「夢花火」 伊東海岸. 8月・ 宇佐美花火大会 ー 宇佐美海岸. 8月、「灯籠の流れ」打上花火. 伊東 海岸. 8月・
「太鼓の響き」打上花火.伊東海岸. 8月、 第72回按針祭 海の花火大会. 伊東海岸一帯. 8月・ やんもの 里花火大会. 八幡野海岸. 8月・
川奈港いるか浜花火大会と続く。
伊東の花火
「三浦按針」 青い目の武士 江戸時代 1564ー1620 別名 ウィリアム・アダムス。
1564年、イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。
船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウス(英語版)に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加し、翌1589年には、メアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。
しかし、軍を離れてバーバリー商会(英語版)ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。 17世紀のエングレービング。左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホープ号の航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
ホープ号("希望"の意・旗艦)・リーフデ号("愛"の意)・ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)・トラウ号("忠誠"の意)・フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)
司令官のヤックス・マフ(英語版)はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年、船団はロッテルダム港を出航した。
しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。
その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
日本漂着、家康の引見。1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図
関ヶ原の戦いの約半年前の1600年の慶長5年、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。
自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。
一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
慶長5年、家康は、初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。
三浦按針となる。アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け(大英図書館蔵)。
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる[注釈 1]。
この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見に采地も与えた。
三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得た。
安針
三浦按針(ウイリアム・アダムス)に指導で造船作業が
「みかんの花咲く丘」
第2次世界大戦の終戦直後に生まれた童謡が、伊東から。
日本を代表する名作の1つとして知られ、1946年、発表。
作詞は、加藤省吾、作曲は、海沼實・「井口小夜子が吹き込んだ物と、川田正子が吹き込んだ物がある」
「みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる・・・・・。
「三浦按針・アダムス」 1564-1620 日本最初のイギリス人航海士 イギリスと友好都市に。
徳川家康からー250石を貰い、家臣となる。日本橋に屋敷を与えられ、日本女性と結婚し1男1女の4人家族。
家康の命令で、ここ伊東で西洋風船を造る。他にも幾何学・数理学などを講じたとある。現在、横須賀に按針塚が残されている。
オリーブの木の囲まれた公園
徳川家康と大名時計
三浦按針
「松原・湯川」の海岸を伊東海岸と云う。
延長1kmで遠浅の砂山である。6月中旬海開き「市営海浜・温泉プールもある」・夏ミカン狩りは3~5月頃
伊東港の岸壁
伊東港の灯台と初島