syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

人口密度日本一の「蕨市」

2015-03-29 | 気まま旅

「埼玉県蕨市」は、県南部、荒川左岸の沖積低地に位置し、人口密度は日本一である。
市名の由来は、藁火を焚いた村で、藁火が蕨に転訛したと云う。江戸時代は、中山道第二の宿場町で栄えた。又物資の集散地でもあった。
1860年頃は、綿織物の「双子縞」が開発されている。その後、織物の町として栄えたと云う。
日本で一番狭い市であるが、1960年頃から都心から人口流入で、かっては工場跡・JR鉄道引込線などは、大規模マンションが林立した。
市の面積5.1km2・JR京浜東北線「蕨」駅と国道17号線。

市内中央に鎮座「和楽備神社」
社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、「渋川氏」が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりと云う。
「渋川直頼譲状写」(加上家文書)には、1352年・渋川直頼から嫡子「金王丸」に譲られた所領のうちに「武蔵国蕨郷上下」が記載されている。

「鎌倉大草紙」には、1457年・渋川義鏡は、曽祖父義行が蕨を居城としていた関係で、室町幕府から関東下向を命じられたとある。
神社の旧御神体「僧形八幡立像」には、天正十一年の墨書銘があり、創建の年代をうかがい知ることができると云う。
江戸時代には「蕨八幡」、「上の宮」と呼ばれ、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として、重きをなしている。
三学院末成就院が別当として祭祀を掌った。

明治六年村社に列し、明治44年・18社を合祀して「和樂備神社」と改称する。
合祀に伴い埼玉県菖蒲町出身の林学博士本多静六先生に設計を依頼し、境内整備が行われ、大正の末に現在の風致の原形が完成されたと云う。

                     蕨城址と和楽備神社
    

和楽備神社と隣接する「蕨城址」
南北朝時代に足利幕府の渋川氏によって築城。

南北朝時代に足利氏一門の渋川義行によって築城され、曾孫の渋川義鏡が古河公方に対抗するための拠点とした。
周囲を沼と深田に囲まれた微高地上に築城された平城で、幅約11.8mの囲掘と幅約8.2mの土塁をめぐらし掘の内側の面積は約12,200㎡となっており、
南側には同様の掘と土塁をめぐらせた約21,650㎡の外輪地があり二郭を形成。
戦国時代には扇谷上杉氏と後北条氏の境界線に位置したため、扇谷上杉氏にとっては江戸城奪回のための拠点となり、後北条氏にとっては川越城攻略の足がかりとなり、しばしば所属する勢力が入れ替わっている。

現在は本丸跡地が県の旧跡に指定され、城址公園として整備。
    

1457年・「享徳の乱」によって起こった関東地方の騒乱を収拾させるために、第8代将軍足利義政は関東探題として渋川義鏡を関東へ下向、義鏡は蕨城を拠点に兵を募ったが、蕨のある足立郡は大半が古河公方の勢力範囲となっていたために募兵は難航したと云う。
1462年・扇谷上杉氏と対立した義鏡は失脚し、以後の蕨城は事実上扇谷上杉氏の城となる。1524年・蕨城は扇谷上杉氏の麾下となった渋川氏の居城となっていたが、武蔵に侵攻した北条氏綱によって陥落させられる。
1526年・真里谷恕鑑と里見義豊の助力を得た上杉朝興が北条勢を破り、蕨城を奪回する。1546年・北条氏康が上杉朝定を「河越城の戦い」で破り、
蕨城主であった渋川義堯は後北条氏麾下に入る。1567年・「三船山合戦」で義堯の子渋川義基が討死すると蕨渋川氏の一族郎党は四散し、
その多くが帰農したと云う。江戸時代以降は、城主不在のまま廃城、
「蕨城」は、徳川家の鷹狩用の御殿として利用された。蕨は城下で市が開かれていたため宿場としての基礎があり、中山道が整備されると宿場町として
栄えた。
               蕨地域に鎮座する和楽備神社
    

「埼玉県桶川市」大宮台地の中央部で、中世の郷名、「沖」「興川」が転訛、江戸時代は中山道の宿場町、「六斎市・ベニバナ」が開かれている。
荒川に面し酪農が盛ん、「ホンダエアポート」(陸軍の飛行訓練文教場)があった。前回掲載済み。

