syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

真鶴半島の石材・石仏

2013-02-27 | 気まま旅
真鶴は、県南西部、箱根火山の南東麓、小田原と湯河原に間の街で地形がツルが羽を広げた形から来ている。
黒松、楠の大木の自然林と岬の先端で風光明媚。
主産業は、有名な小松石の発掘と加工で歴史のある町である。真鶴半島は、長さ3K・面積7KM2で箱根溶岩流が半島の原型で、起伏がある。
私は、好きな街で特に新井城跡公園のしだれ桜は見事である。

1606年幕府より江戸城用石調達の命令を受け、筑前大名「黒田長政」が、開拓し、江戸の町の建設に重用されている。下田もここを経由し
紀伊、尾張、水戸、浅野、黒田、加藤なども石切り場としている。運搬は船が多いようで港に大型クレーンが常に動いている。
真鶴と江戸は、直結していた。石の文化は真鶴へであろう。

JR東日本鉄道「真鶴駅」は、東海道線 快速「アクティー」と普通 根府川駅 -「真鶴駅」 - 湯河原駅ー東京駅。
湘南新宿ラインの特別快速が小田原 - 熱海駅間で延長運転され、新宿方面行き列車は当駅を出ると次の停車駅は小田原駅で便利になった。

JR真鶴駅前                    路上に岩のりが
  

「真鶴港」は、真鶴半島の北側に位置し、半島の陰にある天然の良港。 真鶴町では、古くから石材業が盛んで、江戸城築城以来の歴史を持っており、当時から真鶴港を利用して石材を海運していた。
現在でも、石材業は、町の地場産業を支える大きな柱となっている。 現在は、真鶴港には、クルーザーを中心に約30隻のヨットと、約60隻の漁船が収容、中央に大型クレーンが。

「品川台場礎石の碑」は、江戸時代末期に築かれた品川台場(砲台)にも真鶴産の石が使われている。礎石のみ真鶴に移されている。


今でも石材がここから                  品川台場礎石の碑
  

真鶴町の東岸に位置する、「岩海岸」は、入り江、波静かな海水浴場として人気がある。
真鶴新道の「岩大橋」と、岩と云う名の由来ともなった大岩など恵まれている。
岩海岸で8月の第一土曜日に行われるのが、「岩海岸夏まつり」、真鶴を代表する「貴船祭り」が終わった直後、小田原市では、「酒匂花火大会」が開催されているが、花火、灯籠流し等が行われる。


岩海岸と岩大橋


「如来寺跡」は、岩海岸から路地を進むと、如来寺跡がある。
帰命山・如来寺は1620年に建てられ、1911年に廃寺となった古寺。
本尊は石仏の阿弥陀如来であったと伝えられます。古い境内には石窟があり、内部には石造りの十王像や菩薩形座像、地蔵菩薩像などが安置されている。

如来寺跡の石仏が                  寺跡の碑      
  


石仏群は、岩海岸大浦の一角に、廃寺の洞窟。通称、岩の赤石・赤馬石と言われる岩盤を掘り進めた、地獄・間道・極楽は岩肌も荒々しく薄暗く、
閻魔大王を初め十王像や奪衣婆が並び業の秤や善悪人頭杖が置かれ不気味な感じ。

月山和尚が建立し他と云われ、本尊阿弥陀如来石仏は但唱の作で、境内には石室(洞窟)があり十王及び聖観音と地蔵の石仏があると「新編相模国風土記稿」に書かれている。
岩村明細帳では、1641年月桂和尚が開山で、本尊は同じく但唱作となっている。
1725年の如来寺財産目録に、本尊弥陀は今迄通り安置、但唱が一夜で仕上げた観音石仏は岩穴に置かれ村人が百万遍の数珠を廻して念仏していると書かれている。

無縁墓石が
  


「閻魔大王」のモデルは古代インド神話に登場する日神ビバスバットの子であり、自ら死を 望んで冥土への道を切り開いて、冥府の王者になった人類の始祖であるヤマ王とされ ている。


