syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

高幡不動・多摩動物園 多摩川散歩ー(4)

2015-12-31 | syu散歩
「京王線・高幡不動駅」下車

「高幡不動尊」
真言宗智山派ー別格本山、「高幡山明王院金剛寺」
高幡不動尊として親しまれ、古来関東三不動の一つ。

大宝年間の701年、以前の創建とも奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられている。
1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置
したのに始まる。3万余坪の境内に重文の不動堂・仁王門・壮麗な五重塔・勅願所の風格を偲ばせる大日堂など二十数棟の堂々たる伽藍が建ち並び、
本尊の不動三尊像(重文)大日如来像をはじめ平安時代からの古文化財、寺宝が数多く収蔵。

      サクラ・アジサイ・紅葉など、四季が楽しめる。
    

「北条 氏照」1540-1590
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
北条氏康の三男。宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻まれた龍の印章を使用した。
北条氏の家中において「取次」の役割を多く担当し、諸勢力との外交・折衝に尽力。

「氏照の家臣・高幡十右衛門ー高幡城主?」
築城の経緯は不明。
享徳4年の1455年、分倍河原の戦いに敗れた上杉(犬懸)憲秋が高幡不動で自害していることから、この頃かこれ以降に
何らかの施設が築かれたものと考えられている。
戦国期には、後北条氏一族北条氏照の家臣高幡十右衛門が居城としていたとされるが、詳細は不明である。

城は、高幡不動尊の裏山、浅川と程久保川に挟まれた独立丘辺り、(史料こそほとんどないものの、山頂の本丸を中心にいくつかの
削平地や堀切、土塁の跡が見受けられ、中世城郭が存在したと云う。
後北条氏の手が入っているにしては単純な構造のように見えるため、恐らくは監視用の城の域を出るものではなかったものと思われる。

                   駅からすぐ仁王門
    

                      案内板


源頼家が「前九年の役(1051-62)」奥州征伐に向かう途中・戦勝祈願をしている。
軍旗を立てたと伝わる松が境内にある。
「仁王門・不動明王像」-室町期作。
昭和30年代に修復、屋根裏・造形は、14,5世紀の風潮が、

不動堂・五重塔を左手に見ながら奥に。
    

「大日堂ー平安時代の大日妙来像・江戸時代の阿弥陀如来像・飯縄不動像」
境内の奥まった所に「大日堂」がある。
大日堂は高幡山の総本山で、土方歳三の位牌もここに納められ、堂内には平安時代に造られた大日如来像が安置。
鎌倉時代様式の堂は昭和62年に終わった改修の際、復元されたものと云う。
公開されている鳴り龍天井は有名で、江戸時代の優れた彫刻等と、「後藤純男画伯」が描いた襖絵「桂林山水朝陽夕粧」も拝観できる。

後藤純男ー日本画家
昭和5年千葉県真言宗住職の家に生まれ、山本丘人師事・昭和63年、「高野山四季」奉納・平成11年、この襖絵を奉納している。
平成18年、76歳で「旭日小綬章」。
           江戸時代の天井画 鳴り龍・書画等
    

「土方歳三」1835-69 北海道の北の果てに散った新撰組副長・武蔵国多摩郡の農家に生まれる。
天然理心流剣術を学ぶ、近藤勇らと新撰組結成し副長として指揮する。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、宇都宮・会津・箱館
箱館戦争で旧幕軍陸軍奉行を努め、戦死。

大宝年間の創建とも伝えられる関東有数の古刹「金剛寺」。
不動堂、仁王門、丈六不動三尊像ほかの重要文化財をはじめ、寺宝多数。
新撰組ー土方歳三の菩提寺としても知られ、境内には明治時代に建てられた、近藤勇・土方歳三を顕彰した「殉節両雄之碑」。

