syuの日記・気まま旅

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新倉山 外国人旅行者にも人気の名所 さくら 富士山

2018-07-30 | 富士山麓日記
「親鸞」 1173-1262年     貧しい貴族の子
9歳で「慈円」出家・20年間比叡山で修行し、山を下りて「法然」の門に入る。法然、弾圧で、土佐へ流され、親鸞は、越後へ流された。
親鸞越後で結婚、以降布教、赦免され関東で布教後、寺でなく道場にて在家として、「教行信証・歎異抄」を残す。
遺骨を納めた堂が、後の「本願寺」。
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧で、「浄土真宗」宗祖。法然は、浄土教の僧。
親鸞は、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。
独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
親鸞の念仏集団の隆盛が、仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中での要出典と云う。
宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。これが、「浄土真宗の立教開宗」・「顕浄土真実教行証文類・教行信証」が完成。-寛元5年の1247年、とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

「稲田の草庵跡」- 西念寺本堂・1214年、(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、1216年「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。
笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。
親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、1224年、草稿本を撰述したと伝えられる。
東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残った。1272年、この地で没したとある。
関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれ、その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。
それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続していると云う。

                           親鸞像


「如来寺」  下吉田新倉  浄土真宗本願寺派、本山ー西本願寺。

本尊 阿弥陀如来(寺宝等ー古本尊、金剛大日如来 他)

               本堂・ 経 堂、庫裡、山門、鐘楼、1804年創建


如来寺は、「扶桑風土記」によると、
堂ヶ尾(堂顔)の地にあった観音堂を、709年、救願寺と改号し、菩薩戒を修する道場としたのが始めである。
弘法大師来麓の折、金剛界大日如来を賜り、真言宗として栄えたが、その後荒廃した時期があった。
1228年、時の住職浄円が聖徳太子旧跡巡拝中の親鸞聖人に帰依し、浄土真宗に改めたと云う。

   河口湖・浅川地区の外川弥兵衛も帰依し、法名浄心を賜る。1544年万蔵寺と改号、1718年如来寺と改め現在に至る。


「正福寺」 浄土真宗の寺。
                       正面


                       本堂


                       説明板


                         堂                     


                      親鸞布教の像


                       山門と鐘楼


                       入山川(宮川)


「新倉山浅間公園・神社」

三つ峠山は、御坂山地東端・山頂は河口湖と西桂町の境にある。南東は都留市の桂川渓流になる。中でも、屏風岩は岩登りで知られている。
三つ峠は、富士山の眺望が特に良い峠で「三つ峠の富士」としても知られている。
山頂は、開運山(1785m)御巣鷹山(1770m)毛無山(1740m)の3峰に分かれ三峰山とも云う。

                         マップ           


 山梨県富士吉田市は富士山麓の標高約650mから850mに位置する富士山北側の玄関口で、間近にそびえる霊峰は町中のどこからも望むことができます。 富士五湖エリアで随一を誇る富士山ビュースポット「新倉山浅間公園(忠霊塔)」は、その壮観な風景で国内外から訪れる人を魅了します。 特に春には、桜、富士山、五重塔という日本のシンボリックな風景を一枚の写真に収めることができるスポットとして訪れる人が絶えない。
 
                         富士山と桜

.
「忠霊塔」-山梨県富士吉田市の新倉山中腹にある戦没者の慰霊塔が。

              公園内650本余りのソメイヨシノ・富士山と富士吉田市内が


                      咲くや姫階段ー388段ある。


「新倉山浅間神社」
                        境内


                        社殿

                        