閻魔大王石仏                     お天王さん
    

「児子神社」は、栃木県から彫刻師を呼んで造らせた陶器製の狛犬や、流石海辺の神社、境内社に龍宮神がある。
文徳天皇の皇子 惟喬親王とその御子神をお祀りしている。
17世紀の創立と伝えられるが、天保年間大災のため社殿を焼失し、古記録等は失った。

古来、岩地区の人たちの生産と生活の守り神として信仰されている。7月の「夏祭り」は、花山車、神輿、囃子の順で町内を練り歩くという
素朴なお祭り。

児子神社              石鳥居              拝殿
    

「竜神」竜の姿をして水中に住み、水をつかさどるとされる神。
農業と 結びつき雨乞い祈願の対象となり、漁師にも信仰されている。

神社横に龍宮神         拝殿
  

「石工先祖の碑」は、石段上に、鎌倉時代に石材業を始めた「土屋格衝」と江戸城を築くための採石に当たった黒田長政支配下の
業績をたたえ、碑が再建されたものである。(住宅街の一画に)

石工先祖碑           石材業の土屋格衛等の碑が
    

湯河原吉浜に建つ「小道地蔵堂」、元々は、椙山の山中に建てられていた。
「石橋山の合戦」に敗れた源頼朝は土肥郷を領していた土肥実平に導かれながら逃れるのだが、敵方の大庭軍の追撃を受け、その際に小道地蔵堂の修行僧「純海」の命懸けの庇護を受けて無事に真鶴に逃れることが出来た。
後に頼朝はその時の大恩に報いようと、椙山々中に新たに勝地を卜して僧堂を建立、寺田を純海に与えたとある。
残念ながらその堂宇も1265年に焼失し、寺田もまた海潮により流失してしまったと云う。

その後かなりの期間を経て、岩本勘兵衛と云う人が1685年に焼跡から石造の地蔵像を探し出し、その30年後に禅廊上人が現在地に地蔵堂を再建した。


国道湯河原も地蔵堂
  

「湯河原・吉祥院」は、1590年に庵主の輪轉全法が空山為徳を開山に迎えて開基したものと伝えられている。山号の如意山。
如意輪観音を本尊とすし、現在は、曹洞宗寺院。
入口の右手には御覧の庚申供養塔と六十六部供養塔が並び建てられている。
庚申塔や六十六部供養塔がある。

地蔵堂の隣が吉祥寺 前が湯河原海水浴場
  

「土肥実平」一族は、現在の小田原城付近に小峰館という館を建てて住んだ、「自分の土地」ということをみんなに知らせるため、近くを流れる早川から「小早川氏」という名前に変えている。
のちに広島方面に移住した小早川一族、戦国時代毛利元就の親族となり、豊臣政権五大老の智将、小早川隆景まで続いて行く。

歴史を感じる墓石が。

中腹まで墓地に
  

次回は、源頼朝の若き日を追います。

真鶴半島の朝日

2013-02-25 | 気まま旅
年に2~3回は訪れている真鶴半島、豊かな森、海の包まれ自然が一杯である。特に冬場の半島は静かで、自然が身近である。民宿から見る
朝日と夕暮れ時の真鶴港がたまらない。半島の人々の生活も気張っていないのが良い。
玄関先に一袋100円のみかんが無人で置いてある。

岬は、樹齢350年以上の松の群生や、椎、楠の巨木が生い茂って森と海が一体で地元漁師は、「魚を育てる森」そして大切に保護している。
散歩好きには、たまらない遊歩道が整備され、森林浴、観察などゆっくりできる。
相模湾の「海の幸」活魚料理は、半島ならではである。

真鶴港に登る朝日


朝曇り、雲の合間から 午前9時ごろ

 
「足柄33寺観音の二十九番 西念寺」は湊上山、浄土宗、三王原村心光寺末、本尊阿弥陀。

    