          江戸時代の彫刻 土方歳三・新撰組関係者の位牌も
  

              徳川時代の貴婦人・鏡餅
  

              摩耶山の場ー市川左団次
  

「高幡不動尊大日堂本堂 鳴り龍」
大日堂本堂天井にある江戸時代に「中村岳蓮」の筆による墨絵の鳴り龍が有名。

縦540cm×横720cmの大作で、「龍の下で手を打つと妙音を発し、願い事が叶う」と 伝えられる。


「お鼻井戸とフジ の木」
お鼻井戸の由来は「建武二年の1335年、8月4日、夜の大風の為、不動堂が倒れた 折、不動尊像が落ちて鼻をついた所と伝へられる。」

お鼻井戸の左側にはフジの幹
    

紅葉・五重塔ブルーライトアップがある。

「程窪川」一級河川
川は上流部の一部を除き三面護岸・都市計画河川で川内に立ち入ることはできない。
都道155号線の「多摩テック入口丁字路」の右側付近に起点が有り、しばらく都道503号線のみと並走する。
このあたりは川というよりも用水路規模の流量で、多摩動物公園駅付近になると、多摩都市モノレール線が右方向から合流し、駅を過ぎてからは、
川幅が広がると同時に、道路・モノレールの左側に移り、谷間に沿って程久保地区一帯を通る。
「程久保橋丁字路」で道路・モノレールと別れ、京王電鉄動物園線をくぐった後、京王線をくぐる。線路をくぐってからは、
右方向に進路を変え、三沢地区一帯を通る。
このあたりから、最下流の落川地区付近まで、「左〜右〜左」と緩やかにカーブ、抜けると、ほぼ直線であり、

                浅川と多摩川に合流する。
    

「多摩動物公園駅」(都日野市程久保)-京王電鉄・多摩都市モノレールの駅
ー 高幡不動駅間は、京王動物園線と多摩都市モノレール線の併走区間になっている。


「モノレール」
昭和39年、 京王帝都電鉄多摩動物公園線(現・京王電鉄動物園線)の開業に合わせて駅開業し、平成12年。
多摩都市モノレール線の「多摩動物公園駅」が開業した。
京王動物園線との乗換駅となり、平成25年、 京王電鉄動物園線の駅に「京王れーるランド」の副駅名を導入。

多摩モノレール線開業前は、当駅が中央大学・明星大学の最寄り駅であった。
    

モノレール多摩動物公園駅徒歩約2分.   ¥600円
総面積52.3haの広大な敷地で、約180種類の動物と約130種類の昆虫を飼育する。ライオンを間近で見ることができる。
    

1958年5月5日の子供の日に開園。
恩賜上野動物園の分園として、上野動物園の約4倍の敷地を生かしている。
動物たちが自由に動く様を見せることを目指している。当時最新の無柵放養式展示を導入した動物園の1つ、丘陵地に作られたため起伏が多く、
展示動物同士の間隔が比較的広いため園内ではシャトルバスが運行。

都が直営から指定管理者制度により公益財団法人東京動物園協会へ引き継がれている。
  

オランウータンのスカイウォーク放飼場同士をタワーとワイヤーロープで結ぶ。
全長150mと世界最大級。2005年、エンリッチメント大賞 飼育施設部門大賞を受賞。
猛禽舎半円形の巨大ケージの中をオジロワシやイヌワシが自由に飛び回る。
アジアの山岳ゾーンユキヒョウ、レッサーパンダ、ゴールデンターキンを展示。
マレーバクの水辺水中を泳ぐマレーバクをガラス越しに観察できると云う。

    

モグラの家ガラスに入れた土や金網のトンネルでモグラの巣を再現。
日本最小の哺乳類、トウキョウトガリネズミも展示。
アジアの沼地コツメカワウソ、インドサイ、スイギュウ、水鳥の生息地を再現。
アジアの平原オオカミ、モウコノウマを展示。

    

ライオンバスサファリ形式によってライオンを見ることが出来る、日本国内の動物園における初の施設として有名。
サバンナ広大な放飼場でアミメキリン、グレビーシマウマ、シロオリックス、ダチョウ、ペリカンを混合展示。
チンパンジーの森高さ15mのタワーやUFOキャッチャー、自動販売機などチンパンジーの運動能力と知能を観ることが出来る。

