syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

弥彦神社と岩室温泉

2012-05-30 | 気まま旅
「弥彦山」は、越後平野の日本海沿いに連なる、弥彦山脈と呼ばれる山並みの主峰。
北は角田山(482m)、南は国上山(313m)に連なる。弥彦山自身も、北に位置する多宝山(634m)との双耳峰である。
一連の山と共に佐渡弥彦米山国定公園に指定されている。
弥彦神社の祭神を祀った山として、山全体が弥彦神社の神域となっている。英彦山、雪彦山と共に日本三彦山と呼ばれる。

「万葉の道」 弥彦神社 拝殿わきから弥彦山頂への玄関口、ロープウェイ山麓駅までの道は「万葉の道」と云う。
植物観察道になっている。 今から1300年ほど前の和歌集である「万葉集」に歌われている植物のうち、弥彦山に自生しているもの60余種が集められている。
森林浴の森の日本100選に選ばれた。


  

北国街道、新潟市から十里街、岩室温泉街(弥彦一の宮の宿場町)からの山道に入り、弥彦山スカイラインと続く。

弥彦山からの眺めが楽しめる総延長13.7kmのドライブコース。、眼下の日本海・佐渡島を眺められる。天候悪く諦めた。

    

「弥彦神社」創建年代は不詳、万葉集にも歌われている古社。
祭神の天香山命は、古事記に高倉下という名前で登場し、越後国開拓の詔を受け、越後国の野積の浜(現長岡市)に上陸し、
地元民に漁労や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたと伝えられる。越後国を造った神として弥彦山に祀られている、「伊夜比古神」と呼ばれて崇敬を受けた。
延喜式神名帳には「越後国蒲原郡 伊夜比古神社」と記載され、名神大社に列している。

天香山命は神武東征にも功績のあった神として、武人からも崇敬を受けた。日本有数の大太刀(長大な日本刀)志田大太刀(重要文化財)
源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などの文物が社宝として宝物館に展示されている。
 

江戸時代には、越後高田藩藩主・松平忠輝が、500石の社領を寄進し、朱印地とした。
国学者の平田篤胤は、聖徳太子が記した神代文字が彌彦神社に存在する、と主張、しかし神代文字の書は火事により焼失したという。

大惨事が1956年(昭和31年)1月1日、福餅撒きに集まった参拝者が将棋倒しとなり、124人が死亡する。


    

山頂には御神廟と呼ばれる奥社がある。 重要文化財(国指定)に、 大太刀(銘南無正八幡大菩薩右恵門烝家盛 ・ 備前長船派の刀工家盛作。


    

「清酒メーカー神社奉納36L入りの樽酒」
神社への御奉納用の樽酒は、大きな神社で目にする、神社の脇に積み上げられた樽酒は、中身の入った樽酒が使われる。
商品名を「本荷樽」と言い、奉納する側の名前を記入、「入山札」と呼ぶ木の札を立てる。
入山札への名前の記入は酒造メーカーで行なう場合が多い。御商売の屋号を入山札に記入、御奉納用の樽酒は、常に在庫してない。


 本殿                          奉納樽酒



「ラムサール条約」 正式名称を「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい、1971年にイランの地方都市ラムサールにおいて締結されたことから、
通称「ラムサール条約」と呼ばれている。

「佐潟水鳥湿地公園」は、天候悪く鳥たちには会えなかった。
水鳥は、国境を越えて渡りをするものが多く、コハクチョウは夏にシベリアで繁殖し、冬になると南下して日本に渡って來る。
日本での中継地としては、北海道のクッチャロ湖やウトナイ湖などがあり、その後、その大半がさらに南下し、伊豆沼・内沼(宮城県)、猪苗代湖、
佐潟をはじめとした新潟平野の湖沼などに渡ってくる。そこで越冬し、また、一部はさらに中海(島根県)で越冬するものもいる。


    

