syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

真鶴 三石の冬花と不動滝

2014-01-30 | 気まま旅
真鶴海岸の突端三石に喫茶店が出来た。前にも来たことがあるがせっかくの景色が残念な突端だった。

真鶴のシンボルともいえる、三ツ石海岸。浜辺から約200mに渡って続く岩礁の先に、3つの巨大な岩が顔を出しています。笠の形に似ていることから笠島とも呼ばれています。磯遊びにも適し、干潮時には岩まで歩いて行く事もできる人気のスポットです。半島に沿って海岸線を歩ける「潮騒遊歩道」もあります。


突端の喫茶店に咲く花々















 






奥湯河原の不動滝







江の島から真鶴

2014-01-29 | 気まま旅

「江の島」は、藤沢市南部、相模湾岸の境川河口にあたる島、境川の運ぶ土砂によってできた片瀬海岸との陸繋島である。
島の形が「江」の字に似ている。
新第三紀の凝灰岩、砂岩を基盤として関東ローム層に覆われれ、南岸に関東大震災(1923)のときに起した海食台がある。

「真白き 富士の嶺 緑の江の島」と歌われ風光明媚で、鎌倉と結んで湘南の観光地である。
裸弁天を祀る「江島神社」は、琵琶湖の竹生島、安芸の宮島の三弁天の一つ。江戸時代から庶民の参詣が盛んとなり、参道に門前町が発達し、
1877年E・モースが臨海実験場・1883年サムエル・コッキングが植物園を開設している。
展望台は、1951年に、64年ヨットハーバー、灯台、県の施設と賑やかになり、名勝の大橋で結び県指定史跡に指定。
面積ー0.38km2.周囲約4km。

片瀬東海岸


「歌川広重」が、江戸時代の江の島を描いている「相州江之島弁財天開帳参詣群衆之図」富士山・帆かけ船・緑の江の島・続々と群衆が
弁天堂を目指す絵である。
1964年オリンピック東京大会ヨット競技がここ江の島で開催されていうる。日本で初めての競技用ハーバー、約1000隻収容できる。

ダイヤモンド富士・パール富士と富士見スポット江の島、今日は大荒れの大雨


モース記念碑公園、大森貝塚発見者のエドワードSモース博士は、江の島に東洋初の臨海実験場を開設し、江の島に一カ月滞在し
海洋生物の研究。我が国の海洋生物学の発祥地である。

北緑池・オリンピック記念噴水池・モーズ記念碑が


小田原馬車鉄道(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していたため、それと連絡する形で当初は普通の鉄道を敷設しようとしたが、資金が集まらなかったため事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で
「豆相人車鉄道」を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。

原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えている。

1907年当時
路線距離:小田原(早川口) - 熱海間25.3km、 駅数:14、 複線区間:なし(全線単線)、 電化区間:なし(全線非電化)、 動力:蒸気機関車、全線の内13kmは熱海街道との併用軌道になっている。

1895年頃の「豆相人車鉄道」に、坂口駅跡があったのであろう?。

江ノ電「江ノ島駅」前に坂口駅跡が
  

吾妻鏡によれば源頼朝は、1182年奥州平泉の藤原秀衡を調伏する為、京都高尾神護寺の「文覚上人」に命じて
「弁財天」を岩崖に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進した」とある。(江島神社・展望灯台、奥津宮の鳥居)

江ノ電「江の島駅」               龍燈           門前街の青銅の鳥居
    

明治期の江の島俳壇「永野泉山」の句(碑もある)

                       「明治子に もどることしや いわひきぬ」

                       「住みなれて 居てもすずしや 島の月」
「江島神社(辺津宮)」
島には、三つの宮が、辺津宮・中津宮・奥津宮を総称して江島神社と呼ぶ。宮にはそれぞれ、海の守護神である女神が祀られている。
 