 
                   2.5mから分岐している「子育て神木」


「富士急行線 下吉田ー月江寺間」
古くから富士登山の拠点となっていた大月と吉田(現在の富士吉田市富士駅)は、八王子から大月まで延びて来た中央東線(中央本線)を結び、東京からの登山客らを運ぶために敷設された富士馬車鉄道と都留馬車鉄道による馬車鉄道を前身とする。両社は軌間が異なっていたため、途中で乗り換えが必要で、これを解消するため1921年に両社が合併し、大月 - 金鳥居上(後の富士吉田)間の軌間を統一・電化して電気運転を開始した鉄道。
馬車鉄道時代からの併用軌道では所要時間もかかり、急増する旅客をさばききれなくなったため、1926年に設立された富士山麓電気鉄道へ1928年に全線を譲渡し、1929年に新設の鉄道線に切り替えられ、馬車鉄道以来の軌道は廃止された。
これにより2時間かかっていた大月 - 富士吉田間の所要時間は1時間以下にと短縮され、富士山麓は東京からの日帰り観光圏内となった。
都留馬車鉄道は一時籠坂峠に至るまでの路線を有しており、明治から大正期まではそこから東海道本線(今の御殿場線)御殿場駅前までを結んでいた御殿場馬車鉄道と連絡していたこともあったと云う。

                          単線の富士急 

 
これで富士吉田は終わります。

織物で栄えた下吉田・月江寺へ

2018-07-27 | 富士山麓日記
富士吉田は、県南東部に位置し、人口5万人の都市、「吉田うどん」で知られているが、絹屋町であった。
織物で栄えた下吉田の中でも、本町通り(国道139号)の東側には絹織物問屋が軒を連ね「絹屋町」と呼ばれていました。毎月1と6のつく日に市が開催されると、全国から商人が集まって軒先で取引を行い、夜は西裏のまちを楽しんだと言われています。現在でもこの絹屋町界隈は“商人の町”という情緒ある街並みの雰囲気を感じることができます。

「富士山」
北半分をとりまくように位置する「富士5湖」-噴火で流出した溶岩が谷を堰き止めてできた云われている。
湖には、富士山の伏流水が湧出する。富士5湖の不思議な現象に、山麓に訪れる寒気と共に、山中湖と精進湖には、氷が張る。
西湖・本栖湖(精進湖とほぼ同じ高さ)氷結しない。湖面の温度差が要因か。

                       月江寺から見た富士山


富士山を一周すると、静岡県田子の浦・富士市・富士宮・人穴・朝霧高原・田貫湖・山梨県の本栖湖・精進湖・青木ヶ原・西湖・河口湖・富士吉田
忍野八海・山中湖・陸上自衛隊(須走)・静岡県の御殿場へ。


                      6月上旬、富士山は、雪が。


「月江寺」ー富士吉田・山号ー水上山。

       臨済宗妙心寺派 の寺・本尊ー地蔵菩薩・札所ー甲斐百八霊場第二十九番。


市域を流れる「宮川の北西岸」に立地。
「甲斐国志」によれば、かつては下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)の祈祷所であった天台宗寺院で、称光院と呼ばれており、後に廃絶したという。
甲斐国では中世に臨済宗向嶽寺派の本山である塩山向嶽寺(甲州市塩山)が開かれ各地に臨済宗を布教させていたが、開祖抜隊得勝の法嗣である絶学祖能は都留郡下和田(大月市)で花井寺を開いた後、上吉田において祥春庵を開き、富士道者から勧進して称光院を再興したと云う。
「称光院」は、臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たした。
甲斐国社記・寺記・では日本武尊以来の霊場であったとする伝承を伝えつつ、再興を室町時代の1395年、であるとしており、富士北麓の年代記である「勝山記」では、戦国期の享禄2年の1529年、月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。
寺領の寄進や安堵の書状は残されていないものの、1591年、には加藤光吉から下吉田に2石を寄進した加藤氏判物状の写があり、
「国志」によれば小林尾張守の孫某から田8石余を寄進され、1649年、将軍家光から寺領16石を安堵する朱印状を得たという。
江戸時代には下吉田の現在地へ移転する。寛永年間には江戸の海禅寺から禅心聖悦が入寺し、臨済宗妙心寺派に転派した。
祥春院や正覚寺など市域をはじめ各地に20か寺の末寺があり、10数軒の門前町を形成したと云う。
江戸期には、国学において廃仏論が主張され、月江寺では宝永3年の1706年、鎮守社としていた下宮浅間神社との鎮守争論が発生し、江戸後期には収束するものの明治初期に再燃し、県内では類例の少な廃仏毀釈の事例となっている。
江戸期、1726年、1836年、数次の火災により伽藍を焼失・江戸後期には伽藍が再建され、この際に造られた多くの「仏像」を有していると云う。