コアラ館コアラを中心にフクロモモンガやハイイロリングテイルなどの有袋類を展示。
昆虫園・昆虫生態園。

    

次回は,多摩モノレールで空中散歩へ。

高尾 薬王院・多摩川散歩―(3)

2015-12-30 | syu散歩
秩父山地の東縁に位置する高尾山。
明治の森高尾国定公園に指定され、植物の採取、鳥類の捕獲も禁止。中腹には、数多くの建物や文化財を有する「高尾山薬王院」「サル園」
「野草園」や標高500mからの夜景を楽しめる山、山頂には、展望台や高尾ビジターセンターがある。
長さ1,697kmの東海自然歩道の起点であり、参拝客に、振る舞った「とろろそば」は、名物。
暖温帯系の照葉樹林帯(カシなどの常緑広葉樹)と冷温帯系の落葉広葉樹林(ブナ・イヌブナ・ナラ・ホオノキなど)・中間温帯林(モミ・ツガなどの針葉樹林)の境界に位置するため植生が豊かで、しかも都市部に近い割には比較的よく保たれている高尾山。
山は、元来は修験道の霊場で、「真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域」
高尾山という名前から真言密教の聖地の一つ・京都高雄山神護寺に見立てられたこともあり、天然の森林が守られてきた。
中世には、八王子城(慈護寺城)主北条氏康・北条氏照親子がこの山を保護し、氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に
残され、江戸時代にも幕府直轄領となり八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されていると云う。
その後も帝室御料林、国有林と常に保護されてきた。
明治以降、牧野富太郎をはじめ、多くの研究者により高尾山が最初の発見地として新しい植物が発表。
筑波山、房総半島、江の島まで眺めることができると云うが。
西側は、丹沢山地・富士山が。(八王子八十八景にも選ばれている)

高尾山には古くから天狗が存在しているとの伝説もある。
山頂から見て東側の地下には、ケーブルカーの下をくぐる形で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の「高尾山トンネル」(下り線(南から北方向)1348m、上り線(北から南方向)1329m)が南北に掘られ、南側には、高尾山ICが。

    

「高尾杉」
弘法大師が高尾の参道を登ってこられ、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。
ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたので、弘法大師は、傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと
「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、
枯れ木の跡に突き立てた。
するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な「千年杉」となりましたとさ。

    



「高尾山・薬王院 有喜寺」
山号ー高尾山・真言宗智山派 ・寺格ー大本山 ・本尊ー薬師如来・飯縄権現・創建年ー伝、天平16年(744年)・開基ー伝、行基、聖武天皇(勅願)

札所ー関東九十一薬師5番・関東三十六不動8番・ 多摩四国八十八箇所68番・ 東国花の寺百ヶ寺 東京8番
    

永和年間の1375 - 1379年、京都の醍醐寺から「俊源大徳」が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、
飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなる。

寺に伝わる「北条氏照」文書に拠れば、戦国期に高尾山は後北条氏当主「北条氏政」の弟「北条氏照」が高尾山一帯に広がる椚田郷を寄進し、
江戸時代には氏照文書を根拠に境内である高尾山を朱印地とする運動が。
    

「十善戒」
  不殺生(むやみに生き物を傷つけない)・不偸盗(ものを盗まない)・不邪婬(男女の道を乱さない)・不妄語(うそをつかない)
  不綺語(無意味なおしゃべりをしない)・不悪口(乱暴なことばを使わない)・不両舌(筋の通らないことを言わない)
  不慳貪(欲深いことをしない)・不瞋恚(耐え忍んで怒らない)・不邪見(まちがった考え方をしない)

           お釈迦様の教え「十善戒」が


    

    

文化財ー本社(権現堂)・大師堂・奥の院不動堂(都文化財)・木造不動明王及び二童子立像(都文化財)
木造地蔵菩薩立像(都文化財)等。

    

「大本堂」本尊ー薬師如来・中興本尊ー飯縄権現
薬王院の中心となる本堂で、薬師如来と飯縄権現を祀る。
現在の堂宇は、明治34年、建立。彩色は施されていないが、彫刻で装飾され、入母屋造である。