「三ツ木城跡」
鎌倉時代初期の有力御家人である「安達藤九郎盛長(「旧埼玉県史」による)や足立遠元」の
居館との伝承・俗説などもある。
「足立氏系図」によれば、この川田谷の地は足立遠元の子の一人である遠村(民部大夫)が川田谷氏を称したとされていることからこれらの子孫の
居館跡である可能性を浮かぶ。
1428年・鎌倉府奉行人連署奉書によれば、応永4年の1397年以前には足立大炊助が領家職であったことが記されていて足立氏と川田谷村との関連性を裏付けている。
                   三ツ木城跡・公園


しかし、現在残されている土塁・堀跡などの遺構の形式から、北方に所在する「石戸城とともに岩附城の支城」のひとつと考えられ
室町時代から戦国時代にかけて築城されたものと推定。
( 以上「鴻巣市史 通史編1」などより引用 )

「新編武蔵風土記稿」 では川田谷村の旧蹟の項に「三ツ木城蹟 東西北の三方深田にして、南の一方のみ平地に続き、今も土手の蹟存せり、郡内別所村無量寺の縁起には、足立右馬允が居跡なりと云う、足立右馬允遠元がことにや、遠元は保元中の人にて当郡の地頭職に補せらるることは、
丹波国山垣村旧家の系図に見えたり、又石井丹後守が住せし跡とも、いずれも定かならず」と記されている。
石井丹後守は岩附太田氏の家臣として戦国時代の前半に活躍。

                        常溜


二重土塁、空堀、櫓台 等構造的特徴と周辺の地理的。
大宮台地の北西部に所在する舌状台地の先端部分にあり、南側を除く三方が低湿地を形成し天然の要害を形成し、台地に続く南側には土塁の一部が遺されている。
大規模な堀切が施されていたものと推測され、外側の東西各辺の長さはおよそ100m前後の規模があり、堀幅も10mに及ぶ個所もありその深さも
(土塁の高さ)主郭側で8mに及ぶ規模。
しかし、それらの防御施設が大袈裟な割には郭内の広さは2000平方メートル前後(およそ100人程度が立て籠もれる広さかと)
それにしては狭く、桶川市史 第3巻 古代・中世資料編では、本来は他の郭が存在していた可能性も否定できないと云う。

                 桶川陸軍飛行学校跡に近い


「三ツ木城・城山公園」
面積は、10.5haと広く、公園内には市民プールやテニスコート等の有料施設も含めて25の施設がある。
桶川市紅花マラソンのスタート地点とゴール地点になっている。

              城山公園
  

よく整備されている公園内の樹木は、武蔵野の雑木林をイメージして植えられていると云う。
目的別の広場があり、公園の中央には、噴水の大池という池がある。
釣りをすることもできると云う。

約300本の桜の木があり、春には花見で賑わう。
  

「菖蒲城」ー武蔵国埼玉郡新堀村「現在の埼玉県久喜市菖蒲町新堀」
古河公方足利成氏が、康正2年の1456年・に「金田式部則綱」に命じて築城。
城の竣工が5月5日の菖蒲の節句にであったために命名されたと云う。
1590年・小田原征伐ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた「内藤正成」が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700石を知行し、

「菖蒲城跡」上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。


1455年・足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述が残る。
この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力。
城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔されるが詳細は不明。
初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称し、金田氏の墓所は、永昌寺に。

現在遺構は、少し残っていないが、バス停建設による県道12号川越栗橋線の拡幅工事前の発掘調査が実施され、
平安時代の竪穴住居跡や中世の堀と土塁状の遺構が出土。
発掘調査により、14世紀の常滑産の甕や板碑(延文6年・1361年銘を含む)、16世紀の石臼や石硯、鉄砲の弾丸、大量の土器、陶磁器、永楽通宝などの古銭が出土。

菖蒲城跡ー江戸時代の旗本内藤家栢間陣屋裏門


菖蒲城跡の「菖蒲園」
6月上旬~中旬にかけて約50品種、3,5000株の花菖蒲が見ごろをむかえる。
    

菖蒲園ー例年6月上旬の日曜日に開催される「あやめ祭り」
  

「第81番霊場・ 慈眼山 正法院」
真言宗智山派・本 尊・不動明王ー真 言「のうまくさまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん」
                御詠歌「がっしょうし ねがいもとめる しょうぼういん じげんのもりの やくよけふどう」

                          正法院
    

寺伝によれば、康正元年の1455年・僧・円俊が中興し、領主鳩ヶ谷三郎左ヱ門の菩提寺となり、1596~1614年・「領主内藤氏」も帰依し、
1649年・幕府より朱印十石八斗を得ている。
                           正法院
    