                        山門


                      本殿ー2010年再建


                       富士火山石が


                       六道地蔵尊


「六道地蔵尊」
浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、また道祖神(岐の神)と習合した為、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。



                        富士山湧き水


                          池


「新倉山 (1180m)」
「御殿 (1184m)」・「 霜山 (1307m)」・「三角点峰「木山」 (1582m)」・「木無山 (1732m)」
「三つ峠山荘・ 四季楽園 (1730m)・ 三ッ峠山 (1785m)・ 屏風岩・ 八十八大師 (1590m). 馬返し (1310m)・ 股覗き・ 大曲り (1085m)
達磨石 (950m)・ 憩いの森公園・ 神鈴の滝・ 山祇神社・ 三ツ峠グリーンセンター (650m)ー富士急「三つ峠駅」。

                   屏風岩ルート 前方新倉山。


「大正寺」ー寶松山と号し、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院。

約750年前(文永年間)に祖門六老僧の随一源誓上人に創設・宗祖親鸞聖人御真筆の無碍光如来の画像を安置した草庵。

                        宮の下にあった。


文安年間の1440年、本願寺中興の祖の「第8世蓮如上人」が当地を御巡錫した際、藤原氏の末裔であった当国城山(本郡福地村字新屋の南にあり
城主の「遠山伊豆守重正」が蓮如上人に帰依し法名乗欽を賜り、その後、草庵に入り、ここを念仏道場として水石山新念寺と称したとある。

                文安3丙寅年(西暦1446年、約560年前)


第三代住職正念の時、寺号を新福寺と改悟号・1627年、本堂と庫裏を焼失し、1644年、寺基を現在地へ移転。
第五代住職正意の時、1668年、
                    号を大正寺と改めた。


                     山門・鐘楼


                      親鸞像


     初代より約560年、前身の草庵も含めれば約750年の歴史を誇る(現住職、第17代正尊)

 
          十二代住職正観の時(文化・文政年間)に鐘楼と庭園を建立


次回も浅間公園へ。

富士山 石灯籠が続く長い参道 北口浅間神社

2018-07-25 | 富士山麓日記
「伝説」ー葛飾北斎の北斎漫画より、前鬼・後鬼を従えた「役小角」
鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。
ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。
こうして、架橋は沙汰やみになったという。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。
富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。
続日本紀ー小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては、続日本紀・巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。
日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられていると云う。

「長谷川角行」-人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市人穴)。角行はここで修行。
1541ー1646年・江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれ、俗名、長谷川左近藤原邦武。

「伝記」ー角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にすると云う。
応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記されたと云う。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、1560年、
「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」という独特の呪符や曼荼羅を授かった。「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
後継者は、日行日玥、赤葉玥心、、前野月玥、村上月心と続いた。
村上月心の死後は、月心の二男、村上光清(1682年 - 1759年)の光清派と、月行劊忡から食行身禄・1671年 - 1733年)への身禄派がある。
そこからさらに清康派、伊勢派、出雲派など、俗に「八百八講」と呼ばれる多数の派を生んだと云う。
その中から、食行の女花子に連なるとする小谷三志が神仏混合を拝して神道の一派として不二道を成し、明治維新のころ、そこからさらに分かれて、
柴田花守率いる實行教と穴野半率いる扶桑教が生まれた。角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていったと云う。

「冨士教」-角行から村上光清に連なる系統(御法家)から、角行直系を称する冨士教が生まれ、冨士教は角行及びその直系の8代までが教えを記した「御巻き」という文書(御法家としての秘宝であるという)を保管しており、角行の直系の教えを教義としている。
「富士山」と「藤」(角行の姓にちなむ)が組み合わされた紋にも角行の直系と云う。

「金鳥居・かなどりい」-古くは「唐銅鳥居」と称し、唐から製法が伝わった金属ということで青銅のこと。
「唐銅鳥居」が訛って金鳥居となたっとされている。
金鳥居は「一の鳥居」という別称があり、金鳥居をくぐった先に続く吉田口登山道を登っていくと富士山頂に至るのですが、その道中の一番初めにある鳥居という。富士山の信仰登山者を迎え入れる「門」として、又俗界と富士山の信仰世界とを分かつ「境界」として建立し、金鳥居を歩いてくぐると、富士山の信仰の世界と考えられ、神聖な存在と云う。
記録によると、1788年に初めて建立され、幾度と暴風雨などの影響で倒壊と建立が繰り返され、現在の金鳥居は昭和32年に建立。

