syuの日記・気まま旅

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房総丘陵と鯨の骨が出土した「茂原」

2018-12-31 | 気まま旅
茂原は、旧石器時代から住んでいる。市内北西端の桂字神田山の関東ローム層から、ナイフ形石器、石の削りカスなどが発見された。
遺跡や貝塚は、ほかにも縄文式土器の破片や土偶などが出土した石神貝塚、縄文時代の人骨10体が見つかった下太田貝塚、弥生時代中期から後期の作と思われる土器、磨製の太形石釜、石包丁が出た宮ノ台遺跡などが。
市庁舎建設現場からナガスクジラの化石や貝類が発見されたことから、1万年ほど前の平地部は、ほとんど海底であったと考えられ、やがてこの海は、5,000~6,000年前の時代に、土砂のたい積と隆起の繰り返しによって陸地化している。
4世紀に大和朝廷が確立してからは、市内にも古墳が築かれ、双子塚古墳からは直刀や杯型土器などが、長尾古墳からは陶棺が掘り出されている。
中世に入ると、藻の茂る原野に手を入れ、牧野として整備したのは
「藤原黒麻呂」でした。
宝亀5年の774年、上総介に任じられた黒麻呂とその子孫によって開墾された牧野は、広大な荘園を形成、荘園も武士階級の台頭とともに没落、戦国時代に消滅し、やがて武士の所領となっていった。

当時、里見氏と北条氏が反目する中で、付近は長南武田氏、土気酒井氏、東金酒井氏と黒熊大膳(本納地域)が勢力を張って、黒熊氏は、酒井氏とともに里見氏に属し、一支城としての役割を担っていましたが、
永禄7年の1564年、国府台合戦で里見方が北条氏に敗れたのを機に、酒井氏が北条側に寝返ったことから、両者の間柄は危機に。ふ
黒熊大膳の奸計虚しく、里見の援軍を迎えぬまま本納城は落ち、大膳も自害し、本納の蓮福寺の裏山は「本城山」と呼ばれ、九十九里平野を見渡せるここに「黒熊大膳の居城」があった。

茂原市本納は、「荻生徂徠」1666-1728 ゆかりの地
儒学者で、父侍医、禄を失い貧因の少年時代を過ごしている。学問に親しむ、31歳で老中「柳沢吉保」の儒臣となる。
5代将軍綱吉に儒学を講じ、学者として天下に名を高めた。
赤穂浪士を切腹を論じている。綱吉も徂徠説を採用して。「彼らの行為は、義であるが、公儀の許しもなく騒動を起こした以上、法のよる処罰、、」
8代将軍吉宗の諮問を受け「政談」を執筆し、享保の改革の陰の人。

茂原市は、県中部、房総丘陵北東部と九十九里平野のまたがる市で、九十九里平野と海浜地域の「農水産物集積地・上総木綿生産地」である。

日蓮宗「実相寺」           仁王石像          日正稲荷大明神
    

創建ー1634年・三代将軍家光公時代で、開基ー旗本、中島彦右衛門(本山鎌倉圓覚寺)

                      本堂


                 茂原公園前(天の川)と桜並木  お花見の頃の写真です。
    

                     公園入口
    

                桜・つつじの名所ー茂原公園ー


               公園周囲に「染井吉野」約2850本


                     弁天湖


                全国お花見1000景選の名所


                     ライトアップされる


               JR「茂原駅」西約2km


                   弁天堂が          広場では、イベントが
    

              園内には・美術、郷土資料館
    

茂原は、古代遺跡が多い所で、藤原氏の荘園が開かれ、、中世、斉藤氏所領を経て、近世は、旗本領地となった。
1606年「六斎市」が開かれた。

  

本納城は、尾根を利用した城域の山城平山城ー1529年築城?1590年廃城で城主「黒熊大膳景吉・土気酒井氏」小田原の役を経て徳川直轄領に。

  

「酒井氏」は、戦国時代上総国ー東金城ー根拠として同国北部を支配している。
地方領主土気の「酒井胤治」は、里見氏方に寝返り、里見軍を後護して北条軍を阻止した。その子孫は、徳川氏の旗本として仕えている。

    

         人力車(南総鉄道)
    