「辺津宮」は、その本社で、田寸津比貴命が祀られ、1206年に僧 良真が荘厳な社殿、「辺津宮」したと云う。
現在は、1976年に改築されている。
                        
仲見世通りを抜けると赤鳥居・瑞心門・杉山検校の墓と検校がつまずいた福石・道標。検校は管鍼術考案する
    

中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、我が国には密教曼荼羅の中の唐獅子か9世紀に渡来し定着、
以後仏法のみならず邪悪なものを退け国家鎮護を祈念する形代として飾られるようになる。

瑞心門唐獅子は、御祭神の守護とあわせて参拝者の厄災なきことを祈願している。

瑞心門と唐獅子が迎える
    

「八坂神社」は、京都の八坂神社と同様に、祇園精舎の守護神牛頭天王を祀る社。毎年7月中旬に行われる「神幸祭・江の島天王祭」は、
ここ八坂神社と腰越の小動神社の神輿が、海上渡御を行われる勇壮な祭りで、県祭りの50選にも選ばれている。

「奉安殿」裸弁財天・妙音弁財天・八臂弁財天。
安芸の宮島、近江の竹生島と並び三大弁財天の一つである。七福神の紅一点としても人々の信仰を集めている。鎌倉時代には、戦勝祈願
八臂像、江戸時代から芸能・音曲の上達祈願二臂像と進行目的が変わってきていると云う。

裸弁財天
「さながらに 生きるが如く 見まつりぬ 御神ながらも 肌ゆたかなり」沼田頼輔の歌碑。与謝野晶子は、長谷大仏の美男賛歌と好一対を
さしていると評されている。 

八坂神社・辺津宮・奉安殿・石碑、古碑・境内などが
    

「荒井城址公園」は、真鶴駅近くにあるかつて荒井城があった城跡を公園に整備した場所。
荒井城は、後三年の役 1083年に源義家の配下であった荒井実継の本拠地だと言われているが、その後鎌倉幕府の時代には、荒井氏に代わり源頼朝に仕えた湯河原の有力御家人である「土肥氏」の持ち城。
戦国時代には後北条氏の烽火(のろし)台として機能していたと伝えられている。

城址とは言うものの、城跡を彷彿とさせる跡はほとんど無く、空堀と呼ばれる跡が辛うじて残るのみとなっている。

真鶴駅から徒歩5分程度           公園入口                  園内へ
    

「土肥 実平」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
桓武平氏良文流中村宗平の次男。小早川氏の祖とされる。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。(現在のJR東海道本線「湯河原駅」から城願寺城山の辺りが居館)

案内板                  土塁・堀                     公園中央の広場
    

真鶴海岸・漁港。                 江戸城の石はこの港から


           石橋で敗れた源頼朝等が逃げ込んだ真鶴港
    

1180年石橋山で敗れ隠れた「岩窟」真鶴港波打ち寄せていたとある
    

「うたい坂」は、、源頼朝が石橋山の合戦に負け敗走中に、土肥実平が無事を祝い再起を願って、うたい踊ったのに由来するという。
そして、坂を下り道祖神と石碑の前を通り過ぎると、目的の岩海岸が現れる。
源頼朝は、最終的にここから船に乗り房州(千葉県)まで逃れたという。

「岩海岸」は、入江のような地形になっていて、中央部は砂浜があるものの、左側は岩場、右側は漁港になっている。
正面には、「かながわの橋100選」にも選ばれた岩大橋が架かっている。

「土肥実平」は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となる。
富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられている。
土肥氏と西国との関わりはここに始まり、平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けた。