中心高は 9.88m、 明(柱と柱の間)7.9m、笠木巾 13.4m 柱の太さ0.88m・扁額には「冨士山」の文字が。


「御師」-平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。
熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をしたのが熊野御師であった。
熊野では当初参詣のつど両者間で契約していたが、次第に御師を「師」とし「先達」が率いてきた参詣者(道者)を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。
鎌倉時代には武士にも広まり、室町時代には農民などの庶民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢神宮[1]・富士講・松尾・三嶋・白山・大山などの御師も活躍した。特に出雲大社が源頼朝の御師を行った事は「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録を示したものに記されている[2][信頼性要検証]。
明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、1869年、に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。
御師側はこうした動きに抗議したものの、1871年、御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入、百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して「扶桑教」を結成するなど、宗教的な活動を維持しようと動きが。

                           御師・旧外川宿坊


富士山駅から南約350mの金鳥居から国道139号線に沿って御師の家・富士山登拝する人々の宿泊請負や登山指導をする神職で、建物は、「北口本宮
富士、浅間神社」に所属し、御師の住宅形態を残している。1861年頃の建築で、現在数十軒あるが、観光の一つに。

                             浅間坊


白衣を着け、鈴と金剛杖を手に集団登拝する人も。
                             番城屋


                            山神社碑


「北口本宮富士浅間神社」
139号線沿いで、富士駅から南約1.5kmに鎮座。
日本武尊が、現在地のやや南の「大塚丘」に創建したと伝わる。788年、「甲斐守 紀 豊庭」が現在地に造営したとある。

                        石灯篭が続く参道


                           鳥居




                           門楼


東宮本殿前には、老杉巨木の神木が。
                           社殿


                           舞殿


                           神木


                           狛犬


                           献上樽酒


                       富士山湧き水・橋を渡した水路が、




                          角行の立行石


「吉田の火祭」は、夏の富士山の山じまいのお祭りとして毎年8月26日、27日におこなわれる。
北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭り、元来、火祭は、浅間神社ではなく、諏訪神社の祭礼であり、「甲斐国志」においては、上吉田村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火を焚くとあり、上吉田の産土神であると記され、火祭は、諏訪神社の神主である佐藤家を中心とした諏訪神社の祭りで、浅間神社の社司や御師が関わるべき祭りでもあったと伝たわる。
26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は、参拝者で賑わう参道を下って表通りに出て、氏子町内を一円し、暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明70余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは夜遅くまで賑う。27日午後7時頃、2基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原を廻ると祭りは最高潮に。
27日を「すすき祭り」ともよんで、神輿と見物客とが一体になって、夕闇の境内を廻る。

      吉田の火祭り・島田市の大井神社帯祭・稲沢市国府宮はだか祭り「日本三奇祭」。


本州中央部・太平洋側に位置し我が国最高峰3776m。均整の取れた典型的な成層火山で世界遺産の「富士山」。
次回も下吉田方面へ。

哲学の江戸川 江戸時代から今に伝わる土木工事 

2018-07-23 | 気まま旅

「江戸川」
徳川家康が江戸に入府する前には渡良瀬川の下流の「太井川」と呼ばれる川で、入府後、江戸に流れる当時の利根川を太井川に流れるようにつけかえる
治水工事が行われ、太井川は利根川と呼ばれるようになり、さらにその後の治水工事で利根川が銚子の方を流れるようになり、利根川の支流となって江戸川とよばれるようになった。
今上落を介しての水田へ水の供給、そして水運に利用され、流山橋の少し上流の川の中に旧流山橋の橋脚基礎を見ることができる。
旧流山橋ができる以前は松戸と金町を結ぶ「矢切の渡し」と同様な「丹後の渡し」といわれる渡し船が運行されていた。
川の水位が低くなると昔の船着き場の杭と思われるものが顔をのぞかせ、江戸川による水害を防ぐために現在の江戸川の堤防が建設され、流山広小路の
今上落沿いにあった水運によってできあがった街並みは大きくかわったと云う。
現在の南流山も区画整備事業が行われる前は新川耕地と同様に一面、水田地帯に。