新潟市西蒲区の布目神楽舞、

4月下旬の布目諏訪神社、神楽舞。「雌神楽」と言われており、獅子頭は小型で舞もおとなしく、「天の岩戸」を開ける前に舞う踊りであると伝えられている。
春の祭礼に、諏訪神社の前に神楽舞を奉納し、その後で各家庭を回り、祝言の座敷に招かれて舞うこともある。
2人の舞から始まり、幣束舞と錫杖を持った1人舞い、2人による悪魔祓いと続く。新潟市指定文化財


    

「中部北陸自然歩道」は、県内(佐渡島も入る)43コース、約45km。その一つ「薬師堂と湯つぼ」
このコースは、湯けむり賑わう「岩室温泉」と、越後一の宮で崇拝されている「弥彦神社」につながる歴史深い「北国街道」を訪れる。
杉木立に囲まれたゆるやかな山道を歩く。広大な蒲原弥彦平野を見渡すことができる。
〈距離〉7.1km、〉岩室バス停 ~ 岩室神社 ~ 天神山城址登山口 ~ 宝光院。


    

「神山城址」は、岩室温泉と石瀬の境にある標高234.5mの天神山にある中世の山城、で平城。

岩室温泉街
    

直江兼続の弟、「大国実頼(幼名与七)」は、岩室温泉地区にある天神山城の最後の城主を務めた。
大国実頼は1562年、樋口兼豊の次男として坂戸城下で生まれ、1582年 上杉景勝の命で天神山城を治め小国家を継ぎ、これは兼続の意向といわれている。
知行高9,041石は上杉家中では兄、直江兼続に継ぐ屈指の大身で、1587年 新発田攻めの戦勝の賀使として京都の聚楽第で秀吉に謁し、その際、景勝の命で大国と改姓している。
1598年 秀吉の命による上杉氏の移封に従って、大国氏も会津に移り天神山城は廃城となる。


    

次回は新潟市巻町方面へ。





  

国上寺と五合庵 良寛さん

2012-05-27 | 気まま旅
子供らと
     手まりつきつつ
       此の里に
          遊ぶ
           春日は
            くれずとも
                よし           僧侶・歌人 良寛 (越後国出雲崎名主山本家長男)





「国上山」は、県燕市に位置する山。標高は312.8m。角田山や弥彦山から連なる、俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。
江戸時代後期に良寛が住んでいたことで有名な山である。山頂から約1キロ弱南の中腹に国上寺があり、その手前に良寛が居住地とした五合庵、乙子神社もある。

新潟県道2号新潟寺泊線から新潟県道405号国上公園線が中腹まで通じており、車で国上寺、五合庵、乙子神社を見ることができる。
朝日山展望台へは吊り橋でいける。近くは、弥彦温泉や海水浴場の多い越後七浦シーサイドライン、魚のアメ横として有名な寺泊港になる。
山の南側は1922年に大河津分水が日本海に注ぐまでは、300m前後の山が柏崎市方面までつながっていたが、国上山は弥彦山脈とは違う、大河津分水完成後も同じ。


  


国上寺は、戦国時代、上杉謙信公から千手観音祈願所として十万石を拝領している、
七堂伽藍を建立。当時の国上寺には21の坊があったという、うちの16坊は古絵図にも十六坊跡とある。

往時には国上山山中に二十一ケ寺、県内外を含め百三十有余ケ寺の末寺を所有し、常時千人以上の修行僧を置き御祈祷所として隆盛を極めた。


    

国上寺と万元和尚、戦国時代、織田信長が延暦寺を焼き討ちしたように、国上寺も何度か焼き討ちにあう。
万元和尚は大和国吉野郡の出身で、比叡山延暦寺で天台宗の修行を終え、26、27歳で諸国行脚に出て佐渡に渡ろうとしたが海が荒れて断念し、
旧知であった国上寺良長住職を訪ねている。万元和尚が目にしたものは、無残にも荒れ果てた境内。本堂も焼け落ちていたと云う。