湯河原城主土肥実平は頼朝の再起を祝い踊り謡ったとある
    

「源頼朝船出の浜」は、石橋山の戦いに敗れ、1180年8月28日房総に船出した浜が、ここ岩海岸である。
夏は、海水浴場で賑わう。

岩海岸から千葉県房総に
 

次回は、真鶴三ツ石冬の花へ 。

義経ゆかりの寺 萬福寺

2014-01-27 | 気まま旅
「源義経」1159-89 義朝の九男、鞍馬寺脱出し、奥州平泉「藤原秀衡」の庇護を受け、頼朝挙兵を知り参加した。
平家討滅の大功をたてるが、頼朝の許可なく任官し怒りをかう。
ここ腰越まで面会を求めたが対立、九州と舟を出さが難破、再び藤原秀衡を頼る。秀衡死後、子泰衡に襲われ自殺した。
義経が屋島を攻めた時、梶原景時が、「関東武士船戦不慣れ、逆櫓を付よ」と進言するが、義経は、暴風を追い風にして一気に四国へ、
景時は、「義経を将の器に非ず」と、見たと云う。
義経平泉から北海道へ逃げた説もある。

「満福寺」鎌倉市腰越、山号ー龍護山、真言宗大覚寺派、本尊ー薬師如来。744年に行基が開いたといわれる古刹である。
札所等ー新四国東国八十八箇所84番。文化財ー義経・腰越状など。
江ノ島電鉄の腰越駅を降りて海岸側に約250メートル行き、踏切を渡った所にある。

満福寺(階段手前が江ノ電踏切)


1185年、義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。有料。

山門                              本堂


境内には「義経公慰霊碑」が今も残されている。腰越状は、「吾妻鏡」に全文が残されており、名文としてしられている。
弁慶が水を汲んだといわれる硯の池、腰を下ろしたという腰掛け石や手玉石などがあり、本堂にはこの故事にちなんで義経の生涯を描いた
襖絵がある。襖絵は、鎌倉彫と漆絵の技術を組み合わせたもので32面、
4月中旬に開催される鎌倉まつりでは、義経祭として”静の舞”や慰霊供養も行われます

鐘楼               薬師如来像                        境内に


鎌倉が古代から地域政治の中心として栄えていた事や、三浦半島を経由し海路で房総半島へ向かう古代の海道が腰越を走っていたらしい事が考古学の分野から判明しており、「腰越」は、古代から宿駅(腰越駅)として栄えていたと推測。

江戸時代初期、腰越一帯は江戸幕府の代官がおさめる直轄地だったため代官がおかれ、村の政務一般に関する業務は実質的に土地の
土豪島村氏が代わりに取り仕切っていた。
しかし島村氏は苛烈な徴税をはじめ、数々の横暴をおこなったため、多くの村民が島村氏の支配に反発、このため一部の村民が村の分離を幕府に訴えた。
その後1666年に幕府は腰越を村とし、腰越村と津村の二村にわかれたと云う。

             龍口寺の三門前


「日蓮」1222-82 日蓮宗開祖、安房「清澄寺」で出家、法華仏教至上とし浄土教を批判、鎌倉へ出て「立正安国論」を書く、北条時頼に
出すが無視、伊豆へ流される。主張を強め他宗からにくまれ佐渡へ流される。
佐渡へ流され前、ここ竜の口で、役人に切られようとした時、雷鳴と稲妻が走り、刀が折れ、命が助けられたと云う。
日像が京都で長年努力し、妙顕寺が勅願寺とされる。日蓮は、湯治途中病で池上で没した。

「龍口寺」は、藤沢市片瀬、山号ー寂光山、日蓮宗、本山・霊跡寺院、本尊ー日蓮聖人像、創建年ー1337年、開基ー日法

札所等ー日蓮上人霊跡。

     山門の額                          金剛力士像


刑場跡で、1271年に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では「龍ノ口法難」とある。

1337年に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが
龍口寺の始まりと伝わる。
本格的な寺としての格式を整えたのは、腰越・津 、日蓮宗の信奉篤い島村采女が、1601年に土地を寄進して以来のこととされている。

彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つ。


本堂は、1832年竣工。
法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため、敷皮堂ともよぶ。木造欅造り。  

