syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

御殿場駅のおおわらじ。御殿場線に乗って

2019-09-30 | 季節だより
「JR東海・御殿場線」は、1889年の明治22年、東京 - 大阪間を結ぶ鉄道(1909年に東海道本線と命名)の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和9年12月、「丹那トンネル開通」に伴い、東海道本線は、 熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の御殿場線に。
鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。
第二次世界大戦中の昭和19年、不要不急線に指定されて単線化され、レールなどの資材は回収されて他の路線の建設に転用、現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。
大幹線である東海道本線から一ローカル線の御殿場線に転じたのちも、1992年に発生した東海道線来宮駅構内列車衝突事故の際などには不通になった東海道本線のバイパスとしての役割を果たし、寝台列車が当路線経由で運行。
松田駅 - 御殿場駅間においては、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)時代の昭和30年、小田急電鉄小田原線新宿駅方面からの優等列車の乗り入れが行われ、東京都心 - 御殿場地区間のアクセスルートのひとつとなっていると云う。
国鉄時代は準急、1968年から急行、JR化後の平成3年には、特急に格上げされ、それから2012年3月16日までの間は乗り入れ区間が沼津駅まで延長。

主な駅 国府津ー下曽我ー上大井ー相模金子ー松田(私鉄小田急線と連結)-東山北ー山北ー谷峨ー駿河小山ー足柄ー「御殿場」・・・・沼津

御殿場駅構内に大わらじが展示されている。(昔わらじ編みは、大切な現金収入の手段だった)。
新橋や東山新田など、御殿場地区の12村落では、精農者表彰のきまりをつくり、それぞれの村のわらじ編みの一番優秀な娘12人を選んだ。
娘たちは東山の観音さんで男女1対のわらじを作り、それを富士山頂上浅間大社の奥宮奉納し、五穀豊穣と縁結びを祈願した。
選ばれた娘は良縁を得て、その年のうちに必ず嫁さんに・・・・。(当時の女性の最高の名誉であり、羨望の的であったと伝わる)
(古来より御殿場は富士信仰の拠点であり、東海道箱根越えの旅人の足「わらじ」の産地であったことから、毎年このわらじを開山の行事として奉納し、健康祈願、五穀豊穣、交通安全を祈念している)

                       御殿場駅改札口前




                         名所


                   松田駅 私鉄小田急線「新松田駅}


                       御殿場駅付近








東田中交差点から、箱根裏街道の乙女峠(1005m)は、138号線、峠から見る御殿場の夜景は美しい。





                       東田中交差点





                        車窓から





東山湖(御殿場)江戸時代中期の人造湖 散策

2019-09-27 | 季節だより
「東山湖」
昔の1660年代頃は、水利に恵まれない土地で、江戸小舟町の町人「大坂屋長右衛門」ほか4名が小田原藩に東山新田開発の請願をし免許を与えられ、箱根外輪山の丸岳から流れる寒沢川の清流を引き貯水池にしたのが「東山湖」。
続いて田畑を開墾、そして長右衛門は湖の東側に見ずに縁のある安芸の国、厳島神社の御分霊を拝戴して氏神として奉納した。
その後も崩壊修復と先人のご苦労の累積により保護されて今に。
「東山湖の由来の碑」として元内閣総理大臣の岸信介氏の書によって建てられていると云う。

                          東山湖 江戸中期の人造湖


        箱根外輪山丸岳「寒沢川」から水を引いている。貯水池・今日は水を抜いていた。


                        YMCA東山荘






                        サイカチの木















                          厳島神社 東山湖奥にある。











山登りの秩父宮銅像と四季の花いっぱい 記念公園

2019-09-25 | 季節だより
「秩父宮殿下」 1902-1953 大正天皇第二皇子 母貞明皇后 ・昭和天皇の弟 身位 親王、陸軍少将
昭和天皇独白録によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年の昭和14年、同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ。」と天皇に突っぱねられている。
昭和13年、大本営戦争指導班参謀に、同年3月に陸軍中佐に、昭和14年、陸軍大佐に昇進した。
闘病生活ー昭和15年、肺結核と診断され、翌年より、ここ、静岡県・御殿場で療養生活。
昭和16年、参謀本部附、昭和20年、陸軍少将に昇進したが、戦時中は御殿場別邸にて療養を余儀なくされ、戦後は、療養生活を送りながら皇族として執筆を含む活動・昭和21年、貴族院議員を辞職。
昭和27年、静岡県御殿場市から神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移り、同年暮に病状が悪化し、1953年の昭和28年、に薨去した。

                     秩父宮記念公園 有料


            キャシー中島家族の家ーキルトミュージアム近くにある。






















秩父宮殿下の住んだ茅葺屋根の母屋が、 庭には四季折々の草花が






























                美しい日本の歩きたくなる道500選に。


富士仏舎利塔のある平和公園は、箱根裏街道沿い。
御殿場出身の三徳社長が私財を投じて作られた公園(インドの故ネール首相からお釈迦様の分骨が塔に)































御殿場からプレミアムアウトッレト 富士山は外国人が多い  

2019-09-23 | 季節だより
「徳川家康」 1542-1616 関が原で天下を
江戸幕府の創始者征夷大将軍・松平広忠の子三河国、織田信長と同盟、小牧・長久手で豊臣秀吉と戦うが講和・北条滅亡後、関東250万石。
豊臣政権下の五大老の一人、石田三成を関ケ原破り、対抗勢力を一掃、大坂の役で豊臣家を滅亡させた。
信長は、武田勝頼の首を罵詈雑言、が家康は丁寧に供養させている。武田の旧臣は、徳川家で抜群の働きをする。