見かねた万元和尚は「私に協力させてほしい」と願い出て、越後の隅から隅まで30年という年月をかけて托鉢した。
その間に住んでいたのが五合庵。五合庵は良寛で有名となったが、初代住人は万元和尚。
現在の本堂は4度目の再建で、万元和尚が托鉢した浄財を元に建設したもの、万元和尚は新潟へ托鉢に向かう途中で病に倒れ、本堂の完成を見ることなく亡くなり。
没後、故人の遺志でお墓を五合庵脇に建立されている。旧分水町石港の新信濃川右岸の「夕暮れの岡」に祠と万元和尚の歌碑がある。

          「忘れずは 道行きぶりの 手向けをも ここを瀬にせよ 夕暮れの岡」 

  


  

「大井戸」上杉軍は、山城の大切な水を得る大井戸で、戦いに負けたとき宝物を埋め、城から逃れたと言い伝えのある井戸が点在する。


「香児山」は、 国上寺の本堂から五合庵に向かう途中に小高い山があり,そこに案内板が立っている。
弥彦神社の祭神である天香児山命が最初この場所にとどまり,二代目の天五田根命までここに鎮座したが,夏期に水が涸れるため,三代目の天忍人命の時に
現在の弥彦神社の場所に遷ったという。
この伝承は弥彦神社関連の資料にはまったく見えないものであるが,国上寺は弥彦大神の託宣によって創建されたという伝承もあり,国上寺と弥彦神社の関係は
深いと思われる。


  



良寛 1758-1831 子供たちと遊んだ法体の歌人 長男であったが、家督を弟に譲り18歳で出家、約20年間放浪の旅に出る。
修行後、帰郷しここ、「五合庵」を住みかとし、和歌、書道、子供らと楽しい生涯を送る。
酒が好きで農民たちと酌み交わしている。
泥棒が忍びこむと、持って行くものは布団だけで、良寛は寝返りをし取りやすくしたと伝わる。
晩年若い尼「貞心」を弟子にしている。



    

江戸時代と良寛さんは、中国・四国・近畿地方を行脚し、業を重ね、京都に滞在中の父親が桂川に身を投げて自殺した後、
越後に帰る。良寛38歳、越後に帰った良寛は、寺泊の照明寺、野積の西生寺・・・等々約10年間処定を定めずに居を移している。

1804年、47歳の時に国上山内にある五合庵に定住する、五合庵に住んでいた国上寺の前住職義苗和尚が亡くなられたからで、思えば出家してから30年間、
永い漂泊の旅からやっと安住の地となる。

          「いざここに 我が身は老いん 足びきの 国上の山の 松の下いほ」と詠んでいる。

その後、乙子神社の草庵に10年住まわれ、さらに島崎の木村元右衛門の小舎に移り、天保2年正月、74歳で亡くなる。
良寛は越後に帰ってから、晩年島崎に移るまで、約30年国上にいた、今日残っている多くの詩や歌や書は大部分が国上山に住まわれていた時代の作。

    

「五合庵」の名は、貞享(1684~)の頃、国上寺に身を寄せた時、住職を助けて国上寺の 阿弥陀堂(本堂)等の再建に身命をかけて、その功を成し遂げた
「万元上人」にこの 草庵と毎日米五合を給したことから名付けられたといわれている。 現在の草庵は、大正 3年ごろのもの。

  

「分水・西蒲原郡」県中西部、信濃川、大河津分水水路と新信濃川の分岐点が分水町、江戸時代幕府領で近郷一円水害常襲地帯であった。
明治に入り、水路大工事、大正11年通水された。これにより農業生産が増大され行く。

  

「山城」は、 北陸道の軍略上の要として重要な役割を果たし、守護上杉氏及び後上杉氏直属の要塞であった黒滝城。
戦国時代の「御館の乱」、「遺民一揆」など越後の覇権をめぐって繰り返される動乱の度ごとに、黒滝要害の攻防が行われ、黒滝城の全体規模は大きく、
新潟市西蒲区の天神山城と双璧、蒲原地方全体の中においても屈指の存在。

