「内藤氏」
三河の松平氏(徳川氏)の家臣で江戸時代に大名となった内藤氏は、
丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、この間、戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長・内藤正成・内藤家長・内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩・陸奥湯長谷藩・三河挙母藩・日向延岡藩・信濃岩村田藩・越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。
明治維新時には大名内藤家は全部で6家あり、維新後すべて子爵に列した。
特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿(現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。
「内藤新宿」宿場。
1604年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備された。
甲州街道最初の宿場は、慶長7年の1602年、設けられていた「高井戸宿」であったが、日本橋から約4里(約16km)と遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であったと云う。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかったことに。
このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。
幕府成立より約100年、江戸の発展に伴い甲州街道の通行量も増加を続け、元禄10年の1697年、幕府に対し浅草阿部川町(現在の台東区元浅草三、四丁目の一部)の名主であった「高松喜兵衛」など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。
請願を受けた幕府では、代官・細井九左衛門や勘定奉行・荻原重秀などが審査に。翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。
日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。
宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷(新宿御苑)などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。
高松喜兵衛らは新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれた。
元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、1699年、に内藤新宿が開設された。
宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来、内藤新宿への助郷は、開設当初どの村が請け負うのか明確でなかったが、後に角筈村など周辺24か所と定められたと云う。
浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である。
「新宿区」
江戸城外堀跡を境に千代田区と接し、甲州街道・国道20号線にある宿駅で内藤新宿と呼ばれる。
地方自治法、東京特別区・武蔵野台地に位置している。神田川が北部と西部を流れ、交通もJR中央線・山手線を中心に我が国の有数の繁華街と
オフィス街になっている。
昔懐かしい思い出横丁
高層ビル群は、新副都心で、中央に2棟が東京都庁
一杯飲み屋が
甲州街道JRガード下
江戸時代幕府開設以降で、「明暦の大火1657年」後、市街整備により、神楽坂・市ヶ谷・四谷地域に武家地・町屋・寺社が移転し設置されていった。
特に四谷・甲州街道筋の四谷大木戸が交通の要衝となる。
広大な武家地は、明治時代には軍用地・学校などの敷地に転用された。
1923年の関東大震災を契機に西郊へ住宅地として拡大。
歌舞伎町は、歓楽・繁華街の不夜城に
新宿区役所前
花園神社
三河の松平氏(徳川氏)の家臣で江戸時代に大名となった内藤氏は、
丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、この間、戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長・内藤正成・内藤家長・内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩・陸奥湯長谷藩・三河挙母藩・日向延岡藩・信濃岩村田藩・越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。
明治維新時には大名内藤家は全部で6家あり、維新後すべて子爵に列した。
特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿(現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。
「内藤新宿」宿場。
1604年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備された。
甲州街道最初の宿場は、慶長7年の1602年、設けられていた「高井戸宿」であったが、日本橋から約4里(約16km)と遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であったと云う。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかったことに。
このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。
幕府成立より約100年、江戸の発展に伴い甲州街道の通行量も増加を続け、元禄10年の1697年、幕府に対し浅草阿部川町(現在の台東区元浅草三、四丁目の一部)の名主であった「高松喜兵衛」など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。
請願を受けた幕府では、代官・細井九左衛門や勘定奉行・荻原重秀などが審査に。翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。
日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。
宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷(新宿御苑)などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。
高松喜兵衛らは新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれた。
元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、1699年、に内藤新宿が開設された。
宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来、内藤新宿への助郷は、開設当初どの村が請け負うのか明確でなかったが、後に角筈村など周辺24か所と定められたと云う。
浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である。
「新宿区」
江戸城外堀跡を境に千代田区と接し、甲州街道・国道20号線にある宿駅で内藤新宿と呼ばれる。
地方自治法、東京特別区・武蔵野台地に位置している。神田川が北部と西部を流れ、交通もJR中央線・山手線を中心に我が国の有数の繁華街と
オフィス街になっている。
昔懐かしい思い出横丁
高層ビル群は、新副都心で、中央に2棟が東京都庁
一杯飲み屋が
甲州街道JRガード下
江戸時代幕府開設以降で、「明暦の大火1657年」後、市街整備により、神楽坂・市ヶ谷・四谷地域に武家地・町屋・寺社が移転し設置されていった。
特に四谷・甲州街道筋の四谷大木戸が交通の要衝となる。
広大な武家地は、明治時代には軍用地・学校などの敷地に転用された。
1923年の関東大震災を契機に西郊へ住宅地として拡大。
歌舞伎町は、歓楽・繁華街の不夜城に
新宿区役所前
花園神社