寺入口に、黒田長政供養の碑がある。長政は、江戸城の用石発掘りの命を受けてここ真鶴湾から船出、小河織部正良は岩小松山に良質の石材を発見し石丁場を開いた。正良は、黒田長政13回忌にあたり供養塔を建てたという。

    

「荒井城址公園」は、真鶴駅近くにあるかつて荒井城があった城跡を公園に整備した場所。
荒井城は、後三年の役 1083年に源義家の配下であった荒井実継の本拠地だと言われているが、その後鎌倉幕府の時代には、荒井氏に代わり源頼朝に仕えた湯河原の有力御家人である「土肥氏」の持ち城。
戦国時代には後北条氏の烽火(のろし)台として機能していたと伝えられている。

城址とは言うものの、城跡を彷彿とさせる跡はほとんど無く、空堀と呼ばれる跡が辛うじて残るのみとなっている。

荒井城祉公園
    

「土肥 実平」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
桓武平氏良文流中村宗平の次男。小早川氏の祖とされる。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。(現在のJR東海道本線「湯河原駅」から城願寺城山の辺りが居館)

荒井城址公園で一番有名なのは、見事なしだれ桜による夜桜。
幻想的なライトアップと相まって、とても迫力ある、美しい夜桜見物ができる。

                                 土塁らしき堀
    

「貴船神社」は、真鶴半島の中程、真鶴港・魚市場の近くにあり、739号線に面して鎮座。旧郷社で真鶴港を見下ろす高台に鎮座している。
町の鎮守様として親しまれ、京都の貴船神社が総本宮で、全国に約500社の分社があるといわれている。

御祭神:大国主神(大黒さん)、事代主神(恵比須さん)、少彦名神。 創建 889年、三ツ石の沖合に現れた木像12体と書状を平井翁が発見し、村人と共に社を建て、村の鎮守の神として大国主・事代主・少彦名の三神を祭神として勧請したという。
もとは貴宮大明神と呼ばれ近隣漁民の崇敬をあつめて、明治初年に貴船神社と改称している。
鳥居をくぐり上境内まで108段の石段があり、仏教で煩悩の数と言われている。

祭礼・貴船祭り(毎年7月27・28日)。
祭りの形は、縁起によれば江戸初期までは神座船をつくり港内の漁船や運送船の祈祷をして回ったものが、その後は村内を巡行し村祭りとして定着したといわれ、日本三大船祭りの一つ、奉納される鹿島踊りと共に県無形文化財・県無形民族文化財に指定。

889年創建の神社


「琴ケ浜」の地名の由来は「小洞が浜」であったとも伝えられ、現在は石材採掘や道路整備により、平らな磯に姿を変えた。
「琴ケ浜海岸」は、その昔は海に落ち込む断崖に小さな洞穴のある海岸で、夏になると「夜光虫」の発生する海岸として知られている。
「夜光虫」が発生すると、波打ち際が青白く輝きだし、幻想的な光景を繰り広げ、夜光虫は海水中のプランクトンが発光する現象で、波が高く、気温や湿度が高い夏場の夜間など、一定の条件が揃わないと目にすることができない。

                                水仙が満開
    

「三石海岸」は、真鶴のシンボル、岩礁の岩崎に三つの巨大な岩が顔を出している。笠の形に似ていることから笠島ともいう。
真鶴岬は箱根火山の溶岩が流れ込んでできた。
「幕末の台場(砲台)跡」は、江戸時代末期に台場を築いている。

箱根噴火で出来た三ツ石


相模湾最南端
     

「真鶴中川一政美術館」は、向日葵の絵が有名。文化勲章受賞者の故中川画伯の美術館。(有料)
    

中川記念館隣の「展望公園」は、平成16年に閉園となったテーマパーク「真鶴サボテンランド」の跡地の公園。展望公園に、平成24年、パークゴルフ場が開場した。
パークゴルフは、芝のコースで専用のクラブやボールを使い、コースが狭くカップが大きいため、初めてでも気軽に楽しむことができるスポーツ。広さ約6千平方mの敷地に18ホールのコースが用意されている。
営業時間は午前9時~午後4時。利用料は、一ホール、200円で楽しめる。

