「鉄の歴史館」
大平町にある。昭和60年開館。
橋野三番高炉の原寸大模型を使い、映像で製鉄の様子を再現している。入館料¥500
    

官営では、失敗する。その後を引き継ぐ「田中長兵衛」は、失敗~49回目で成功。

                「大島高任」の資料も多く展示。
    

釜石が鉄の町に発展した礎石ー炉底の塊。
  

ヨーロッパにおける鉱業の歴史は古く、
例えば Laurium の銀鉱はギリシアの都市国家アテナイを支えていた。
しかし、鉱業を大規模化させたのは古代ローマ人で、特に多数の用水路を採掘現場にひき、大量の水を使えるようにした。
水の用途は様々で、採掘現場から土や余分な岩を取り除くのにも使われ、これを水力採掘と呼ぶ。
また、採掘した鉱石を洗うのにも使い、単純な機械を水力で駆動した。
彼らは大規模に水力採掘を行って鉱脈の在り処を探る方式をとっていた。hushingと呼ばれる現在では行われない方法である。
そのため、多数の用水路を建設して水を供給し、採掘現場に大きなため池やタンクを作って水を蓄えた。
満杯になった水を解放すると、その流れの力で土が洗い流され、金脈を含む岩盤があらわになる。
次に、その岩盤を火力採掘法で熱し、再び水流を使って急速に冷却する。
このような熱衝撃で岩盤が割れ、さらに水を流すことで岩の破片を岩盤から除去でき、同様の技法はコーンウォールの錫石鉱床やペナイン山脈の鉛鉱山で使われたと云う。
この技法は紀元25年、スペインのラス・メドゥラスにあった沖積層の大きな金鉱床から採掘するために古代ローマ人が開発したと云う。

    
9世紀になるとアメリカ合衆国で鉱業が盛んになり、1872年の鉱業法 (General Mining Act of 1872) で連邦所有地での鉱業開発に拍車がかかった。
19世紀中ごろのカリフォルニア・ゴールドラッシュに代表されるように、鉱物や貴金属の採掘と牧場の拡大が西部開拓を太平洋岸まで推し進める
主な要因となる。
鉄道が敷設されると、さらに多くの人々が鉱山の仕事を目当てに西へと移住、デンバーやサクラメントといった西部の都市は、もともとは鉱山町。

    

「鉄」
地殻での存在量がアルミニウムについで多い金属である。
鉄はアルミニウムなどの陽性の強い(電気陰性度の小さな)金属に比べて製錬しやすく早くから用いられてきた。
しかし、熔解にかなりの高温を必要とするため、本格的で大規模な使用は銅、金、銀、錫、亜鉛、等に比べて遅れたと云う。
多くの金属の中で、なぜ鉄が王と言われるのか。
それは以下の3点の複雑で多面的な優れた性質による。
1.鉄は製造過程により炭素含有量を調整して種々の性質のものを作り出させる。
鋳鉄(炭素量2%以上)は鋼に比し機械的強さは劣るが融けやすく鋳造が容易。
耐摩耗性・切削性などに優れる。
鋼(炭素量0.1~1.7%)の内炭素量が多い鋳鋼は刃物、工具になり、炭素量が減るにつれて、ぜんまい、バネ、土木建築材料、車体、船体等の材料になる。
炭素量の少ない軟綱は針金、釘等になる。軟鉄(炭素量0.02%以下)は最も融点が高いが、軟らかく、展延性が大で、電磁気材料に用いられる。

2.鋼は炭素含有量と温度により多用な結晶構造を取る。
結晶構造により炭素固溶度がいちじるしいく異なり、焼入れ、焼戻しなどの熱処理によって鋼の機械的性質をいしじるしく変化させることができる。
また鍛造・圧延をすることにより結晶構造を変化させてその性質を改良できる。

3.クロム、ニッケル、マンガン等を加えた合金にすることにより、炭素綱に見られない特殊な性質を様々に持たせることができる。(百科事典より)

  

近代製鉄の父「大島高任」は、
水戸藩で反射炉を築造、大砲造に成功したが、砂鉄が原料であるため強度な西洋の大砲には及ばず、高炉築造の場所として良質の鉄鉱石が大量に埋蔵
された盛岡藩のここ釜石・西方大橋に鉄鉱石を原料とする洋式高炉を築造・1858年成功し日本近代製鉄は大きく発展を遂げた。

