syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

伊東港 三浦按針メモリアルパークなぎさ公園 マリンタウン

2019-11-28 | 季節だより

「国道135号線」静岡県下田~神奈川県小田原間
1953年の昭和28年ー2級国道から昭和40年に1級国道・平成20年真鶴道路無料に、実延長され現在104.5km。

                    国道135号線から 大室山が


                           手石島


相模湾を右に見て、135号線を宇佐美方面へ
伊東港ー按針メモリアパークーなぎさ公園ーオレンジビーチー旧海浜プール「マリンタウン、道の駅・伊豆半島ジオパーク」





                     道の駅店内(足湯がある)








                        航空写真




                       街路路の切り株跡



花火の伊東海岸 みかんの花咲く丘

2019-11-26 | 季節だより
「夢花火」 伊東海岸. 8月・ 宇佐美花火大会 ー 宇佐美海岸. 8月、「灯籠の流れ」打上花火. 伊東 海岸. 8月・
「太鼓の響き」打上花火.伊東海岸. 8月、 第72回按針祭 海の花火大会. 伊東海岸一帯. 8月・ やんもの 里花火大会. 八幡野海岸. 8月・
川奈港いるか浜花火大会と続く。
                       伊東の花火




















「三浦按針」 青い目の武士 江戸時代 1564ー1620 別名 ウィリアム・アダムス。
1564年、イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。
船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウス(英語版)に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加し、翌1589年には、メアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。
しかし、軍を離れてバーバリー商会(英語版)ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。 17世紀のエングレービング。左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホープ号の航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
ホープ号("希望"の意・旗艦)・リーフデ号("愛"の意)・ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)・トラウ号("忠誠"の意)・フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)
司令官のヤックス・マフ(英語版)はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年、船団はロッテルダム港を出航した。
しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。
その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。

日本漂着、家康の引見。1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図
関ヶ原の戦いの約半年前の1600年の慶長5年、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。
自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。
一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
慶長5年、家康は、初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

三浦按針となる。アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け(大英図書館蔵)。
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる[注釈 1]。
この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見に采地も与えた。
三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得た。

                            安針


              三浦按針(ウイリアム・アダムス)に指導で造船作業が


「みかんの花咲く丘」
第2次世界大戦の終戦直後に生まれた童謡が、伊東から。
日本を代表する名作の1つとして知られ、1946年、発表。
作詞は、加藤省吾、作曲は、海沼實・「井口小夜子が吹き込んだ物と、川田正子が吹き込んだ物がある」

    「みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる・・・・・。

「三浦按針・アダムス」 1564-1620 日本最初のイギリス人航海士 イギリスと友好都市に。
徳川家康からー250石を貰い、家臣となる。日本橋に屋敷を与えられ、日本女性と結婚し1男1女の4人家族。
家康の命令で、ここ伊東で西洋風船を造る。他にも幾何学・数理学などを講じたとある。現在、横須賀に按針塚が残されている。

                   オリーブの木の囲まれた公園


                     徳川家康と大名時計


                         三浦按針


「松原・湯川」の海岸を伊東海岸と云う。
延長1kmで遠浅の砂山である。6月中旬海開き「市営海浜・温泉プールもある」・夏ミカン狩りは3~5月頃

                     伊東港の岸壁


                    伊東港の灯台と初島











松川沿いに 高級木材で建築の東海館 昭和3年

2019-11-23 | 季節だより
「東海館」創業者「稲葉安太郎」。
町内の材木商で資産家・館の建築には、国内外の高級材木を集め、内装など銘木が使用されている。建築は、昭和3年で職人の遊び心が・・・。
館入口から朝日と鶴の彫刻が飾られている。(唐破風の彫刻)
3階建ての建物と中央に望楼、すべて松川に沿っている。
館から「木下杢太郎記念館」も近い。
                          秋葉神社 瓶山に鎮座


                             社殿


                           正面初島




                         相模湾・朝日が(午前6時頃)




「東海館」
伊東温泉を流れる松川河畔に、大正末期から昭和初期の温泉情緒を今に残す木造三階建ての温泉旅館の一つ。
川の土手から見る風景は素晴らしい、1928年の昭和3年、に創業したと言う。
昭和13、増築をしたとあるが,この頃,伊東線が開通して伊東温泉は大変な賑わいだったと言う。
昭和24年、望楼の増築・幾度かの増改築を行ないながら旅館業を繁栄させてきた。が、平成9年、諸般の事情があって70年近く続いた旅館の長い歴史に幕を下した。

