syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

虹の里・駿河湾 西浦海岸の宿

2013-09-29 | 富士山麓日記

太平洋戦争終戦、有る特攻隊員の遺書から、
散るのはもとより覚悟であり、私は満足であります。、、、幾多の戦友は尊き血を流して護国の花と散ったのに自分一人が今日まで生き残っている事が戦友に対して心苦しくてなりません。と書き残し、最後に両親へのお礼、おわびの言葉で締めくくられて、自決。

「このような戦争は、二度とあってはならない」

広がる穏やかな海辺の景色、海越しに 見える富士山など素晴らしい景観地、沼津市西浦。
湾内を大漁旗で飾り立てたこの地域の多くの漁船がぐるぐると祈願の為旋回するお祭りがあると云う。その時の写真

 
駿河湾西浦海岸道り


偶然泊まった宿、終戦記念日も過ぎたばかりですが、思いがけずこんなことがあったそうです。
今回お世話になった西浦の民宿「ますや」に、戦時中、回天の若い兵士達も常宿であったという。

ここがら見た富士山を安藤広重に見せたい場所、残念ながら朝から曇空であった。


次第にアメリカ軍の停泊地の警備が厳重となり、洋上攻撃へ作戦変更を余儀なくされ、菊水隊以降は金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。すでに制海権も制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった。

1945年3月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦や駆逐艦、一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となている。

終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面、または事実と異なる説が強調され、特にハッチに関しては中から手動で開けられ、外からは工具を使用するものの開閉は可能だったと云う。
搭乗員は操縦の特異性から転用ができないため、全てが回天戦のために選抜されて訓練を受けた優秀な若い志願兵。
戦時の日本において事実上、志願を拒否することは著しく困難で、戦果に関しては49基出撃の結果に対し撃沈4隻と乏しく、回天を輸送し発進させる潜水艦の損耗率も高かったと云う。

「特攻兵器」は、回天一型特攻兵器・回天も人間魚雷と呼ばれる。この兵器はまさに「人間(が操縦・誘導する)魚雷」として機能する。


父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。
私は潔く死んでいきます。
今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。
抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。
故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。
しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。、、、、、、、、、、、、、、、、、。

人間魚雷・回天の兵士達


戦争末期、旧日本海軍が水上特別攻撃のために作った、全長約5mの1人乗り、6.5mの2人乗りの小型艇。
ベニヤ板でできた船体に爆薬を積み、車用エンジンで敵艦に体当たりする。
フィリピン、沖縄、本土の主に太平洋側に配備され、米軍の上陸に備えた。
「人間兵器」といわれ、出撃やその準備中などに約2500人が犠牲になったとされる。

特攻隊員「生き残り」の終戦引揚後、荒れていた。

特攻隊員達の富士山への思いは・・・・。


「零式艦上戦闘機」は、我が国誇りの戦闘機であった。1937年、十二試艦上戦闘機が、のちの零式艦上戦闘機。
設計チームの堀越氏(零式艦上戦闘機の設計主任)が中心に、三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行う。

戦前には七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と数は少ないものの、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けた。
九試単座戦闘機では逆ガル翼を採用するなど革新的な設計を行い、のちの九六式艦上戦闘機の開発につながっている。
この零銭も、特攻機として使われた。

世界の名機、零式艦上戦闘機(富士山自動車博物館にて)


次回は、伊豆の国韮山方面に。

長浜城と北条水軍

2013-09-28 | 富士山麓日記
「長浜城」

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年頃、北条水軍の基地として改修したとされる。
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなっており、1580年には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
そして、1590年、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。
築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。



北条早雲は、伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。
道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために1498年、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。
話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)事で和解が成立した。

1512年、ついに早雲は兵を挙げ岡崎城に攻撃を開始。
敵せずと見た道寸は弟・道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。
しかし道香も戦死。道寸はさらに新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請する。しかし、援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)も北条勢に迎撃されて討ち死に。
道寸・荒次郎父子は三浦半島の新井城に籠城、北条軍がこれを包囲、、、、。