      館内には、模型などで判りやすく展示・説明されていた。
  

「橋野高炉跡・関連遺跡」を世界文化遺産に
水取入口ー一番高炉ー二番高炉・・・・石切り場・山神社、鉄鉱石採掘り場・運搬路。

「一番高炉」
花崗岩約5.8m四方・高さ2.4mの石組4段ー耐火煉瓦の炉が組まれ高さ約7.8m。

「二番高炉」
一番とほぼ同じで、高炉中央に炉底塊がある。

「三番高炉」
花崗岩基壇2段石組み5段、高さ約7m、、初期高炉の基本形と考えられている。

    

「水路跡」
高炉送風装置ーフイゴは、水車を利用・箱型フイゴを採用している。
最盛期には、1000人以上の大工、鍛冶などが住む長屋があった。

    

「石割の桜」
岩の割れ目から3本の桜の木が生えている。釜石市街地の桜より開花が遅く、近くの青ノ木グリーンパークの桜並木も同じ時期に開花を迎える。
  

「釜石大観音」
高さ48.5m、胸元に魚を抱く観音像。
1970年・昭和45年、落慶。

釜石市東部、釜石湾を 鎌崎にある。入山拝観料¥500


陸中海岸霊場。
曹洞宗ー石応禅寺が戦没者・海難犠牲者の供養・平和を祈念して建立された。
    

仏舎利塔は、高さ24まる(昭和52年)
観音様の内部は、13階に分け「三十三観音が安置されている。


七福神胎内めぐり2F弁財天から、交通安全祈願殿「不動明王殿」
11階から展望台に、湾が一望できる。                 仏舎利塔
    

「釜石街道」遠野~海岸部を結ぶ街道で、途中の「仙人峠」は難所で知られている。
幕末から釜石鉄山と製鉄所の開発が(現国道283号線)
釜石駅ーJR釜石線・山田線・三陸鉄道南リアス線。

                JR釜石線ー遠野ー花巻。


次回は、遠野へ。

大船渡線 東北の旅8

2015-10-23 | 気まま旅

「3.11の大船渡」
東日本大震災・大船渡市は、震度6弱が発生。
14時54分に大船渡市に津波の第1波が、15時18分には8.0m以上(観測値、痕跡によれば10m以上)とされる最大波が来襲して、大船渡市の商業の中心である大船渡町を中心に、市域の各地に大きな被害をもたらした。
大船渡市の人口は震災当時(平成23年2月末時点)、4万1089人。
今回の震災で340人がお亡くなりになり、81人の方が行方不明となられた(平成24〈2012〉年7月末時点)。
建物の被害は全壊2784世帯・大規模半壊428世帯を含む5515世帯(平成24年7月末時点)。大船渡市の世帯数は1万4970世帯(平成23年2月末時点)。
2割の世帯が全壊もしくは大規模半壊の被害を受けた。

                整備された「気仙沼駅」前


気仙沼街道は、岩手県南端花泉町の金沢宿で奥州街道から分かれ薄衣・千厩・下折壁・宮城県気仙沼へ至る街道、仙台城下では気仙道と、
氣仙沼湾東を唐桑半島・西を岩井崎・中央部に大島によって東湾・西湾に分けられている。
県最大の漁港である。全域を陸中海岸国立公園。

「三陸復興国立公園」-北部と南部で性格が異なる。
北部は典型的な隆起海岸を成し、高さ50 - 200 mにも及ぶ大規模な海食断崖が連続し、その間に砂浜海岸が見られる。
一方、宮古市以南は典型的なリアス式海岸であり、陸地の沈降によって形成されている。中小規模の半島が多く、比較的著名なものに重茂半島、船越半島、広田半島、牡鹿半島などが。
大半はアカマツを中心とした自然林となっており、半島部では手付かずの自然が残る秘境も多い。
千島海流の影響によって、温暖な地方で生育する植物も多数見られるのが特徴。
北山崎ではシロハナシャクナゲ、ハマナスなど、船越半島のタブノキ、広田半島のトベラなどが顕著である。
動物は、北上高地と連続している地域が多く、大型動物であるニホンカモシカが見られるほか、ウミネコ、オオミズナギドリなどの海鳥類が。