静岡県北東「御殿場」は、徳川家康の休憩所「江戸ー駿府間の休憩場」・箱根山山麓の交通の要衝で、官律令体制下で駿河最大の駅「横走駅」が置かれた所・江戸時代は、小田原藩に属していた。1707年の富士大噴火で壊滅打撃を受けたが「関東郡代・伊奈忠順」で復興を果たした。
現在でも、高速道・国道138・246号線・表富士周遊路。

           バスは須走浅間神社・須走登山口を。一部旧鎌倉往還跡がある。


                高速河口線は、ここまで その延長工事が。


                      須走浅間神社前


                      旧鎌倉街道




                     高速道路工事中




                       稲穂が


                   御殿場プレミアム・アウトレット


                       外国人が多い






         「東山観音堂」 東山湖に尽した「大坂屋長右衛門」祀る堂






                   元首相の「岸信介」晩年の自邸が






元外相「松岡洋右」の別荘跡・「椿庭園の陶磁器館」がある。

富士山から御殿場ーパスの車窓から  

2019-09-19 | 季節だより

「鎌倉幕府の御家人が、いざ、鎌倉ばかりに、馳せ参じる道」ー「甲州鎌倉街道」。
信州の諏訪の平で、現在残っている鎌倉街道跡と呼ばれる殆どが、その道幅2mもなく、現代では、鎌倉幕府創設から数えて8百年余り経過し、殆どが廃道化して、山林の中に埋もれた。
主要な鎌倉街道は、化粧坂→町田→武蔵府中→入間→笛吹峠を通る武蔵路・信濃路とも呼ばれた[上道」、奥大道とも呼ばれた奥州道中から鎌倉に通じる「中道」、江戸時代に房総街道・常陸街道と呼ばれた「下道」、京からは、鈴鹿峠を通過せずに美濃・赤坂宿までは、近世の中山道のコースを通る「京・鎌倉往還」、朝比奈切通から六浦・金沢と江戸湾沿いに延びる「六浦道」など多岐にわたっていた。
統治には、古代邪馬台国以来、要路の開設が、必要条件とされていた。「上ツ道」「「中ツ道」」「下ツ道」と呼ばれている道は、古墳時代から奈良盆地にも、これと同じような呼び名の道が開設されていた。
鎌倉時代や室町時代の中世には、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に、「奥大道」・「下道」、南北朝の「太平記」には「上道」・「下道」・
梅松論では「武蔵路」・「下道」などと書かれている。
下野足利荘から鎌倉に至る道筋である「武蔵大路」は、1,333年、新田義貞が北関東の武士団を糾合し、鎌倉を攻めた時に、直属の軍勢を率い、攻撃したのも鎌倉街道で、稲村ヶ崎に達しながら、極楽寺の切通しの守りが堅固で、磯伝いを廻り、義貞が海中に剣を投げ祈ると、俄かに潮が引き瀬となり、渡れたとされた伝説のある路筋である。
「上道」より西関東の山々の裾を南北に辿るように秩父道とも呼ばれる「山辺の街道」があった。
別に真っ直ぐ相模の足柄峠を越え、甲斐の御坂峠を越えて甲斐の国石和へ向かう「鎌倉往還」と、御坂峠を経て諏訪に入る鎌倉街道「西街道」が。  「西街道」は、釜無川沿いの若宮→松目→栗生→花石→馬飼場(ばんげいば)→御射山神戸御所平などの山道を通り、茅野の坂室から西に分かれた。
宮川の左岸を庵沢から西茅野・駒形城下・亀石・安国寺の樋沢城西・前宮前・峰堪え・高部を経て、神宮寺との境で「高部道」ともいわれた杖突峠道とつながり、一方、上社本宮前を通って大熊・有賀の江音寺前・小坂の観音院の上・天竜川を見下ろす花岡城から岡谷の橋原に出て鮎沢で東の街道に合流したといわれている。
また江音寺前から有賀峠道から伊那へと通じ、奈良時代から使用されていた官道や各地域を結ぶ郡衙路などを、鎌倉幕府の成立後に、整備し再編成した地域も少なからずあった。

「甲州鎌倉街道」・・石和ー藤野木ー御坂峠ー河口湖ー船津ー上吉田ー籠坂峠ー須走ー矢倉沢往還・・・鎌倉。

                     上吉田富士山1合目から




                       富士北麓


                   野球場などの野外スポーツセンター




                     センター案内板


                      シャモニー通り




                        樹林




                     中山湖花の都公園


                   富士山駅から御殿場駅間の私鉄バス




                       バスは、須走へ


                     自衛隊の富士演習場が近い


「富士山噴火史」  富士山形成前の 約500万年前~約20万年前 ー 古代の富士山・ 約8万年前~約7千年前・ 有史の富士山約5千年前~約1千年
          近世の富士山、 西暦1707年~現在
1707年、この年10月28日に東海道・南海道に大地震があった。
12月15日には山麓に地震30回。16日午前10時ころ噴火が始まった。
江戸では同時刻頃、強い空震があり、夕方から降灰が始まった。
白灰色の灰が1cmぐらい積もり、18日には黒い灰が雨のような音を立てて降った。噴火は8日間激しく噴火し、以降次第に衰え、翌年1月1日の夜9時ごろ激しく振動して噴火が止んだ.
この噴火は従来のハワイ式噴火ではなく、溶岩をほとんど流さず、多量の火山灰や火山弾を放出したブルカノ型噴火である。
富士山は,人間でいえば青年期の火山であるといわれている。
過去にも様々な形式の噴火を繰り返してきた。約300年前の最後の噴火は溶岩を流さないブルカノ型噴火だった。
現在、富士山ハザードマップを作成し、地域住民に注意を呼びかけている。
最後の噴火がブルカノ式だったことは、これからの噴火予想にどう影響していくか。