                       本堂


鎌倉での日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結び、小町大路を中心に辻説法を行い、
「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として、他宗を厳しく批判する。
(妙法寺、安国論寺、長勝寺が日蓮の旧跡に建てられたとしているが、その場所は定かではない。)。
1260年「立正安国論」を、時の権力者「北条時頼」に提出。
「立正安国論」では、天変地異や疫病は、法然の念仏宗や禅宗などの邪宗を信仰するからであるとし、法華経を信じなければ、
「他国の侵攻も受ける」などの批判を行っている。

                 日蓮上人の苦難場所


五重塔 明治43年(1910年)竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。建造には竹中工務店が携わった。 

日蓮像                      貴重な五重塔


1264年、伊豆流罪を許された日蓮は、一度故郷(千葉県鴨川市)へ帰るが、その際、小松原というところで、
念仏信者である地頭の東条景信に襲われ、額を斬られ、左手を骨折するなどの重傷を負った。

このとき、弟子の鏡忍房日暁と信者の工藤吉隆が殺されている。

龍口寺に隣接                 龍口神社無人


次回は、江の島へ。

北条政子の名演説 

2014-01-26 | 気まま旅

山々を切り開いて通路した道「切通」、三方が山に囲まれた鎌倉の交通要路であり、軍事的な防御の要であった。「切通七口」は、
仮粧坂 -鎌倉駅徒歩20分、むき出しになった岩肌、曲がりくねっている道。
亀ヶ谷坂ー北鎌倉駅15分、亀も引き返したと云う亀返り坂とも云う。
娯楽寺坂ー娯楽寺駅3分、現在は拡張され舗装に、娯楽寺開山「忍性」が開いたと伝わる。
大仏切通ー長谷駅15分、藤沢、武蔵に通じている要路、圧巻。
巨福呂坂ー八幡宮裏、山ノ内へ抜ける、現在新道に旧道は通れない。
あさいな切通ー鎌倉駅からバス「十二所神社」防衛上、重要な鎌倉の生命路。
名越切通ー鎌倉駅バス逗子方面「緑が丘」外敵を防ぐ為の置石がある、房総方面の要路。谷を鎌倉では、「やつ」と読む
例)おおぎがやつ扇ガ谷

「北条政子」の名演説、(吾妻鏡)
 
(訳)皆、心を一つにして聞きなさい。これは、私の最後の言葉です。源頼朝殿が、平家一門の朝敵を滅ぼし、ここ、関東にわれわれの幕府を作った。それ以来、皆の官位は上がり、収入も増えた。それもこれもすべては頼朝殿のお陰である。その恩は山よりも高く海よりも深い。
しかし、今、その恩を忘れ、天皇や上皇をたぶらかす者があらわれ、朝廷より理不尽な幕府討伐命令が出された。
「名こそ惜しむ者」は、朝廷側についた藤原秀康・三浦胤義らを早々に討ち取り、三代に亘る源氏将軍の恩に報いなさい。
さあ、もし、この中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、今すぐ名乗り出なさい。・・・・・。

演説は「承久の乱」の時、京都の朝廷から北条義時討伐の院宣(上皇の命令)が出され、動揺している御家人に、北条政子が演説した。

「承久の乱」とは、鎌倉時代の1221年に、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府に対し(正式には鎌倉幕府の執権・北条義時(政子の弟)に対し)、討伐命令を全国に出したことに始まる争乱である。

結果的に武家政権の鎌倉幕府が勝利し、後鳥羽上皇は壱岐へ、順徳天皇は佐渡へ配流された。これによって武家政権は完全に確立され、朝廷をも支配した。

材木座・滑川・由比ヶ浜・仏法寺跡・稲村ヶ崎・七里ヶ浜・小動岬(神社)・腰越海岸・江の島と続く「湘南海岸」


「寿福金剛禅寺」は、市扇ヶ谷、山号ー亀谷山、宗派ー臨済宗建長寺派、鎌倉五山三位、本尊ー釈迦如来、創建年ー1200年(正治2年)
開基ー北条政子、栄西(開山)。

札所等ー鎌倉三十三観音24番・ 鎌倉二十四地蔵18番・ 鎌倉十三仏4番(普賢菩薩)