「駿河湾海戦」武田水軍・北条水軍幾多の海戦。
今川氏が衰退した1560年以降、駿河への侵攻を始めた武田信玄は、駿東をめぐって小田原北条氏と激しく争いました。
駿東は武田氏の手に落ちますが、北条氏も戸倉城(清水町)を前線基地とし、武田方と対峙します。
海のない甲斐の武田氏は駿河を手に入れるために、旧今川水軍から引き継いだ伊丹氏・岡部氏をはじめ、伊勢からは向井氏・小浜氏といった船大将を招き入れて水軍を組織しました。
1580年には、北条氏と武田氏両水軍による「駿河湾海戦」が起こりす。
静岡県内の武田水軍の城として江尻城・袋城(静岡市清水区)、持舟城(静岡市駿河区)が知られている。

    

一方北条水軍は、伊勢新九盛時(北条早雲)が伊豆を平定した時からの在地武士である富永氏(土肥)、高橋氏(雲見=くもみ)、松下氏(三津=みと)、鈴木氏(江梨)らが中核となっていました。それに加え、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍や、船大将として熊野から招かれた梶原景宗らを併せて北条水軍が組織されていきました。
駿河湾において武田氏とは何度となく海戦を交えましたが、1582年武田氏滅亡後は豊臣勢の脅威にさらされていきます。
そして1590年、長宗我部元親・九鬼嘉隆・脇坂安治らが率いる豊臣連合軍の大船団がついに下田を取り囲みます。
水軍に力を注いでいた小田原北条氏ですが、この強大な豊臣軍勢にはとても太刀打ちできません。
駿河湾から伊豆へと、豊臣勢は陸と海から北条氏の拠点をことごとくつぶしつつ小田原へと迫ったのでした。

                     湾内
  

1590年、豊臣勢との決戦態勢のためか、後北条水軍は小田原に集結、水軍が撤収した長浜城には土豪「大川兵庫」が立て籠もったという。
豊臣水軍が迫ると、「大川兵庫」らは抗する術もなく一戦も交えず敗走したと伝えられている。
その後、大川氏は網元として内浦の漁業を支配し、江戸期には韮山代官の小代官をつとめて幕末に至ったという。

無縁墓地                      海岸線から見た城山                     航空写真
    

「光明寺」長浜城の近くの寺、鎌倉の「光明寺」の末寺と思われる。
鎌倉光明寺は、創建年不明、15世紀頃、鎌倉三十三観音18番、 鎌倉二十四地蔵22番、 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉2番。
浄土宗大本山 光明寺、山号を天照山、本尊は阿弥陀如来。
北条経時、開山とある。13世紀〜14世紀にかけての歴史はあまり定かでないが、室町時代には中興開山とされる祐崇上人-1509年によって復興

城山階段                                               光明寺
    

古い供養塔・地蔵・石仏。

        本堂                                お地蔵さん
  

伊豆三津方面に。

駿河湾に面した沼津御用邸公園 

2013-09-27 | 富士山麓日記

沼津は、東部の伊豆半島の付け根、市名は中世の「沼津郷」から。愛鷹山麓には、縄文遺跡が多い。弥生時代から狩野川流域で水稲耕作が営まれてい、古墳も多い。鎌倉時代は、東海道の要衝であった。
武田勝頼は狩野川河口に「三枚橋城」を築いている。江戸時代は、水野藩の支配下の入る。大政奉還後(1867年)沼津兵学校・陸軍兵学寮
多くの人材を養成している。

「沼津御用邸記念公園・歴史民俗資料館」は、沼津御用邸は明治26年に造営され、明治・大正・昭和の三代に渡り使用されました。
昭和44年に廃止され、45年からは記念公園となって美しい庭園や邸が公開されている。(有料)

                    沼津御用邸記念公園


西附属邸は建物だけでなく室内の家具・調度品まで復元されており、当時の皇族の暮らしにふれることができます。東附属邸は、皇孫殿下の御学問所としての性格を受け継ぎ、文化活動のための施設。