            天然記念物・鶴枝ヒメハルゼミの発生地


「日蓮」 1222-82 安房生まれ、日蓮宗開祖・立正安国論・京都で「日像」が長年努力し、「妙顕寺」勅願寺とされた。

「本門法華宗大本山ー鷲山寺」
1276年領地「斉藤兼綱」の館を「寺」とし、「藻原寺」等が建立せれている。


鷲山寺、山号ー長国山、宗派ー法華宗本門流、本尊ー三宝尊。創建年ー1277年、開山ー日弁・開基ー小早川内記。
塔頭が、二院ある(観妙院、妙本寺)。

「日蓮大聖人御尊像」(伝 日法聖人御作)。

開山以来、四度の火災に遭い諸堂を消失、現在は、本堂、庫裏、開山堂、鐘楼堂、水行堂、仁王門、香神堂、長屋門、などを備えるが仮設のものが多い。元禄大地震による、大津波の犠牲者供養碑がある。
歴史ー1264年、日蓮は小早川内記の帰依を受ける。
   1277年、日弁は小早川内記の外護により、鷲山寺を建立。
   1535年、火災により、焼失・再建。
   1705年、火災により、焼失・再建。
   1862年、火災により、焼失・再建。
   1954年の昭和29年、茂原市主催の打上花火により、本堂は焼失すると、焼失・再建を。

                   仁王像
  

              元禄津波供養塔ー市指定有形文化財
    

「鎌倉時代」この地を支配していた領主斎藤兼綱は笠森に来ていた日蓮上人を館に招いた 。
日蓮は清澄寺で立教開宗宣言(1253)をした後地頭に追われて鎌倉に向かう途中 。
話を聞いて一族は日蓮に帰依し、ここに最初の法華道場を造った。

「藻原妙光寺」
    

「日弁」1239- 1311
鎌倉時代の法華宗(日蓮宗)の僧。日辨とも。越後房。越後阿闍梨。中老僧の一人。
1239年、駿河国富士郡に生まれ、1251年、天台宗の滝泉寺にて出家。
名を宥弁と称す。1275年、身延山に日蓮を訪ね、「真言亡国とはいかなる義なりや。」と詰問、ものの見事に論破されると云う。
弟子となることを許され、「日弁」の名を賜る。
1277年、小早川内記の外護により、鷲山寺を開山。
1308年、山城国へ赴き布教し、青柳山本門寺(現・宥清寺)を開山。
1310年、陸奥国へ布教の旅に出、陸奥国伊具郡(現・宮城県角田市)で折伏を終え鷲山寺への帰途、暴徒に襲撃され凶刃に倒れる。享年73歳。
遺体は弟子の手で鷲山寺を目指したが、常陸国赤浜(現・茨城県高萩市)で荼毘に付し、供の者たちは残灰で像を造り、像のみ鷲山寺に帰山した。
角田市に殉難碑。高萩市に墓所、赤浜願成寺52世日有代に願成寺壇信徒と寶塔寺、成願寺等の有縁者による墓域整備がされている。

「小早川内記」
小早川氏は日蓮と1264年,「小松原法難」の後、鎌倉への帰途、かつて茂原の領主であった小早川内記の屋敷に招かれ一夏九旬の期間を過ごされた。
その時の縁をかたちにせんものと、1277年、弟子の日弁に命じて 上総鷲巣の地に一寺を建立された。
日弁聖人は堂舎を創建して「長国山鷲山寺」と命名し、七堂伽藍を供え法華宗の大本山としての威容を誇ったという。

     日蓮上人は山中腹に立像ー日弁・小早川氏は正座合掌し日蓮に向っている二体の像
  

「藻原寺」
1312年、 藤原範綱は大檀那となり、妙光寺を建立。1511年、 地震により、祖師堂は倒壊する。その後、再建。1630年、身池対論に妙光寺から日東が臨む。1868年、 寺号を「藻原寺」と改称。

1932年、 藻原寺78世・日我の発願により、山門を再建。
 
  

文化財ー鋳銅鰐口(千葉県指定有形文化財)・藻原寺文書(茂原市指定有形文化財)・石造釈迦如来立像(茂原市指定有形文化財)
藻原寺本堂唐門向拝彫刻(茂原市指定有形文化財)・武志伊八郎信常彫刻など。

    

旧末寺は、全国に、(日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。)
市場山妙弘寺(茂原市茂原)塔頭・藻原山東光院(茂原市茂原)塔頭・寂光山本照寺(宮古市愛宕)・常寿山雲山寺(仙台市宮城野区小鶴)
常光山本敬寺(千葉市中央区本町)・増長山高伝寺(千葉市若葉区加曽利町)・本覚山上行寺(千葉市緑区茂呂町)・法龍山浄泉寺(千葉市緑区)等。

