syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

日野宿本陣

2019-10-28 | 季節だより

東京都日野市、都の南西、多摩川の沖積低地と日野台地と多摩川丘陵で、奈良時代の烽火台「飛日野」・武蔵七党「日奉氏」を祀った「日野宮権現」
に由来するなどの諸説有。
江戸時代、多摩川渡船場・日野の渡し。大戦中は軍関連工場。戦後工業団地。今は、住宅・工業都市、JR中央本線、日野・豊田。

東京の酒「多摩自慢」石川酒造の歴史は
文久3年の1863年明治13年・福生の熊川の地に酒蔵を建ててから現在まで130年余りと云う。
土蔵にさまざまな歴史を刻んみ、「清酒多満自慢と地ビール」を生産。
多摩地域最古のビール・山口麦酒」-山口平太夫は明治6年清酒醸造を始めた。明治19年に、「山口麦酒醸造所」創業した。
明治20年「天狗」マークのビールは、ドイツのラガータイプ、八王子宿・府中宿・日野宿等と遠く群馬県まで広げていたが明治28年廃業。
当時のビール釜は石川酒造内展示している。日野市は、山口ビールをモデルに平成27年本格的に石川酒造に依頼し「豊田ビール・日野産大麦」の販売を行い今に。
「伊部猪三郎」清国上海で、洋酒の瓶・空樽の値段を調べ、ビールの詰め替え作業など書かれた手紙が展示されている。
当時の日本では、まだガラス瓶の製造は出来なかったため、伊部氏達は買い付け再利用したとある。日野市郷土資料館にて。

「甲武鉄道・中央本線」
明治22年、小金井ー立川間開通し多摩川・浅川に鉄橋工事を経て、その年の8月にー八王子まで開通した。翌年の23年に「日野停車場」が出来た。




「豊田の七森」
若宮神社ー東豊田・「新編武蔵風土記稿」のある豊田村鎮守・地頭大久保勘三郎棟札がある。祭神9月9日(千貫神輿一基)
八幡神社ー祭神応神天皇
白髭明神社・天満社・山王社・三嶋社・・矢崎弁天

「宝泉禅寺」日野駅前
本尊は、釈迦如来、脇侍に文珠菩薩普、賢菩薩。
「持ち上げ観音」の名で知られ、持ち上げた時に感じる重さによって吉凶を占う、約36cmの馬頭観音の石像がある。
「持ち上げ観音」は鐘付き堂の隣にある観音堂の本尊・本堂と客殿との間に安置している。

                       宝泉禅寺に参道


墓所内に,新選組六番隊長・副長助勤井上源三郎の墓碑が建てられている。
墓誌には、源三郎と共に兄松五郎(戒名:清松軒仁□智勇居士)、源三郎の 死をみとった泰助(戒名:泰岳宗保居士)の名も。

           旧甲州道に面した山門・六脚ヒノキ造りー1853年              


                      宝泉禅寺の本堂


                      大権現 鳥居       


                        社殿


                       


                    「日野ふるさと館」 無料                      


日野宿江戸時代の絵

                  


「山口ビール」





山口ビールの前進は、山口氏がタイのバンコックに作った会社「山口洋行」

                   仁丹・蚊取り線香などを扱う会社ビル


「日野宿本陣」は、1849年主屋焼失ー1863年上棟、1864年住み始めている。
日野宿本陣には、「佐藤彦五郎が周助に師事して開いた「佐藤道場」、後に新選組 近藤勇・土方・沖田・井上達が稽古場に励んだところ。










平山城跡公園 駅前に居館跡がある(鎌倉時代)

2019-10-27 | 季節だより
私鉄京王線 高尾山口・高尾(JR中央線)・狭間・めじろ台・緑町・北野(八王子線)「平山城址公園」・南平・高幡不動・百草園・聖蹟・・府中。
「平山城址公園」下車
                        駅前ロータリー


「平山季重居館跡」 1805年   江戸末期 「男谷精一郎信友・通称精一郎」
駅前に居館跡が。

「平山季重」1140-1212? 平安・鎌倉時代末期  右衛門尉 日華氏 父ー直季 武蔵七党の西党、日奉の武将
日野市平山を領している。
1156年、「保元の乱」源義朝に従い、「平治の乱」で義朝の長男義平に従い「平重盛盛」勢の500騎に17騎で戦い挑んでいる。義朝敗戦後は、
「平家」従い、「源頼朝」が挙兵するとそれに従って、富士川の戦い・佐竹氏征伐に参戦している。
「熊谷直実」と共に戦功をあげ、また、1189年奥州合戦で息子小太郎重村と共に参戦し戦功をあげている。

