志村三丁目、蓮根、西台、高島平、新高島平が三田線の終点,以前ここは、荒川沖積地帯の荒地であった。
高島平の歴史は江戸時代にまでさかのぼり、1841年(天保12年)、この地で砲術家「高島秋帆」が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。
その後、長らく「徳丸ヶ原」と呼ばれる農作地だったが、1956年(昭和31年)に同地域330ヘクタールを日本住宅公団(現在の都市再生機構)
が買収して一大団地を建設する計画を進め、同時に東京都が都心に直結する交通機関(都営地下鉄6号線、現在の都営地下鉄三田線)を整備し。
1969年(昭和44年)高島秋帆にちなんで「高島平」と改称された。
志村城、赤塚城と、板橋区北西の地域古くは、松月院古墳の荒塚がなまって赤塚となったとも言われている。美術館、諏訪神社、公園は赤塚城の跡地に出来たもの。
赤塚溜池公園の南に室町時代中期の千葉氏の居城があり、空堀跡が残っている
千葉常胤 1118-1201 鎌倉幕府草創の筆頭御家人 東海道大将軍 平家追討戦功 下総守護
「赤塚溜池公園」都立赤塚公園の赤塚城跡に隣接。板橋区立の公園。公園内には樹齢30~40年の梅が約200本ほど、梅の開花のシーズンには
毎年「梅まつり」が開かれ、琴の演奏などいろいろな出し物も催される。公園の一番の特徴は、釣り人の絶えない公園。
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「赤塚村社諏訪神社」は、 信州の諏訪大社の分霊を勧請して文明年間(1469~1487)に 千葉自胤が赤塚城の鬼門除けのために建てられた神社として
創建したと伝えられる。鳥居を潜ると朱塗りの随身門、本殿の前には左右に銀杏の巨樹がある。夫婦銀杏と呼ばれている。
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本殿に、鰐口(わにぐち・参拝者が鳴らす円盤状の鈴)が三つある。 一柱は千葉介自胤が信州から分霊を勧請した諏訪神社、もう一つは日本武(やまとたける)を祭った御嶽神社、 そして建速須佐之男を祭った須賀神社のご神体だと判断すれば、須賀神社を合祀した。
松竹梅といわれるように、竹は慶事を象徴するめでたい植物。中国では梅・蘭・菊と竹をあわせて四君子と呼ばれ、草木の中の君子として称えています。青々とまっすぐ伸びる竹は清浄な植物として神事にも重用されている。
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「板橋区立美術館」
建物は昭和46年3月に板橋区が「教育と文化の森」構想において赤塚城址に計画されたもので、当初は美術館ではなかった。
のち昭和52年12月に美術館へと計画が変更となったものである。
昭和56年より「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」を毎年開催しており、夏の恒例展覧会として著名。また、
毎年秋頃に、「江戸文化シリーズ」と江戸時代の美術の企画展が行われる。
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「赤塚城」1456年。市川城から移った千葉自胤によって築城されたと伝えられる。
伝承によればそれ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸を通過した際に立ち寄ったとも言われている、
赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍したが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、
千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になった。
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赤塚不動の滝(赤塚不動の滝前の案内板より)
かつて、板橋区内にある崖下からは、いたるところで湧水がみられ、人々の生活に潤いをあたえてくれていた。
この滝もその一つで、山岳信仰が盛んとなった江戸時代の中ごろより、富士山・大山などの霊山に発拝する際、出発に先だち地元の人たちが
ここで身を清める“みそぎ”場として使われていた。崖上にはこの滝の守護神ともいえる不動尊石像が祀られている。
昔は滝つぼの前に垢離(こり)堂が設けられていたという。この滝水はいかなる時でも涸れることがないと伝えられるが、
周辺の宅地開発にともない水量は減少している。
それでも、自然の豊かだった時代をほうふつさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られている。
どこに水が流れているかわからない?
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次回は東京大仏へ。
高島平の歴史は江戸時代にまでさかのぼり、1841年(天保12年)、この地で砲術家「高島秋帆」が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。
その後、長らく「徳丸ヶ原」と呼ばれる農作地だったが、1956年(昭和31年)に同地域330ヘクタールを日本住宅公団(現在の都市再生機構)
が買収して一大団地を建設する計画を進め、同時に東京都が都心に直結する交通機関(都営地下鉄6号線、現在の都営地下鉄三田線)を整備し。
1969年(昭和44年)高島秋帆にちなんで「高島平」と改称された。
志村城、赤塚城と、板橋区北西の地域古くは、松月院古墳の荒塚がなまって赤塚となったとも言われている。美術館、諏訪神社、公園は赤塚城の跡地に出来たもの。
赤塚溜池公園の南に室町時代中期の千葉氏の居城があり、空堀跡が残っている
千葉常胤 1118-1201 鎌倉幕府草創の筆頭御家人 東海道大将軍 平家追討戦功 下総守護
「赤塚溜池公園」都立赤塚公園の赤塚城跡に隣接。板橋区立の公園。公園内には樹齢30~40年の梅が約200本ほど、梅の開花のシーズンには
毎年「梅まつり」が開かれ、琴の演奏などいろいろな出し物も催される。公園の一番の特徴は、釣り人の絶えない公園。
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「赤塚村社諏訪神社」は、 信州の諏訪大社の分霊を勧請して文明年間(1469~1487)に 千葉自胤が赤塚城の鬼門除けのために建てられた神社として
創建したと伝えられる。鳥居を潜ると朱塗りの随身門、本殿の前には左右に銀杏の巨樹がある。夫婦銀杏と呼ばれている。
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本殿に、鰐口(わにぐち・参拝者が鳴らす円盤状の鈴)が三つある。 一柱は千葉介自胤が信州から分霊を勧請した諏訪神社、もう一つは日本武(やまとたける)を祭った御嶽神社、 そして建速須佐之男を祭った須賀神社のご神体だと判断すれば、須賀神社を合祀した。
松竹梅といわれるように、竹は慶事を象徴するめでたい植物。中国では梅・蘭・菊と竹をあわせて四君子と呼ばれ、草木の中の君子として称えています。青々とまっすぐ伸びる竹は清浄な植物として神事にも重用されている。
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「板橋区立美術館」
建物は昭和46年3月に板橋区が「教育と文化の森」構想において赤塚城址に計画されたもので、当初は美術館ではなかった。
のち昭和52年12月に美術館へと計画が変更となったものである。
昭和56年より「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」を毎年開催しており、夏の恒例展覧会として著名。また、
毎年秋頃に、「江戸文化シリーズ」と江戸時代の美術の企画展が行われる。
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「赤塚城」1456年。市川城から移った千葉自胤によって築城されたと伝えられる。
伝承によればそれ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸を通過した際に立ち寄ったとも言われている、
赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍したが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、
千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になった。
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赤塚不動の滝(赤塚不動の滝前の案内板より)
かつて、板橋区内にある崖下からは、いたるところで湧水がみられ、人々の生活に潤いをあたえてくれていた。
この滝もその一つで、山岳信仰が盛んとなった江戸時代の中ごろより、富士山・大山などの霊山に発拝する際、出発に先だち地元の人たちが
ここで身を清める“みそぎ”場として使われていた。崖上にはこの滝の守護神ともいえる不動尊石像が祀られている。
昔は滝つぼの前に垢離(こり)堂が設けられていたという。この滝水はいかなる時でも涸れることがないと伝えられるが、
周辺の宅地開発にともない水量は減少している。
それでも、自然の豊かだった時代をほうふつさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られている。
どこに水が流れているかわからない?
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次回は東京大仏へ。