            堂内には護摩壇がある。


「弁財天」
日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。
弁天とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の
一柱である市杵嶋姫命と同一視される。
「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。
古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。

日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが異なる意味を持つ漢字であり、意味の上では、
「辯才(言語の才能)」を「辨財(財産をおさめる、財産をつぐなう)」で代用することはできない。
その一方、琵琶湖竹生島やその他各地には「辨才天」の名称も存在する。
戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」で代用することになったので、

現在は「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的である。
    

渡辺水巴の句碑。「白日はわが霊たまなりし落葉哉」水巴、1882ー1946年。
浅草生で、鳴雪・虚子に師事 俳句を専業とする俳人でホトトギスを代表する作家。

鈴木龍二の歌碑。「あはれかの八月二日の佛暁の 面影遠く 街復興す」 
八王子は第二次世界大戦の終戦間際8月2日未明、米軍B29による空襲を受け、市内全域が焦土と化し、それから20年経ち、
鈴木龍二が、ここ高尾山に登り、ここから八王子市街を望み見て感慨にふけり歌ったものといわれている。

碑が多数ある。

    

「八王子城ー高尾山・ハイキングコース」
八王子城・ 本丸・ 大天守・ 富士見台・ 狐塚峠・小下沢登山口・ 景信山・小仏峠・ 小仏城山・一丁平・もみじ台・ 高尾山。

                  2~3時間コース


「高尾たこ杉」
露出した根の形がタコの足に似ていることから、この名前が付けられ、なぜこのような根の形をしているかは不明。
かつてまだ参道が整っていなかった頃、参詣の人たちが参道がきついのに難渋していたため、山の天狗たちが道普請をはじめましたが、途中で大きな根を四方に張る杉にぶつかりました。そこで、天狗たちは明日にでも杉を引き抜こうと相談し、次の日の朝に来てみると、杉は根をくるくると縮めて、邪魔にならないようになっていた、という伝説が。

    

次回は、高幡不動へ。

高尾と浅川 多摩川散歩ー(2)

2015-12-26 | syu散歩
「浅川」
八王子市南西部の地名。旧町名。南浅川段丘上に位置し,甲州街道沿いの旧宿駅として発達。
史跡の小仏関跡や多摩御陵が、又、明治の森高尾国定公園、東部は、工業団地で、国鉄旧浅川駅が、「高尾駅」と改名。
初沢町、東浅川町、西と南は南浅川町、北は裏高尾町、廿里町(とどりまち)と接している。

町域は西浅川町を挟んで括れ、西浅川町より南側は山間部でー高尾山口駅附近の高尾町・落合地区、北側は、住宅地或いは商業地。
高尾駅附近の下宿・中宿・上宿となっている。

「高尾山駅・町」
日本百景に選定、ミシュランガイドで、最高ランクの“三つ星”の観光地に選出されている高尾山。(山は、世界一の登山者数を誇る)
高尾山へのルートの一つである甲州街道は、渋滞街道。
高尾町は、八王子市へ編入の際に大字が廃止されて設置された地名で、市への編入前は、都南多摩郡淺川町大字上椚田であったと云う。

「高尾・高乗禅寺」は、天平16年、 聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、行基により開山され薬師如来が安置されたと伝えられている古刹。
明治22年、 町村制施行により、神奈川県南多摩郡浅川村が成立し、明治34年、 国有鉄道浅川駅が開業、昭和2年、高尾山に ケーブルカー清滝駅 - 高尾山駅間が開業している。昭和36年、 浅川駅が高尾駅に。昭和39年、高尾山に、 エコーリフトが開業。
                昭和42年、 京王高尾線が開通、高尾山口駅開業する。
JR・京王「高尾駅下車
                        高乗禅寺


山号ー龍雲寺は、曹洞宗寺院。
寺は、片倉城主永井大膳大夫高乗(応永9年1402年寂)が開基。
臨済宗の名僧・法光圓融禅師峻翁令山大和尚が応永元年の1394年、創建、
その後、宗旨を曹洞宗に改め、1505年、通庵浩達大和尚が開山したという。
1592年、には寺領十石の御朱印状を拝領。