                       園内


歴史民俗資料館では、駿河湾で使われてきた漁具類や沼津の地場産業となった干物作りの道具、湿田農耕の資料などを展示。

  

敷地面積は約15万平方mに及び、千本松原に連なる広大な松林と駿河湾に面した砂浜の中にある。明治時代、周辺には大山巌や西郷従道、大木喬任など元勲の別荘も存在していた。北北西の方向に富士山が見える風光明媚、かつ温暖な地。

  

昭和20年、沼津大空襲で本邸を焼失し、昭和44年に廃止されて沼津市へ移管され、昭和45年、残された東附属邸と西附属邸を中心として周囲の緑地と共に、沼津御用邸記念公園として開設、1994年には今上天皇が行幸。

国道414号から近い。

  

「過去の御用邸」は、 神戸御用邸(明治19年)設置、 熱海御用邸(明治21年)設置、現在は熱海市役所。
伊香保御用邸(明治23年)設置、現在の群馬大学伊香保研修所。 山内御用邸(栃木県日光市)(明治23年)設置、現在は日光東照宮社務所。

沼津御用邸(明治26年)設置、沼津御用邸記念公園。 宮ノ下御用邸(箱根町)(明治28年)設置。後に高松宮家別邸、現在の富士屋ホテル別館菊華荘。 田母沢御用邸(日光市)(明治32年)設置、現在の日光田母沢御用邸記念公園。
鎌倉御用邸(明治32年)設置、現在の鎌倉市立御成小学校、鎌倉市役所。 静岡御用邸(明治33年)設置、静岡大空襲で焼失。現在の静岡市役所。 小田原御用邸(明治34年)設置、現在の小田原城内。 塩原御用邸(明治37年)設置、現在国立光明寮国立塩原視力障害センター。

  

東附属邸は、かつての御学問所としての歴史と伝統を引き継ぎ、市民の交流の場として、文化・教養活動の拠点として改修整備したもの。

「現存の御用邸」は、那須御用邸 (大正15年/昭和元年)設置。主に8月~9月に利用されている。 葉山御用邸 (明治27年)設置。
(昭和46年)に建物が焼失。昭和56年に再建。主に2月~3月に利用されている。
須崎御用邸 下田市 (昭和46年)設置。邸内にはプライベートビーチがある。主に7月~8月に利用されている。

    

東附属邸は、1903年 昭和天皇の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して造られ、夏期には隣地の学習院遊泳場とともに、ご利用の機会も多かったようです。
東附属邸は面積も約550㎡と広くありませんが、当時の御殿建築の姿をよくとどめて、1969年に沼津御用邸が廃止されるまで、長期間にわたり継続して利用された。
現在は新たに茶室を設け、日本文化を学ぶ研修所として、一般に公開している。
  
    

駿河湾に面した沼津港は、大きな漁港。沼津港の大型展望水門が多い。
内側が内港、外側を外港といい、フィッシングは外港の方が面白いと聞く。今日も多数の海釣りに。

                        水門
  

長浜へ 

光長寺 三嶋大社

2013-09-25 | 富士山麓日記
キリン協和・東レ・東芝・森永・横浜ゴム等の企業の三島工場がある。
県東部に位置する三島市は、伊豆半島の基部にあたる。三島大社市内中央に、箱根連山の西側斜面で、西部は愛鷹山の東部斜面で、東に境川、西に黄瀬川が流れている。
古代から伊豆国府が置かれ、行政の中心地であった。

鎌倉時代以降三嶋大社の門前町としてのイメージが強い、江戸に入り下田街道の分岐点として東海道の宿場として栄えた。
箱根越え、伊豆の天領を支配する「三島代官所」が置かれていた。
明治に入り一時衰退しているが、丹那トンネル開通で活況を取り戻した。富士山の伏流水の湧水地が特に多い。「三嶋は水の都」と云われ
富士箱根国立公園の玄関口になる。