薬医門から境内に、樹齢600年の「かや」の老樹が。
鐘楼・僧・行基作と伝える十一面観世音奉安の観音堂、正面に間口八間、奥行五間、瓦葺の本堂がある。

「六地蔵尊」
「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六道を行脚される地蔵菩薩の御姿を、それぞれ六体の尊像に表 したものが「六地蔵尊」。
お釈迦様が亡くなられ て(涅槃)、次の仏陀として弥勒菩薩様がこの世に降りてこられるまでの間(56億7千万年後)、六道すべてを救 う任を命ぜられたのがお地蔵様、つまり地蔵菩薩。
                          正法院
    

         正法院ー古くから厄除の霊験あらたかで信仰されている不動明王。
    

関東88ヶ所霊場は、東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬に広がる。 関東の有名な寺院や大きな寺院が網羅。
広範囲に広がっている ために短期間での巡礼は難しい。以下は埼玉県で

「74番・ 慈眼山 圓通寺ー比企郡川島町 馬頭観世音菩薩 」「75番・ 岩殿山 安楽寺 ー比企郡吉見町 聖観世音菩薩 」
「76番・ 宝珠山 錫杖寺ー川口市本町 延命地蔵菩薩 」「77番・ 赤岩山 東陽寺ー北葛飾郡松伏町 不動明王」
「78番・ 柳光山 延命院ー北葛飾郡庄和町 阿弥陀如来」「79番・龍王山 雨寶寺ー久喜郡大字北青柳 不動明王」
「80番・ 愛宕山 南蔵寺ー南埼玉郡菖蒲町 不動明王」「81番  慈眼山 正法院」
「82番・ 星子山 金乗院ー北埼玉郡大利根町 阿弥陀如来」「83番・ 少間山 龍泉寺ー熊谷市大字三ヶ尻 不動明王」
「84番・ 根本山 正福寺ー大里郡川本町  阿弥陀如来」「85番・光福山 長善寺ー大里郡花園町 大日如来」
「特別霊場・ 無量山 西光寺ー秩父市中村町 千手観世音菩薩 」「86番・ 西光山 宥勝寺ー本庄市栗崎 不動明王」
「87番・ 心王山 華蔵寺ー深谷市横瀬 大日如来」「88番・聖天山 歓喜院ー大里郡妻沼町 大聖歓喜天」埼玉県16ヶ所霊場。

次回は、埼玉県久喜市栗橋方面へ。

桶川陸軍飛行学校分校と知覧

2015-03-28 | 気まま旅

私の誕生日は8月15日、昭和20年8月15日が終戦日である。
疎開先の埼玉県秩父・影森小学校に入学してすぐ、敵機「グラマン」アメリカ戦闘機が山に墜落し、パイロットが落下傘でに不時着、その現場で初めてアメリカ兵を見たのと、8月14日終戦日の前日、それも夜間に「熊谷大空襲」があり、影森から熊谷の町が燃え、明るく見えたのを思い出した。
終戦日、陛下の玉音放送は、残留兵と夏休みであったが校庭で聞き、小学一年生の私には、意味が理解できなかった。
その戦争が負けたのを知ったのは、家族と上野駅に降り、焦げ多匂いと荒廃した東京を見た時である。

桶川飛行学校は、昭和10年開設された熊谷陸軍飛行学校の桶川分教場として、昭和12年6月に開設。
校舎は、荒川に架かる太郎右衛門橋の上流の高台にあり、戦後、外地からの引揚者の寮などとして使われていた。
今も建物の一部が残って、 滑走路は、現在の本田航空株式会社の滑走路とほぼ同じ位置に、幅300、長さ2,000メートルの滑走路、滑走路と本田航空社屋の中間の堤防上には、38×47メートルの格納庫、基礎や井戸の跡が。

         今の桶川陸軍飛行学校分教舎の回り


昭和12年頃から16、17年まで、他の兵科から飛行兵を希望して入隊してきた召集下士官、昭和18年ごろからは桶川教育隊と呼ばれ、少年飛行兵や、
学徒動員により大学、専門学校を繰り上げ卒業などして入隊した特別操縦見習士官など、昭和20年までの8年間に20期余り、推定1,500-1,600名の飛行兵を教育したのではと云う。
戦況が険しくなり、飛行兵の需要が急増してきたころの昭和18年、卒業した少年飛行兵第12期生は、45名中18名が戦死、19年卒業した特別操縦見習士官第1期生は、80余名中20名近くが戦死と云う。

                     知覧基地ー出陣


昭和20年、熊谷飛行学校は廃止、本校と桶川教育隊(桶川分教場)などの教育隊は、第52航空師団に改編され、特攻攻撃の訓練基地となる。
各地から特攻隊を編成した隊員が来て特攻攻撃の訓練を行い、昭和20年4月、特攻隊員12名が知覧に向け出発。
99式高等練習機という2人乗りの練習機で、6機の後部座席には整備員が乗り、山口県の小月飛行場まで送り出されている。

