syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

新宿駅 付近ーsyu散歩

2017-06-29 | syu散歩
「内藤氏」
三河の松平氏(徳川氏)の家臣で江戸時代に大名となった内藤氏は、
丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、この間、戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長・内藤正成・内藤家長・内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩・陸奥湯長谷藩・三河挙母藩・日向延岡藩・信濃岩村田藩・越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。
明治維新時には大名内藤家は全部で6家あり、維新後すべて子爵に列した。
特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿(現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。

「内藤新宿」宿場。
1604年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備された。
甲州街道最初の宿場は、慶長7年の1602年、設けられていた「高井戸宿」であったが、日本橋から約4里(約16km)と遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であったと云う。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかったことに。
このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。
幕府成立より約100年、江戸の発展に伴い甲州街道の通行量も増加を続け、元禄10年の1697年、幕府に対し浅草阿部川町(現在の台東区元浅草三、四丁目の一部)の名主であった「高松喜兵衛」など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。
請願を受けた幕府では、代官・細井九左衛門や勘定奉行・荻原重秀などが審査に。翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。
日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。
宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷(新宿御苑)などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。
高松喜兵衛らは新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれた。
元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、1699年、に内藤新宿が開設された。
宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来、内藤新宿への助郷は、開設当初どの村が請け負うのか明確でなかったが、後に角筈村など周辺24か所と定められたと云う。
浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である。



「新宿区」
江戸城外堀跡を境に千代田区と接し、甲州街道・国道20号線にある宿駅で内藤新宿と呼ばれる。
地方自治法、東京特別区・武蔵野台地に位置している。神田川が北部と西部を流れ、交通もJR中央線・山手線を中心に我が国の有数の繁華街と
オフィス街になっている。
                   昔懐かしい思い出横丁




           高層ビル群は、新副都心で、中央に2棟が東京都庁


                      一杯飲み屋が


                     甲州街道JRガード下


江戸時代幕府開設以降で、「明暦の大火1657年」後、市街整備により、神楽坂・市ヶ谷・四谷地域に武家地・町屋・寺社が移転し設置されていった。
特に四谷・甲州街道筋の四谷大木戸が交通の要衝となる。
広大な武家地は、明治時代には軍用地・学校などの敷地に転用された。
1923年の関東大震災を契機に西郊へ住宅地として拡大。

                  歌舞伎町は、歓楽・繁華街の不夜城に










                      新宿区役所前




                       花園神社









房総 大山千枚田と蓮の花

2017-06-27 | 気まま旅
大山千枚田は、房総半島のほぼ真ん中の位置にする、東京から一番近い棚田といわれています。

6月中旬宿の勧めもあって見学に行きました。

平野の田んぼでは耕地整理が行われましたが、大山千枚田は耕地整理が遅れたために、現代まで昔ながらの景色が残っているのだそうです。


嶺岡の山並みのふもと、 面積約4ヘクタールの急傾斜地に、 階段のように連なる大小375枚の田んぼ。

千葉県指定名勝の「鴨川大山千枚田」と、 周辺の里山と集落の姿は、 自然と人々の営みが育んできた、 貴重な文化的景観です。

また大山千枚田は日本で唯一雨水のみで耕作を行っている天水田です。そのような場所では動植物も貴重なものが多く生息しています。いま盛んにいわれている生物多様性の宝庫なのです。さらに棚田は、多面的機能を持っていて、これを守ることが洪水などの災害を防止したり、貴重な生態系や環境の保全になります。

里山の美しい景観は、自然と共生して暮らしてきたそこに住む人々の日々の生活における取り組みから維持されてきました。棚田を渡る風を、空気を千枚田で感じてください。雄大な自然のなかで共生する大切さを大山千枚田は教えてくれます。
 