    

建治3年の1277年、日蓮大聖人の直弟中老である日弁上人により、この地の小早川内記の邸宅に建立。
日蓮大聖人が小松原の法難の後、鎌倉への帰途、笠森観音堂で一夜を過ごし、翌朝この地の城主小早川内記が訪れ、大聖人を自宅に迎え、大聖人が身延に入山した4年後、弟子の越後阿利日弁上人に命じ、鷲山寺建立を託された。
    

「戒壇塚」-多宝塔式、高さ25m。茂原市のシンボルとして親しまれている。


「大堂(祖師堂)」- 間口12間、奥行き14間4尺、176坪を有する本堂。 開山、日蓮大聖人生身の御影(ご尊像)をお祀りしていると云う。
「華経殿」-当山の守護神「華経房日徳尊儀」が安置。
「石像」 釈迦如来立像ー1691年造立。茂原市文化財。胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像。

                   鐘楼堂は、1688年建立
    

                「藻原寺の裏手・茂原公園」


「石造釈迦如来立像」ー市文化財
胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像で、合掌印を結び、衣文の彫法も浅く、整然としている。
慈愛に満ちた童顔で、現世を静かに見守る姿は素晴らしく、かなりの石工の手になるものであることがうかがわれる。
釈迦如来の印相は、通常説法印であるが、この像のように合掌印は珍しい。
これは石彫りの制約から彫り易さや、強度の点を考慮したものと思われる。
台座は蓮華座で、銘文によると元禄四年の1691年、に造立したとある。

          市内に現存する石仏中最大のものでかつ彫技も


土気は「とけ」と読む 古城の土気城へ

2018-12-27 | 気まま旅
成田国際空港へアクセスする特急「成田エクスプレス」が当路線を経由し、千葉駅以西は、錦糸町駅 - 千葉駅間は、各駅停車の電車が走行する総武緩行線と、快速電車や特急列車が走行する総武快速線が並行する線路別複々線となっている。
この区間は「総武線」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は全線、ローカル列車は、千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多い。
上総国・下総国と武蔵国を結ぶことから名づけられた。
1894年の明治27年、市川駅 - 佐倉駅間が開業し、同年、江戸川を越えて本所(現在の錦糸町)に達し、明治30年、に成東、銚子まで延伸され全線が開通し、佐倉駅で成田鉄道との連絡し、両国橋から都心部への延伸は、明治37年、両国橋(現在の両国)まで延伸されている。
両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車(のちの都電)に乗り継ぎ、この当時は貨物扱いも両国で行い、ここから隅田川などの舟運を利用して物資が東京市内へと運ばれていた。

外房線ー千葉・蘇我・鎌取・誉田「土気」-大網・・・安房鴨川.
「土気」駅から
                急速に変容する千葉県


21世紀新時代「千葉県新産業三角構想・幕張新都心・上総アカデミパーク・成田国際空港都市構想」
千葉県は、三大構想を柱に核都市づくりプロジェクトである。昨年、川崎から東京湾横断道路で木更津・君津・館山・鴨川・勝浦・茂原・千葉・市川
内房・外房を掲載している。
今回は、成田国際空港都市構想の千葉駅ー東金・成東・成田・銚子方面、JR総武本線で旅に。
海洋に突き出した半島で、気候も全体的に温和であるが、房総丘陵の南斜面は「暖帯性の植物が分布し北上するにつれて温帯性植物群の分布してい県」
江戸幕府では、「佐倉藩10万石」以外、小藩・天領・旗本知行地細分された。
房総は、江戸100万都市への生活物資労働力の供給地であった。野田・銚子の醤油・流山のみりん・小見川の酒等は、利根川水運交通路が利用された。
行徳の塩・浦安の鮮魚・五井の海苔・佐倉炭・山武杉材木・観光で成田山新勝寺、茨城の鹿嶋神社、香取神社は、江戸の信仰を集め賑わっていたと云う。

