syuの日記・気まま旅

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残雪の中 富士山荘オープン

2018-03-31 | 富士山麓日記
3/25強の富士山、先日の大雪で積もった雪がまだまだ解けていない。
山荘のオープンに3か月ぶり!

ここは標高1000m常駐している人もいる。爽やかな空気。









帰りは河口湖駅からイラストのかわいい電車で!外国の旅行者たちがいっぱい!



海老名 相模国分寺跡 七重の塔がある。

2018-03-28 | 気まま旅

聖武天皇は、天平9年の737年、国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と「大般若経」を写す詔、740年、「法華経」10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
「続日本紀・類聚三代格」によれば、741年、天皇から「国分寺建立の詔」が出され、各国に七重塔を建て、「金光明最勝王経(金光明経)・妙法蓮華経(法華経)」を写経すること、自らも金字の「金光明最勝王経」を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、
僧寺の名は「金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺」とすることなどである。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。
747年、「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。
これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まったと云う。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れたと云う。
ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。

                       小田急「海老名駅」


           駅前通り、ビルが並び商店街に、歩行通路も改札口と同じビルの2階


仏教政治を初めて行った天皇「聖武天皇」 701-756 45代天皇・文武天皇の皇子。
聖武天皇は、南都六宗の学問を助成し、「天平文化」花開いた。国々に国分寺を創り、中央に「東大寺」を置こうとし、仏教の力で国を守って貰うやめに
東大寺の大仏を造らせた。それも、鋳物技術をもちいて、仏師の技を集めたもの。

「孝謙(称徳)天皇」 718-770 聖武天皇の皇女・46・48代天皇 聖武天皇後を受けて皇位に「仏教政治」を展開した。淳仁天皇(47代)淡路に送り
再び称徳天皇と名乗っている。妖僧「弓削道鏡」を引き立て、道鏡一派による思いのままの仏教保護がなされた。「尼寺」を。

                   駅前通り正面には、大型模型の七重塔が。


「律令」税金
日本の古代において,律令法の体系を基軸として形成された国家統治の体制。
7世紀の後半,近江令(存在を否定する説もある), 飛鳥浄御原令の編纂を通じて基礎が固められ,701年の大宝1年、大宝律令の制定・施行によってほぼその完成をみたとある。
                          国分寺址交差点       


7世紀聖徳太子・中央集権化が進められ、やがて律令制定になっていく。荘園を通じ、中央・地方とのつながりが強まっていった。が全国化するのは
10紀を待たねばならない。6世紀の「古事記・日本書紀」後世創作されたと思われるが。
天武・持統朝に入ると「続日本紀」ほぼ間違いない記録を踏んでいると云う。

                           「相模国国分寺址」


「相模国国分寺跡」駅から約1km・相模台地上で、法隆寺と同じ伽藍配置。
西ー七重塔・東ー金堂並列(礎石の一部のみ)
1292年、の銘の梵鐘(重文)が保存されていると云う。

                  国分寺配置図 「北方に相模国分尼寺跡が」  


海老名市は神奈川県の中央部・相模川に沿って広がっている。名は、大きな海老が生息していた土地。東半分が相模台地・西が沖積低地で水田が広がる

                              跡                            


「相模国」
律令体制での地方行政基本区画で、東海道に属した旧国名「相州」とも云った。相模国ー三浦半島ー房総半島へと続いて東海道と云った。
国府は海老名・小田原国府津の説あり。
                            北方建物跡


10~11世紀は、乱世で争乱で、鎌倉時代から室町まで幕府直轄地・関東菅領を鎌倉にあった。後北条氏時は関東は小田原。江戸時代は西・東複雑に移り
西部、大久保氏・東天領、旗本・・領地は複雑ー明治に入り足柄県・明治9年に神奈川県となった。

