「埼玉県蕨市」は、県南部、荒川左岸の沖積低地に位置し、人口密度は日本一である。
市名の由来は、藁火を焚いた村で、藁火が蕨に転訛したと云う。江戸時代は、中山道第二の宿場町で栄えた。又物資の集散地でもあった。
1860年頃は、綿織物の「双子縞」が開発されている。その後、織物の町として栄えたと云う。
日本で一番狭い市であるが、1960年頃から都心から人口流入で、かっては工場跡・JR鉄道引込線などは、大規模マンションが林立した。
市の面積5.1km2・JR京浜東北線「蕨」駅と国道17号線。
市内中央に鎮座「和楽備神社」
社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、「渋川氏」が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりと云う。
「渋川直頼譲状写」(加上家文書)には、1352年・渋川直頼から嫡子「金王丸」に譲られた所領のうちに「武蔵国蕨郷上下」が記載されている。
「鎌倉大草紙」には、1457年・渋川義鏡は、曽祖父義行が蕨を居城としていた関係で、室町幕府から関東下向を命じられたとある。
神社の旧御神体「僧形八幡立像」には、天正十一年の墨書銘があり、創建の年代をうかがい知ることができると云う。
江戸時代には「蕨八幡」、「上の宮」と呼ばれ、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として、重きをなしている。
三学院末成就院が別当として祭祀を掌った。
明治六年村社に列し、明治44年・18社を合祀して「和樂備神社」と改称する。
合祀に伴い埼玉県菖蒲町出身の林学博士本多静六先生に設計を依頼し、境内整備が行われ、大正の末に現在の風致の原形が完成されたと云う。
蕨城址と和楽備神社
和楽備神社と隣接する「蕨城址」
南北朝時代に足利幕府の渋川氏によって築城。
南北朝時代に足利氏一門の渋川義行によって築城され、曾孫の渋川義鏡が古河公方に対抗するための拠点とした。
周囲を沼と深田に囲まれた微高地上に築城された平城で、幅約11.8mの囲掘と幅約8.2mの土塁をめぐらし掘の内側の面積は約12,200㎡となっており、
南側には同様の掘と土塁をめぐらせた約21,650㎡の外輪地があり二郭を形成。
戦国時代には扇谷上杉氏と後北条氏の境界線に位置したため、扇谷上杉氏にとっては江戸城奪回のための拠点となり、後北条氏にとっては川越城攻略の足がかりとなり、しばしば所属する勢力が入れ替わっている。
現在は本丸跡地が県の旧跡に指定され、城址公園として整備。
1457年・「享徳の乱」によって起こった関東地方の騒乱を収拾させるために、第8代将軍足利義政は関東探題として渋川義鏡を関東へ下向、義鏡は蕨城を拠点に兵を募ったが、蕨のある足立郡は大半が古河公方の勢力範囲となっていたために募兵は難航したと云う。
1462年・扇谷上杉氏と対立した義鏡は失脚し、以後の蕨城は事実上扇谷上杉氏の城となる。1524年・蕨城は扇谷上杉氏の麾下となった渋川氏の居城となっていたが、武蔵に侵攻した北条氏綱によって陥落させられる。
1526年・真里谷恕鑑と里見義豊の助力を得た上杉朝興が北条勢を破り、蕨城を奪回する。1546年・北条氏康が上杉朝定を「河越城の戦い」で破り、
蕨城主であった渋川義堯は後北条氏麾下に入る。1567年・「三船山合戦」で義堯の子渋川義基が討死すると蕨渋川氏の一族郎党は四散し、
その多くが帰農したと云う。江戸時代以降は、城主不在のまま廃城、
「蕨城」は、徳川家の鷹狩用の御殿として利用された。蕨は城下で市が開かれていたため宿場としての基礎があり、中山道が整備されると宿場町として
栄えた。
蕨地域に鎮座する和楽備神社
「埼玉県桶川市」大宮台地の中央部で、中世の郷名、「沖」「興川」が転訛、江戸時代は中山道の宿場町、「六斎市・ベニバナ」が開かれている。
荒川に面し酪農が盛ん、「ホンダエアポート」(陸軍の飛行訓練文教場)があった。前回掲載済み。
「三ツ木城跡」
鎌倉時代初期の有力御家人である「安達藤九郎盛長(「旧埼玉県史」による)や足立遠元」の
居館との伝承・俗説などもある。
「足立氏系図」によれば、この川田谷の地は足立遠元の子の一人である遠村(民部大夫)が川田谷氏を称したとされていることからこれらの子孫の
居館跡である可能性を浮かぶ。
1428年・鎌倉府奉行人連署奉書によれば、応永4年の1397年以前には足立大炊助が領家職であったことが記されていて足立氏と川田谷村との関連性を裏付けている。
三ツ木城跡・公園
しかし、現在残されている土塁・堀跡などの遺構の形式から、北方に所在する「石戸城とともに岩附城の支城」のひとつと考えられ
室町時代から戦国時代にかけて築城されたものと推定。
( 以上「鴻巣市史 通史編1」などより引用 )
「新編武蔵風土記稿」 では川田谷村の旧蹟の項に「三ツ木城蹟 東西北の三方深田にして、南の一方のみ平地に続き、今も土手の蹟存せり、郡内別所村無量寺の縁起には、足立右馬允が居跡なりと云う、足立右馬允遠元がことにや、遠元は保元中の人にて当郡の地頭職に補せらるることは、
丹波国山垣村旧家の系図に見えたり、又石井丹後守が住せし跡とも、いずれも定かならず」と記されている。
石井丹後守は岩附太田氏の家臣として戦国時代の前半に活躍。
常溜
二重土塁、空堀、櫓台 等構造的特徴と周辺の地理的。
大宮台地の北西部に所在する舌状台地の先端部分にあり、南側を除く三方が低湿地を形成し天然の要害を形成し、台地に続く南側には土塁の一部が遺されている。