後、鎌倉幕府の元老として取り立ってれた。「源実朝」誕生で鳴弦の大役を務めた武将であったと云う。







「男谷精一郎」は、寛政10年の1798年、男谷検校(米山検校)の孫・男谷信連(新次郎)の子として生まれ、20歳の時に同族(従叔父)の男谷思孝(彦四郎、忠果)の婿養子となる。(彦四郎も男谷検校の孫)
検校は、元々越後国三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎市)の貧農の出で盲人であったが、雪の夜に奥医師石坂宗哲の門前で行き倒れていた所を助けられ宗哲から1両2分の資金を借りて生業を始めた所、利財の才に長け、江戸府内17箇所の地主となり検校の位を買い、大名貸も行うほどになったと云う
検校の末子平蔵(忠凞)は、1776年、江戸幕府の西丸持筒与力(御家人)となり、父に御家人株を買い与えられ、後に勘定に昇進し旗本となった。
平蔵の長子が彦四郎で、三男が左衛門太郎(小吉)惟寅、勝海舟の父で、したがって、信友と勝海舟は血縁では又従兄弟、系図上では従兄弟の間柄
信友は、1805年、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始め、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。
1824年、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。

1805年ー本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門。1824年ー団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。
1830年、男谷彦四郎の養子・1833年、書院番に昇進。ー1849年、御本丸徒士頭・1856年、講武所が開設され、講武所頭取並、剣術師範役を兼務する。また師・団野の死により、亀沢町の道場を譲られる。1862年、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられた。
文久3年の1863年、将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねる。









                  向かいの上に「平山城址公園」がある。


                        左に、ふれあい館が。


モノレールで万願寺駅土方歳三館へ

2019-10-26 | 季節だより

「新選組」とは、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織。初代局長ー芹沢鴨  短気で粗暴、かんしゃくを起こし、すぐに揉め事を起こす。
朝から酒をひっかけて、彼にまつわる悪行は数多く伝わっている。この性格が災いして後に暗殺された。
2代目 近藤勇 新選組2代目局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。
副長 「土方歳三」新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。
新見錦 幹部(副長という説もある)。号は錦山とされるが、子母澤寛が記すのみであり、確証はない。姓の読みは「にいのみ」、「しんみ」など諸説ある。
山南敬助 文武両道の人としても知られ、新選組のスポンサーだった。小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。
参謀 伊東甲子太郎 近藤に酒宴に招かれた伊東はその帰り道、油小路七条下ルにて新選組によって暗殺された。享年33。
一番組組長  沖田総司 新選組随一の剣の使い手と名高く、彼の率いる一番隊は数々の難任務をこなした。
二番組組長 永倉新八 沖田総司、近藤勇、土方歳三といった新撰組同士が非業の死を遂げる中で明治維新後も生存し、かつその軌跡が明らかになっている稀少な人物で、新撰組の名誉回復に大役を買った。
三番組組長  斎藤一 実力は「沖田は猛者の剣。斎藤は無敵の剣」とまで評され、三番隊組長として新撰組を牽引した。
四番組組長 松原忠司 享年31。新選組の記録では病死とされているが、その死については諸説ある(何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通する。一説には銃殺とも)。
五番組組長 武田観柳斎 京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺された。武田の暗殺には斎藤や篠原泰之進が関与したと伝わるが、当時2人は御陵衛士に参加していたため、別人の可能性もあると云う。
                     「多摩モノレール」1998年開業


                起点ー上北台~終点ー多摩センター 19駅・16km


                     JR立川駅ー日野市の「万願寺」




「近藤勇」 1834-68 多摩郡農家、牛込柳町道場試衛館を構えた。近藤家に養子、天然理心流剣術宗家四代目を継ぐ。
文久3年に「新選組」結成・局長・尊攘派の弾圧に活躍した。写真でもわかるが口は特に大きく、加藤清正を尊敬。

「土方歳三」 1835-69 北の果てにて散った副長、明治元年、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、宇都宮、会津、転戦し、北海道箱館に「箱館戦争では」
旧幕軍陸軍奉行並を務め、一本木関門付近で銃弾を受け戦死した。
敵の猛攻に怖気逃げ出した兵士を一刀で斬り捨て、後哀れであったと金で墓石をと霊を弔っている。

「原田左之助」 1840-68 伊予国松山藩足軽の子「宝蔵院流槍」明治元年「靖共隊」を組織した。彰義隊に参加し上野戦争で戦死・腹切りの経験がある。

「藤堂平助」 1844-67 新選組と袂を分かった若武者 新選組隊士・八番組長ー北辰一刀流、後御陵衛士で脱退した。新選組新入に裏切りで
切られる。近藤は「若い有為の人材であったと残念がった」と云う。