      湾岸の千潟から江戸川整備・工業出荷額は年々増、住宅地造成も進んでいる。


           JR横須賀線、快速ー錦糸町駅から千葉駅約20分で
    

「千葉 常胤」 1118-1201、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。
千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖・常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。
「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、常胤にとっては義朝もまた侵略者の一人であることが判る。
「保元・平治の乱」-常胤は、保元元年の1156年、「保元の乱」に出陣し源義朝指揮下で戦う。
常胤を義朝の郎党とする見方もあるが、「保元の乱」での後白河天皇側の武士の動員は官符・国衙を通じた公式動員である。
「平治の乱」-源義朝が敗死すると、1161年、には常陸国の佐竹義宗(隆義の弟)が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、
藤原親盛(親通の子・平重盛側室の養父)とも結んで伊勢神宮に再寄進しこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る。
これを知った常胤も翌月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。
このため、伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜・荒木田明盛と義宗側の窓口となった禰宜・度会彦章の対立が生じる。
その後、佐竹義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、1163年、佐竹義宗の寄進を是とする宣旨が出され、
続いて1166年、明盛から彦章に契状を提出し、1167年、和与状が作成された。
当時、和与による権利移転は悔返を認めない法理があり、これによって度会彦章・佐竹義宗の勝訴が確定。
以後、千葉常胤は佐竹義宗と激しく争うことになる。
「平治の乱」で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、千葉常胤は、流人としてこれを監督しつつも、
源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てた。これが後の「源頼隆」である。

治承4年の1180年、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに千葉常胤に加勢を求める使者として
「安達盛長」を送った。
「吾妻鏡」によれば、千葉常胤は、胤正・胤頼以下の子息とこれを丁重に迎え入れて、安達盛長の言伝を聞いたものの何の反応も示さない。
そこで千葉胤正・胤頼が早急の返事を進めたところ、「自分の心中は勿論その積りだ。ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を興されたことを考えると、
感涙が眼を遮り、言葉も出ないのだ」と言って、安達盛長に相模国鎌倉を根拠にすることを勧めたとある。(治承4年9月9日条)
安達氏は、有力御家人、北条執権三大に渡って幕政の枢機に参画・秋田城介、泰盛の妻は北条時宗の妻。

「源頼朝と千葉常胤の対面は、「吾妻鏡」
9月17日に千葉常胤は、一族300騎を率いて下総国府に赴き「源頼朝」に参陣したとしている。
ただし、頼朝が途中、千葉常胤の本拠である千葉荘を通過して千葉妙見宮などを参詣したと伝えられていることから、現在では最初の会見はー
上総国府(現在の市原市)もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われたと考えられている。
この時に源氏の子として育ててきた「頼隆」を伴って参陣したとされ、頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けるとともに、
頼隆を頼朝に対面させて源氏の孤児を育ててきたことを深く謝されとある。
前述の経緯のように常胤の参陣の背景には国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤と源義朝との間の
いきさつを考慮しなければならず、源頼朝の決起に感涙したという「吾妻鏡」のような美談をそのまま事実とすることは出来ないとも云う。
10月2日には頼朝が太日河・墨田川を越えて武蔵国に入り、
豊島清元・葛西清重父子に迎えられているが、この際に船を用意したのは千葉常胤と上総広常とされている。
葛西清元は、1177年、香取神宮造営の際の雑掌を務めており、この時在庁官人であった千葉常胤とも造営を通じて関係を持ち、畠山氏などの
平家方勢力が残る中での源頼朝の武蔵入国に際しては両岸の千葉・豊島両氏が連携を行ったとみられている。
常胤当時の千葉の推定図と頼朝時代の鎌倉の推定図がともに北端に信仰の中核になる寺社(千葉の尊光院と鎌倉の鶴岡八幡宮)を設けてそこから
伸びる南北の大路を軸として町が形成されていることから、鎌倉の都市計画に常胤の献策があった可能性が。

平安時代末期 - 鎌倉時代初期・1118ー1201・(鎌倉 浄光明寺)官位ー上総権介、下総権介・氏族ー桓武平氏良文流、房総平氏、千葉氏
父母ー千葉常重、石毛政幹の娘 ・兄弟ー常胤、小見胤隆、椎名胤光? ・妻、正室:秩父重弘の娘
子ー胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、日胤

    

JR総武本線・外房線に沿ってモノレール・タウンライナーと私鉄京成千葉線など千葉駅は、今、大改造工事中、駅周辺は、商業ビル地で高層ビルが
建ち並んでいる。駅近くには、千葉城・国立千葉大学医学部附属病院・千葉城・県庁が集中する。

「土気」は、千葉市南東部で大網白里町の境に位置している。高台では、九十九里平野が望め、南部広大な「昭和の森」が広がっている。
丘ニュウ―タウン住宅開発が進んでいる。

            中央に千葉城が(車窓から)
    