6月梅雨とはいえあめが少なく水が足りないのではと思うほどでした。













江の島 龍口寺の彫刻

2017-06-25 | syu散歩

鎌倉時代後期から史書に名前が出てくる「刑場」鎌倉初期からこの辺りで首実検が行われていたと云う。
義経の首も腰越の浜で首実検されたと云うが、場所で検分されたのかもしれない。
腰越状を書いた満福寺が近い。
龍口の名前の由来はこの地に残る五頭龍伝説から来ている。
むかし、悪事を働いていた五頭龍が江ノ島の弁天様に惚れ、改心してこの地の守護神になったとされるところから、この地名となったと云う。
移転して廃社となった龍口明神社跡に残る龍の彫刻が。
文永の役後に来日した元からの使者・杜世忠らは、日本の国情を探るスパイの性格が強いとみなされ、北条時宗の命によりここで斬首され、怒ったフビライは再度日本を襲いますが(弘安の役)、前回に懲りてしっかりと固められていた日本軍の防衛体制と暴風雨によって撤退する羽目に。
杜世忠の辞世の句ー「出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印莫見蘇秦不下機」
ー訳、家を出る時、妻子は寒さを凌ぐ衣服を自分に贈ってくれ、西行(日本)からいつ帰って来るのか、出世など考えずに無事に帰って欲しいと言っていたのに来るんじゃなかった感が溢れております(涙)。

中先代の乱の後に捕えられ、鎌倉に連行された「北条時行」も、ここ龍口刑場で処刑された。
時行は、北条得宗家の血を継ぐ「腹切りやぐらで有名な北条高時の息子。鎌倉幕府が滅んだ後は信濃の諏訪氏の下に、1335年、10歳の時行は諏訪氏始め反建武派の武士に擁立されて挙兵します。目指すは鎌倉幕府の再興。
鎌倉に攻め上る中で建武の新政に反発する武士が続々集まり、足利軍を次々と撃破し、遂には鎌倉を。しかし、程なく京から尊氏率いる軍勢が駆けつけて時行軍は遠江国橋本、小夜の中山(静岡県東部)、箱根、相模川と立て続けに突破され、鎌倉の入り口片瀬川も抜かれてしまった所で
時行は鎌倉から落ち延びます。
時行が鎌倉を支配したのは僅か20日余りでした。これが世に言う「中先代の乱」。
鎌倉に入った尊氏は後醍醐天皇からの帰京命令を無視し、対決姿勢を鮮明にします。その後、紆余曲折の末に室町幕府を起こす事に。
その、きっかけになる事件であった。

南北朝の時代になると、時行は南朝側について足利勢と戦います。しかし、武蔵国で戦いに敗れて捕えられ、「龍口刑場」の露と消え、ここに北条得宗家の血は途絶えたと云う。
                 霊跡本山「龍ノ口寺」御法難の霊跡

                   門前の車道に江ノ電が

                        楼門


                        山門


「日蓮」は、鎌倉の町中を引き回しの上、「龍ノ口の刑場」に連行。
夜も更け、日付も変わった丑の刻(午前2時頃)、幕府の役人がまさに日蓮聖人の首を切らんと刀を振り上げると、江ノ島の方角から月のように輝く鞠のようなものが飛来したのです。これに驚いた幕府の役人は処刑が出来なくなり、執権「北条時宗」の下知を得ようと使いを出します。
ところがその頃幕府上空でも異変が発生。
大きな星が降り、地面が振動し、雷が光り、「日蓮を失えば子孫は滅び国土が滅ぶ」と声がする。驚愕した時宗側からも処刑中止の使者が出され、両者は七里が浜に流れる川の所で行き合った…。そしてそこが「行合川」と呼ばれるようになった。
大騒ぎの後に処刑は中止され、日蓮は佐渡への配流となる。
日蓮を救ったのは、「比企の乱」で滅ぼされた「比企能員」の遺児である「能本」だとも言われている。
能本は、妙本寺を建てた人物として知られており、20歳も年下の日蓮とも親しく、信奉者でもあったと云う。
能本が手を回して北条時宗を説得し、日蓮の処刑を中止させたとの説もある。

               龍口刑場跡・寂光山龍口寺と言う日蓮宗の寺が。(御霊窟)


                     本堂の彫刻


                    楼門の彫刻


                     門の彫刻


                       本堂


                       境内


「日蓮」 1222-82 日蓮宗の開祖・安房の生まれ、千葉「清澄寺」で出家、鎌倉へ出て「立正安国論」を書き、「北条時頼」に出したが無視
伊豆へ流される、他宗の僧から憎まれ佐渡へ、三度目で甲斐の国見延へ、蒙古来襲する。武蔵国池上で没した。
佐渡へ流される前、ここ竜ノ口で斬られ要とした時雷鳴とどろき稲妻が走り武士の刀を折り、命を助けられたと云う。
日蓮宗の京都妙顕寺が勅願寺とされた。
                    日蓮上人像