             悲しみをこらえ、希望を求め、着々と復興を


古代では、岩手県南東部から宮城県北東部沿岸一帯を「気仙地方」と称していた。中世には「葛西氏」の支配下、江戸期は伊達領。
気仙大工は、越前高田市「気仙大工左官伝承館」がある。

                 大津波のその後、大規模な火災が


「気仙川」
二級河川 ・延長ー44 km・水源の標高ー1,013 m・流域面積ー520 km²・水源ー高清水山(岩手県)・河口・合流先ー広田湾(岩手県)

                     産業も壊滅的打撃


「気仙沼港」
波静かな天然港、昭和56年に新漁港・遠洋漁業大型船に対応する為。
マグロ・カツオ・サンマ・イカ等。水揚げ全国有数ーイカの塩辛などの水産工業・関連企業が多い。

               沿岸部も大きく破壊、大型船街の中に


「気仙沼市鹿折地区に完成した地域の復興状況が一望できる見学台から」
見学台は高さ6メートル(海抜7メートル)の人工の丘。将来、住宅用地として使われる予定のため、見学台は2年間の期限が設けられていると云う。
鹿折地区には打ち上げられた漁船「第18共徳丸」目当ての観光客が押し寄せていたが、現在は無くクレーンが働いていた。
撤去されてからは客足が「ピーク時の約20分の1くらい」に激減し、地元住民の手で、共徳丸に代わる鎮魂の場の整備を市に要請し、
見学台が造られたと云う。隣には、仮売店と地元タクシー・建設用のダンプが駐車。
3.11の被害写真が展示されていた。工事車両が行き交う様子を眺めながら手を合せた。

               住宅街に流された「共徳丸」


                  港は、急ピッチで
  

死者―1026人・行方不明者ー383人の悲劇が  (献花高台から合掌する) 頑張れ
    

「大船渡線」
気仙沼駅 - 盛駅間は、気仙沼線・三陸鉄道南リアス線・山田線・三陸鉄道北リアス線・八戸線と共に三陸海岸沿岸部を走行する。
東日本大震災以降は不通となっており、2013年、から仮復旧として「BRTーバス高速輸送システム」が運行されている。

            バスは、専用道と一般道で運行
  

3.11で全線不通
津波で竹駒駅・陸前高田駅・脇ノ沢駅・小友駅・細浦駅・大船渡駅が流失。大船渡線の列車は338D(下船渡駅 - 大船渡駅間、キハ100-30・38)と333D(盛駅、キハ100-31・41)が津波によって冠水したが、乗客・乗務員は全員避難し無事だったと云う。
橋梁は、3ヶ所が流失し、特に陸前矢作駅 - 竹駒駅間の気仙川橋梁はコンクリート製円筒形橋脚から津波に押し流さた。
大船渡線のBRTによる仮復旧に沿線の大船渡市、陸前高田市、気仙沼市がJR東日本と。
2013年の平成25年 2月ー気仙沼線BRT営業所が大船渡線BRTの運営も担うため「気仙沼BRT営業所」に改称し、JR東日本が岩手県バス協会に入会。
気仙沼駅 - 盛駅間がBRTで運転再開。

大船渡 - 盛間でBRT専用道 (1.9km) の供用開始。
長部駅(鹿折唐桑 - 陸前高田間)、高田病院駅(陸前高田 - 脇ノ沢間)、臨時駅として、奇跡の一本松駅(長部 - 陸前高田間)を新設している。

            3.11津波にも頑張った「奇跡の一本松停留場」が
    

大船渡線は、歴史ある鉄道で、1925年大正14年  一関ー摺沢間(30.6km)が開業されている。

     吊り橋ー地盤のかさ上げ、土砂運搬のための専用橋 ベルトコンベアも活動
    

「奇跡の一本松」
岩手県陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ松の木のモニュメント。
太平洋につながる広田湾に面した高田松原、「350年」にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂り、、陸中海岸国立公園(現三陸復興国立公園)や日本百景にも指定されていた景勝地。
3.11、津波の直撃を受け、ほとんどの松の木がなぎ倒されて壊滅、しかし、松原の西端近くに立っていた一本の木が津波に耐えて、立ったままの状態で残ったことから、この木は震災からの復興への希望を象徴するものとして「奇跡の一本松・希望の松」などと呼ばれるようになった。