     

「お酒の話」製造工程・原料処理。
1)精米、2)洗米、3)浸漬、4)蒸す迄
1)精米歩合 70% (赤糠、中白、上白各10%)~吟醸酒 50%にする。
2)洗米 糠を落とす (手洗い)酒歌で
3)白米重量の約25~30%の水を吸わせる。(白米100kgで約吸水後125~130kg)。吸水時間は「酒歌」で計る。
4)蒸す  技術を要する、専属の釜屋がいるところもある。


次回新潟市巻方面へ

魚沼市と緑川酒造と日本海

2012-05-25 | 気まま旅


「小出」北魚沼郡 魚野川、佐梨川等が注ぐ谷口集落として栄え、会津への街道、舟運で交通の要衝となっていた。奥只見電源開発の基地で尾瀬への観光基地でもある。
2~3m近い積雪の豪雪地、小出スキー場でも知られている、魚野川は、県中央を流れる信濃川の一支流で谷川連峰北斜面に源を発している。
川口町で信濃川に合流する。両岸には、三国川、水無川、佐梨川、破間川などの支流で扇状地群を形成する。
この辺の一帯が魚沼コシヒカリの産地として全国的に知られている。魚野川は、長さ68km。

「緑川酒造」は、1884年酒造りを開始。 1964年に、 緑川酒造株式会社に社名。 1990年 北魚沼郡小出町小出島より魚野川沿いへ酒蔵移転。
2004年中越大震災により、約1ヶ月後に操業を再開した。 越後杜氏

新本社                                 新工場
  


魚沼市の南部に位置、周囲を魚沼産コシヒカリなどが育つ田園に囲まれている。 会社のすぐそばを信濃川最大の支流である魚野川が流れているが、
魚沼丘陵の伏流水を地下50mより汲み上げ、仕込み水として使用している。

銘柄
大吟醸緑川、 北穣吟醸緑川、 純米吟醸緑川、 吟醸緑川、 純米緑川、 本醸緑川、 清酒緑川、 古緑川【純米吟醸】、季節限定商品として
雪洞貯蔵酒がある。

「純米吟醸」は、上立ち香はパインともメロンとも言えそうで華やか。含むと一瞬薄い!と思えるほど淡くスッキリとしている。
徐々に温度が常温になるにしたがい、ほのかな栗のような甘みが顔を出す。引き際もスッパリと鮮やか。
最近原酒系のアルコール度数の高めのお酒に慣れていたせいか、最初の印象は端麗。じっくり飲んでいると落ち着いてきて、むしろこれくらいのアルコール度数
の方が優しく飲んでいけて旨い!。強烈な吟醸香ではないのがいいという。720ml 1,470円(税込み)で販売されている。

緑川酒造 全景
  

「魚野川と青島大橋」5月半ばであるが、まだ残雪が川に沿って残って居た。

                                 豪雪地帯 残雪の魚野川
    

小出町を後に、長岡・中之島に出る。県中西部、西信濃川、東刈谷田川が北流、間の街で中之島、川に囲まれた島状の意、ここは大口レンコン
の栽培でも知られ、
刈谷田堤防上で行われる大凧上げ合戦は有名、車は日本海を目指し進め、天気が良ければ佐渡島を見たかったが残念ながら曇り、ここ寺泊から佐渡の赤泊を
カーフエリが一日一往復している。海岸線の国道402号線に、作曲家遠藤実の記念館があった。

作曲家、遠藤実が故郷新潟に半生の音楽の館が平成23年にオープン、館内は、生い立ちコーナ,ゆかりの品コーナー,映像コーナーがある。
また、自由に選曲して聴くこともできる。新潟市 西蒲区越前浜、「遠藤実記念館実唱館」、巻駅より車で約20分、北陸自動車道「巻潟東IC」より車で約25分、
金 500円、休館日毎週火曜日、祝祭日は開館,翌日休館、

  