「芹沢鴨」1830-63 局長、神道無念流ー水戸天狗党に加盟ー土方らに襲われ殺害されている。

「河合き三郎」 1838-66 帳簿不始末で切腹・播磨国の米商人の生まれ、池田事件にも参戦ー隊の勘定方。





































1853年、黒船来航「ペルー・アメリカ艦隊・日米和親条約締結」 1860年、桜田門の変「井伊直弼暗殺」
1862年、生麦事件、薩摩藩士の行列を乱したとイギリス人殺傷  1863年、下関戦争「長州藩外国船砲撃
1864年 長州・土佐、京都守護職の松平暗殺を策・新選組により襲撃、壊滅 1864年、禁門の変 長州藩ー薩摩、会津兵に敗れる
1864年、第一長州征伐、1866年、第二次長州征伐「幕府軍撃退される」 1867年、「大政奉還・官位と幕府領を朝廷に変換」
1868年、鳥羽・伏見の戦い、薩摩と長州の新政府軍・幕府軍撃退 1868年、江戸城開城 1868年、上野戦争 旧幕臣の一部が彰義隊結成
1868年、会津戦争ー1869年「明治時代」函館戦争 1874年、佐賀の乱「征韓論争に敗れ江藤新平佐賀で決起ー斬首の刑」
1877年、西南戦争「西郷隆盛熊本城自刃」 1878年、大久保利通暗殺 1884年、秩父事件「農民、困民党結成・政府軍に鎮圧・・・・・・。

芭蕉の句碑もある都留 谷村町城跡

2019-10-20 | 季節だより

「山梨県都留市」 県東部桂川上流沿岸の市。郡内地方の中心。
16世紀武蔵の「小山田氏の居館」があった所で、城下町を形成された。産業は、甲斐絹。
今は、富士吉田市に移っている。





「勝山城跡」 571mの城山、16世紀郡内を治めた「浅野氏重」が築城した。多少、堀・石垣が残っている。

1960年・市立都留文科大学がある。











天和二年・1682年、江戸の大火事で家を焼きだされた松尾芭蕉は、翌天和三年、秋元家家臣・高山伝右衛門繁文(俳号麋塒)の招きにより、
谷村(山梨県都留市)にしばらく滞在したとある。
その後も谷村を訪れたいと弟子の手紙に記しており、芭蕉にとって谷村が特別な意味を持つところであったことが。
自然と霊峰富士を間近に見る感動が芭蕉に大きな心境の変化を与え、その後の蕉風俳句に大きな影響を与えたと考えられ、 芭蕉ゆかりの地として、1994年から毎年5月には「都留市ふれあい全国俳句大会」を開催され、都留市内には芭蕉の句碑が建てられている。

城南公園句碑、     「行く駒の 麦に慰む やどりかな」
旅行く駒が、今日はこの宿のもてなしに穂麦をご馳走になり、うまそうに食べている。自分もこの宿のもてなしに心足りていることだ。
野ざらし紀行・貞享2年(1685年)とある。

























都留市内の芭蕉句碑

・「勢いあり 氷消えては 瀧津魚」・田原の滝の氷柱も消え、富士の雪解けで水増した桂川の清流に踊る魚と共に春を喜ぶ心情を詠んだ句。

・芭蕉は、谷村の滞在期間中は、その屋敷の離れである梅林軒で過ごし句会などを催して名句を残しています。
またその後の1684年、関西への旅(「のざらし紀行」とも呼ばれる)の帰途高山傳右衛門宅に立ち寄ったといわれている。

・ 旅に明け暮れた芭蕉にとって、谷村で過ごした日々は、彼の生涯の中でもっとも長い逗留であったともいわれ、江戸にいて冬の激しい郡内の自然と霊峰富士を間近に見る感動が芭蕉の心境に大きな変化を与えたという。この逗留が契機となり、「笈の小文」「奥の細道」の旅を経て「風雅の誠」を完成したともいう。
高山傳右衛門と師弟関係を超えた心のつながりは、芭蕉の晩年まで続きましたが、三度目の谷村来峡を果たせぬまま、芭蕉は旅を住処とした生涯を51歳で閉じている。
芭蕉は、ここ田原の庵においても句を詠んでおり、その句は建立されている句碑に刻まれています。またこの句以外にも都留市内の各所に松尾芭蕉の句碑が。

・「松風の  落ち葉か水の 音涼し」夜の静寂を刻んで、かすかに音がするのは、風に散る松の落葉であろうか。ふと気付くと屋敷のそばを流れる水音の涼しげに響いてくる。      

・「人は寝て 心ぞ夜を 秋の昏」 人はみな静寂たる晩秋の夜を夢中の人となるが、わたしの心は秋の淋しさがしみじみと感じられる。
麋塒その人の感傷がにじみ出ている句です。1683年

・円通院 「旅人と 我が名よばれん はつ時雨」  これから旅に出ると人から、私は「旅の人」と呼ばれる身の上になる。
おりから初しぐれの降る季節で、その初しぐれに濡れながら旅をし、人々から旅人と呼ばれるのは自分の気持ちに相応しく、本懐のことだ。     
・「山賊の おとがい閉ずる むぐらかな」 あたり一面に雑草の葎がはびこっている甲斐山中で、下あご(おとがい)を閉じて無愛想な樵に逢ったさまを読んだ句。貞享2年の1685年、