震災後、この木を保護する活動が続けられたものの、根が腐り枯死と判断された。
その後に震災からの復興を象徴するモニュメントとして残すことになり、幹を防腐処理し心棒を入れて補強したり枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存作業を経て、元の場所に再び立てられている。

    

1335年、奥州官領「斯波家長」1321-1338 
武将、高経の長男。父と共に一門として足利尊氏に仕えた。
「中先代の乱」後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると北朝の北畠顕家に対抗するため、1335年、奥州管領任ぜられた。
この時、斯波館(岩手県紫波郡)に下向したという。
尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで征東軍を破り上洛する際、鎌倉に残した嫡男義詮の執事に任ぜられている。
顕家が南下を開始すると後を追ったものの食い止めるのに失敗し、京都において尊氏が敗走する原因を作ってしまった。
1336年、蜂起した北条氏残党を討伐した。
豊島河原合戦で尊氏を破った北畠顕家が奥州へ帰還するため東海道を行軍すると妨害したが、破られ、
延元元年/建武3年から翌年にかけてー奥州行方郡、鎌倉正続院領信濃村、駿河安部郷、常陸中郡荘、下総相馬郡、相模光明寺領、鎌倉円覚寺、甲斐大善寺などに関する文書を発給している。1337年、尊氏は九州を制し再び上洛、
北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、敗北し戦死し、(杉本城の戦い)。

後任の奥州総大将と関東執事には石塔義房、上杉憲顕が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に奥州管領、関東管領にそれぞれ発展、高水寺斯波氏は、
家長の後裔を称したと云う。

    

1591年ー伊達氏、大崎(葛西旧領の一揆を鎮め、岩手県南を領有する。
1599年ー南部氏、盛岡城築城し本拠地とする。

      

「三陸鉄道」
三陸沿岸を結ぶ鉄道の構想は、1896年、提出され、「1896年三陸地震」の際、「陸の孤島」と評される急峻な地形が支援物資の輸送を阻んだ。
復興策として鉄道の建設が考えられ、構想は、「三陸縦貫鉄道構想」となり、
1928年ー仙台駅 - 石巻駅間(宮城電気鉄道、現仙石線)が開通し、
1930年ー久慈駅 - 八戸駅(現本八戸駅)間(八戸線)が開通。その最中のー1933年、三陸地震を経て、1935年、に気仙沼駅 - 盛駅間(大船渡線)が開通1939年ー釜石駅 - 宮古駅間(山田線)が開通。
「三陸縦貫鉄道構想」は第二次大戦後も継続され、1957年、に気仙沼駅 - 本吉駅間(気仙沼線)が開通。
1962年ー宮古駅 - 久慈駅間と、盛駅 - 釜石駅間が工事線に格上げ、高度経済成長期には、日本国有鉄道(国鉄)線として
1968年ー前谷地駅 - 柳津駅間(柳津線)が開通。
1972年ー宮古駅 - 田老駅間(宮古線)が開通。
1973年ー盛駅 - 吉浜駅間(盛線)が開通し、1975年に普代駅 - 久慈駅間(久慈線)が相次いで開業している。

    

「盛」-陸前赤崎ー綾里ー恋し浜ー雨領ー三陸ー吉浜ー唐丹ー平田ー釜石観音ー「釜石」  11駅

 「恋し浜駅」で2~3分停車する。待合室には、ホタテの貝殻に寄せ書きが。
    

約10年間は黒字を計上し、「三陸鉄道」の成功はその後の第三セクター鉄道の誕生を強く後押しした。
しかし、輸送人員は1992年から減少の一途をたどり、1994年からは赤字経営に転落、岩手県の運営助成基金に手をつけ始めたたと云う。
このままでは運営資金が底をつくことから、2003年には経営改善計画を策定、合理化の徹底とともに観光客の誘致に力を入れていた。
その最中を襲った。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波や崩落は、三陸鉄道に甚大な被害を。
路線各所で駅舎や路盤が流出し、車両も3両が使用不能、しかし、地震発生からわずか5日後の3月16日には
久慈駅 - 陸中野田駅で運行を再開、被害が小さな他の区間についても3月末までに運転再開し、被災者を勇気づけたと云う。
被害が大きなそれ以外の区間についても、岩手県庁の補正予算や国土交通省の第3次補正予算から復旧費用が拠出される目処がついたため、
復旧工事を進め、2014年、に全線が復旧し運転再開に至っている。頑張れ三陸鉄道。

