syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

オンネトー(コバルトブルーの沼)

2012-11-30 | 気まま旅
釧路から十勝支庁にはいる。道中央部から南部に渡る道最大の支庁で所在地は帯広市になる。十勝流域の十勝平野が大半を占め、日高山脈
石狩山地、
白糠丘陵を境界にしている。
道内最大の畑作地帯、小豆、大豆、ジャガイモ、小麦で北部は酪農が中心で十勝川・利別川の合流に水田がある。内陸部の開拓1900年植民区画し発展している。
東部の雌阿寒岳西麓(1476m)に形成する堰止湖、アイヌ語で、年老いた沼・大きい沼「オンネトー」がある。周囲から小河川に流入し南岸柄蝶湾川となる。
「オンネトー」は、たかさ623m、深さ3.8m、阿寒富士とサンショウウオの生息地で知られている。



「サンショウウオ」は、皮膚は鱗がなく粘膜におおわれる。呼吸の大半を皮膚呼吸に頼っていて、皮膚が湿っていないと生存できない。
渓流に生息するハコネサンショウウオは肺を持っていない。また、前足は4本、後足は5本の指を持つ。

オオサンショウウオは繁殖期に川を遡上するとき以外はほとんど水中から出ることはないが、他の種類は陸上生活を送ることが多く、森林の落ち葉の下や
モグラやネズミが掘った穴の中や、川近くの石の下などに生息する。繁殖期以外はあまり人の目にはふれることはない。



オンネトー湯の滝は、湖の南東方向にある2つの滝。天然記念物、日本の地質百選の1つである。
雌阿寒岳からの温泉水(水温43度)が湧き出て、直後に安山岩溶岩の崖を流れ落ちる滝である。
かつては滝上の池で入浴ができたが、ここに生息する微生物によって酸化マンガンを生成する現象が発見され、保護のため入浴禁止となった。
熱帯魚を持ち込んだ者がおり、それが繁殖し生態系を乱すという問題も起き、駆除中との事。





オンネトーの魅力は、湖面の美しさ。見る角度や空模様によって、色が変わっていく。コバルトブルー、エメラルドグリーンと。
湖面の美しさと湖を取り囲む原生林、そびえ立つ雌阿寒岳・阿寒富士の眺望も見事。道三大秘湖のひとつ、静かにこの美しいオンネトー。
湖の周りを1周する遊歩道は、約1時間半程度。残念ながらその時間はと取れない。



大型バスは、ユータン出来ないので(道幅が狭い)途中下車した。



オホツク海から知床、根室、釧路と摩周湖、阿寒湖を挟んで十勝の太平洋と見てきた。少々疲れが出た。



 

阿寒湖と阿寒岳神社

2012-11-28 | 気まま旅

「釧路支庁」道東の太平洋沿岸、根室が隣接し根釧地方と呼んでいる。中央部に釧路平野で背後に丘陵、台地、火山群よりなる。
夏は、沿岸部より海霧が発生しやすいが、冬は晴れ間が多い、道東最大の紙、パルプ、水産加工工場が集中。北に阿寒で、南に釧路湿原となる。

「阿寒湖」は、釧路支庁道東部に位置し、阿寒カルデラの中央火口噴出した雄阿寒岳の成長の伴い、山体の西側に形成された堰止湖である。
尻駒川が流入する一方、南東岸湾入部の滝口から阿寒川が流出する。
湖面に大島、ヤイタイ島、チュウルイ島、が点在している。マリモの生息地は、北岸の一部に限られている。
アイヌの神魚ヒメマスは、原産湖である。温泉街は南に。湖面の高さ419m、面積12.5km2、周囲23km、深さ平均36m~45m、展望台からは、雄阿寒岳がみえる。



火山地域は、温泉が沸き湖南岸には阿寒湖畔温泉の温泉街。遊覧船が出ているほか、環境省の阿寒湖畔エコミュージアムセンターや、阿寒湖周辺の自然保護に
貢献した前田一歩園財団が保有する前田記念館、山荘がある。
遊覧船でチュウルイ島に渡り自然の状態のマリモを見ることが出来る。湖畔ではボッケと呼ばれる泥火山が噴出し、硫黄の異臭を周辺に放っている。
「ボッケ」はアイヌ語で、煮え立つを意味する。
湖畔の一角には、北海道最大のアイヌコタン(アイヌの集落)があり、アイヌの伝統舞踊を公演する演舞場の「オンネチセ」や、アイヌの伝統文化を紹介する2つの
資料館(アイヌ生活記念館、森と湖の藝術館)、木彫製品などを販売する土産物店などが並んでいる。観光客は減少とのこと。