一日遊べる公園
    

公園内には、昔からいろいろな文学者が訪れ多くの作品を残している。

坪内逍遥ー初日の出 なぜ三ツ石に 注連はらぬ
与謝野晶子ーわが立てる 真鶴崎が二つにす 相模の海と伊豆の白波
佐々木信網ー真鶴の 林しづかに海の色の さやけき見つつ わが心清し・・・・などがある。

文人達の碑が
    

午後4時頃の相模湾、朝日、夕日は素晴らしい。

森林浴遊歩道から
    

次回は、真鶴の続きです。

伊東 城ヶ崎海岸 吊り橋と駅近散策

2013-02-23 | 気まま旅
伊東 城ヶ崎海岸 吊り橋、この日は寒く観光客も少ない。

城ヶ崎海岸は、大室山が約4000年前に噴火したとき溶岩が海に流れ出し、海の侵食作用で削られてできた雄大な出入りの激しい溶岩岩石海岸。
海岸線には絶壁が連なり、幾重にもふところ深く入り組んだ岩礁、岬から岬へと続く眺めはまさに壮観。

門脇灯台を中心に全長9kmのハイキングコースがあり、なかでも門脇崎の海の吊り橋は長さ48m、高さ23mでスリル満点。






城が崎ブルース

作詩 星野哲  作曲 関野幾生 昭和43年
 
1 ゆかねばならぬ 男がひとり
  ゆかせたくない 女がひとり
  ふたりの恋の 城ヶ崎
  咲けよ匂えよ 湯の花すみれ
  あしたのことは 言わないで

城が崎ブルースの歌碑



「連着寺」 伊豆高原 吊り橋の近くにある
弘長元年、伊豆伊東に流罪となった日蓮大聖人は、ここ蓮着寺近くの烏崎の俎岩(まないたいわ)に置き去りにされた。そこを舟守弥三郎の小舟が通りかかり、日蓮大聖人をお救いしたのです。
日蓮大聖人はこの地方に謫居すること一年九ヶ月、弘長三年二月二十二日、御赦免となり鎌倉へお帰りになった。
 
寺域約二十一万坪、天然の樹木に囲まれ、樹齢千年を超えるやまもも(揚梅木)の大木や樹齢百年の『千歳の椿』(薮椿)、『石喰いモチの木』薮椿の群生が有名である。                    
    



    

伊東駅前 湯の花通り 伊東は何度も行っているが、こんな細い通りが何本もとおっているのは知らなかった。
    

ランチはお蕎麦屋さん、お雛様が豪華に飾られていた。


  


「東海館」は、昭和初期の建築様式をそのまま残す木造3階建の温泉旅館、平成9年に廃館後、伊東市に寄贈された。その貴重な木造建築を後世に伝えるため、平成13年、市を代表する観光施設として生まれ変わった。

東海館は、昭和3年に庶民の温泉宿として開業し、沢山の方々に親しまれ大いに賑わい、当時の職人たちが腕を振るった自慢の建物は、桧や杉などの高級な木材や変木とよばれる形の変わった木々をふんだんに用いた美しい和風建築。
職人たちの手工を凝らした建築美、今や貴重となった伝統的な日本の建築様式である。



次回は真鶴方面へ



    


石垣山一夜城と早雲寺

2013-02-21 | 気まま旅
「石垣山一夜城」は、1589年 北条氏は「真田昌幸公」の名胡桃城を攻めます。これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。
その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させます。
この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲します。

                         石垣山登り口
  

氏政公の弟氏照公の居城八王子城も落城します、北条氏が誇る支城システムは完全崩壊します。

「小田原評定」、1590年、北条氏は城の中で毎日毎日戦いを続けるか降伏するか、会議を開き意見がまとまらず日時が過ぎていた。
        小田原相談、評議、談合ともいう。