                             基礎石


                             国分寺跡


                             金堂跡


                          海老名市温故館ー古代遺跡など展示  


                           国分寺の模型   


「秋葉山古墳群」
火を防ぐ神を祭った「秋葉社」という祠があってその名が、第二号墳を秋葉山と呼んで、古墳群全体の名称となル。
古墳群は座間丘陵の標高75~80mの尾根沿いに、第一号墳から第六号墳の、計6基の古墳が確認、秋葉社があった第二号墳の後円部頂上は、標高84.6m市最高地点・第一号墳から第六号墳以外に近年の開発で消滅した古墳もあると云う。
尾根沿いに座間市内に入った場所にも古墳があるとの説、(未確認) 6基の古墳の内訳は、
「前方後円型墳墓が1基、前方後円墳が2基、前方後方墳が1基、方墳が1基」(学術調査がほとんど行われていない6号墳、墳形は不明と云う)。

                              土器


                              板碑


                             土器など  


「秋葉山古墳群」は、3世紀~4世紀にかけての相模湾周辺で最も規模が大きな古墳群であり、地域を代表する人物を葬ったものであると見られている。

                              板碑


「国分寺」                          真言宗高野山


                             大ケヤキ


                     境内の落雷で半分焦げても元気な欅


                               本殿


快適な小田急線で足柄へ

2018-03-27 | 気まま旅
「小田急線」
1923年ー小田急急行鉄道が創立・25年に新宿ー小田原敷設工事・27年複線運転・29年江の島線・・。
1942年、京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄を合併し、東京急行電鉄と改称し、東京急行電鉄は、続いて1945年、相模鉄道の運輸営業管理を受託したので、ここに東京西南部のほぼ全域に至る私鉄統合が成立した。
戦後、大東急が解体となり1948年、旧小田急電鉄は、東京急行電鉄から分離独立し、同時に京浜電気鉄道は京浜急行電鉄の名称で、京王電気軌道は京王帝都電鉄の名称でそれぞれ独立している。

             小田急の小田原駅・新宿からどんどん短縮されいる。


1948年、「新宿~小田原」駅間ノンストップ週末特急の運行・「藤沢~片瀬江ノ島」駅間の複線復旧を達成・続けて小田原急行鉄道創業以来の懸案であった箱根登山鉄道線への乗り入れを1950年、実現。1955年、は国鉄御殿場線へ松田連絡線を使用して気動車(キハ5000形)による片乗り入れが特別準急で実現し、小田急電鉄の車両と小田急乗務員で「新宿~御殿場」駅間の直通運転が開始。
高度成長最中の1957年、特急ロマンスカー(3000形SE)が、ロマンスカーは第1回鉄道友の会ブルーリボン賞を1958年、受賞。
御殿場線の電化により5両編成のロマンスカー(3000形SSE)に変わり、1960年、1964年完成。
1984年、新宿駅大規模更新工事完成で10両編成対応のプラットホームに。
輸送力の増強と軌道強化、そして安全確保の必要性から「37kgレールを50kgレール」に交換する重軌条化を推進し、混雑緩和と短縮に。

                 各駅で小田原の次が「足柄駅」


「足柄」の名は「古事記」景行天皇の条に「安思我良・阿之我利」などの記述がある。17世紀以前は、上・下の2郡に分かれ、以降「酒匂川」上流の
山中と下流を下郡となっている。明治では相模諸島・伊豆一円を「足柄県」、その後、神奈川県の一部となる。
足柄山地は、神奈川県・静岡県で、箱根火山と丹沢山地との間で、南部の箱根外輪山の金時山(1213m)その北に「足柄峠」でその一帯を足柄山と云っている。足柄山は、山姥が怪童丸(坂田金太郎)を育てたと云う伝説がある。

   小田急足柄・大雄山線五百伽藍駅と国道255号線の間に鎮座、「白山神社」鳥居


                  祭神ー白山彦命創建 社殿 (南足柄)