武相卯歳観音霊場四十八ヶ所18番、八王子三十三観音霊場19番。
    
高乗寺の縁起
高乗寺は、多摩地区の名刹寺院で、創建の峻翁令山禅師は、武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜っている。
法光円明国師と呼ばれた高僧名僧で、山田兜率山廣園寺、深谷常興山国済寺、児玉郡威音山光厳寺、渋谷古碧山龍巌寺などを開山している。
    

開創に関して、当時の片倉城主ー永井大膳太夫高乗公が深くかかわっており、高乗寺の寺名は此処に由来している。
永井家は、毛利家の系譜の降下であることから、寺紋は毛利家の紋と云う。
寺は、三多摩の曹洞宗の名刹で、都立高尾陣馬公園内に位置し多摩八大寺のひとつに数えられている。
池の前には、生まれ年干支守り本尊八尊仏が並び、霊園内の聖観音初沢観音が。
敷地内には山王神社社殿があり、毎年八月には祭礼が開かれる。

本堂には本尊に釈迦牟尼仏、両脇に文殊菩薩と普賢菩薩を安置・本堂隣接の大慈閣には、正面に十一面観音立像をまつり・奥壇には、
八王子三十三観音霊場第十九番札所と武相観音第十八番札所に指定されている秘仏三十三体観音像を安置されている。
12年に一度、卯年の四月に御開帳と云う。

    

                    本堂


「東浅川駅」52.0km(東京起点)・開業ー昭和2年 廃止ー昭和35年。皇室専用駅 (東浅川仮停車場と称した)
大正天皇の葬儀にあたり、浅川駅(現・高尾駅)より東1.1キロに造られた皇室専用の駅。
皇室大喪列車の終着駅として、1927年の昭和2年、に設置され、本来は設けられた当日と翌日(2月7・8日のみ使われ、大喪列車の起点であった
新宿御苑仮停車場とともに廃止される予定であったが、当駅だけは廃止されずにそのまま残り、しばらくの間天皇の霊柩車が据え置かれて一般の拝観に
供された。その後、皇族が武蔵陵墓地に参拝する際に、しばしば当駅が利用され、昭和26年、6月の貞明皇后の葬儀に当たっても、武蔵陵まで霊柩を運搬する経路として当駅が利用された。その後、皇族も自動車に乗るか浅川駅(現・高尾駅)で下車することが多くなり、次第に使われなくなった。
昭和35年、廃止された。

東浅川駅から武蔵陵墓地(多摩御陵)までは都道187号多摩御陵線で結ばれている。
    

浅川と云えば、
浅川地下壕がある。戦時中、高尾駅南にある金比羅山地下に陸軍浅川倉庫として掘られていた巨大な地下壕
1997年、浅川地下壕を戦争遺跡として保存ー平和資料館を建設するための運動が、
2014年3月、市民の長年の念願がかなって金比羅山が八王子市の市有地となりました。

浅川地下壕(普段は閉鎖されている)


戦時中の警戒警報を思い出した。
浅川地下壕を文化財として八王子市の指定史跡に。

2008年まで、毎年夏に手作りいかだによる浅川サバイバルレースが開催されていたと云う。
コースは八王子市役所]近くの鶴巻橋河川敷公園から高幡不動のふれあい橋まで全長11km。

    

浅川は八王子市と日野市を流れる川で、京王百草園駅付近で多摩川に合流。
川の周辺は住宅が密集し、河川敷だけは豊かな緑が残る。



川や河原、河畔林、湿地、都市公園、丘陵、高尾山や陣馬山などの低山、さらには高月の水田地帯等、変化に富んだ環境があり、両市を貫流する浅川は、当会の最大の探鳥場所となっている。
多摩川最大の支流である浅川は、八王子市の陣馬山にその源を発し、 幹川流路延長は30Kmで、途中南浅川、川口川、湯殿川などの支流を合わせ、
日野市落合付近で多摩川に注いでいる。
その流域面積は「156K㎡」に達し、流域の豊かな自然形成に大きな役割を果たしている。
浅川流域には多くの野鳥が生息し、四季を問わず探鳥を楽しむことができる。
200種をこえる野鳥を観察され、近年浅川流域では都市化が進み、また大規模な河川工事も行われ、その姿を変えつつあると云う。