法華宗本門流「光長寺」・創建は1276年(建治2年)、日蓮を開山、日春と日法の2名を「同時二祖」としている。鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)とともに法華宗本門流の四大本山の一である。住所沼津。

光長寺・日蓮宗                       山門に大楠木が


「宝物」は、日法作の御影、宗祖日蓮大聖人曼荼羅 5幅・全て山中喜八の『御本尊集目録』に収録されている。 中でも弘安元年11月の28紙継ぎの曼荼羅は、現存する宗祖筆の曼荼羅の中で最大。(2349×1249mm)
日法聖人作宗祖御影、日法聖人彫刻の御影。 「日蓮大聖人御尊像、 彫刻の名手として名高い日法聖人の謹刻。御開眼の後、少しお気に召さぬところがあり鑿を当てたところ清血が流れたと云う、一たび御開眼の後はただの木像ではない、「生きておられる」と驚き疎漏を悔いられ、これを伝え「血流れの祖師」と云うとある。
                       立派な楼門


七百余年の昔、御弟子の訓育に努めておられた宗祖は、かって道中の草庵を結ばれ、熱心な信者もいる岡宮の地に再度の弘教を志され、御弟子日法聖人にこれを託されました。
師の命を承けて法華経を説く日法聖人の法門を弔問した当地の古刹の僧空存は、自らの誤りを悟り日法聖人に帰信し、聖人の御手引きで宗祖の御弟子に加えられ、名を日春と賜りました。
日春日法両聖人は力を合せ里人を教化し、1276年 光長寺を開創、宗祖の命に応えた。

室町時代には学頭日朝聖人が出られ、京都本能寺の日隆聖人と呼応して宗祖の正義を宣揚され、現在の法華宗の礎を築かれ、その後
今川氏徳川氏等も寺領を安堵、教勢は年を逐って充実伸張したと云う。
宗祖直受の法燈連綿七百年、末寺約百を擁し、老杉古松鬱蒼と茂る二万余坪の境内は聖地の趣き深く、全国法華宗徒渇仰の霊場となった。

額に山号「徳長山」の文字        仁王像が             参道


辻之坊山門は、沼津城中庭の門を移築したものと伝えられている。

日朝聖人ご旧跡、日蓮宗総本山身延山久遠寺第11法王で、行学院と号する(1422~1500)、今日の身延山発展の基を造った敏腕家。
優れた学僧でもあって、晩年には、著作活動に全精力を傾注し、一時眼病を患って筆を置くこともあったが、信仰の力で、やがて視力を回復したと云う。「にっちょうさま」と呼ばれて、民衆に崇められ、眼病平癒の神様とうたわれる。

                           本堂


文化財は、重要文化財 宝物集ー巻第一、1287年日春の書写。宮内庁書陵部本と並ぶ「宝物集」の最古写本、登録有形文化財 光長寺御宝蔵
1926年起工した、宝物収納法要堂は、県指定文化財 法門聴聞集等がある。

                           講堂

桜の名所として有名で、春になると多くの人々が訪れる。 
現住は、78世石田日信貫首。関連、 鷲山寺、 本能寺、 本興寺、 門池。光長寺と市仏教会、 南之坊、 西之坊、 東之坊、 辻之坊がある。

                        坊、末寺



「三嶋大社」三島駅南約1Km大宮町に鎮座する。

                        三嶋大社


伊豆国一宮。三島明神とも称した。祭神は、大山祇命と事代主命、創建ははっきりしていないが平安初期には文献に見られている。

                         本殿


源頼朝以来、幕府や武家に信仰されて保護を受けている。
銅像の神主は、矢田部家が世襲・社家の河合家は、三島暦(地方暦)を発行した。

神木


江戸時代は、朱印地530石を領有した神社。

天然記念物金木犀                  舞殿              境内


境内には、天然記念物金木犀が、資料館に頼朝らの歴史資料が展示されている。北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」・頼家筆の般若心経など。

源頼朝・北条政子腰掛石がある。 治承4年に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に、腰をかけて休憩したと伝えられている。
向って左側の石が源頼朝、右側の石が北条政子が腰掛けたと云うが。?