「阿寒岳神社」は、創建明治38年、



愛媛県の大山祇神社の分霊神社である。
愛媛は、瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5m)西麓に鎮座。山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。
源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているという。
 






阿寒湖アイヌコタン民芸品店が、阿寒湖のアイヌコタンには30軒ほどの個性的な民芸品店があり、それぞれの店で一流の木彫り師による独創的な作品が作られ
展示販売をしている。
木彫りの作品を中心に 動物や鳥などをモチーフにした小物や美しいアクセサリー、アイヌの楽器ムックリなどがあった。

神社の境内は落ち葉でいっぱい。


毬藻は、太陽の光を使って栄養を作る、いわゆる「光合成」をするのでスミレやラベンダーなどと同じ植物の仲間。
水の中におり、花を咲かせないで子孫を作るので藻類の一種。
食卓に出てくるワカメやコンブなんかが同じ藻類の仲間に分類されている。マリモは緑色の藻類、緑藻類として分類されている。
 

硫黄山と霧のない摩周湖

2012-11-27 | 気まま旅

「硫黄山」は、道北東部、知床半島の背骨をなす知床連山中の火山。安山岩質の集塊岩や溶岩からなり、活発な噴火を繰り返した。
西麓の海岸カムイワッカから登山できる。高さ1562m

貸衣装があり着て写真を撮る。全員のもの。この後摩周湖でも写真がとられ、販売された。我々は写真ほど処分に困るものはないとの若い人たちの話があるので、買わない。


北海道弟子屈町「アトサヌプリ(別名硫黄山)」は、硫黄山とも呼ぶ、アイヌ語の「アトゥサ」 裸であると「ヌプリ」 山に由来。
アトサヌプリは屈斜路カルデラの中に存在する活火山で、屈斜路カルデラの最後の大噴火(約3万年前)以後に生成した後カルデラ火山に相当する。
3万年前以後の活動で一旦成層火山を形成し、その後火砕流を伴う噴火で直径約4 kmの小カルデラができた。
カルデラ内にマクワンチサップ (573 m)、サワンチサップなどの溶岩ドームができた後、最後に1,500年前以後の火山活動でアトサヌプリ溶岩ドームが完成した。
最近の噴火は数百年前に起こったもので、このときの噴火で爆裂火口ができた。
山体のあちこちから火山ガスが噴出している。数箇所の噴気孔では業者が卵を加熱しており、観光客に販売していた。
硫黄成分のため山麓周辺部の土壌は酸性化しており、一般に広く見られるエゾマツやトドマツなどが生育できない。
荒地に適応したハイマツと、酸性土壌を好むイソツツジが優勢であり、7月初旬にはイソツツジ群落の一斉開花が見られるという、
一部にはコケモモやガンコウランなどの高山植物も見られ、日本でも最も標高の低い場所にある高山植物帯となっている。







「摩周湖」は、道東弟子屈町の北東部のカルデラ湖、屈斜里湖の東で形成された「摩周カルデラに水が溜まってできた湖。
湖名は、マシュウントー(カモメの沼)によるとの説がある。
水が流入しないのに水位が変化しなことでも知られている。透明度は高く41.6m世界一であったが、52年の十勝沖地震後低下し平成3年で28mと云う。
中央に溶岩円頂丘のカムイシュ・神の島が浮かぶ、南西岸の道路と北東岸裏摩周湖が繋がっている。濃霧の発生する日が多く、湖面や遠景を見ることは難しいが
今日は絶景であった。面積19.2km2、周囲やく20k、湖面の高さ351m。

布施明が歌う「霧の摩周湖」、霧の無い摩周湖。




        「♪霧の摩周湖」作詞 水島 哲作曲 平尾 昌晃。

                  霧に だかれて しずかに眠る 星も見えない 湖にひとり

                  ちぎれた愛の 思い出さえも  映さぬ水に あふれる涙

                  霧に あなたの 名前を呼べば こだま せつない 摩周湖の夜


                  あなたがいれば 楽しいはずの 旅路の空も 泣いてる霧に

                  いつか あなたが 話してくれた 北の さいはて 摩周湖の・・・。






大鵬と川湯温泉

2012-11-25 | 気まま旅
ウトロで唯一つ港や国道に面して、面白い形をしたオロンコ岩やゴジラ岩がある観光遊覧船乗場。






北海道釧路支庁管内川上郡弟子屈町にある温泉。川湯の名は、アイヌ語のセセキ(熱い)ペツ(川)を意訳したもので、温泉街のなかを高温の温泉川が流れている。
日本でも珍しい『源泉100%かけ流し宣言』をしている温泉街で、リウマチス・糖尿病・皮フ病に効くといわれている温泉として有名。



阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖などの名所がある阿寒国立公園の川湯温泉の一角に、北海道が誇る不世出の大横綱「大鵬」を称えた記念館がある。
大鵬は昭和15年5月29日にロシアのサハリンで生まれ、5歳の時に北海道岩内町に引き揚げ、その後道内を転々とし11歳から16歳までここ川湯で過ごしてる。

「川湯相撲記念館」は、大鵬の偉大な功績を後世に伝えるべく、昭和59年に開館。
大鵬の生い立ちから引退までの半生が数多くの写真で紹介、32枚の優勝額や賜盃のレプリカなど、偉大な功績の証が展示されている。
入館料有料



「48代横綱・大鵬幸喜は、優勝回数32回、戦後最強の横綱、様々な大記録を打ち立てたレコードホルダー。
昭和相撲史の主役であり、「巨人、大鵬、卵焼き」と子ども達からの人気も高かった。
サハリンは日本領であった為、大鵬は外国出身横綱。
終戦直後に北海道に渡るが、当初は小樽まで小笠原丸で行くつもりであったが、幼い大鵬が「降りたい、降りたい」とぐずった為、やむを得ず稚内で船を降りた。
その船「小笠原丸」は、小樽に到達する事なく、魚雷の攻撃で沈没している。
少年時代の苦労は大きく、納豆を販売し家計を助け、営林署に務めながら高校に進学し、二所ノ関部屋の元力士である紅葉山の目に止まりスカウトをされ、入門。
線が細かった為、身体検査をギリギリで通過し昭和51年に初土俵を踏んだ。



川湯神社の横に立派な土俵があった。さすが、横綱大鵬の育った町、神社祭で、恒例の相撲大会が行われるという。




「川湯神社」は、弟子屈町の鎮座、朝の散歩で参拝する。境内には樹齢300年の神木が、地元の人に聞くと明治20年ごろ創建されたと云う。
「御神手湯」の看板が、
手水舎が暑い温泉であった。神社の横の小川から湯気がもくもく立ち昇っていた。



川湯神社本殿  賽銭箱が大きく見えた。



知床五湖と木道

2012-11-23 | 気まま旅
知床半島は、オホーツク海が、網走支庁、根室海峡が根室支庁で、知床五湖は、網走支庁斜里町、羅臼岳の北東麓台地にある。


知床五湖とは、北海道斜里町にある湖(秘湖、沼)。五湖とあり、一湖から五湖までの名前がついている。ただし、湿地帯にあるため融雪期には数が増える。

知床八景の一つに数えられる観光地として、一湖を見下ろす展望台や湖を巡る遊歩道が整備されている。知床連山や原生林を水面に映す素晴らしい風景は、
訪れる観光客の心をとらえて放さない。一湖までは木道の立派な遊歩道があり往復30分ほどで歩ける。2から5湖は案内人と共にしか行けない。

遊歩道では、エゾリスやエゾシカなどが観察される一方、ヒグマが目撃されることもあそうで注意。
ヒグマの出没状況によっては、遊歩道の一部または全部が閉鎖される場合がある。また、夜間と冬期は閉鎖される。
周辺の植生は、エゾマツやトドマツが主、近年、頭数が激増したシカの食害のため天然更新が滞り、全体的な衰退傾向が危惧されている。