特攻隊員として、桶川飛行学校で訓練をしていた多田計之少尉が写した写真を手がかりに調査の結果、同     乗した整備員の証言を得ることができたと云う。山田信義少尉を隊長とする第79振武特別攻撃隊で、小月飛行場についた翌日、特攻隊員は、特攻の前線基地である知覧基地に向かい、昭和20年4月16日、沖縄の海に向け出撃。
飛行機の補充が続かなくなってきた陸軍は、練習機まで特攻に出撃させるようになったといわれる。
記録によると、この第79振武隊の99式高等練習機12機が初めて、旧式の偵察機を改造したもので、川越から塗装業者を呼んで、実戦機のように灰緑色に塗装し、当時の敵機に比べ、時速や馬力で大きく劣っていたと云う。
元整備員は証言していると云う。 桶川から飛び立ち知覧基地から出撃した12人の寄せ書きが、「知覧特攻平和会館」に残されていると云う。

    隙間だらけの木造平屋と薄いガラス戸、さぞ寒かったであろう(涙が)


「嗚呼神風特別攻撃隊」
     無念の歯がみ こらえつ 待ちに待ちたる 決戦ぞ 今こそ敵を ほうらんと 奮い起ちたる 若桜
     この一戦に 勝たざれば 祖国の行くて いかならん 撃滅せよの 命うけし 神風特別攻撃隊、、、、、なおも御国の 護り神。

20年前訪れた薩摩半島最南端基地「知覧」を思い出していた。
飛行場周辺の松林に散在していた木造バラック建ての薄暗い粗末な「三角兵舎」

            トタン板で補修された宿舎


「知覧節」
大隣岳から下の原ゆ見れば からす大根葉 今おだつ ホッソイホーツソイ
どこじゃだがよか かがよかばってん 瀬世じゃ門園の 権右衛門チョゲザ ホッソイホーツソイ、、、、。

知覧は、昭和16年「太刀洗陸軍飛行学校分教所」・「第六航軍特攻基地」現在「知覧運動公園」。
特攻観音参詣、遺品館に、館内は隊員達の遺影・顔写真・軍服・飛行帽・寄書・遺品などが展示されていた。出撃直前の別れの水盃を交わしてる写真
には涙した。

      隊員達の2~3坪の花壇、それぞれ同期の名が・小さな弾薬庫が
    

「ホタル」
1945年6月、出撃の前夜、特攻隊員の宮川軍曹は「小母ちゃん、死んだらまた小母ちゃんのところへ、ホタルとなって帰ってくる」と鳥浜トメに言い残し
て鹿児島県知覧基地から出撃していった。ところがその夜、トメの家に、本当に一匹のホタルが入ってきたのである。この本の題名はこのエピソード
からとられた。軍の指定食堂を経営する鳥浜トメは長女の美阿子と次女の礼子とともに、出撃する特攻隊員を暖かく迎え、送りだした。隊員たちもトメ
を実の母親のように慕った。この本は、息づまるような状況のなか、日本人がどのように行動したかの貴重な証言である。

           生々しい分教場・宿舎で、そのまま保存を
  

薩摩富士(開聞岳・922m)海門から西南へ飛び立ち、沖縄650km・約2時間の片道飛行であった。

モンペ姿下駄の知覧高女の少女達に見送られて、、、。
宮川軍曹は、富屋旅館の女主人に「僕が死んだら、蛍になって帰ってくるから、、、」
朝鮮出身の光山少尉は、アリランを歌い「僕の生命の残りをあげますからオバサンは、その分、長生きして下さい」

      分教場の教室は、整然されて軍律厳しさが伝わってきた。
    

「三角兵舎」
うす暗い、裸電球の下で、隊員たちは、ここで、遺書を書き残している。後、すぐ新しい隊員が。

踊りを交えて

「昔々その昔 爺さんと婆さんがあったとさ ヨイヤサキタサ
爺さん山へ柴刈りに 婆さん川へ洗濯に ヨイヤサキタサ
ドンブリゴッコ ドンブリゴッコ流れてくる 婆さんはそれを拾い上げて ヨイヤサーキタサ、、、、」
隊員達は、明るく・明るく振舞っていたと云う。

          授業の教材にしたのか飛行機も模型・地図が
    

整備員達は、特攻機の整備で、その特攻機は、旧式のオンボロ「97戦」
機体の鋲は、ネジを締めても止らない・燃料タンクは、小さな穴だらけで油が漏れ、その穴にぼろ布を詰めながら涙したと云う。