JR土気駅東方に・「酒井氏5代の土気城」が。城は、15世紀末に初代酒井定隆が築城したとある。
1590年小田原の役で、「浅野長政」に攻略され廃城となった城。
本丸跡に碑があるのみであった。(老人ホーム内)

    

「土気城」
神亀年間(8世紀頃)に大野東人によって築かれた貴船城が起源とされ、中世土気城の大手口にも貴船神社が祭られていたと云う。
室町時代、土気荘の地頭職を得た「千葉氏」の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て「土気城」に。
室町時代後期には一時大関城主の「畠山重康」の勢力下となったが、
長享元年(1490年頃)原氏と組んだ中野城主「酒井定隆」に追われ、翌長享2年「酒井氏」が移り、
以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠った。後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は「東金酒井」氏の祖となった。
永禄7年(1555年頃)第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。
この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退したとある。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、天正18年(1580年)の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城した。
この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となった。

    

土気城は、東に向けて突き出した舌状台地上に占地し、台地上に切れ込んだ谷と空堀を利用して台地上を遮断し、城域は三角形状を。
城域内は本丸・二の丸・三の丸及び出丸に区分されており、それぞれを空堀が遮断するが、
特に二の丸と三の丸の間の空堀は二重になっている。
出丸は、三の丸の端に位置する貴船神社が鎮座した郭と、井戸沢の向かいの尾根上に築かれた水沢郭の二つがあり、三の丸端の郭は馬出。
馬出状の出丸から三の丸二の丸を経る経路が大手道となるが、本丸から直接金谷方面に下りる経路が搦め手にあたり、
比高差のあるこちらの経路には空堀を兼ねたクラン坂と呼ばれる切り通しが設けられている。

     城主ー大野東人、千葉氏、土気太郎、畠山重康、酒井氏。廃城年ー1590年
    

「貴船大明神」
聖武天皇の神亀元年の724年、蝦夷の侵入に備えて、陸奥の国(宮城県)に多賀城を築き、蝦夷の軍事拠点として土気に貴船城と呼ばれる砦を築いたと伝えられ、鎌倉時代に入り千葉氏の一族相馬胤綱の次子土気太郎が土気の荘の地頭に任ぜられ居住したと言う。
戦国時代「畠山重康」の居城となるが、下総中野城にいた酒井定(貞)隆の勢力に押されこの地を撤退、1488年、酒井定隆は、土気古城跡を修築
土気城を再興。
土気城址への大手入口・馬出曲輪跡に土塁があり、その上に「貴船大明神」と石碑と祠が建ち、土塁下に城址碑と説明付きが建てられていた。
土塁と櫓台のようになっている所有り、外側の堀は深い。この辺は、いろいろ改修されている。

             貴船大明神が祀られている土塁と城址碑


「土気城・貴船城・三の丸付近には貴船大明神」
鎌倉時代、千葉氏の一族であった相馬胤綱の子である土気太郎が地頭となり、ここを拠点としたと言われている。
戦国時代に入った1488年には、上総中野城酒井定隆によって土気氏はこの地を追われ、以後5代100年もの間、土気城が酒井氏の本拠地として続く。
この間に、酒井氏は勢力を伸ばし、本納城にも攻め込んでいる。 戦国時代の上総北部は里見氏・北条氏の勢力争いの最前線にあり、
土気酒井氏も表では里見氏と手を握りながら、裏では北条氏に通じるような二元外交を展開。
最終的には、北条氏に従い、他の関東の城と同じく1590年の秀吉による小田原攻めの際に、城主の酒井氏は北条方として小田原城に参陣、土気城は
豊臣方の浅野長政に攻められて落城し、長い歴史に幕を閉じている。

    

「浅井長政」 1545-73 小谷城主(近江国)
久政の子・16歳で家督を奪取する。六角氏と断交南下政策を推進、北近江統一し織田信長と同盟するが朝倉氏と組んだ為信長に背き。
「姉川の戦い」で大敗し自害ー妻信長の妹「お市」・六角氏の重臣の娘と結婚したが離縁している。
長政自刃の際、お市を信長のもとへ送り返している。
信長は、長政の首を金銀箔で彩色し、酒の肴にしたとある。

    

「天満宮」
道真が亡くなった後、平安京で雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、清涼殿落雷事件で大納言の藤原清貫ら道真左遷に関わったとされる者たちが
相次いで亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷神)と関連付けて考えられるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満・大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来。
道真が優れた学者であったことから天神は、「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でる。
参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。
道真が梅を愛し、庭の梅の木に、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」 (拾遺和歌集から)