石垣の上に生えた樹木
  

四方を完全に包囲されてしまい、毛利水軍や長曽我部水軍や九鬼水軍が海からの包囲を実現。その軍勢総数20万と云われている。
北条は、抜け出る隙間もなく、完全包囲の結果、北条が誇る支城システムも機能せず、各個撃破されてしまう。

            石垣山天守閣辺りからの小田原城方面
    

6月に、伊達正宗公、秀吉の陣に到着。これには北条側もがっくりです、軍事的にも後詰のない篭城は城兵の希望もなくなり士気が喪失されてしまい、伊達氏が北方から援護してくれることをひそかに期待していた。北条氏側はその思惑の甘さにがあったようです。
北条早雲公から5代100年の歴史がここに幕を閉じます。

「小田原早雲寺」は、箱根町湯本、山号 金湯山、宗派 臨済宗大徳寺派、本尊 釈迦如来(坐像)、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊。
創建 1521年、開山 以天宗清、開基は、北条氏綱、 文化財ー絹本淡彩北条早雲像。

湯本早雲寺                      厚い石畳
  

1521年、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建。
1590年、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。
北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の 1627年、僧・菊径宗存により再建。
1648年、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興。


    

早雲寺境内にある北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓所は、江戸時代の1672年に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲命日の8月15日に建立した供養塔がある。
氏綱墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に、氏康墓所は大聖院に葬られたが、豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、その位置は不明となっている。


  


小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇がおこっています、 千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられている。

早雲寺正面                       梅が咲き始めている(2/11撮影)


「山上宗二」は、秀吉公から、家を横領するばかりか、故主の妹御までも横領した。と罵倒したことで、茶頭を解かれ追放されている。
宗二は、流浪の身となり徳川家康や佐々成政を頼り、各地を放浪し、天正十六年に北条氏政の招きで、小田原城に赴いていた。
天正十八年、小田原攻めの本陣がある「早雲寺」に、千利休が滞在していることを知らされた宗二は、密かに早雲寺を訪れて利休と再会。
この時、利休の取り成しで秀吉の勘気を解かれた宗二は、茶会の席で暴言を吐いた。
「鶴を得て、更に楢柴を得るため、民の苦しみを顧みず兵を興した。こたびは関八州と云う名物を得るため、幼主を掲げて下向してきた」

罵詈雑言に慣れている秀吉も、国土から争いを無くし、民の安寧を願い、天下の仕置きを理解しない宗二を生かしては置けなかった。
・・小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし・・と、長闇堂記は伝えている。

愛弟子を残酷な刑で処刑された千利休は、嘆きを抑えて仕候しており、秀吉は利休の立場を思いやって、笠懸山での茶会を催したという。


                              マンサク
  

「長興山の紹太寺」は、箱根登山鉄道、湯本駅一つ手前の「入生田駅」に近い、稲葉正則が形見に植えた「しだれ桜」で知られている寺。
宗派 禅宗、開山 鉄牛和尚ー大慈普応禅師、本尊 釈迦如来、開基 稲葉美濃守正則、本山 京都万福寺。




小田原藩主、稲葉氏一族菩提寺、小田原城内にあったが二代目正則が1669年移建させ、父母祖母「春日局」の霊を弔った。
その当時は、東西14町70間、南北10町16間の広大な寺域に7堂と云う。


  

稲葉正則の「春を忘れぬ形見・しだれ桜」は、樹齢340年樹高13m、4月上旬開花する。

「春日局」1578-1643 明智光秀の重臣斉藤利光の娘、徳川三代将軍家光の乳母、山崎の合戦で父討死し辛い少女時代を過ごす
稲葉正成に嫁ぎ4男をも受け離婚、26歳で乳母に、家光の信任を受け大奥の実力者に、実子稲葉正勝は、春日局で老中に。


  

