syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

日暮里・舎人ランナー syu散歩

2017-01-30 | syu散歩




舎人ランナー(13駅)
日暮里ー西日暮里ー赤土小学校ー熊野ー足立小台ー扇大橋ー高野ー江北ー「西新井大師西」で下車ー谷在家ー舎人公園ー舎人ー見沼代親水

「西新井駅」まで空中散歩







                          荒川(扇橋)


                         隅田川(尾久橋)                             


                            








「日暮里」 荒川区南端の地域、地名は新開拓地・新堀。
日の暮れるのを忘れる、日暮の里、昭和7年に東京市へ、台地上には道灌山・谷中・根津。
鉄道は、JR・京成・舎人ライナーと北の新幹線が通過する。



乗り換えで込み合う。




浅草龍泉寺町から syu散歩

2017-01-28 | syu散歩

江戸の東側を流れるのが「隅田川・大川」
日向院、吉良邸跡の両国から南千住、隅田川神社・大神大橋の舟遊びを
両国国技館・江戸博物館を過ぎると「蔵前橋・厩橋」ー「駒形橋」-「吾妻橋、浅草寺」-「言間橋」-「桜橋、長命寺と桜餅」ー「白髭橋」
明治通り・堤通・墨堤通りー水神大橋、深川芸者の気風の良さが人気だったと云う。

                   「樋口一葉記念館」-竜泉寺町ー


「樋口一葉」 1872-96  多くの名作を残した。
本名ー奈津、下谷池之端私立青海学校小学高等科第四級首席で卒業ー歌人中島歌子の歌塾「萩の舎」弟子入り「和歌・書道・古典を学ぶ」
父死後針仕事で一家を支える。同門作家田辺花圃に刺激され小説家に。
闇桜ー出作、うもれ木ー生活苦で本郷から龍泉寺町で雑貨商(おもちゃなどの小店)
「たけくらべ・にごりえ・十三夜」秀作を次々発表し文壇に名を残し、24歳で没している。



一葉が亡くなった明治29年、
与謝野鉄幹の「東西南北」が刊行され、佐佐木信綱が「いささ川」(「心の花」の前身)を創刊した年、三年後、正岡子規を中心にした根岸短歌会が創刊されている。
            おく霜の消えをあらそふ人もあるを祝はんものか年のはじめも
明治28年の年頭に詠んだ一葉の歌。
背後には日清戦争がある。「おく霜の」は「消え」に掛かる枕詞で、「人もあるを」の「人」は戦地で次々に命を落とす兵士たちのことを指す。兵の苦しみを忘れて正月を祝っていていいのか、という問い掛けが印象深い。
 九年後の明治三十七年、日露戦争に際して与謝野晶子は詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したが、一葉が存命だったならきっと晶子と肩を並べるようにして社会的な発信をしたに違いないと云う。







                      鷲神社(浅草酉の市本社)






歌川広重「江戸高名会亭尽」-浅草山谷最高級料亭、八百善ー
会席料理フルコースを提供する店、離れに浴室と庭付き、2~3人で茶漬けで1両2分とか。
現在の贈答用「料理切手」を発行するなど戦略に優れていたと云う。その他にも山鯨・猪などが。











明暦3年・1657年の明暦の大火・振袖火事
江戸城の北と西から2日間・3度出火ー江戸の町60%焼失、江戸城本丸・二の丸・三の丸と天守焼失(天守は再建されず)大名火消から
定火消を設置、破壊消防主体。



1772年目黒行人坂「大円寺」から出火し日本橋・本郷方面までにー死者14700人。
1806年丙寅の大火、芝~浅草まで広がったー死者1200人。



災害のもう一ッ「地震」
安政2年1855年。
関東大地震1923年



江戸・陸奥・仙台・東海・南海と大地震が日本を襲っている。





「江戸っ子・下谷っ子」
下谷っ子
ー下谷地域に該当する現町名ー秋葉原ー池之端ー入谷ー上野ー上野公園ー 上野桜木ー北上野ー下谷ー台東ー 根岸ー三ノ輪ー谷中ー
竜泉ー 千束一部ー日本堤一部ー東上野一部ー松が谷一部。