                 この奥に仏舎利塔が


                     五重塔


                     鐘堂




                      鐘楼


                     龍口明神社




江の島ひとめぐり

2017-06-22 | syu散歩

「藤沢市江の島」市の南部相模湾岸、境川河口にある小島。
境川の運ぶ土砂によって出来た「片瀬海岸との陸繫島で、島の名は、形が「江」の字に似ていることによる。
新第三紀の凝灰岩・砂岩を基盤として関東ローム層のおおわれている。南岸は関東大震災のと隆起した海食台がある。
                 「真白き富士の嶺・緑の江の島」
鎌倉と結んで湘南の行楽地と日本三大弁天の一つ(琵琶湖の竹生島・安芸の宮島)江戸時代から庶民の参詣者で賑わった。
参道には門前町のお店が続き、明治の10年にはモースが「臨海実験所」・6年後にサムエル・コッキングが植物園を開設している。
昭和26年江ノ電が展望台を・13年後の昭和39年東海岸にヨットハーバー湘南港が完成した。島全体が県指定史跡・名勝になっている。

安藤広重「相州江之島弁天開帳参拝群衆之図」を描いている。

    「龍宮わだつみの宮」改心して善行の竜と天女が結ばれたという伝説が。


      奥津宮ー岩屋方面南西部に(源頼朝は石鳥居を寄贈している


                      古い狛犬


「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者
常陸佐竹氏討って関東を固め、木曽義仲・平家・奥州藤原を討ち、後白河院崩ずると「征夷大将軍」になる。

                 奥津宮石鳥居は頼朝の寄贈


           サムエル・コッキング苑  シーキヤンドル展望灯台 (植物園)                     


「文覚」 1139-1203 
摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19才で出家。
京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される。
(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。
文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。
のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、
「江の島弁財天」 など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。
また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。
頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。
通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに1205年、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西でした。
                奥津宮の石鳥居・頼朝、奥州藤原討ち。


                        岩屋通り商店街


                        岩間と海岸


「一遍」 1239-89 時宗の開祖
12歳で浄土教の聖達「証空の弟子」修行ー人々の醜さを見て捨て、念仏札を配って全国を巡り教えを説いた。「南無阿弥陀仏」
人を選ばず。一遍死後弟聖戒が一遍の足跡を辿り絵巻物「一遍聖絵」が出来る。



1282年の弘安5年、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとするが、八代執権北条時宗に阻止されたため、片瀬で布教を行ったとある。
「江の島の御岩屋道通りにある井戸」は、
片瀬で布教活動をしていた一遍が飲料水に窮する島民を助けるために掘り当てたものといわれ、この辺りは、一遍が修行をした旧跡と伝えられている。



                     江の島大師堂


             中津宮赤い朱塗りの社殿ーエスカ―2区で


                       湘南海岸線が


                     湘南ヨットハバー港が


           辺津宮ー海の女神を、山の中腹ー日本三大弁財天


                     縁結びのご利益が


            弁財天        エコカーで楽々頂上まで


                         社殿


                       階段で登るのも


                       湘南夜景が(ライトアップ)


                         舞殿


                        大鳥居


             弁財天仲見世通り(丸焼きタコせんべいが人気)