1月7日「お田打神事」は、鎌倉時代から伝わるー田遊びーで知られている。



「沼津アルプス」とは、香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線を地元の愛好会が整備し、名づけたもの。標高は一番高い鷲頭山でも392mと低山ではあるが、起伏が激しく鎖を伝って歩くところもあるので、登山用の装備が必要という。
高齢者の人気登山、 沼津アルプスは、なんといっても、眺望が素晴らしく、山稜線まで登ると眼下に駿河湾を見下ろし、北には富士山がそびえる。まさに大パノラマ。春は桜、秋は紅葉も楽しめる。

「狩野川」は、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注ぐ。狩野川のような太平洋側の大河川で北流するものは本川だけである。
これはかつて島であった伊豆半島が、フィリピン海プレートの移動によって本州側のプレートに衝突し隆起したことによる。
一級水系の大河川にしては河口付近でもそれほど川幅が広くならない。これは大支流である黄瀬川が造りだした三島扇状地(黄瀬川扇状地とも)があるためであると云う。また、水利用の大型ダムがなく、これは一級水系にしては数少ない特徴である。

沼津に


「沼津・霊山寺」は、曹洞宗永平寺派の寺。
昔は真言宗の寺院であったが、1748年の火災に遭って寺記をことごとく焼失、創建の年代などは不詳である。
伝説によれば、昔この辺が伊豆国であった時、天平の詔によって創立されたものといわれている。
1557年に宗祖の道元禅師より12世の法孫である機外永宜和尚が、伊豆国北条村の真珠院の住職であった時、当寺に招かれて中興開山となったと云う。このために真珠院を本寺とし、曹洞宗に改宗。
塔頭として、光明院・西光院があったが、後者は廃寺となり、前者は平成13年大岡三明寺に移転している。

霊山寺            鐘楼                    本堂


五輪塔は空、風、火、水、地の五大を、団、半月、三角、円、方の五輪にあて、順次積み重ねて塔、もとは舎利(仏骨)奉安のためのものであったが、後に転じて墓標となっている。
藤原末期から作られ、鎌倉時代に盛んになった。中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年(1323)に亡くなった成真大徳という僧侶の墓であることが判明したと云う。本県の場合、中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものは珍しい。県指定有形文化財に指定。
墓地には、内膳堀を造った植田内膳の墓がある。

お地蔵さん


次回は伊豆長岡、長浜・西浦方面に。

富士山 湧水の柿田公園

2013-09-23 | 富士山麓日記
県東部、駿東郡清水町に入る。西に沼津・東が三島で、街中央に富士山の大小10ヶ所に自爆湧水の柿田川がある。町名も湧水に由来する。
戦国時代は泉頭・徳倉の2城が置かれ、北条と武田の激戦地になっている。
三島市の発展で清水町もその延長部分となっている。
今は、工場が多く、沼津の卸商団地、徳倉団地とベッドタウン化している。 


「白隠の遺墨」が、白隠慧鶴は江戸時代中期に、“駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠”と言われ、分かりやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧。
玉井寺に残された白隠の遺墨は三界萬霊等二点と山号・金龍山及び寺号・玉井寺等であり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で大変貴重である。(数か月前渋谷文化村で白隠の水墨画の展示を掲載した。沼津-吉原の中間原町を予定しています)

白隠上人は、東海道原宿場で詳しく
    

金龍山「玉井禅寺」禅画、東海道田子の浦「白隠禅師」の関係寺という。

達磨の禅画は、世界に知られている。


昭和50年代まで荒廃に任せるままであったがという。昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されている。
百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。 元亀2年(1571年)創建という古寺。

宝池寺一里塚


「市内の一里塚」

宝池寺一里塚は、向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれ、江戸日本橋から29番目に当たり、昭和60年復原。
宝池寺側には立場があり人夫が駕籠など留めて休息できる場であったと伝えられている。