                   同じ兵学校の庭に咲く、、、、、。
    

「中田少尉の手紙」
皆様ご無事ですか、お伺いいたします。小生もお蔭様にて無事。明日より九州へ出張。目が廻りさうでたまりません。見送り有難うございました。
発車後一筋ボロボロ、手紙を開いてからボロボロ、涙などどこかえ忘れたと思っておりましたら矢張りあるようでした。
せきますままに乱筆乱文お許し下さい。いずれ車中にてゆっくりお便りいたします。

お元気ですか。風は直りましたか。滋賀の八日市といふところに機(飛行)がありますので、これから行って試験飛行、明日鋒田帰還の予定です。
煙都大阪の朝は烟煙がたちこめて、直上だけ青空が見えます。大分から大阪まで汽車行にて殆ど二日、消耗の極、大層ねむく、それに昨夜空襲で
起こされてひどい目に会いました。歌が苦心の末少しばかり出来ましたので書きます。昨夜八日市より家に急ぐ車中にて

            「何のため家に急ぐかますらをハこの世の別れ母に告げたし」
            「我が母ハいかに在はすかこの夜更今がヘりなバいかばかりなん」
            「ふるさとに散るとも知らで我を待つ老いたる母に如何に告げなん」
            「故郷に髪を残してこの心我が父母にそれと告げたり」

晴夜、月よく、場所は瀬戸、静かに昔歌った軍歌を歌いながら
            「月光に照らし出された瀬戸の海あの島かげに吾八住みたし」

                      桶川陸軍飛行学校分教場跡
    

知覧に集結した飛行第65戦隊は、松林に囲まれた「三角兵舎」の前にならんで一枚の写真を撮っていた。
この時すでに12名の戦隊員の姿が失われ、総員17名も戦火の中に次々消え、敗戦前日の8月14日の戦闘で、最後の隊員「千葉少尉・稲垣伍長」の戦死で
飛行第65戦隊は、消滅する。

                       桶川陸軍飛行学校分教場跡
    

兄さんは、いよいよ出撃します。この手紙が着くころは沖縄の海に散っています。幼い静ちゃんを残していくのはとても悲しいですがお許しください
、、郵便通帳とはんこ、これは、静ちゃんが女学校に上る時に使って下さい。時計・軍刀も送ります。、、、それを売ってお金に変えなさい
兄さんのかたみより、静ちゃんの人生の方が大慈です。、、、、、。

                       桶川陸軍飛行学校分教場跡(黙祷した)
    

次回は、隣の菖蒲城跡公園へ。

川越ー喜多院と天海

2015-03-26 | 気まま旅

川越は県中南部、古代は「河越・河肥荘」の名に由来する。武蔵台地の北、入間川・荒川の低地に囲まれ、平安時代から「武蔵武士団・河越氏」領地。
1457年「太田道真・道灌」親子により「河越城・川越城」が築城。
江戸に入り、「松平信綱・柳沢吉保」など幕府重臣が城主となった。城下町の狭い道路網で、大手町・鍛治町の地ネイが残っている。

今大人気の川越街道(国道254号)と新河岸川の水運で江戸とつながって、近隣の農林産物を集積して江戸の送られていた。江戸からは肥料・塩などが。
川越は、小江戸とも呼ばれた。1893年明治の大火で半数近九焼失している。その後、火災に強い「蔵造」が普及していく。
当時の川越商人の経済力がそのばれる町。

                蔵の道川越・時を知らせる鐘塔の近く   曹洞宗「養寿院」
    
               喜多院手前に浄土宗の「蓮馨寺」縁日で境内は賑やか
    
                    蓮馨寺前の「熊野神社」
    
                          拝殿
  

                   喜多院参道入り口に「成田山川越別院」が
    

「天海」-天台宗の僧・江戸上野山東叡山「寛永寺」を創建した徳川家康の側近中の側近で重臣。
陸奥の国高田出身ー比叡山・三井寺で修行・江戸崎不動院、仙波喜多院に住したが、徳川家康に召されて幕閣の一員となる。
幕命で「比叡山」を復興させ、家康の葬儀を司る。
徳川家の廟所として上野山(江戸城の鬼門)東叡山寛永寺を建てた。諡号は「慈眼大師」
家康の信任は厚く「天海は生きる仏・もっと早く出会わなっかったのか」と悔やんだと云う。
家康の神号をめぐり争い勝つ「金地院崇伝」で日光山を再建できた。



「喜多院」天台宗の寺ー星野山無量寿喜多院天海僧正・慈覚大師・川越大師と呼ばれ親しまれている。1599年再興。

    