文化財ー木造地蔵菩薩立像(鎌倉国宝館に寄託)・銅造薬師如来坐像・喫茶養生記(重文)

「寿福 金剛禅寺」              北条政子・三代将軍実朝 菩提寺


創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年頃と推定されている。
1247年に火災にあい、1258年の火災では一宇を残さぬまで焼失している。
これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。

寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺。
鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院であると云う。

                 本堂(寺院内立ち入り禁止)


総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ禅寺様式。
仏殿は1664年の再建である。

禅寺の雰囲気が                 「鐘楼」

境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、

北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。

(総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない)

「やぐら」
山中の斜面部に多く四角形の穴をあけた洞穴で、羨道と呼ばれる入り口を経て、玄室と呼ばれるやぐら内部に至る。
その大きさは、一辺1m - 5mで、大体直方体の形をしている。
鎌倉時代のやぐらは、羨道を持つが、室町時代のやぐらは入り口から直接玄室となっていることが多い。
多くやぐらの入り口(鎌倉期のやぐらであれば、羨道の入り口、羨門(せんもん))には木製の扉がつけられていたようで、いくつかのやぐらには扉をつけた痕が残っている。

やぐらと石塔                    政子と実朝の母子の墓


重要文化財ー 木造地蔵菩薩立像-鎌倉時代の作。鎌倉国宝館に寄託。 銅造薬師如来坐像-鎌倉時代の作。神仏分離の際、鶴岡八幡宮から移されたもの。 喫茶養生記

県指定文化財ー 木造栄西禅師坐像。その他ー 釈迦三尊像-仏殿の本尊。中尊の釈迦如来坐像は、高さ2.7メートル。
室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。

                       源氏山裏手の崖に、 鎌倉時代の墓


三重県・千早城・元弘の乱」は、1331年に倒幕計画が発覚すると、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応した。
鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰されたが、正成は翌年にも千早城に拠り抵抗を続けた。

幕府方は、上下赤坂城を落とした後、楠木正成の1,000人の兵が守る千早城を大軍で包囲。
古典「太平記」は幕府方の兵力を「100万」と記している。わずか1,000人の兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放った、などの奇策を使ったからだといわれる。
地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったという。

幕府は、有力御家人足利尊氏や新田義貞の離反を契機に滅亡した。楠木氏は後醍醐天皇が開始した「建武の新政」に重用されている。

                   今日は大雨で海も荒れていた


「新田義貞」1301-38 足利尊氏との抗争で討死。
義貞は、鎌倉攻略で、ここ稲村ヶ崎に兵を進めたが、敵が天険し兵を進められずにいた。そこで、義貞は、竜神に祈り太刀を海中に投げ入れ
「潮を万里の外に退ヶ給え」と唱えると、海は干潟となり、鎌倉を攻略できたと云う。義貞は引き潮の頃合いを見てと云う。
義貞の遺児義顕・義興も南朝方に尽くしたが共に悲劇的最期を遂げている。
上野国新田荘・現在の群馬県太田市周辺を開発。執権 北条高時は、自害する。(870余人が旅路を共にしたと云う)

                若者たちの姿も大荒れでいない


次回は腰越方面へ。 

鶴岡八幡宮 大銀杏の新芽

2014-01-24 | 気まま旅

「畠山重忠」 1164-1205 剛勇廉直典型的鎌倉武士、秩父一族の重能の子、母は三浦義明の娘、父は平家方で衣笠城攻めで義明を自害させている。間もなく源頼朝に従い、平家追討戦で武功を上げる。
頼朝上洛の際、先陣となって御家人最大の名誉に輝いている。二度目の妻は、北条時政の娘で、畠山重保が生まれている。
重保は、時政の後妻「牧方」」の娘婿「平賀朝雅」と口論し、その後、時政夫妻は、畠山重忠・重保父子討滅を企てた。
鎌倉に呼ばれ、重保討たれ、重忠も百数十騎を率いて鎌倉へ向かうが北条義時軍に討たれる。畠山一族全滅。