    

「千葉市昭和の森公園」
市・緑区にある総合公園・約100haの敷地は千葉市内の公園としては最大の規模で、ユースホステル・キャンプ場、野球場、テニスコート、
サイクリングコース、ウォーキングコース、遊び場、自然公園などの施設がある。
公園の一部は県立九十九里自然公園に指定されている。日本の都市公園100選に選定。



ディズニーランドから幕張メッセへ

2018-12-21 | 気まま旅

「東京ディズ二ーランド」
面積 51万m2 。開園 1983年の昭和58年4月。

                    シンボルはシンデレラ城である。
  

                           ホテル
  





























「開墾された土地を表す張ー幕張ー」
千葉市花見川区。
愛知県の尾張の張りは、開墾すると云う意味の古語の動詞、「墾る」名詞で「墾リ」-開墾地名ー。
「幕張」は、中世「加」・くははる「馬加」-マクハリと呼んだ。1889年の明治、幕張の字であった伝承に復する形で「幕張村」となった。
「幕」とは、幕を張ったような長い崖、現在は、海岸が埋め立てられ、往古の地形はわからなくなっている。
千葉市に編入、東側に花見川は流れ、中央にJR総武本線と京成電鉄と京葉道路と1981年幕張本郷駅と宅地化が進んでいる。
幕張と云うと「昆陽神社」芋神様の青木昆陽のゆかりの地・また真蔵院は、千葉氏のゆかりの寺。

「かっては、貝と海苔養殖を中心とした半農半漁村」
ノリの養殖ー海苔は、夏の間、「糸状体」という形でカキ殻などに付着してすごし、秋になると胞子を出し、 毎年9~10月ごろに「種付け」という
海苔の胞子を網に付着させる作業を行い、種付けには陸上で行う方法と海上で行う方法がある。
種付け……陸上採苗ー水車に網を巻き付け、のりの胞子の入った水の中を回転・網を重ねた水車と胞子を放出させるためのカキガラ。
種がついた網を海水中で養生させ水切り後、冷凍庫で保管 ・ 種付け……野外採苗海苔の糸状体のついたカキ殻をネットに入れ、その上に
海苔網をセットし、それを海辺に広げてカキ殻から胞子が出て網につくようにする。

戦前、家族全員で潮干狩りに「幕張海岸」へ。(4~5歳頃)

                   幕張の浜方面へ


                  JR京葉線「海浜幕張駅」前


               海に向かい左側にニューオータニ


                      幕張海浜公園


                 右手に「マリンズスタジアム」


1988年昭和63年頃、
内閣ー竹下登(自民党)
リクルート事件の発端、東京ドーム球場、開場記念のオープン戦
韓国、大韓航空機事件、北朝鮮の爆弾テロと断定・・・・。





                     東京湾幕張海岸(人口海浜)








                     検見川の浜と続く



    



                     室内練習場




                     球場正面









りんかい線と京葉線の駅駅から

2018-12-16 | 気まま旅
宿場町「内藤新宿」から。
甲州街道と青梅街道の分岐点・甲州街道の一番宿「内藤新宿」・品川・板橋・千住「江戸4宿の一つ」、明治18年日本鉄道(山手線)・甲武鉄道(中央本線)と開通し交通の要衝として発展した。新宿は、都中東部、
江戸中期に信州高遠藩主の下屋敷、国道20号線に宿場が出来、武蔵野台地に位置する。
江戸も明暦の大火以降神楽坂・市ヶ谷・四谷の続々
武家、町屋、寺社が移転された。四谷大木戸内藤新宿は江戸市街地の一部となっていった。
また1923年の関東大震災が契機に住宅地域として拡大した。
今は、大繁華街とオフィス街の商業と中小印刷、出版関連業が集中し、都庁1・2本庁舎・議会棟(1991年)、デパート、ホテル・・の超高層ビルが林立で新都市で、駅西側は、都内でも著しい変貌を遂げている。