玉井寺一里塚は、1604年、江戸幕府が交通政策上の重要施策として、四キロメートル(一里)毎に道路の両側へ、高さ1メートル、9メートル平方の塚を築き、上に榎(えのき)を植えさせた当時の里程標の一つ。
一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。
こちらは原形を改修してあるという。

    

「柿田川公園」は、昭和61年、「自然の保護・保全」と「コミュニティー広場の確保」を目的に町民の憩いの場として柿田川の上流部に開園
園内の第1・第2展望台からは、年中変わることなく水が湧き出る「わき間」を見ることができ、湧水広場では実際に水に足を入れて湧き水の冷たさを体験できるので、子供・家族連れが多い。
国指定天然記念物の柿田川を眺めながら散策できる遊歩道が整備されている。

富士山の湧水が滾々と


東洋一の大湧水群が湧き出る様子が見られる、-柿田川湧水群-。富士山の雪解け水が、長い年月を経て、ここ柿田川に涌き出ます。



柿田川の日100万トンの水量すべてが湧水、公園内は、貴重な動植物の生息地として知られ、約35万人の飲料水として利用されている。
ミネラルウォーターが水道から出てくる、日本有数のすばらしい地下水。

公園内の「貴船神社」
  

柿田川は、延長ー1.2 km短く、合流先は、狩野川へ。県駿東郡清水町を流れる狩野川水系の一級河川。約1.2kmは、日本で最も短い一級河川である。
かつては泉川、周辺地域は、泉郷と呼ばれていた。大量の湧水を水源とする日本でも稀有な川である。
本河川は、長良川・四万十川とともに日本三大清流に数えられている。
1985年(昭和60年)柿田川湧水群として名水百選に選定された。
さらに国の天然記念物にも「地質鉱物」の枠で指定、これは民間の企画であるが、日本の秘境100選にも選定。

雑木林には、いろいろな昆虫              夏になると涌出水が増すと聞く
    

「駿河志科」(1861)によると、夏には益々湧出溢れるがこれは富士山の雪解けの水であって、地中をくぐって出てくると里人は言っているがそのとおりであり、柿田と言う地名がつけられたのは里の老人の話として、この地は用水に不足し乾き田であったことから「カキダ」といっていたが、後に柿田の文字に変えたと記している。

    

「水生生物」は、安定した水温と水量が保たれているため生物にもその影響が現れている。
沈水植物には珍しい種類があり、春秋に水中や水面に淡黄色の梅花に似たミシマバイカモのほか、多年草のセキショウモ、フサモ、ヤナギモ等である。魚類は流域によって種類が変わり、清流ではウキゴリ、カジカ、アユ、アマゴ、濁りの在る所ではウグイ、ヘラブナ、アブラハヤ等が生息。
川底にはヌマエビ、スジエビ、テナガエビ、モズクガニ等の甲殻類が生息している(清水町調べ、1981)。



公園は、国道1号線沿いにある。一歩中に入ると、公園としても、芝生が広がる広場、園内に引かれた水遊び用の水路、2つの大きな湧水群と、きれいな水と空気の中をあるく遊歩道が続く。 遊歩道を歩きながら、小規模の湧水が、



「柿田川」は、清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、清水町役場付近で狩野川に合流する。
流水はほぼ全量が湧水から成り、これは富士山への雨水や雪どけ水が三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである[1]。清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。流量も年間を通してほぼ一定を保っている。当河川特有の水中植物としてミシマバイカモが自生している。
豊富な湧水を求めて工場が進出、排水のたれ流しにより水質が悪化し、魚も住めない状態になった。
1970年代には護岸のため、部分的に川縁がコンクリートに覆われるなどしたが、1980年代には地元有志によるナショナルトラスト運動が始まり、工場の移転運動や清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境が残されたという。

柿田川


柿田川脇に、1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経 二百萬遍供養塔」がある。
左右三基の石碑を合わせて「柿田川三石碑」と呼んでいると云う。
架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、地震、水害などで犠牲者が出たのであろう、その供養塔であろう。

柿田橋から
    

次回は、源頼朝・北条政子ゆかりの三嶋大社へ。