下町ー浅草ー本所ー深川などで低地・山の手ー高台を指した。
びっくり下谷の広徳寺・恐れ入り屋の鬼子母神・・・寛永寺(浅草寺)の門前町が広がっていった。

三ノ輪・根岸・日暮里 syu散歩

2017-01-26 | syu散歩

「三ノ輪橋」
都電荒川線の終点駅。
三ノ輪橋という停留所名は、その昔この場所にあった橋の名前に由来。
橋は、石神井川の支流として王子から分流した「音無川」に架けられていいた(現在の日光街道と交差)。
長さは、五間四尺の約10m・幅三間の約6mであったと云う。
明治41年に農業用水としての役目を終えた音無川は、現在は暗渠(地下に作った水の通り道)となって、橋も消えてしまった。



「宗対馬守下屋敷跡」
12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。
惟宗氏の在庁官人が武士化するさいに苗字として本家である惟宗氏から「宗」の一字を賜わり宗を名乗りだしたことが古文書からうかがえる。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った。
南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。
やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した。
対馬は山地が多く耕地が少ないため、宗氏は朝鮮との貿易による利益に依存していた。室町時代初期は、西国の大名、商人、それに対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、宗氏本宗家が朝鮮の倭寇対策などを利用して、次第に独占的地位を固めていった。
戦国時代は幾度も九州本土進出を図ったが、毛利氏・島津氏・大友氏・龍造寺氏に阻まれて進出は難航した。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。文禄・慶長の役では、宗義智が小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って朝鮮及び明を相手に戦い活躍した。また戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている。

関ヶ原の戦いで西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮との取引を重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められた。江戸時代は対馬府中藩の藩主となり、参勤交代で3年に一度江戸に出仕することとされ、江戸に屋敷を構え[1]対馬府中(厳原)との間を大名行列を仕立てて行き来した。
以後改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、維新後華族となり、明治17年には伯爵に叙せられた。本来の叙爵基準では、現米(藩本来の米の収入)5万石以下であった対馬藩は子爵相当となっていたが、対朝鮮外交者としての家格が考慮され伯爵となる。









「伊勢亀山藩主石川日向守屋敷跡」
伊勢亀山藩は、非常に出入りの激しい藩、関ヶ原後、関一政が3万石で入り成立。伯耆黒坂へ。関一政ははじめ蒲生氏郷の臣で、氏郷が伊勢松坂を領していたとき、伊勢亀山におり、旧領復帰であった。
三河作手より、松平(奥平)忠明が入るが、最初で最後の摂津大坂藩主(10万石)としてへ転出。
その後しばらく天領となる。
三河挙母より、三宅康信が1万石で入って、康盛に継いで、三河挙母へ戻る。
三河西尾より、本多俊次が5万石で入って、近江膳所へ。
近江膳所より、石川憲之が5万石で入って、山城淀へ。
下総関宿より、板倉重常が5万石で入って、重冬、重治と継いで、志摩鳥羽へ。
志摩鳥羽より、松平(大給)乗邑が6万石で入って、山城淀へ。
志摩鳥羽より、板倉重治が戻ってきて、勝澄に継いで、備中松山へ。
備中松山より、石川総慶が6万石で入り、石川家のが維新まで支配。
家康の筆頭家老の地位にありながら、秀吉の元に翻しった石川数正の家、石川数正は秀吉に信濃松本を与えられ、長男の康長に継いで徳川時代もそのまま領有が許されていたが、大久保長安事件に連座して改易。
数正の叔父の家成が石川家の祖となるが、子の康通は大垣で5万石を領するまでになる。数正-康長の石川家は外様だが、家成に始まる石川家は徳川取り立てという扱いで、譜代。石川康通は家成に先立ち、家成が再勤し、外孫の大久保忠隣の子忠総を養子にするが、これが大久保長安-忠隣の失脚に引っかかり、罪を得る。 大坂の陣の功などもあって、豊後日田、下総佐倉、近江膳所と経て、7万石までになる。
石川憲之がこの伊勢亀山に一旦入るが、山城淀、備中松山を経て、総慶の時に、また伊勢亀山に戻ってくる。
石川忠総の二男、総長は兄の憲之が伊勢亀山に入ったときに伊勢神戸を分け与えられ、下館藩の石川家に繋がる。