         鉄の歴史・橋野高炉跡へ  仙台から釜石に。
    

次回は、釜石へ。

気仙沼線   東北の旅7

2015-10-20 | 気まま旅

「リアス海岸」
スペイン北西部のガリシア地方に見られる「ria」(出入りの多い湾)に由来。
「リアス海岸・リアス式海岸」が混用されている。以前は「リアス式海岸」と表記し、「リアス地方の海岸地形」とあたかも地名のように受け取られる恐れがあるなど,誤解を生じやすいと云われている。「リアス」が地形の形状そのものを表しているため,「式」を入れる必要がないなどをふまえ,
平成18年度版の教科書より「リアス海岸」と表記していると云う。
岩手県陸中海岸ーそのリアス海岸で知られている。(三陸海岸の一部陸中海岸国立公園指定)

陸羽街道は、岩手県・宮城県・福島県と栃木ー福島(奥州街道)を云う。
陸前浜街道、東京千住ー日光街道ー水戸ー平ー宮城の岩沼・明治以前は「浜街道」と云った。東海道・奥州・中山道の順で賑わったと云う。

「気仙沼線」
石巻線前谷駅で連絡ー陸前豊里ー陸前戸倉から海岸線ー清水浜ー陸前浜ー陸前階上(三陸復興国立公園)-最知ー松沼ー
南気仙沼ー終点気仙沼駅で停留所23駅ある。

前谷地駅から気仙沼市の気仙沼駅を結ぶ、東日本旅客鉄道ーJR東日本の鉄道路線・地方交通線。
三陸鉄道とともに三陸海岸沿岸を走行、東日本大震災で、沿岸部を走行する柳津駅 - 気仙沼駅間が不通となったが、
同区間でバス・ラピッド・トランジットー「BRT」 の暫定運行を開始し、現在、本格運行されている。



途中コースは、モアイ像の南三陸ポータルセンター「志津川駅」-田束山・歌津駅ー鉱山資料館の大谷海岸駅、震災後種付け「ホヤ・ホタテ」も今年
出荷、カツオ・サンマ・サメ・メカジキ我が国有数水揚げ「漁師の町」道の駅・直売所があり、いろいろ体験もでき人気が

    工事用トラックやクレーンが、所々高台に新築の家が目に入る
    

「南部領と伊達領」
江戸時代の境塚ー南部領と伊達領との境界を示す施設の境塚が。
1642年、幕府の裁定によって境界が決定され、奥羽山脈の駒ヶ岳頂上から釜石市の唐丹湾までのおよそ約130kmの境界線上に設置。
境塚としては全国に類を見ないほどの規模であり、徳川幕府草創期からの東北地方の政治的緊張状況が表れている。
大塚と小塚があり、先に大塚が築かれたあと、17世紀末の元禄期までに小塚が間を埋めるように設置されたと云う。
とくに重要な地域では相対する挟塚も築かれた。
平成12、北上市金ケ崎町内の約11kmにある大塚17、挟塚2、小塚198を含む地域が国の史跡として指定。
現在は、野外博物館「みちのく民俗村」の一部として整備された。

 北上川流域に蝦夷の住んだ辺境の地「国高貝国」があった。
  

本吉郡の南部に位置し、志津川湾、伊里前湾に面する町。湾内には椿島、竹島、船形島、野島などの島があり、リアス式海岸特有の優れた景観を持つ。
沿岸部一帯は三陸復興国立公園の指定。(県境)
西・北・南西は北上山地の支脈に連なっており、町土の70%以上は森林、リアス式海岸の地形的な特性から津波の影響を受けやすく、近世以前においては平安前期の貞観地震(869年)・1896年(明治29年)の明治三陸大津波・1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波・1960年(昭和35年)チリ地震津波。
大きな被害を受けている。
そのため、沿岸部には、防波堤や防潮堤、水門などが設置された。
しかし、東日本大震災・特に大津波による被害は甚大。地殻変動は先の貞観地震以来1141年余りを経て繰り返された現象と見なされている。
志津川地区の地盤は、水平方向に442cm、垂直方向にマイナス75.27cm移動したと云う。(国土地理院測地観測センター)