町並みとしての保存要望等がもち上り,所有者から建物が伊東市に寄贈。
平成11年、昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として文化財的価値をもち,戦前からの温泉情緒を残す景観として保存し,市の文化財指定。
平成11年、から,平成13年、約3年間保存改修工事・平成13年、伊東温泉観光・文化施設「東海館」として開館した。
入館料は無料であったが,今は、入館時は大人200円。
創業者の稲葉安太郎氏は材木商。
相当の資産家で,木造建築に明るく和風建築には金に糸目をつけなかったと云う。


                 町の中央を流れる松川沿いにある「東海館」


                           大川橋(市内中心)


                       大川橋からの東海館


                    市内観光案内の「伊東観光番」


「八幡神社」観光番と隣接。
                        伊東市渚町に鎮座


                            鳥居


                            狛犬


                            社殿


伊東続きます。

源頼朝が数年過ごした伊東

2019-11-18 | 季節だより

「源頼朝」 1147-99年 武家政治の創始者、義朝の嫡男・母熱田大宮司の娘・鎌倉幕府の初代将軍・「平治の乱」で義朝軍平家に敗れ、義朝殺され頼朝伊豆へ流され、以降20年流人生活、伊東で数年生活する。
平清盛の継母「池禅尼」は、我が子「家盛」と生き写しだったので、清盛に命乞い、頼朝は危なく命を助けられた。
のち、平家を滅ぼした頼朝は、池禅尼の実子「頼盛」を大納言に還任させて恩に報いた。1160年伊豆へ。
伊豆での生活は、京都の「三善康信」の叔母が頼朝の母で京都の情報を送り続けている。
乳乳母達の援助によって困ることはなかったとようで、馬・狩など自由で、特に比企尼の物資の援助は、頼朝を助けたと云う。
尼の娘婿の「安藤盛長・比企能員・河越重頼・伊東祐清・・」支援者としていたと考えられる。 

平家寄りの中世の豪族「伊東氏」は、平家。「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏と宇佐美氏など頼朝の有力御家人になっている。
音無街に鎮座する「音無神社」があるが、この神社、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社で知られている。
毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)が行われている。

                         伊東駅前


伊東公園
JR伊東駅の裏に位置し、駅から北西へ150m・徒歩10分。戦前には李王家の別荘があった小高い丘のある公園。
2月の初旬から寒桜が咲き始め、春には3,000株の鮮やかなピンク色の芝桜が、 遊歩道を頂上までいくと、伊東市街を一望に見わたせる場所。
郷士の生んだ偉大な文学者・医師「木下杢太郎」の文学碑が建っている。1956年10月・杢太郎碑建設委員会の手によって建立さた。
谷口吉郎工学博士の設計による五双と三双の二つの屏風型をした風格ある石碑には、杢太郎の「むかしの仲間」(すかんぽ)の詩が刻まれている。
杢太郎の言葉「科学も芸術も、その結果は、世界的なものであり、人道的なものである」賛文を添えている。

                      伊東公園入口の神社の鳥居が


                         萬霊魂祭塔










                        松月院山門


松月院ー(萬吉山宝持寺松月院)
東京都板橋区赤塚にある曹洞宗の寺院、山号は萬吉山・萬吉山宝持寺松月院。
寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1456年、千葉県市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺「宝持寺」菩提寺として定め、土地を寄進し「松月院」と名を改めさせたのが始まりであるといわれる古寺。



江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。

幕末ー砲術家として名高い「高島秋帆」が、
1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいると云う)で西洋式の砲術訓練を行った際に
本陣がこの松月院に置かれたと云う。

  訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名に。




                          本殿


















               
音無街に鎮座する「音無神社」がある。
ここは、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社・毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)                      
「木下杢太郎」 明治時代の医学者で文学者・記念館が近くである。伊東公園に碑が建つ。
「北原白秋」の伊東音頭の碑・「尾崎士郎」文学碑(戦時中疎開)・「与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・高浜虚子」の碑がある。
これは、木下の「明星」の仲間と云う。





歴史を感じる天然記念物7本杉の 河口湖浅間神社

2019-11-17 | 季節だより
山梨県南都留郡富士山北麓、県南部、御坂山地、富士五湖の一つ、東から2番目の湖、五湖の内湖面高度が一番低く山中湖の次の面積がある
鯉・鯰・鮒が多く、ワカサギは年々減少し、氾濫水害を受けている。
江戸末期ー排水と富士吉田の灌漑・生活用水に利用されてきた。また江戸時代から富士講道者の宿泊地。



延喜式内名神大社 「河口浅間神社」 富士山世界文化遺産 湖の北東岸に鎮座。
富士山噴火の鎮める勅命で創建。
               天然記念物・七本杉と稚児の舞で知られている。(4・7月に)


                   母の白滝ー安全と身清め富士登拝を。景観最高






















河口湖には、ロープウェイ・観光船・美術館・博物館・オルゴール館等がある。