埼玉、寄居の「畠山重忠公史跡公園」
埼玉県の 鎌倉街道上道の寄居町塚田から北東へ3キロほど行ったところに 畠山重忠のゆかりの地がある。
川本町畠山は、地名の通りに畠山重忠の生まれた という館跡がある。現在重忠公史跡公園に。

鶴岡八幡宮に近い
    

「源頼朝」 1147-99  鎌倉幕府初代将軍、武家社会の創始者、源義朝の嫡男、母は、熱田大宮司藤原季範の娘。義朝は、「平治の乱」で
緒戦勝利するが平清盛に敗れ殺され、頼朝伊豆へ流される。20年流人生活、以仁王の令旨を受け挙兵する。
伊豆の目代・山木兼を討つが、石橋山の戦いで大庭景親に敗れ房総に逃げ、ここで、武士を集め鎌倉に入り、「富士川の戦い」で平家方を
敗走させ、常陸・佐竹氏を討って関東を固め「後白河院」より支配権を獲得し、弟範頼・義経を代官とし軍勢を派遣する。
木曽義仲と平家一族を滅亡させた。挙兵後10年、後白河院が崩れ「征夷大将軍」となる。
落馬・暗殺で死亡説。

「北条政子」1156-1225 頼朝の妻・北条時政の娘、二男二女を生む、長男「頼家」将軍・政子尼、弟義時と北条権力拡大、13人合議制に
頼家は無視し、妻方比企氏と北条氏と対立するが破れ、弟次男「実朝」を将軍にし三代目となる。

白旗神社の所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂が, 頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていた。
     

「頼朝までの源氏」

奥州における戦乱 「前九年の役」 を平定した 源頼義 の狙いは、奥州の地に源氏の根を張ることでしたが、朝廷からは ゛伊予守" を授か
るだけという不本意な結果に終ってしまいます。

その 20年後、頼義 から子の 義家 の代のとき、またも奥州の地に戦乱が起きます。後に 「後三年の役」 と呼ばれている戦い。
陸奥守として下向した 義家 は戦いを平定し、父が成し得なかった宿願を達成しようとしますが、朝廷からは 「私闘への介入であり、恩賞
はない」 と。
義家 の陸奥守解任の報がもたらされ、憤激した 義家 でしたが、自分のために働いてくれた武士達のために、自腹を切って恩賞を与え、絶大な信頼を得ることが出来た。
東国における武門の棟梁 「源義家=源氏」 を大いに印象付け、後の 頼朝 にとって。

源頼朝の墓地
    

「鶴岡八幡宮」

1063年、本拠地とする河内源氏2代目の「源頼義」が、「前九年の役」での戦勝を祈願。
京都の石清水八幡宮護国寺・河内源氏氏神の壺井八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まり。

1081年に、河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復。

1180年、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、宮を現在の地である小林郷北山に遷し、社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備。

1191年に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請し、1208年には神宮寺が創建。

源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。
鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退、戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。
江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。
境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。

宮前は、三の鳥居      橋を渡ると源氏池・平家池が               舞殿
    

承久元年(1219)1月、鎌倉幕府三代将軍「源実朝」が甥の公暁に暗殺される。享年28歳。
公暁も北条義時に成敗される。享年20歳。

この日の鎌倉は、昼間は快晴だったのに夕方から雪が降り始めたといわれて、午後6時頃、鶴岡八幡宮で武士として初となる右大臣拝賀の儀式が行われる為、その準備を御所(幕府)で行っていた実朝の下に父・源頼朝以来の名臣である「大江広元(72歳)」がやって来て涙を流しながら「束帯の下に略式の鎧を着たほうがいいです」と訴えた。