「野草」
オオバコ(スモウトリグサ)・食べ方ー アクが少なく、天ぷら、油炒め、あえもの、サラダなど。薬効ーせき、痰、利尿、視力向上、蓄膿症、胃がん。

カキドオシ(カントリソウ)・食べ方ー天ぷら、あえもの、ひたしもの、酢のもの、サラダ、煮物、汁の実。薬効ー子供の癇の虫に効くとされる。
腎臓病、糖尿病、インポテンツ、胆石、たむし、水虫、血止め。

カラスノエンドウ(ピーピーマメ)・食べ方ーくせがなく、あえもの、炒めもの、天ぷら、みそ汁など。薬効ー血行をよくする。腫み、解熱、
内臓の働きを高める。



カワラヨモギ・薬効ー 消炎、解熱、利尿、駆虫薬で、発熱性黄疸、胆汁分泌促進作用。
クズ ・食べ方ー春先の3cmくらいまでの若葉や花、根を食べる。天ぷら、あえもの、炒めもの、根は葛粉や風邪薬の葛根湯となる。
薬効ー風邪のひきはじめ、発汗、解熱、頭痛、二日酔い。
スイバ・食べ方ー春から秋までやわらかい葉、茎を食べる。甘みそあえ、二杯酢、一夜漬、サラダ、お茶など。
      薬効ーたむし、いんきん、水虫、なまず、のどの渇き。
スギナ・ツクシ・食べ方ーツクシは、煮びたし、ツクシご飯に。スギナは、お茶やパン、うどんに混ぜて食べる。
      薬効ー下痢、便秘、肝炎、腎臓病、むくみ、膀胱炎、利尿、肋膜炎、タン、ぜんそく、リューマチ、関節炎、神経痛。
タンポポ・食べ方ー九分咲きの花と葉は春から夏が食べ頃。おひたし、サラダ、天ぷらなど。根は秋に太くなり、キンピラやお茶、コーヒーにして飲む。
      薬効ー強壮、健胃、肝臓、浮腫、ぜんそく、婦人

    

延長ー30.15 km ・水源ー陣馬山(八王子市)・河口・合流先ー多摩川(日野市)
浅川の産出ーメタセコイアの化石。新第三紀鮮新世のもの。国立科学博物館の展示。
都八王子市・神奈川県相模原市の境目にある陣馬山(857m)や堂所山(731m)に源を発し東へ流れ、日野市石田付近で多摩川に合流する。
日野台地と多摩丘陵(七生丘陵)に、はさまれて流れる。小仏峠を源流とする南浅川の合流地点(八王子市役所付近)より上流を通称として
北浅川と呼ぶ。八王子市楢原町付近(中央自動車道の架橋下付近)の流域では、メタセコイヤの化石や新種のハチオウジゾウの一部の化石が発見。



カワセミは多くはないがポピュラーで、居そうな場所で定点観察してないと出会う確立が低いという。
コゲラは、近年、住宅地の庭木や児童公園の樹木等でも良く見かけると云う。
カルガモは、一年を通して水辺に暮らす留鳥で春に雛鳥を連れて道路を横断し都市公園の池に向かう場面が。
ジョウビタキとルリビタキー 同じようなところに少し距離をとって暮らすという。



都市に残された貴重な自然環境という面から、護岸をコンクリートで固めてしまうのではなく、
ヨシなどの植物によって水の勢いを抑えて水質を浄化する取り組みなど、自然環境に配慮した対応も取られている。

    