「新宿駅1~4番線ホーム」
国鉄時代最後の時期に埼京線が入り、次いで「成田エクスプレス」の都心ターミナルの一つとなり、東北・高崎線方面の中距離電車の乗り入れが湘南新宿ラインとして本格化し、埼京線は南に延びてりんかい線との直通も開始した。
この発展を追ってホームも増設され、結果、現在では8面16線に拡大していると云う。これらの増設スペースは、国鉄の消長とともに姿を消した車扱輸送時代の貨物扱い、荷物輸送用のスペースが充てられ、それらは新宿駅の南東側に隣の代々木駅にかけて広がっている。
その跡地を活用して新ホームを展開していった関係で、既存のホームと位置がそろわず、構内全体は極端に言えば平行四辺形に変形している。
結果、既存の改札口と直接的に結ばれないホームが出現するなど、動線が複雑を通り越して難解な部分も。
「バスタ新宿」がシンボルとなった新南口の整備のおかげで、ある程度往来しやすくなったが、巨大駅の宿命は変わるものではない。
平日2350本、土休日2034本の列車が発着すると云う。
1~4番線ホーム・埼京線と湘南新宿ラインのホーム。
現在もわずかに貨物列車の通過がある。埼京線だけが乗り入れた当初は1面2線だったが、N'EX(「成田エクスプレス」)の誕生に伴い2面4線化され、そこに湘南新宿ラインが加わった後、構内の大規模改良を機にN'EXは別ホームに移されている。
基本的に1・2番線は南行、すなわち埼京線大崎、りんかい線直通新木場方面と湘南新宿ライン逗子・小田原方面、3・4番線は北行、
埼京線大宮、川越線直通川越方面と湘南新宿ライン高崎・宇都宮方面だが、新宿を跨いで運転される列車は主に1・4番線・2・3番線は新宿以北の埼京線折り返し列車が多い、朝のラッシュ時は、乗り降りの客ですごい混雑。

                      新宿駅1/2番ホーム「新木場行 りんかい線」で


「りんかい線」
都江東区の新木場駅と品川区の大崎駅を結ぶ東京臨海高速鉄道 の鉄道路線。
大崎駅で接続する東日本旅客鉄道(JR東日本)埼京線・川越線と相互直通運転を行っている。
大半の区間が地下にあるが、国土交通省監修の統計資料では地下鉄として扱われていないが、日本地下鉄協会サイトの日本の地下鉄ページには、民営・準公営(第三セクター)地下鉄一覧に東京地下鉄や埼玉高速鉄道、東葉高速鉄道などとともに掲載。

 JR京葉線ー「新木場駅・東日本旅客鉄道、 京葉線・地下鉄ー有楽町線 有楽町線 夢の島公園、辰巳国際水泳場、東京ヘリポート・ 江東区、
「東雲駅 」-「国際展示場駅」 ゆりかもめ、有明駅、 東京ビッグサイト、有明コロシアム、がん研有明病院、武蔵野大学、
「東京テレポート駅」-フジテレビ前・アクアシティお台場前・ ゆりかもめ線、お台場海浜公園駅、 青海駅、お台場海浜公園・ 港区/品川区、
「天王洲アイル駅」ー 東京モノレール羽田空港線、天王洲・ 品川区
「品川シーサイド駅」-産業技術大学院大学    「大井町駅」-JK 京浜東北線・東京急行電鉄、大井町線
「大崎駅」-JA 埼京線、大宮駅経由、川越線 川越駅まで直通運転・JY 山手線・JS 湘南新宿ライン、~JR新宿。











「JR京葉線」
都千代田区の「東京駅」から東京湾湾岸沿いを経由して千葉県千葉市中央区の「蘇我駅」を結ぶ、JR東日本の鉄道路線。
京葉線は、もともとは東海道本線方面と東北本線方面を結ぶ山手貨物線(大正14)完成)が、戦後の貨物列車本数の急増により輸送力が限界となったことから、代替バイパス貨物線「東京外環貨物線」の一部として計画された。
「東京外環貨物線」は、山手貨物線の外側20km圏において、東海道本線・中央本線・東北本線・常磐本線・総武本線の放射5幹線を環状に接続する計画で、現在の武蔵野線と京葉線と東京臨海高速鉄道りんかい線に大体相当すると云う。

駅名
東京駅ー八丁堀駅ー越中島駅ー潮見駅ー新木場駅ー葛西臨海公園駅ー舞浜駅ー新浦安駅ー市川塩浜駅ー西船橋駅ー二俣新町駅ー南船橋駅ー新習志野駅
海浜幕張駅ー検見川浜駅ー稲毛海岸駅ー千葉みなと駅ー蘇我駅
蘇我駅から内・外房線に分かれている。