            山門・五百羅漢・春日局化粧の間など寺宝が多い


                      本堂


「仙波東照宮」は、喜多院境内の南隣に鎮座、祭神は「徳川家康」
1616年家康は、駿府城で死去、翌年遺言により遺骨が久能山から日光へ改葬される途中・「喜多院」で4日間大法要が営まれ、これにちなみ、1633年
「天海」により建立され、日光・久能山と共に日本三東照宮の一つになる。(愛知の滝山東照宮を数える場合もある)
1638年大火で焼失、翌年再建している。
重文ー本殿・拝殿・弊殿・唐門等。浮世絵の元祖「岩佐又兵衛勝以筆の36歌仙絵額」所蔵している。

    

喜多院参拝後、参道の茶店に、            茶店カレーが美味い
    



次回は桶川へ。

河越の戦い・小田原北条軍

2015-03-24 | 気まま旅

「北条氏康」 1515-1571 小田原北条氏三代目の名将
二代目氏綱の長男、扇谷上杉氏・山内上杉氏を武蔵国河越で破り、「古河公方」を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄・上杉謙信と抗争・同盟を繰り返し領国拡大、税制改革・検地を推進した。
「北条綱成」守「河越城」が、扇谷上杉氏・山内上杉・古河公方連合軍8万に囲まれる。
氏康は、8千を率いて何度も援軍を何度も退却させている。
敵が安心し、気を緩めているのを見て、夜襲攻撃を掛け連合軍を撃破、潰走させた。世に云う「日本三大夜戦」の一つ。これで北条氏覇権決定する
氏康は、上杉謙信頼りにならず、武田信玄と同盟を結べと遺言を残し没している。

                    現在の川越
    

1537年、北条氏綱は、「河越城」に軍勢を進め、7月、「三ツ木」に着陣。
朝興の跡を継いだ上杉朝定が河越城に、氏綱の出陣を知ると15日に出撃して三ツ木原へ兵を進め、両軍入り乱れての戦いがはじまりました。
これが「三ツ木原の合戦」と呼ばれる戦いで、この地から川越にかけて、戦場になったと伝えられている。
合戦は、城を出て戦った上杉方に討ち死にする者が多く、朝定の叔父の朝成も生け捕りになったことなどにより、北条氏の勝利。
河越城は、後北条氏に奪われ、上杉朝定は、家臣の難波田弾正が依る松山城(東松山市)へ逃げたと云う。

「柏原城址・城山砦址」は、狭山市の西武柏原ニュータウンという住宅地の背後にある、入間川の河岸段丘の高台が城山砦すなわち山内上杉氏の城址。
1545年、北条氏康は、河越城に籠城する福島綱成等3千の後北条兵を援護するため、城をとり巻く8万の両上杉と古河公方の三派連合軍へ夜討ちをかける。この戦いが「日本三大奇襲」の一つといわれている「川越夜戦」。
山内上杉憲政が陣を張った所がこの城山であるといわれている。
「新編武蔵風土記稿」(1830年)には「土人は『上杉城』と称す」と記されている。おそらくは、この城にも、4月20日夜半に、北条氏綱の軍勢が押し寄せ、漆黒の闇の中での混乱したであろう。

 「河越の戦い」           扇谷・山内上杉氏を次々破り、関東南半分を支配する北条氏   
    

関東管領「上杉家・四分家」が治め、上杉謙信の長尾家も上杉家の守護代格の家で、越後守護代。
関東騒乱の果てに上杉四家のうち、扇谷上杉氏と山内上杉家が残って激しく争っていた。
後北条家も初めは扇谷上杉家の被官。扇谷上杉定正が家老の太田道灌が力があることに不安感を持ち、入浴中に暗殺、
その後、没落。 今川とは親しく、同盟もある「後北条家」は西に侵攻できず、東の関東平野に出進。
手を組んだ両上杉とジリジリした戦いを続ける。
河越城にこもった北条軍を両上杉軍が包囲、落城は時間の問題まで、油断している包囲軍に「後北条軍」は、奇襲し大勝を収めた。
関東平野に大きな地歩を築いた後北条家は以降、群馬・越後へと拡大していく。
勢力が窮した山内上杉憲政は、(長尾景虎・謙信の養子に)関東奪回を。
油断した大軍の包囲軍に夜襲をかけ、大混乱に持ち込む。