2007年、日本音楽作家協会名誉会長に就任、2008年、逝去後、正四位に叙され旭日重光章を授けられる。 2009年、国民栄誉賞を受賞。
主な作品、 お月さん今晩わ、 からたち日記、 浅草姉妹、 アキラのズンドコ節、 ソーラン渡り鳥、 おひまなら来てね、 襟裳岬など多数残している。

小出から日本海へ、魚市場アメ横や、遠藤実記念館、寺泊港等を見る。
    

「妙光寺」は、1271年、寺泊を船出された佐渡配流の日蓮聖人が,、強風のため当地角田浜に漂着されて「七面大明神」を教化、「岸・岩・波」の三題目を書き遺され、
後に孫弟子にあたる日印上人が日蓮聖人ゆかりの聖地として、鎌倉時代末期の1313年に創建されたことに始る。
日蓮聖人滅後31年目のこと、当初は三題目にちなんで、妙法寺、蓮華寺、経王寺の一山三カ寺でしたが、蓮華寺、経王寺は他に移転し、妙法寺が妙光寺と改称し。
創建以来700年の歴史を有し、旧長岡藩主牧野忠成公はじめ多くの檀信徒の信仰を集め、今日まで歴代住職53代の法灯が継承されている古刹である。


    


創建後二度の火災に遭い、1764年に再建された旧本堂は、230年の風雪と水害で老朽化が進み、2001年に一新。
同じ年数を経てきた客殿は、少し前の1981年に鞘堂の形式で保存したもの。回廊に囲まれた板張りで100坪の院庭は、祭礼や芝居などの行事に使われている。
山門は約200年前の文化年間の建立、三重塔は江戸末期ころに他から移築されたと伝えられ、国・有形文化財。


    


この辺りは、海岸線に(南北16km)4つの海水浴場がある。全般的に遠浅の海水浴場で、親子連れでも楽しめる海水浴場となっており、毎年県内外から多い。
中でも「野積海水浴場」「越後七浦シーサイドラインの入口にある海水浴場」で、サーフィン、マリーンスポーツとして若者に人気の海水浴場である。

  

「越後七浦シーサイドライン沿いの観音様」は、身の丈8mのスマートな青銅の観音様、穏やかな日本海をみつめ、冬には強風の下で荒波をじっと見すえている。
海難救助、遭難者の冥福、家内安全、交通安全、商売繁盛、魚霊供養の祈願等、又水子供養の観音様として親しまれ、広く地域住民の信仰をあつめている。


    

「立巌」は、旧寺泊町にある野積浜に立巌、岩は昔、海の中にあったもの、今では砂浜が岩の前に広がっている。
良寛さんは、「越のうみ野積の浦の海苔を得ば 分けてたまはれ今ならずとも」と詠んでいる。碑がある。


  

寺泊魚のアメ横で、一休み、魚の市場通りは、 新鮮な日本海の幸と旬な味がズラリと並ぶ魚の市場通り。
イキの良さと安さに定評があり、品揃えの豊富さは港町ならでは、日本海のカニ汁を注文

  

「酒の話」酒造好適米
評判の高い山田錦、雄町は、大粒で心白(中心部、白色不透明部分)がしっかりしているからである。粗蛋白、粗脂肪は品質低下させる。
山田錦ー兵庫、大阪、広島など、雄町―岡山、島根など、五百万石―新潟、石川、三重、京都など、たかね錦―新潟、長野、兵庫など
フクノハナ―秋田、山梨、岐阜、鳥取、岡山など、玉栄ー滋賀、山口など、信交ー宮城、山形など、が一般的で堅い、大粒の米をどんどん改良させ種類も多い。

次回は分水、良寛の五合庵へ。

富士芝桜まつり

2012-05-24 | 富士山麓日記
富士芝桜まつり、今年もそろそろ終わりと云う5/21に行ってみた。首都圏最大級、約80万株に増えた芝桜の群生。
半分くらいはすでに花は終わっていたが、やはり見事!!