しかしさすが世界遺産、幻想的な湖と空との感激、五湖全部、時間をかけて回りたい。 




アイヌは、人。コタンは、集落。オイナ カムイ ユー カラは、聖伝。ラッコ トドは、松。ナイは、沢。ベッ ベチは、川。
東北でも使われている地域がある。



歩きやすい木道


知床一湖




すぐ近くまで来るエゾシカ






網走刑務所へは寄らなかったが、バスのガイドさんから説明があった。

「脱獄王・白鳥由栄事件」は、昭和11年、殺人容疑で収監されていた白鳥由栄(当時28歳)は、青森刑務所を脱獄し付近の山中に潜伏した。
白鳥の独房を監視していた看守が、不審を抱いて布団をはがすと中には枕などで偽装し白鳥は脱獄した後だった。
看守は、大慌てで上司に報告、直ちに青森市内に緊急非常線が張られた。一方、脱獄した白鳥は3日間、山中に潜んでいたが、食べ物を物色しに下山したところを
警戒中の警察官に逮捕され再び青森刑務所に収監された。
白鳥の取調べが始まった。その中で白鳥は、「看守達から゛人殺し゛お前は死刑だ゛などと罵倒され、顔にツバを吐きかけるなどされ激怒した」と脱獄の動機を供述した。
また脱獄の方法は、入浴中に桶から金属のタガを密かに取り外して独房に持ち帰った。さらに独房のドアにある鍵穴に指を押し付けて、その型に合うよう何日もかけてタガを加工。
脱獄決行の当日、看守が15分置きに巡回する隙をついて鍵を開けて脱獄したのだった。同年11月5日、白鳥に無期懲役が確定。
その後、宮城刑務所と東京の小菅刑務所に移送された。

白鳥は、明治40年に青森県で出生。2歳で豆腐屋に養子に出され育った。頑固ではあるが馬鹿正直な性格で仕事は熱心だった。21歳の時、知人に勧められて結婚。
3人の子宝に恵まれ貧しいながらも充実した生活を営んでいた。
やがて、出稼ぎのため蟹工船に乗り込んでから不幸が襲ってきた。白鳥は、船内で賭博仲間と知り合い博打にのめり込んだ。蟹漁が終わって家に戻った白鳥は、
豆腐屋の稼ぎを全て博打につぎ込んだ。やがて、金が無くなると仲間と2人で青森市内の雑貨商に忍び込んだ。だが、家人に見つかり、もみ合っているうちに牛刀で殺傷。
白鳥は、共犯が逮捕されたことを知り自首。その後、青森刑務所に。戦況が悪化する中、白鳥は小菅刑務所から秋田刑務所へ移送された。秋田刑務所では、
脱獄囚が移送されるとあって厳戒体制をとった。白鳥に特別の独房を用意し、手錠をはめたまま一日中正座を強制した。白鳥は、刑務所の処遇に対して怒りを募らせていった。

昭和17年、白鳥は両足を一方の壁、両手は対面の壁に付きながら天井に向かって登り始めた。やがて高さ4メートルの天窓を壊して脱獄。
看守や警察官が血眼で行方を追ったが、杳として手掛かりは掴めなかった。
3ヵ月後の9月、白鳥は小菅刑務所の小林看守長の官舎を訪ねた。驚く小林看守長に、劣悪な刑務所の処遇について訴えた。
白鳥は、実情を知ってもらいたいという一念で脱獄したのだという。その後、白鳥は戦後の映画で有名になった「網走番外地」のモデルになった網走刑務所に移送された。
網走刑務所の真冬は零下30℃。独房内でも零下10℃近いのに、看守は白鳥に手錠、足錠を一日中掛けて夏物一枚で独房に放り込んだ。ここで、白鳥の怒りが再燃する。
脱獄を決意した白鳥は、毎日味噌汁を脱獄防止の鉄枠に吐きかけて腐食させた。昭和19年8月26日、ついに鉄枠を取り外し、自身は肩や腕などの関節を外して
狭い小窓から脱走したのだった。難攻不落の網走刑務所始まって以来の脱獄者だった。

-4回目の脱獄-
網走刑務所を脱獄した白鳥は、2年余りを山中に潜伏。昭和21年、人里に下りてきた白鳥は野菜泥棒と間違われて地主ともみ合っているうちに短刀で殺傷。
2人目の殺人を犯してしまった。
札幌刑務所に収監された白鳥は、看守4人が1組になって監視するという厳重体制であった。だが昭和22年、今度は床下から穴を掘って脱獄に成功。
昭和23年、札幌市内をうろついていた白鳥は、警邏中の警官に職務質問を受けた。
いつもだと「おい、こらっ」というイメージの警察官が、優しく対応し、タバコまでくれたことに感動した白鳥は、この警官に脱獄した白鳥であることを名乗った。
再び、収監された札幌刑務所で公判が始まった。判決は、地主殺人に対しては殺意は無かったと認められ傷害致死罪で懲役刑だった。
これで、死刑は無いと判断した白鳥は、もう脱獄はせず真面目に服役して出所しようと考えた。
模範囚として出所、昭和23年、札幌刑務所から府中刑務所に移送された白鳥は、最初の数年間は荒れていたようだが、その後模範囚となって昭和36年仮出所。
その後、日雇い労働でなどで暮らしていたが昭和54年、都内の病院で心筋梗塞を患って死亡。享年71歳だった。