「日本三大奇襲」ー毛利元就と陶晴賢「厳島の戦い」・織田信長と今川義元「桶狭間の戦い」・「河越の戦い」。


「川越城の歴史」
中世は、「扇谷上杉持朝」が古河公方足利成氏に対抗するため、1457年、に家臣の「太田道真(資清)・道灌(資長)父子」に命じて築城。
規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定。
1537年、後北条氏の占拠するところとなり、1546年、川越城の奪回を図った上杉氏は、後北条氏の奇襲に会い、大敗して群馬に逃れ、
それ以後、後北条氏の支配が決定的となる。
川越城を掌中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組み込むとともに、城代として譜代の重臣・大道寺氏を配置している。
1590年、、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められて落城。
徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、重臣を重要な地に配して領国の安定を図り、川越には「酒井重忠」が1万石をもって封じられた。
川越藩の基礎が成立する。
1639年、に藩主となった「松平信綱」は、城の大幅な拡張・整備を行い、
近世城郭の形態を整え、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、四つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いてー4万6千坪。

明治維新に至るまで、幕府の要職にある大名が置かれた川越城は、「日本100名城」の選定を受けている。
工事も終わり、平成19年に、築城550年を迎え、市内各地でイベントが行われたと云う。

太田道灌築城は、「河越の夜戦」上杉扇谷・山内・古河公方軍8万。北条軍8千の奇襲で敗北


「川越市教育委員会の案内板には」
「天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。
しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年までよく持ちこたえた。
やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。
この砂久保は、川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。」
このとき後北条方は、攻めては退く詭計を繰り返し、河越城の城兵の命と引き換えに城を明け渡す、などと交渉を、
その間に、川越城籠城の福島綱成の弟、福島弁千代が角兵衛獅子に身を変えて城中へ忍び込み、兄綱成へ連絡をとったという伝承があると云う。

         江戸時代は、「川越城」と「喜多院には、春日局の化粧の間」があったと云う
  

「古社の日枝神社」
円仁・慈覚大師が喜多院を創建ー830年し、その鎮守として貞観2年の860年に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。
東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年・1478年、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。

本殿は、朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。

                     
    

「北条氏政」1538-90   氏康の長男・小田原北条氏4代目、国府台で里見・太田連合破り北関東制圧、豊臣秀吉上洛要請に応じず降伏後切腹。
「北条氏直」1562-91   北条100年王国の幕引き、5代目、大阪に住み30歳で没す、北条の復活を諦めていなったと云う。
「北条氏規」1545-1600  氏康の五男、家康と竹馬の友、韮山城主、河内国7000石貰う

次回は、川越の続き、家康重臣「天海・喜多院」等。

美味い鰻・埼玉大宮へ

2015-03-22 | 気まま旅

昔、大宮駅前の美味い「鰻屋」を思いだし、大宮駅を下車、街並みも変わり、探したが、見つかりませんでした。残念

大宮駅は、高崎線と東北本線の分岐点、1927年操車場で開業。以降東武野田線・京浜東北線・川越線・1982年東北・上越と新幹線開通、
1985年埼京線の開通等、県下最大の鉄道交通要地。


「大宮宿場」
関東平野中西部で、北は、群馬・東、千葉と茨城・北東部、栃木・南、東京・西、山梨と長野の6県に囲まれ、海なし県。
東西約107km・南北約60kmで、山地は秩父山地で後は関東平野。
約3万年前の県最古旧石器「藤久保遺跡・三芳町)」で発掘している。
716年下総・駿河など7ヶ国の高句麗人を移し高麗郡を置いている。
1457年「太田道真・太田道灌・父子」が、川越・岩槻などに城を築いている。1602年慶長時代に「中山道宿場」が定められ、伝馬制布令、、、。
江戸時代、中山道・日光街道・日光御成街道が整備され、利根川・荒川の治水土地開発が進められ、舟運がさかえ、米・野菜の供給地帯になっていった。
川越・岩槻の城下町に並んで「大宮宿」経済の中心。

柳沢吉保が三富新田を開発。
1694年,長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地であることが認められ、当時の川越藩主柳沢吉保は、
新田開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老曽根権太夫ら家臣によって、開発。開発が始まってから2年後の 1696年、に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができ、これが三富新田。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものと云う。三富の地割は、水に乏しく栄養が少ないという厳しい自然条件を克服するための知恵が詰まっていた。
                   JR大宮駅南口駅前


市名は、武蔵国一宮「氷川神社」が鎮座することに由来している。
宿場ー本陣1・脇本陣9・旅籠25以上と云う。
東京都心から30km圏の大宮市、住宅・デパート・大型店舗・金融機関と鉄道も埼京線乗り入れ人口流入地域。

        江戸時代、大宮宿を行く交う人々を描いている(歌川広重・大宮宿富士遠景)