昭和50年、 蘇我駅~千葉貨物ターミナル駅間が貨物線として開業。このうち蘇我駅~都川信号場間は川崎製鉄(現在のJFEスチール)専用線を借用。
千葉貨物ターミナル駅が開業。昭和61年、 蘇我駅~都川信号場間の現行線供用開始。都川信号場が廃止し、川崎製鉄専用線の借用運転解消した。







                     葛西臨海公園 観覧車が


埋立地は、何等かの不要物を用いて造成。
例えば、山が海へ、神戸の港・横浜の山下公園の、関東大震災の瓦礫を処分する過程で造成された。
その他、廃棄物、底質、ヘドロ及び浚渫土砂等が使用されている事が多く、時にこれらに含まれていた有害物質が溶出し、土壌汚染となる事例が発生している。 これは、土壌が汚染されたというより、汚染された土壌で土地を造成していた事が、今になって明らかになったもの、考えてほしい。
有害物質を含む浸出水が地下水などの形で移動することにより、周辺の汚染されていない土壌を二次汚染したり、水質汚濁やそれに引き続く底質汚染を引き起こしているケースも発生している(海面埋立地では潮汐の干満により、地下水へ外力が加わりやすい)
埋立地であること自体が原因ではないのだが、工場が多く立地していたため、操業時に漏洩した有害物質による土壌、地下水への汚染リスクが高い傾向がある。 大規模事例としては、都築地市場移転候補地である豊洲の東京ガス工場跡地で高濃度の有害物質が検出された、土壌・地下水汚染があげられるが、その他にも小規模汚染が各所で確認または懸念されており、跡地利用・取引上の制約となっている。
これを解消し、不動産価値を回復させる土壌浄化ビジネスが1998年頃から拡大しており、各地で施工実績があがっていると云う、期待。

「都立葛西海浜公園」
開園ー平成元年  面積ー4,117,473m2(水域4,114、689m2)

                   園内は無料・水族館有料


江戸川区の臨海部の自然環境を取り入れ、緑の浜辺・都民の浜辺・楽しい浜辺・頼もしい浜辺の4つをテーマー二造られた公園。
目の前には、東京湾の水平線が広がり、空と海と緑のおりなす風景は見る人の心を和ませる。
園内には、「鳥類園ウオッチングセンター・水族館・宿泊施設・大観覧車」がある。

   二つの人口砂浜ー東渚地区(自然保護区)・西渚地区(砂遊び・バーベキュー等が出来る)


             JR京葉線「葛西臨海公園」駅前から
冬にはスズカモの群れが・夏にはコアジサシの群れが魚を獲りにやってくると云う。


レインボーブリッチ・東京湾トンネルで
高速9号線・首都高速湾岸線・地下鉄有楽町線・JR京葉線(新木場ー公園)・地下鉄東西線(葛西駅)

              水上バス「水辺ライン」-荒川へ
  

駅前通りから中央園路に、水族館入口
ここでは、「魚の泳ぎ方・外敵から身を守る工夫」ガイドが興味深い発見が

世界の海から東京湾の海の生物たちがー新しい発見と驚きが(本日は休園)
  

「水族園」は、湾に浮かぶようなガラスドーム。
中は、マグロー渚の生物ーペンギンー海藻の林(小笠原・伊豆七島・東京湾)-海鳥の生態ー深海生物ー大水槽ー太平洋ーインド洋ー大西洋
カリブ海ー北極・南極ーサメー3F空の広場
餌の時間を確認を

クロマグロ・カゴカキダイ・エトピリカ・メガネモチノウオ等熱帯から冷たい海までが
    

「東京水辺ライン」船着場
     お台場・両国方面へ                    水族園ガラスドーム
    

大観覧車(有料)         レインボーブリッチと水上バス       園内にホテルも
    

東京湾に浮かぶ人口島  三日月千潟  東なぎさ(野鳥保護、立ち入り禁止)  西なぎさ(広場・砂遊び・バーべキュ―が)

緑と池の鳥類園                       園内に観察舎が
  

               展望クリスタルビューから


                  大田区方面


                千葉県舞浜方面


               浜・ディズニーランド方面  (三日月千潟)


                  JR京葉線
    

              臨海線ー有明付近車中から
    

              新木場駅(新宿から)右に荒川が
    

   湾岸道路           葛西臨海公園駅ホームから       公園前
    






















            江東区葛西ー江戸川を渡り、次は、千葉県浦安市「舞浜」


舞浜は、「東京ディズニーランド」   「ホテル」ーサンルート・東急・ヒルトン・オークラ・ジェラントー