    

「宮城県」
いか塩辛生産高が高く、ウイスキーの消費量が、全国平均の1.5倍。
いかの塩辛の生産量が日本一多いのは、単に漁場が多いという理由だけでなく、酒の肴としての需要が多いと云う。
宮城県人の基本性格としては、東北随一の大都会・仙台であるとの自負が強いと云う。
「岩手県」
男性・盛岡など内陸北部は粘り強い努力家だが、消極的で口数は少なく、やや頑固。
とっつきは悪いが付き合っていくうちに人柄がにじみ出てくるタイプが多い。
ただ不満が高じると酒の席で大暴れのケースも、内陸南部は積極的でかけ引き上手、沿岸部は派手で衝動的。
女性・真面目でしっかり者が多い、若いときから落ち着いているため、実際の年齢より年上に見られることが多いと云う。
ファッションや流行には 関心が薄く、沿岸部は気さくだが、経済観念にかける部分もあるとも云う。

 「岩手の人沈深牛の如し」-高村光太郎の詩にーBRTバスの中で
    

「蝦夷の国・高見国」
大和朝廷の勢力範囲は、3~4世紀の日本武尊(倭建)の頃は、新潟から栃木・千葉を結ぶ付近まで達していたとう云う。
4~5世紀には新潟から福島のラインへと北上し、8世紀の多賀城時代には秋田県中部から宮城県北に、9世紀にはいると秋田北部から岩手県南部まで
大和朝廷は、蝦夷地との国境線沿いに城柵を作り、「兵担地」として侵略の策を練り、領土を広げ、前進基地として城柵を作っていきます。
柵の周りに柵戸といって倭人を移住させ、抵抗する「蝦夷」は、北方に追い出し、捕虜となった蝦夷は夷俘として全国の収容施設へと収容し、後期になるとその統冶を政府に帰順した蝦夷に任せるようになります。この蝦夷をー朝廷側では「俘囚」と呼びました。
蝦夷地に移住していった倭人は最初の頃は一般人(富農)でしたが、8世紀の後半から9世紀に入る頃には、犯罪者や浮浪人を送り出すようになって行きます。「日高見国」が滅んだあとは蝦夷地は俘囚長の時代に入り、安倍・清原・平泉藤原の時代に。

          坂上田村麻呂は、802年胆沢城・志波城を築く
    

「大船渡・大船湾」
陸中海岸ー船を渡す場所・ミナトの神。港湾商工漁業地域と秩父小野田セメント工場など臨海工業地域を形成している。
湾は、湾口約1km・奥行6kmの細長い、盛川が注ぐ。牡蠣・のり・ワカメ・ホタテ貝の養殖が盛ん、水深ー40mでチリ地震津波被害を受け、防波堤が造られたが。

    

「漁業の町・気仙沼」
宮城県沿岸南部に位置する大船渡市・陸前高田市などと共に、戊辰戦争前の気仙郡を代表する都市。
戊辰戦争後の廃藩置県を経て、1876年、宮城県に編入されて現在に至るが、これ以後は「気仙」を称しながらも本吉郡に入れ、宮城県に入れられているが、岩手県に食い込んで位置しており、沿岸とは大船渡市などの戊辰戦争後の気仙郡地域と関係が深く、内陸盆地では一関市と結ばれていると云う。
三陸海岸南部の交通や商業の拠点となっており、リアス式海岸を利用した観光も発展し、特定第三種漁港の気仙沼漁港を初めとした市内の各漁港は、
三陸海岸での沿岸漁業・養殖漁業、世界三大漁場「三陸沖」での沖合漁業、さらに世界の海を対象にした遠洋漁業の基地として機能し、関連する造船から水産加工までの幅広い水産業が立地している。
                  
    

次回は、気仙沼市内の被害地を。