                兵舎の跡地の「千葉商科大学」が。桜並木が見事な校庭


陸軍教導団と野砲兵部隊がおかれた国府台・市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。
用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となったと云う。
国は、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設した。
1885年の明治18年、のことで、明治18年、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。
教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター
国府台病院である。

明治5年・ 東京教導団兵学寮病室として創設。明治32年、国府台衛戊病院と改称。昭和11年、 国府台陸軍病院が。昭和20年、厚生省に移管して、
国立国府台病院発足。昭和28年、 附属高等看護学院を設置され、 昭和34年に、市川市立伝染病棟を併設。
一時教導団病院のあった「里見公園」
                 千葉商大90周年の旗が        


教導団が廃止になった後、跡地に野砲兵第十六連隊が開設され、この連隊は、1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍を行ったとある。
1908年の明治41年、野砲兵第十五連隊が国府台に置かれ、大正8年、野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。
野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となったと云う。
砲兵隊の機械化に伴い、野砲兵から野戦重砲兵と改編される部隊が出てくるが、日露戦争時の独立野戦重砲兵連隊が、旅順、奉天会戦に参加後改編され、大正7年、初めて野戦重砲兵第一連隊と称し、大正11年、国府台に駐営するなど、大正期の終わりから昭和にかけて国府台には野戦重砲兵第一・第七連隊、高射砲第二連隊が配備、これだけ、多くの陸軍部隊が配備されながら、実際に残っている遺構はわずかである。
松戸街道から里見公園方面へ向う道路は、通称「裏門通り」と呼ばれ、野砲兵第十六連隊(後に野戦重砲兵第七連隊が同じ場所に入った)の裏門があった。その裏門跡に、わずかに裏門関連の遺構と考えられるレンガ塀の一部が残っていると云う。
旧軍関係の施設、設備の残欠で残っているのは、旧千葉県血清研究所となった武器庫の建物を除けば、それくらいか。
日清、日露両戦役とその後の権益獲得は、日本帝国主義のアジア侵略の大きな布石となったが、その武力発動の一つの基地に、国府台はなっている。
真間山弘法寺には伏姫桜という大きな枝垂れ桜の木があるが、その根元に近い場所に、小さな「国府台砲兵之碑」が建っている。
一方、国府台にあった国府や古墳群、国府台城などの遺跡は、戦後の学校建設や住宅開発などによる影響もあるが、明治期から陸軍が駐留してきて、兵舎などの施設の建設、錬兵場の整備などで、土地が掘り返されたために、かなり破壊されと云う。
特に国府台城の土塁、空堀といった地表面にある遺構は、明治期からの陸軍教導団、野砲兵連隊の駐留、戦時中の高射砲陣地敷設等による改変を受け、江戸期に書かれた絵図と比較しても、原形を留めていない部分が多々ある。
明治期以来、陸軍の下士官養成を行ってきた教導団の廃止とそのあとを受けた陸軍野砲兵連隊の開設、大正8年以降も変遷があったが、昭和20年、の敗戦になるまで、国府台界隈の松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていたのだ。

                         校舎


昭和2、文学博士「遠藤隆吉」が、金45万余円を出資して財団法人巣鴨学園を創設するとともに、巣鴨高等商業学校設立の認可を申請。昭和3、文部省告示第51・52号をもって巣鴨高等商業学校を東京府下西巣鴨町に設立する。
昭和5、高等学校高等科若しくは大学予科と同等以上と指定される。昭和19年、認可され巣鴨経済専門学校と改称する。
昭和20年、戦災により、校舎及び全施設焼失のため、千葉県津田沼町鷺沼 に位置変更。
昭和21年、市川市国府台、現在地に移転 。昭和25年、商学部商学科を開設。・・・・。単科大学として伸びている。