広元は、“生まれた時と頼朝が亡くなった時以外は涙を流した事が無い”と噂されるくらいの武将だったので、その様子に驚いた実朝は広元の訴えを聞く事としたのですが、側に居た、文章博士(歴史の教授をする文官)の「源仲章」が、
「大臣大将に昇進する人が束帯の下に鎧を着たなどという前例はない」と反対。
準備が整った実朝は、自らの髪を一本抜いて御所内の庭で花を咲かせている梅を見ながら

                「出でていなば 主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
          例え主が居なくなっても、梅よお前は春になったら忘れず咲けよ」という意味の不吉な和歌を読んだ

やがて出発の時刻となり実朝が御所の南門から出立する時に白鳩が鳴きました。これも不吉な証とされていた。
御所の南門から鶴岡八幡宮の楼門までは700m程しか離れていないのですが、実朝の行列は約1000人、夕方から降り出した雪は2尺(60センチ)ほど積もり行列も遅れ、先頭が鶴岡八幡宮の楼門に到着してもまだ御所から出れなかった人々も居たと云う。
楼門に到着した実朝は、剣を持つ役の「北条義時」(実朝の母・北条政子の弟)と共に楼門をくぐろうとすると突然義時が精神に異常をきたしたので、剣持ちを「源仲章」に変更、義時はそのまま屋敷へ戻っている。・・・・・。

「大銀杏」
鶴岡八幡宮のシンボル。樹齢800年とも1000年余ともいわれていたが、平成22年3月、強風のために大銀杏は根元から倒れ、大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植。残る2つは境内に保存。

若い銀杏の木が確認。    三代将軍「実朝」は、大銀杏に身を隠していた「公暁」に暗殺された。
    

「源実朝」 1192-1219 源氏断絶、頼朝の次男、実権は母の北条家「時政」、和歌「金槐和歌集」を残す、右大臣拝賀の礼で暗殺。
公暁(二代将軍頼家の子)は、鶴岡八幡宮階段脇の大銀杏に身を隠していたと云う。

「舞殿」 源 義経 とその一行は、奥州平泉までの逃避行、その途中で、愛妾 静御前 は鎌倉方に捕まり、頼朝 より舞いを命じられます。

「吉野山 峯の白雪ふみ分けて 入りにしひとの あとぞ恋しき」 「しづやしづ しづのをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」

 このような舞台で、静 は歌いつつ舞ったと云う。「鶴岡八幡宮での静の舞」


「楼門」
大銀杏を左手に見ながら、長い階段を登ると、楼門。 楼門をくぐると豪壮華麗な 本殿 。
    

現在の祭神は3柱。「八幡神」と総称される。
応神天皇 第15代天皇・ 比売神・ 神功皇后 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母。
                        拝殿


国宝ー神服類と古神宝・刀剣武具・硯箱。重文ー建築物・一の鳥居(徳川家慶建立)・各末社・彫刻・古文書・境内と若宮大路の参道(段葛)
など多数ある。宝物殿や資料館(有料)

                     本殿を囲む楼門


「JR横須賀線」は、戦争中の日本海軍軍港都市の横須賀への連絡を目的に建設された路線。
戦時中には日本の多くの鉄道路線が不要不急路線として休止・廃止となり、後に金属供出にも応ずる一方、横須賀線は横須賀から久里浜までを延伸、物資不足の中レールを調達するために、すでに東海道本線の本線ルートから外れていた御殿場線を単線化し、その分のレールを転用したとされる。
このように戦前の横須賀線は軍事上の重要路線として、比較的短距離の盲腸線にもかかわらず、格別の扱いを受けてきた。

終戦後から、やっと湘南ライナーが通じ都市と近くなったが、それまでは、東海道線の大船駅で乗り換え、直線回数は少なく
「鎌倉駅」は、不便であった。

鎌倉から先の横須賀までは単線でホームも短く、利用者も少なかった。
鎌倉駅には、湘南海岸を走る、私鉄江ノ電が藤沢まで通じている。駅を出ると、すぐ「小町通り・若宮大路」に入れる。

                 JR横須賀線「鎌倉」駅



次回も、市内を。