「山中湖村」は、県南東部、富士山東麓に位置し、東は神奈川県南は静岡に接している。
1889年中野村として成立し、1965年山中湖村になる。標高約1000mの高原地帯。山林原野が村域の7割を占めている。
全域が富士箱根国立公園に属し村域の中央部を湖が占める。
冷涼な気候と美しい自然景観を生かし、夏の避暑を中心に、首都圏の観光地として昔から発展し、世界遺産となり連日外国観光でにぎわっている。
別荘、会社や学校のも多い、東岸1帯はテニス村、美術館、洒落たレストランなどがある。
面積は、52KM2、国道138号線通じている。
山中湖は、富士五湖の一つ、形から臥牛湖とも云い、富士山溶岩による堰止湖で五湖の最東端名あたる。
湖面高度は最高で深度は最浅。
湖川は、湖西端の「桂川」へ。県天然記念物「フジマリモ」が生息し、湖底西には埋没林、東部には古い火山の噴火跡が残っている。
文人も多く訪れ、与謝野晶子は、「富士の雲つねに流れて束の間も心おちいぬ山中の湖」と詠んでいる。
湖の面積6.8KM2
「桂川」は、上流の山中湖水の桂川、河口近くの下流では、馬入川と呼ばれている。
古くは、鮎川と呼ばれた。
県南都留郡山中湖村、富士五湖の一つでもある山中湖を水源とし、富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田市で北東に折れる。都留市を経て大月市で流路を東に変える。
相模湖と津久井湖という2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは南にまっすぐ下り、神奈川県中部を貫き平塚市・茅ヶ崎市の境付近で相模湾に注ぐ。
「山中諏訪神社」は、別名「山中明神」とも呼ばれており、9月4日、5日に行われる「山中明神安産祭り」として広く知れ渡っています。
主祭神は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀っており、安産の神として、また縁結び・子授け・子育ての守り神として御神徳を仰がんと広く全国的に集まり年々盛大になています。
恒例9月の安産祭りは、
4日宵祭りの午後6時30分に諏訪神社を出発したお神輿は、村道を練り歩き約1キロ先の神輿の仮宿となる御旅所に1晩安置され、お礼参り・お百度参りの妊婦や婦人で大変なにぎわいとなります。
5日本祭りの午後6時30分に御旅所から出発したお神輿は5,6時間かけて夜更けの諏訪神社へ帰ります。
祭りのクライマックスは、お神輿が神社に到着すると、男性の担ぐお神輿に分け入って、お腹の大きな妊婦さんや生まれて間もない子供を背負った母親、また子宝に恵まれたいと願う女性たちが、お神輿にすがりつく、あるいは担ぐ様子は全国的にも珍しい光景。
神社脇の森の中の喫茶店で朝のコヒーを。
「山中湖文学の森公園」には、 三島由紀夫文学館(徳富蘇峰館とともに、「山中湖文学の森」の中心文化施設。徳富蘇峰館( 近代日本史を語るうえで欠くことのできない蘇峰。その生涯が、 風生庵ー 近代俳句の巨匠・富安風生自筆の色紙や短冊などを展示した俳句の館。江戸時代の民家を移築した和室では、句会なども開催)
蒼生庵ー かつてこの村で使われていた農機具や民具などを展示されている。
他に、 山中湖情報創造館、 山中湖村の公共図書館と森を散策できる。
公園は約26,100坪有る。多くの樹木、山野草、野鳥などが棲息する自然豊かな公園。
情報創造館の文化施設があり、自然と文学のどちらも楽しむことができる。
散策路が木立を縫うように続き、山中湖にちなんだ句碑、歌碑が点在して、俳句、短歌愛好者や自然に親しむ人々の散策コースにもなって、
季節ごとに、色とりどりの山野草が咲き、自然観察、バードウォッチング、ウォーキングなど、
富安風生句碑、露涼し 朝富士の縞 豪放に。湖浮び 芒に沈む 荘の屋根。女とは 母とハ 安産まつりかな
馬に敷く 褥草にも 萩桔梗。赤富士に 露滂沱たる 四遍かな
三浦 環歌碑、うたひめは つよき愛国心を持たざれば真の芸術家とはなり得まじ
高浜虚子句碑、撰集を 選みしよりの 山の秋。万葉集歌碑、富士の嶺の いや遠長き山路をも妹がりとへば けによばず来ぬ
松尾芭蕉句碑、山賤の おとがひ閉づる むぐら哉。前田夕暮歌碑、富士颪 ひょうびょうと 吹き凍りたる湖のもなかに 波青くあがる
金子光晴詩碑、五つの湖がふじをめぐる 山中湖は鶺鴒霧のなかのかるい尾羽。富安風生句碑、安波安波と 富士容あり 炎天下
与謝野晶子歌碑、富士の雲 つねに流れて つかの間も心おちいぬ 山中湖。
伊藤左千夫歌碑、夕ぐれの 三ヶ月のうみ 雲しづみ腕しづまりぬ妹に逢ひし夜は
富安風生句碑、庭として 花野を湖に かたむくる。赤富士に 露の満天 満地かな。
園内に19基ある歌碑が点在、ゆっくり歩いて1時間は必要。
「山中村」は、甲駿相間の多国間交通の要衝で、御坂路は中世に鎌倉往還となり、史書にも事例が見られる。
関東で挙兵した源頼朝が石橋山合戦で敗退した際には、土屋宗遠(三郎)が甲斐へ向かう際に通過しており、承久3年、「承久の乱」に
東山道大将軍として上洛した武田信光は、帰路の加古坂峠において乱の首謀者藤原光親を処刑している。「吾妻鏡」
戦国時代に甲斐国は守護武田氏の内訌と有力国衆による乱国状態となり、村域には1493年に武田家惣領信縄と弟の油川信恵 が争った
八代合戦で戦死したと伝わる山中太郎左衛門の城館跡がある。
郡内地方においては駿河今川氏や相模後北条氏ら他国勢力の侵攻もうけ、明応4年には北条早雲が今川氏と共同して郡内へ侵攻し、
1526年には、武田信虎(信尚)が駿河国梨木平において北条方を破り、1536年に北条氏綱と今川氏が郡内へ侵攻した山中合戦が行われている。鎌倉街道は武田滅亡後の天正壬午の乱においても北条氏が甲斐へ侵攻する際のルート。
山中湖
近世に郡内地方は谷村藩領を経て幕府直轄領となる。
郡内地方は山間部で耕地に乏しく僅かな米麦栽培のほか入会地における山稼ぎや街道添いの駄賃稼ぎ、養蚕や郡内織を特徴とするが、村域においてもこれらの生業のほか、山中湖における漁業が行われていたほか、加古坂峠に口留番所が置かれ運輸機能が強化され、駿河方面と経済圏を形成している。
東海・御殿場駅
「御殿場」富士山の東麓、箱根の玄関口・高原都市の御殿場。家康は、駿府城からここ御殿場でお休みに、今は、東京から約100kmの経済圏内に。
駒門風穴(高さ30mの千畳敷と蝙蝠)-富士登山御殿場口ー秩父宮記念公園ー東山岸邸ーサワリパークーアウトレットースピードウエイ・・。
乙女峠から金時山登山口ー桃源台・芦ノ湖へ、又駿河台から箱根スカイライン、芦ノ湖へ。