                          校舎 


                         球技場 

 
                        中央並木通り


                 全国大学対抗簿記大会で団体戦トップ4位独占・5連覇。 


「国府台神社」
下総台地の最西端、江戸川を隔てて都に向かい合うこの地域は、市川市でも古い歴史をもつ。
国府台には法皇塚古墳が現存し、国府台の地名は、下総国府が置かれたところから付けられた。
国府台と並んだ国分の台地には、聖武天皇の国分建立の詔によって国分僧寺と尼寺が建立し、市川市の西部地域は、下総国における政治と文化の中心地。
平安時代の中ごろには、平将門の乱をはじめ、平忠常の乱などによって国守の力が衰退していき、「源頼朝」は、治承4年源氏の再興を願って下総国府に入り千葉常胤、平広常などの援助のもと兵を集めて鎌倉に向かいます。国府台は、源氏再興の出発点となったところ。
戦国時代、太田道灌が国府台に城を築き、その後、この城は里見、北条両氏の古戦場として知られる所「里見公園」。

                      歴史を感じる「国府台神社」




                           拝殿


「江戸川」は、
茨城県五霞町・千葉県野田市で利根川から分かれ、茨城県・千葉県・埼玉県・東京都の境を南下して東京湾に注ぐ、流路延長約60kmの川。
流域面積約200km2の一級河川ー左岸、千葉県市川市、松戸市、流山市、野田市、右岸には、都江戸川区、葛飾区、埼玉県三郷市、吉川市、松伏町、春日部市(旧庄和町)、杉戸町、幸手市、茨城県五霞町をかかえ、首都圏の洪水防御、生活用水の水源の安定的な確保、都市に残された貴重なオープンスペースとしての河川空間など重大な使命を担っている。
現在の江戸川の流れは、利根川水系の河川改修工事に伴い江戸時代初期に誕生したもので、当時から「江戸の運河」として舟運に盛んに利用され、主要な水上交通ルートとして栄えてきた。
                    私は、江戸川を「哲学の川」と呼んでいる。


         なぜが、塩・万葉集・食料・文人・画家・人生・野菊・渡し・関所・鎌倉幕府・・・・・・。










                    途切れることなく江戸川は、東京湾に向かって。


「水神宮」




「胡録神社」
行徳の街の鎮守様である「胡録神社」。行徳は製塩が盛んな地域であったため、天候に恵まれ塩が多くとれたことを神に感謝するため江戸時代より祭礼が盛大に行われていたようだ。今でもその伝統が残り、3年に一度の盛大な祭礼が行われている。雄と雌の獅子頭が町内を練り歩き、樽神輿・大人神輿・子供神輿の渡御も行われるなど、盛大なものだ。





「極楽寺」-真言宗豊山派の寺。
                        神社と隣り合わせている。




これで千葉県は終わります。

戦後文豪達が住んでいた本八幡、市川真間

2018-07-20 | 気まま旅

「下総国分寺跡」    市川市国分にある。
天平13年の741年、聖武天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、「金光明四天王護国之寺」として建立。
下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺の跡で、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、
「金堂・塔・講堂・・が建てられた。
昭和40年~41年に、実施された発掘調査では、東西31.5m・南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見されている。
その基壇の中心から北西40mにあたる墓地内に、東西26m・南北18mの講堂の基壇があり、さらに金堂の基壇の中心から西へ39mのところに、
18m四方の方形の塔跡の基壇が判っている。
平成元年から5年の発掘調査、寺の範囲が東西300m、南北350mほどになることや、寺づくりや下働きをしていた人がいた場所などが。
国分寺の屋根瓦を焼いた登窯の跡も、この近くから発見。
瓦にある文様は、当時瓦の文様に多く用いられていた蓮華文ではなく、「宝相華文」と呼ばれるもの。
「宝相華文は中国で考えられた当時の流行文様で、唐草の文様が花のように見えるところからこの名がついている。」

                         JR本八幡


「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍(母熱田大宮司藤原季範の娘・源義朝嫡男)
伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、
治承4年の1180年、に挙兵したが、その8月「相州石橋山の合戦」で平家との戦いに敗れ、同国土肥郷真名鶴岬(現真鶴岬)から小船で安房国へ逃れた。安房国へ逃れた時に頼朝が上陸した地点については、
伝承をもとに数か所の地名があげられ、安房郡鋸南町竜島と館山市洲崎は、その代表的な地点として有力視されてきたが、
「大森金五郎文学博士」の研究により、「吾妻鏡」の「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に着かしめ給う)という記載などから、現在の竜島付近が上陸地点として認定されたとある。
安房国に着いた頼朝は、
千葉氏・上総介広常、など房総の武将の加勢を得て、安房・上総・下総と順次支配下にした。房総で勢力を蓄え態勢を整えた頼朝は、源氏再興を目指し再び平氏討伐にのりだす。
頼朝は、やがて平氏を倒し鎌倉に幕府を開設して征夷大将軍となった。千葉県では、かなりの働きをしている。