「勝福寺」 山号ー飯泉山  真言宗東派の古刹

上皇から賜った「十一面観音」を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられる。
この観音像は、唐からの僧鑑真が請来したものと伝えられ、当初は補陀落山と号し、「道鏡」の出身である弓削氏の氏寺であったという。
平安時代の830年の天長7年、現在地に移ったとされ、室町時代に現在の「勝福寺」と号するようになり、後北条氏の帰依を得た。
なお、この寺には曾我兄弟(曾我祐成・時致)が仇討ちの際に日参して成就したことや、二宮尊徳が14歳の時、旅僧の訓読する観音経を聞いて発心したという伝説が残されている。
               仁王山門  坂東33ケ所の5番札所


              市指定文化財          青銅水蜂         


            県指定文化財  本堂   堂内に五百羅漢が右左に配置されていた。             


                       延命地蔵


            県指定の大銀杏が境内に
                        銅鐘


                        六地蔵


足柄峠は旧東海道峠、足柄関が置かれ交通の要衝でこの峠を、「東の坂東」であった。東方には、矢倉沢関所を設けている。
後三年の役時「新羅三郎義光が家臣豊原時秋」に笙の奥義を伝授した物語が残っている。足柄城跡、聖天堂などの史跡も多い峠である。

「小田急線の車窓から」


足柄平野・酒匂平野は、箱根火山・丹沢山地・大磯丘陵(国府津・松田断層)が走っている。
平野を流れる「酒匂川」は暴れ川、氾濫を繰り返して大きな被害を与えていたが、「二宮尊徳」が、報徳精神で被災村落を守り復興させた。

         「尊徳記念館は、小田急線の小田原から三つ目の「とみず駅」下車


                          酒匂川


「伊勢原市」
史跡 八幡台石器時代住居跡・五領ヶ台貝塚・厚木大山街道・扇谷上杉定正と山内上杉顕定が争った古戦場跡がある・日本三百名山「大山」などが。

                       小田急線「伊勢原駅」


伊豆高原 駅の雛飾り 城ヶ崎海岸

2018-03-25 | 気まま旅
「伊豆諸島」
ー東京都・相模湾南方・富士火山帯・伊豆七島(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島)(青ケ島、べヨネーズ礁、鳥島、須美寿
島・・。でほとんどの島から縄文式の遺跡が発見されている。
7~8世紀にはすでに、流刑地(明治21年まで無人島の式根島を除く)。
江戸時代、幕府直轄地で、大島、新島、神津島、三宅島は塩年貢・八丈島は、絹年貢であった。
1869年明治2年は、相模府」・1870年は、韮山県・1871年は、足柄県・1876年は、静岡県・1878年から東京府に編入している。
昭和39年頃から富士箱根伊豆国立公園になり観光地化が進んだ。
なぜ東京都なのかー太平洋上軍事・地理戦略上重要地域。すでに江戸時代から、幕府の直轄地で島奉行・韮山代官などの支配下に置かれていた。
「船路・航空路」
東京・熱海・伊東・香取ー「大島便」が、「式根島、神津島」は、東京・下田、140°S(千葉県館山)「三宅島・御蔵島・八丈島」、東京。

                       伊豆高原の朝日






川奈に近い「小室山321m」・写真は、「大室山580m・国の天然記念物」山焼きは700年の歴史がある。

     風物詩、春の訪れを告げる山焼きはまだでした。(強風が続いているー2月中旬)


                   伊豆高原から見た大島


                   2月中旬の伊豆高原


「伊豆急行」
伊東ー南伊東ー川奈ー富戸ー城ヶ島海岸ー「伊豆高原」ー伊豆大川ー北川ー熱川ー片瀬白田ー伊豆稲取ー今井浜海岸ー河津ー稲梓ー蓮台寺ー
伊豆下田「16駅」                 
                    伊豆高原駅下車


                    駅構内に雛段飾りが(稲取の吊るし飾りが知られている~3月末まで)


                    江戸城石垣に




       花公園(日蓮上人が流されたどり着いたのが公園に近い蓮着寺がある)


                城ケ崎海岸沿い遊歩道に




                      門脇埼灯台


                      遊歩道


                      門脇吊橋(長さ48m・高さ23m)




                    城ヶ埼海岸の溶岩肌





                      吊橋の下