                  東京から1時間の近さ江の島

藤沢から江の島へ セーターを着た雀

2017-06-20 | syu散歩

「相模国・藤沢」-日本橋から48.9km・藤沢宿本陣1、脇本陣1、旅籠屋大10、中15、小20
藤沢は、「遊行寺」の門前町として、歌川広重53次の藤沢は「清浄光寺の遠景が。
鎌倉時代「一遍上人が開いた宗派 時宗ー踊念仏で全国を遊行した遊行寺がある。
時宗の総本山で正しくは、藤沢山無量清浄光寺と云う。大銀杏、怨親平等の碑でも知られ,侠客国定忠治の子分板割浅太郎がこの寺で出家を墓もある」
又、足利義嗣や上杉禅秀らが幕府に叛き鎌倉を襲った、それに対し「足利持氏」が立ち上がった「上杉禅秀の乱」が。
結果は、禅秀らが敗死し、将軍義持は弟義嗣を殺している。遊行寺15代尊恵上人は、敵味方なく傷病兵を収容治療し手厚く弔った。「怨親平等」の碑が。
藤沢は、県南東に位置し、淵の沢の地名が転訛したと云う説が有力。東鎌倉・西茅ヶ崎・南相模湾・北相模台地で南北に広がっている。
東海道と三浦半島の交差点になる。江戸時代から宿場町と市場町として栄えた。
「藤沢」の地名は全国に23あると云う。藤・栃・楠・桑・萩・桜・・の植物の名が多いようだ。
昭和28年の昭和3年、小田急線江の島線開通で、南部の片瀬・鵠沼・江の島が急速に発展した。

           片瀬・江の島・鵠沼は海浜、海水浴場・東洋のマイアミと云われる。


「小栗判官と照手姫伝説」

応永の昔(1394~1411)、常陸の国、小栗の城主であった小栗満重は、謀反の恐れありという讒言により、鎌倉公方の足利持氏に攻められ敗れた。小栗は十人の家来と共に商人の姿に身を変えて三河国の一族を頼って逃げる途中、藤沢俣野の横山大膳の館に宿をとった。横山は実は強盗で館には多くの女がおり、その中に照手姫という絶世の遊女がいた。小栗はこの照手姫と懇ろになったため、横山は恨み、必ず人を喰うという鬼鹿毛(おにかげ)という暴れ馬に乗せて殺そうとしたが、小栗は上手く乗りこなし失敗した。そこで毒を入れた酒を飲ませて殺そうとした。照手姫はこの計画を小栗に告げたが、再三勧められ密謀に引っかかって落命、横山は小栗の財宝を奪い、その死体を上野原に捨てた。

ある夜、遊行14代上人の大空上人に、閻魔大王から小栗を助けよという夢のお告げがあった。上野原に行ってみると、土の中から餓鬼の姿となった小栗が這い出して来た。上人は土車(イザリ車、差別語かもしれないが代替語?)に小栗を乗せ、熊野の湯の峰温泉へ湯治に送る。
一方、照手姫は小栗が毒殺されるのを見て逃げ出したが、追っ手に捕まり、武蔵金沢の侍従川に棄てられる。六浦の漁師に助けられたが、嫉妬深い漁師の妻に松葉でいぶされ、挙句の果てに人買いに売られ美濃国、青墓の宿場で働く。照手姫は小栗とも知らずに小栗の車を引いた。
その後、元気になった小栗は横山を処刑し、照手姫を妻に迎えた。小栗は報恩のために遊行寺に閻魔堂を建てた。小栗の死後、照手姫は剃髪して長生尼と名乗り小栗と毒殺された家臣の菩提を弔った。

遊行寺の中にある長生院縁起と伝えられる。
                    江ノ島電鉄の藤沢駅(JRとビルで連結)


                      二階の遊歩道で


「江ノ島電鉄」
明治33年、創立。明治35年、藤沢~片瀬(現江ノ島)間で開業・43年、藤沢~小町(後に鎌倉と改称)間で全線開業した。
平成22年、全線開通100周年を。

鎌倉駅 ー 和田塚駅ー由比ヶ浜駅ー長谷駅ー極楽寺駅ー稲村ヶ崎駅 ー七里ヶ浜駅ー鎌倉高校前駅ー腰越駅ー江ノ島駅ー湘南海岸公園駅ー藤沢駅

                  腰越~稲村ケ崎は七里浜を


「江ノ電・江の島駅」ー藤沢市東南部の相模湾沿岸、
江の島への入口に所在、片瀬地区の一部である。
東から西へ順に一丁目、境川を挟んで二丁目、三丁目が置かれる。北で片瀬、東で鎌倉市腰越、南で江の島、北西で鵠沼海岸・鵠沼松が岡と隣接する。

                        江の島駅


                       駅前商店街


                       江の島大橋へ


          駅前広場にセーターを着た雀達(売店の叔母さんが編んだセーター)






                   江の島遊覧船  片道¥400





                   


                        岩屋