                       本八幡駅周辺マップ


「市川市」 千葉県北西・江戸川を隔てて東京都江戸川区と接している市、地名は、「市」が開かれていた所からと云う。
昭和9年、市川・八幡・中山と下総国分村が合併、その後、行徳・大柏・等が編入して都市化が進んでいった。
北部は「下総台地」・低地は埋め立てと京葉工業地域に、下総台地には古代の遺跡が多い「曽谷貝塚・姥山貝塚(集落遺跡)」、大化の改新の国府台
国府が置かれている。下総地方の政治・文化の中心となっていた。競馬場のある中山は、「日蓮宗五大の一つ、法華寺」で、その門前町であった。
忘れてはならないのが軍の下士官養成機関である教導団があった。そのため桜並木が今でも名所・その跡地に大学が移転している。

                      私鉄京成八幡、踏切から


「葛飾八幡宮」 JR本八幡駅北約500m。

祭神ー息長帯姫命・誉田別命・玉依姫命   創建ー9世紀末・宇多天皇の勅願。

                京都の石清水八幡宮を勧請して建立、大鳥居と参道


武神として「源頼朝・徳川家康・大田道灌」などが崇敬を集めた。

                            楼門


                      中央に神社が描かれている。


                  市川梨の育ての親「川上善六」の記念碑がある。




                            中門


                            社殿


                       千本公孫樹・銀杏(国指定記念物)


                      説明板 一樹(国指定記念物)


                         源頼朝駒どめ石


                           大樹


「真間」
1914年の大正3年、京成電気軌道(京成電鉄)が開通し、宅地化が進み、沿線沿いに高級住宅街が開発された。
国府台里見公園に「北原白秋・旧宅 紫煙草舎」常備展示されている。
大戦中被災者が移転し、その中に、「永井荷風・幸田露伴・井上ひさし・画家の東山魁夷等が移住した。

                        真間文学の道


             「幸田露伴・文」小説家、随筆家 市川の地名は作品にも


                     市川、真間は、東文化の中心


                      万葉集歌枕の地


                     真間の継橋が島と島に


                室町時代の連歌師藤原実長も継橋を詠んでいる。


今の鉄道は、京成本線、真間・八幡駅・北総開発鉄道北国分駅・都営地下鉄新宿線八幡駅・地下鉄東西線行徳駅・JR武蔵野線市川大野
京葉線市川塩浜駅・二俣新町駅・総武本線市川・本八幡。
道路では、京葉道路市川IC・湾岸線市川IC・国道14号線と都心を結んでいる。

                        永井荷風




                         北原白秋


「真間川」
県西部で江戸川から分かれ、東京湾に注ぐ、利根川水系の一級河川。
全長8.5km・流域面積65.6km2、流域市街化率約65%の、典型的な都市河川である。
「万葉集」にも詠われた「真間の手児奈伝説」に登場する「真間の入り江」の跡とされている。

市川市市川四丁目で、江戸川左岸の堤防に作られた水門から分派する。
東に流れ国分川を合わせ、徐々に南東に向きをかえ大柏川を合わせ、南南東や南南西に緩く向きをかえつつ南に流れ、市川市の原木で東京湾に注ぐ。
途中、船橋市が市川市の方向に突き出た所を通り過ぎるが、流路の大半は市川市内。
大柏川・国分川を合流し、江戸川に注いでいたが、海沿いの砂州を横切って直接東京湾に注ぐ放水路が掘削され、流れの方向が逆になったと云う。

    真間川の東京湾に至る放水路は、かつて境川と呼ばれ、川べりの土手には桜並木が植えられ、花見の名所に。


                          江戸川へ


次回も、国府台。