「日光街道21宿」
日本橋ー千住(三ノ輪)-草加ー越谷ー粕壁ー杉戸ー幸手ー栗橋ー中田ー古河ー野木ー間々田ー小山ー新田ー小金井ー石橋ー雀宮
宇都宮ー徳次郎ー大沢ー今市ー鉢石ー日光東照宮。



「都道462号線」
蔵前三ノ輪線・都台東区にある特例都道であり、江戸通り(国道6号)と蔵前橋通りが交わる蔵前一丁目交差点から分岐して、昭和通り・日光街道(国道4号)と明治通りが交わる三ノ輪交差点までを結ぶ。浅草国際通りは、都道462号線の一部である。




台東区根岸、昔は、上・中・下根岸に。

中根岸の柳通り


JR鶯谷駅に近い上根岸


上根岸~荒川区の日暮里方面へ。





















徳川家宜(紀伊徳川家の祖



                    善性寺本堂



                 日暮里芋坂下「王子街道」



                  日暮里駅前に太田道灌像が



                     JR日暮里駅



























飛鳥山公園 荒川遊園地 syu散歩 

2017-01-24 | syu散歩
都北区JR王子駅の南西側に隣接する「飛鳥山公園」
将軍徳川吉宗により1000本桜の名所として一般公開された事はよく知られている。
その後ー明治期に上野公園、浅草公園と同じく日本最初の公園として指定され現在は飛鳥山博物館、紙の博物館。
「渋沢資料館」と3つの博物館を持つ公園として都民のいこいの場と成っている。

鎌倉期から室町期にかけて飛鳥山は石神井川沿い500m西の金剛寺を本拠地とする
「秩父党豊島氏一派の滝野川氏の出城」。
石神井川沿いに勢力圏を広める豊島氏は飛鳥山を地域開拓の拠点とした。









                     飛鳥山公園




              坂を下ると「JR・王子駅」へ荒川区に入る。


都電「荒川遊園地前」下車 (近くに、舎人ライナー熊野前駅・京成、千代田線町屋駅・運動場・スポーツハウス)


「区立ー荒川遊園地」 有料¥200
園内は、子供プール・水遊び広場・フアフアランド・動物広場(ポニー、カピバラ、牛、二ホンザル、アライクマ、ハナジカ、小鳥類など)
魚つり広場・豆汽車・観覧車・水辺広場から隅田川水上バス乗り場へ。



















「小台橋」
足立区西部に位置。
北で第一級河川荒川を挟んで対岸に扇、東で千住桜木、南で隅田川を挟んで対岸に荒川区東尾久及び荒川区西尾久、西で宮城と接する。
北を荒川、南を隅田川に挟まれた東西に細長い町域を形成している。町域自体は広大ではないが、足立区でも最大規模の工場集積地帯である。
日暮里・舎人ライナーの足立小台駅が町域内に設置。





隅田川水上バス乗り場


かっては、アジアから輸入された長い長い筏のラワンの丸太が、長い長い旅を終え、ここ「小台橋」が最終到着地で並んでいた。
松下・旭・・などの合板会社が陸揚げしていた所。



巣鴨 刺抜き地蔵syu散歩

2017-01-22 | syu散歩
「巣鴨」は、豊島区北東部の商業・住宅街
中山道・国道17号線沿い、ゴボウの産地と菊人形で知られている。
巣鴨3丁目とげぬき地蔵「高岩寺」周辺は門前町が。都営地下鉄三田線も通っている。







「染井霊園」 巣鴨5丁目
洋画・版画始祖の「司馬江漢」・作家「芥川龍之介」等の墓が。





「田沼意次」 1719-1788 経済官僚・相良藩主ー異例の出世5万7千石大名に、賄賂政治家の烙印を押された。嫡男も追われている。







「新門辰五郎」 1800-1875 徳川慶喜を助けた町火消・鳶・香具師・浅草寺門番・任侠・・。
勝海舟(勝、西郷会談で決裂時は、江戸を灰に、、)・清水次郎長(15代将軍の警護を頼んでいる)。
江戸下谷生まれ「を組」頭取、娘が慶喜の愛人。慶喜謹慎時、御用金2万両水戸に護送している。浅草で没した。墓は染井霊園内。

















巣鴨地蔵商店街の中央に「とげぬき地蔵(高岩寺)」が
毎月4の日は、地蔵尊の縁日で賑わう。