重要文化財ー稲葉一族と春日局の墓、鉄牛和尚の寿塔、しだれ桜、であるが、鉄牛和尚の血書(自らの血で書いたという大乗経10余巻と
釈迦如来像を製作している。

                            春を待つしだれ桜
  


稲葉一族の墓所は、長興山(標高209m)の中腹にある。東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、堂々とした8基の墓石が横に並んでいる。
墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、
稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっている。
塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死し、忠節をたたえ藩主の墓地に葬られたという。

稲葉氏は、1632年から1685年まで、正勝・正則・正通の三代約50年間、小田原城主。

  


鉄牛和尚は、長興山紹太寺の開山第一祖で、臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事したが、1669年 長興山開発のため、稲葉正則に招かれ小田原に来て、紹太寺の開山となる。
1700年に死去しましたが、1712年の13回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜わった高僧。

寿塔は、貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世であった超宗和尚が建立した。

    

次回は伊東方面へ

小田原城ーその2

2013-02-19 | 気まま旅
堅城の小田原城,栄華を誇った北条時代も、平家時代と同じ諸行無常の運命にあった。

武田軍に、小田原城包囲、1569年1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。
同年8月に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月には北条氏康の小田原城を囲んだ。
当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城である。
篭城策は手堅く、武田軍は包囲を開始して4日後に城下に火を放ち軍勢を引き上げている。

「三増峠の戦い」は、1569年、神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺、結果は、武田軍の勝利、武田信玄対北条氏照、氏邦で、武田軍勝利している。


    


「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であった。
関東圏は独立した存在として考えられ、後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられている。
北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。
早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれている。
税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であった。

本丸に一番近い堀跡      二の丸から本丸へ      石垣山方面     
  

北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の「北条包囲網」を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させたが、上杉憲政(1523-1579)は越後の上杉謙信に支援を求めて落ち延びた1552年。
1550年代初頭、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために「甲・相・駿」の三国同盟を政略結婚を通して結ぶことに。
1552年には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、その12月に、武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことになる。
三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立した。(三国同盟)

                             珍しい「銅門」
    

1546年、武蔵国河越城の戦い、北条軍の勝利、北条軍・山内上杉家、 扇谷上杉家、 足利古河公方。北条氏康、綱成、 多目元忠
上杉憲政、朝定、 足利晴氏。8万0000。

「河越城の戦い」は、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い。
北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年から4度にわたる争奪戦が展開された。
有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の 1546年の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」。
北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。

           本丸                       城内へ
    

「小田原評定」は、1590年豊臣秀吉連合軍が、北条軍の軍団がこもる小田原城を攻めた際、城中の北条氏家臣団の間で、戦い続けるのか降伏するかなかなか意見がまとまらず、いたずらに日時が過ぎて被害を大きくした。

秀吉連合軍は、箱根山中での持久戦を想定した戦略で、 小田原包囲 戦が始まると秀吉は、余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を 築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
大道寺政繁は、 嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏。

相模湾方面                        神社近くの曲輪北堀
    

石垣山は、笠懸山と呼ばれていたが、1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになる。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。
実際にはのべ4万人が動員され、約80日間が費やされたという。


本丸を囲む石垣            駅側は発掘調査中         貴重な資料が
    


箱根外輪山山麓の台地にある小田原城、土肥、小早川、大森、北条、大久保、居城。城下を堀と土塁で囲み総延長10KMの外郭の難攻不落を誇っていた。現在本丸近辺の発掘調査で立ち入り禁止区域もある。

庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかっている。

発掘裏に弁財天石像が、           城山競技場方面、間に鉄道道路が
  


「北条氏政・氏照の墓所」市指定史跡。 小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られ、後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまい、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。
しかし、それも関東大震災で埋没し不明となり、翌年地元の有志によって復興された。
墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。

小田原駅に近い商店街の隅に
    

北条氏の寺がここに
  

「報徳二宮神社」は、明治27年 1894年、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建された神社。
二宮尊徳翁にあやかり学業成就・五穀豊穣・商売繁盛・経営などに御利益があるとされ、毎年多くの参拝者で賑わう。

城跡公園と隣接にある
    


次回は、湯本石垣山一夜城。