曇り空で、富士山も右手の方に、裾がちょっと見える。


びっちり咲いている芝桜。 


売店、うまいものフェスタ、足湯など。


真ん中に竜神池


今日の富士山、ようやく雲が切れてきた。田貫湖からの富士山。




次回は新潟県小出に戻ります。

山と酒の「八海山」

2012-05-20 | 気まま旅
「八海山」地蔵岳(1707m) 新潟県南魚沼市 にある岩峰群。最高峰は標高1,778mの入道岳であり、古くから霊山として崇められてきた。
越後駒ヶ岳、中ノ岳とともに越後三山、魚沼三山の1峰で、日本200名山のひとつ。
NHK大河ドラマ「天地人」のタイトルバック映像、直江兼続が八海山の山頂に立っているシーンが八海山山頂地蔵岳・不動岳・最高峰の大日岳・越後駒ケ岳と
中ノ岳と結んでいる。

八海山には役行者小角、つづいて弘法大師が頂上で密法修行されたという、山岳信仰の社寺にみられる事蹟譚があり、古くから両部の霊場として知られている。
八海山信仰の歴史上の初見は、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とある。


八海山神社拝殿                                         弘法大師坐像
    

神社は,旧六日町山口中手原に鎮座。
八海山に対する信仰の起源は古いが,社の創立期は不明。八海山への登拝口のひとつ、城内口となる。
神仏習合期には薬師如来を信仰の中心としているが,現在の祭神は国狭槌尊,瓊瓊杵尊,木花咲耶姫尊の三柱である。

参道は樹齢250年の鬱蒼とした杉並木となっており,新潟県指定の文化財である。

神社入り口の一鳥居                                  登山供養塔
  

境内                                           本殿
    

大杉並木                                    八海山から流れ込んでい川
  

「八海山酒造」創立大正11年 六日町城内村長森、 1931年、八海山麓の 現在地に移転。和島村島崎の豪農・能登屋「木村家」結ばれ 1953年 二代目、が社長に就任。
1967年 協同精米が操業開始、南魚沼郡内4酒蔵、白瀧酒造・青木酒造・高千代酒造・八海醸造。 1983年 地下貯蔵用タンク埋蔵と 1985年には、
「雷電様の清水」が県の名水に指定、 1986年 株式会社八海山として設立した。2008年「八海山泉ビール苑」が八海山 泉ヴィレッジとしてリニューアルオープンした。

                                               本社ビル
    

清酒 は、純米吟醸八海山、吟醸八海山、本醸造八海山、清酒八海山、純米大吟醸「金剛心」、大吟醸八海山、しぼりたて原酒「越後で候」、特別純米原酒 八海山、
米焼酎 は、 八海山本格米焼酎、黄麹三段仕込「宜有千萬」、粕取り焼酎 八海山本格粕取り焼酎、「宜有千萬」

うめ酒は、 八海山の原酒で仕込んだうめ酒、  酒粕は、 八海山の板粕「酒の實」純米吟醸・吟醸

ビールは、 泉ビール「ヴァイツェン」、 泉ビール「アルト」、 泉ビール「ポーター」等がある。

八海山のスッキリしたお酒はこの工場で生まれている。
  

「西珠院」真言宗智山派 山号大冨山 南魚沼市下原  立派な杉並木で参拝する。


                             本殿
  

真言宗は、全て大日如来と弘法大師、歴史を感じるが判らず。


                     境内から見た曇り空の八海山
   

「お酒の話」仕込み水
どこの蔵も、水質改善に苦労している。良い水の条件は、鉄分、アンモニア、重金属が無く、カリウム、リン酸、カルシュウムが適度に
含んでいる。鉄、香り、味を害す・カルシュウム、麹菌、酵母を助ける・お酒の水質は80%以上を占めており、醪で醗酵が強いか弱いかを左右するので苦労する、
ボーメがよく切れる水にする。水には、軟水、硬水とある。


次回は、小出方面に。