八王子市は、太平洋戦争中、軍需工場や都内の学童たちの疎開先になり、浅川地下壕は、その八王子に掘られた大地下壕。
その規模は長野市の松代大本営地下壕と並んで日本最大級と云う。
東洋一といわれた軍用飛行機メーカー、中島飛行機株式会社の秘密地下工場として使われ、1997年に「浅川地下壕の保存をすすめる会」が結成され
現在、200人をこえる会員が、壕内の測量調査、地下壕見学会や講演会の開催、会誌、学習活動をつづけていると云う。

    

               日野市付近の多摩川
    

次回は、高尾山・薬王院へ。

八王子と浅川 多摩川散歩ー(1)

2015-12-23 | syu散歩
律令制が崩壊、荘園制が発達して関東各地で武士団が形成された平安時代後期。
武蔵七党のひとつ、横山党(武蔵七党系図筆頭)がこの地方に興った。
横山党は古代氏族小野氏の末裔である小野義隆が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町に名を残す横山荘に居館を構えて横山氏を称したのに由来。
横山党の一族には由木氏・田名氏・海老名氏・平山氏など八王子近辺の地名を名字とする武士がおり、その勢力が八王子市域一帯に広がっていた。
横山党の勢力は鎌倉時代に入ると「和田合戦」以降衰退し、13世紀にはかわって鎌倉幕府の重臣ー大江氏の一族であるー長井氏や、
執権北条氏の一族の支配が浸透。
室町時代に入り、15世紀になると関東管領を世襲した山内上杉家の被官で武蔵など関東数カ国の守護代を歴任したー大石氏が武蔵西部に地盤を築き、
八王子市域一帯を支配するようになる。
片倉城や高月城、滝山城などの八王子市域の中世城館の多くはこの時期に建てられたものである。

戦国時代の16世紀前半に南の相模国から北上してきたー後北条氏が多摩地域から武蔵全域に向かって勢力を伸張し、大石氏もその圧力を受けた。
1546年、山内・扇谷両上杉家が河越夜戦で敗れると大石氏は後北条氏に屈服することになり、北条氏康の次男氏照を養子に迎えることで、完全に
後北条氏に取り込まれることにる。
北条氏照は、はじめ大石氏の地盤をそのまま受け継いで滝山城に拠っていたが、1584年頃、滝山城の西南にあって甲州街道筋の敵軍を監視することができる深沢山(現在の城山)に新城を築城した。
この城は、山麓に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」が祀られている八王子神社があり、八王子権現を城の鎮守とし「八王子城」と名づけ、
城名が市名の由来である。山の南麓を流れる北浅川の支流、城山川の谷筋に沿って設けられた城下町が八王子の町のもとに。
八王子城遺構の調査、発掘と遺跡の整備は近年急速に進んでおり、この城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や
大きな城門を備えた大がかりなもの、遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具、香炉、ベネチアンガラス、などが出土している。

                   学生が多い「八王子駅」


八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団。
その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持で、寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市、白糠町の基礎を作ったと云う。
徳川江戸入府に伴い、1600年に発足。
代官頭大久保長安が統括し、発足当時の状況について、徳川幕府の正史「徳川実紀」にはこう書かれている。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。
その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからで、 同心どもは常々甲斐国の郡内へ
往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(ー現代語訳)

                  八王子千人同心屋敷跡の碑


八王子・千人町という地名は、千人同心に由来。
甲州境の警備・治安維持を主とする郷士集団であるが、平常は百姓としての生活を続け、将軍の上洛或いは日光社参には供奉を務めた。
幕末の動乱期には、1855年以降、西洋銃の訓練を命じられ、横浜警備、長州出兵にも動員された。
1865年、幕府陸軍奉行の支配下に組み込まれることになり、「千人隊」と改称された。
1868年、参謀板垣退助率いる東山道鎮撫軍が八王子に到着すると、これを迎え入れ恭順の意を表するとともに、徳川家に対する寛大な処分を願う
嘆願書を提出している。その後、千人隊は解散した。
 
新選組六番隊長井上源三郎は八王子同心の井上松五郎の三男である。
    

「南浅川橋」
昭和11年の1936年、コンクリートアーチ式の橋。
南浅川に架り、多摩御陵(大正・昭和天皇・武蔵陵墓地)への参道となっている。
威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴と云う。