大規模な堀切が施されていたものと推測され、外側の東西各辺の長さはおよそ100m前後の規模があり、堀幅も10mに及ぶ個所もありその深さも
(土塁の高さ)主郭側で8mに及ぶ規模。
しかし、それらの防御施設が大袈裟な割には郭内の広さは2000平方メートル前後(およそ100人程度が立て籠もれる広さかと)
それにしては狭く、桶川市史 第3巻 古代・中世資料編では、本来は他の郭が存在していた可能性も否定できないと云う。
桶川陸軍飛行学校跡に近い
「三ツ木城・城山公園」
面積は、10.5haと広く、公園内には市民プールやテニスコート等の有料施設も含めて25の施設がある。
桶川市紅花マラソンのスタート地点とゴール地点になっている。
城山公園
よく整備されている公園内の樹木は、武蔵野の雑木林をイメージして植えられていると云う。
目的別の広場があり、公園の中央には、噴水の大池という池がある。
釣りをすることもできると云う。
約300本の桜の木があり、春には花見で賑わう。
「菖蒲城」ー武蔵国埼玉郡新堀村「現在の埼玉県久喜市菖蒲町新堀」
古河公方足利成氏が、康正2年の1456年・に「金田式部則綱」に命じて築城。
城の竣工が5月5日の菖蒲の節句にであったために命名されたと云う。
1590年・小田原征伐ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた「内藤正成」が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700石を知行し、
「菖蒲城跡」上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。
1455年・足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述が残る。
この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力。
城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔されるが詳細は不明。
初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称し、金田氏の墓所は、永昌寺に。
現在遺構は、少し残っていないが、バス停建設による県道12号川越栗橋線の拡幅工事前の発掘調査が実施され、
平安時代の竪穴住居跡や中世の堀と土塁状の遺構が出土。
発掘調査により、14世紀の常滑産の甕や板碑(延文6年・1361年銘を含む)、16世紀の石臼や石硯、鉄砲の弾丸、大量の土器、陶磁器、永楽通宝などの古銭が出土。
菖蒲城跡ー江戸時代の旗本内藤家栢間陣屋裏門
菖蒲城跡の「菖蒲園」
6月上旬~中旬にかけて約50品種、3,5000株の花菖蒲が見ごろをむかえる。
菖蒲園ー例年6月上旬の日曜日に開催される「あやめ祭り」
「第81番霊場・ 慈眼山 正法院」
真言宗智山派・本 尊・不動明王ー真 言「のうまくさまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん」
御詠歌「がっしょうし ねがいもとめる しょうぼういん じげんのもりの やくよけふどう」
正法院
寺伝によれば、康正元年の1455年・僧・円俊が中興し、領主鳩ヶ谷三郎左ヱ門の菩提寺となり、1596~1614年・「領主内藤氏」も帰依し、
1649年・幕府より朱印十石八斗を得ている。
正法院
薬医門から境内に、樹齢600年の「かや」の老樹が。
鐘楼・僧・行基作と伝える十一面観世音奉安の観音堂、正面に間口八間、奥行五間、瓦葺の本堂がある。
「六地蔵尊」
「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六道を行脚される地蔵菩薩の御姿を、それぞれ六体の尊像に表 したものが「六地蔵尊」。
お釈迦様が亡くなられ て(涅槃)、次の仏陀として弥勒菩薩様がこの世に降りてこられるまでの間(56億7千万年後)、六道すべてを救 う任を命ぜられたのがお地蔵様、つまり地蔵菩薩。
正法院
正法院ー古くから厄除の霊験あらたかで信仰されている不動明王。
関東88ヶ所霊場は、東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬に広がる。 関東の有名な寺院や大きな寺院が網羅。
広範囲に広がっている ために短期間での巡礼は難しい。以下は埼玉県で
「74番・ 慈眼山 圓通寺ー比企郡川島町 馬頭観世音菩薩 」「75番・ 岩殿山 安楽寺 ー比企郡吉見町 聖観世音菩薩 」
「76番・ 宝珠山 錫杖寺ー川口市本町 延命地蔵菩薩 」「77番・ 赤岩山 東陽寺ー北葛飾郡松伏町 不動明王」
「78番・ 柳光山 延命院ー北葛飾郡庄和町 阿弥陀如来」「79番・龍王山 雨寶寺ー久喜郡大字北青柳 不動明王」
「80番・ 愛宕山 南蔵寺ー南埼玉郡菖蒲町 不動明王」「81番 慈眼山 正法院」
「82番・ 星子山 金乗院ー北埼玉郡大利根町 阿弥陀如来」「83番・ 少間山 龍泉寺ー熊谷市大字三ヶ尻 不動明王」
「84番・ 根本山 正福寺ー大里郡川本町 阿弥陀如来」「85番・光福山 長善寺ー大里郡花園町 大日如来」
「特別霊場・ 無量山 西光寺ー秩父市中村町 千手観世音菩薩 」「86番・ 西光山 宥勝寺ー本庄市栗崎 不動明王」
「87番・ 心王山 華蔵寺ー深谷市横瀬 大日如来」「88番・聖天山 歓喜院ー大里郡妻沼町 大聖歓喜天」埼玉県16ヶ所霊場。
次回は、埼玉県久喜市栗橋方面へ。