ビジネスと夜の歓楽街として,昭和から続く県内有数の歓楽街の銀座通りやすずらん通り。
明治の鉄道開通と大宮駅開業により、個人営業の商店街や住宅街が形成される。
駅の南は仲町の名の通り、中山道の宿場町としての中心街であった。南側がまず中心街に。
1901年、岡谷の片倉組・片倉工業、1907年に須坂の山丸組・山丸製糸、岡谷製糸大宮館といった、長野県系の器械製糸工場がこの付近に進出。
中山道との間に繊維関連の豪商が集中。
貨物の引込み線を自分たちの敷地に伸ばし、国鉄で信州や北関東から絹の材料を仕入れ、大宮で加工し、貿易地横浜へ出荷する商業体系が確立した云う。製糸や衣料関係の仲買人や卸売業者も中山道沿いに軒を連ねた。

大宮駅南口・仲町「すずらん通り」の飲食街を抜け住宅街から氷川神社参道に。
  

「東光寺」山号ー大宮山、草創以来880余年の歴史のある古刹寺。
1128年頃、紀伊国熊野那智山青岸渡寺光明坊の住侶「宥慶阿闍梨」が関東下向の時、足立原に宿泊し、大宮黒塚において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を呪伏させたとある。
その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのが草創と云う。
当時は天台宗であり、熊野の光明が東国に輝いたところから坊号がつけられ、その後、1429〜1440年頃に梁室元棟大和尚が曹洞宗に改宗復興して開山。
梁室大和尚は、武州三田村の海禅寺(現在の青梅市二俣尾)の弟子であったため、海禅寺の末寺となったが、
江戸中期頃、同末で法縁の厚かった染谷の常泉寺の末寺に変わった。
1661〜1672年、11世鉄船大牛大和尚は、中仙道開通のため、清水屋、本陣山崎家による援護によって、寺域を現在地(宮町)へ移転し、伽藍を再興。
寺門興隆に努めた勲功により中興号が贈られている。
1696年には、14世拈山放牛大和尚によって鐘楼が建立され梵鐘を具えた。1721年、15世大津全教大和尚により新しく梵鐘が鋳造している。

                       東光寺本堂
    

「氷川神社」大宮公園内に鎮座、旧官弊大社。
祭神ー須佐之男命・稲田姫命・。
第5代孝昭天皇の代に創建されたと伝わる。聖武天皇の724-749年時は、「武蔵国一宮」に定められ「延喜式」で、「名神大社」に列せられている。
参道は、2kmに及び、社域は、10万m2。

   老木の欅・杉・松等が続く参道           呉竹北 斎館          伐採された欅の根
    

この一帯は出雲族が開拓した地、武蔵国造は,出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。

                  参道中央の二之鳥                神舞殿
    

摂社に「門客人神社」がある。元々は「荒脛巾神社」と呼ばれ,アラハバキが「客人神」として祀られている。アラハバキ社は、氷川神社の地主神。
現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので、先住の神がアラハバキとみられている。
このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って氷川神社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとある。

   末社(六社ある)              150年祭の祭り                   神橋
    

平安時代後期、平貞盛が平将門の乱において氷川神社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰。
荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がったと云う。
1180年、には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、1197年には、神馬神剣を奉納している。

5月には境内で恒例行事の大宮薪能が開催される。
手水舎                        楼門                 舞殿
    

「土肥実平」は、源頼朝側近武将・相模国中村庄司「宗平」の子。頼朝挙兵では一族最初から参加し備前・備中・備後の守護になり、京都警護にも。
小田原石橋山の戦いに敗れ、頼朝と行動したのは、一説では、実平一人と云う。
実平の子から始まる小早川氏ー安芸に移住し戦国武将になった。

                          拝殿・本殿


近世は、家康が関東に入ると、1596年、に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営。
江戸時代には幕府から社地三百石が寄進され、江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた
関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、1628年に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転。
これが現在に至る大宮の町となった。
1667年、には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立したと云う。

               祈願絵馬                                    神池
    

明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(現・さいたま市北区日進町)へ退転され、神域である社有林が開かれて、県で最初の近代公園「大宮公園」として整備され、「氷川神社」鎮座。

神社の参道には、大きな3つの鳥居があり、それぞれ一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と呼ばれ、杉とケヤキの並木が続く。
住民に親しまれ、いろいろな祭事がとりおこなわれると云う。
特に、初詣客も多いことで知られている。約200万人以上の人が参拝に訪れ、全国でも10指に入るにぎわいとなる。

            神酒                        御参り
    

次回は、小江戸「河越・川越」方面へ。