                   南浅川橋
  

「綾南公園」-59611m2・東浅川町にある都立公園。
武蔵陵墓地の南側にあることが名称の由来である。南浅川に隣り合うように立地し、南浅川緑道と一体化しているように見える。
1964年東京オリンピックの際に自転車競技場として使用され、その後公園となった。

              武蔵陵墓地へのまちなみ参道


              大正天皇・昭和天皇武蔵陵墓地へ


「武蔵陵墓地」
都八王子市長房町にある皇室墓地・大正天皇・貞明皇后陵・昭和天皇・香淳皇后陵の4陵が造営されている。
昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵と称していたが、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。

                      入口


陵墓規模は、天皇 2500平米(㎡)以下 皇后 1800平米(㎡)以下の規定があると云う。
大正天皇陵 上円下方墳の一辺 27m×27m=729㎡なので、規定の2500平米(㎡)以下は周囲の玉垣内の面積と思われる。
陵形は、上円下方墳は5例しかない。円丘が圧倒的に多く、次に前方後円墳が多いと云う。

大化の改新、薄葬礼に関係しそうな38代天智天皇の陵は、上円下方墳。子の39代弘文天皇や、40代天武天皇は円丘。
天武天皇の皇后41代持統天皇は父親の天智天皇と同じ上円下方墳。

その後上円下方墳陵が出現するのは122代明治天皇陵以後。 
明治天皇の父帝は孝明天皇陵は円丘。 天皇 2500平米(㎡)以下 皇后 1800平米(㎡)以下の規定は明治時代の皇室典範制定と思われる。
伝統が受け継がれ、天皇陵は時代の流れ、財力、仏教興隆などの影響で形式が一定していないとも云う。
中世方形堂の廟があったり、108代後水尾天皇以降、京都泉湧寺の御廟では九重の塔、幕末の神道隆盛から、大化の薄葬礼、
上円下方墳が復活。



「明治天皇」 1852-1912 122代天皇
政治的大変動、薩長両藩へ倒幕の密刺を下すし、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復興ー江戸を東京と改め、版籍奉還・廃藩置県
1868年、「五箇条の誓文」発布。

明治天皇陵は、京都市伏見区 1912年の大正元年。
明治45年、東京の宮城・明治宮殿で崩御、現在の神宮外苑にて大喪儀が執り行なわれた後、埋葬され、陵の敷地は、
豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言という。



「大正天皇」 1879-1926 123代天皇ー明治天皇の第三皇子ー1889年皇太子
陸軍少尉任官、病弱で在位期間は短いー1921年皇太子「裕仁・昭和天皇」が摂政に任辞られている。大正デモクラシーの時代。
普通選挙へと歩む。関東大震災は、近代化に拍車をかけた。

「昭和天皇」 1901-89  124代天皇ー大正天皇の第一皇子ー1921年摂政・イギリス・アメリカと開戦ーソ蓮参戦と原子爆弾投下
ポツダム宣言受諾・玉音放送で敗戦を告げた。歴代天皇で最長。

                   大正・昭和天皇上円下方墳
    

「高尾駅」は、明治34年開設・昭和36年、に 高尾駅に改称され、昭和42年、 京王帝都電鉄高尾線開通した。
昭和62年、 国鉄分割民営化により、中央本線の駅はJR東日本の駅となり、平成9年、 関東の駅百選に選定されている。

                JR高尾駅
    

選定理由は「高尾山の玄関口として親しまれている趣ある社寺風の駅」。
    

高尾駅前「大光寺」真言宗智山派寺院の寺・正名山地蔵院と号し、高尾山薬王院第九世・源恵上人が元和元年の1615年、創建。
多摩八十八ヶ所霊場70番札
          高尾山・薬王院第9世「源恵上人」1615年創建


境内には見事な桜が咲き誇る荘厳なお寺で、入り口から右の奥に見える桜は高尾地域で最高齢の樹齢400年の老木が、
しだれ桜で知られている。

高尾駅ホームから


                       大光寺
    

                      大光寺本堂