syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

国立博物館平成館から鶯谷

2016-03-29 | syu散歩
「アジアの古代文明」中国(黄河)文明・ 殷 紀元前16 世紀ごろ,黄河流域でおこり、青銅器,甲骨文字,占い、周ー紀元前11 世紀ごろ殷を滅ぼし紀元前8 世紀ごろ勢力はおとろえた。 春秋・戦国時代 紀元前8 世紀ごろから戦乱の時代に入り、鉄製の農具や武器の使用→農業や商業の発達。
孔子が儒教(儒学)を、 秦 紀元前221 年,始皇帝による厳しい政治。万里の長城を、 漢 中国を統一して大帝国を築いた。シルクロード,紙
朝鮮半島 紀元前後,北部に高句麗がおこる。
インダス文明 インダス川流域でおこった。住居や上下水道,大浴場の遺跡もみつかり計画性のある都市づくりがされている。
仏 教  紀元前5 世紀ごろ,シャカが教えを説いた。インドから中国・朝鮮半島を経て,日本にも伝わる。
メソポタミア文明ー紀元前3500 年ごろに現在のイラクを流れる2つの大河にはさまれた地域でおこる。くさび形文字,太陰暦,60 進法が。
中國ー占いによる政治が行われ,漢字のもととなった甲骨文字が使われ、甲骨文字は,亀の甲羅や牛の骨に刻まれた象形文字である。
孔子は儒教のもとになる教えを説き,秦の始皇帝は遊牧民の侵入を防ぐため,万里の長城を整備した。
その後,西方との交通路としてシルクロードが開かれ,中国の絹がローマ帝国へ運ばれたている。

「秦」ー紀元前778年 - 紀元前206年ー
中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。
統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。
国姓は嬴(えい)。もしくは趙。統一時の首都は咸陽。なお、中国では、4世紀頃まで朝鮮半島南部にあった三韓の一つの辰韓も、
「秦」と表記することがある。
統一王朝ー紀元前247年に13歳で即位し政を、商人の身から先代王の宰相になっていた呂不韋が相国として実質的な権力を握ると、
紀元前241年には蕞の戦い(中国語版)で、趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を撃退した。紀元前238年に呂不韋が失脚して「政」が実権を掌握した。
やがて韓の公子韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。
しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献し、韓・魏・趙を滅ぼした。
紀元前223年に王翦が楚を滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一した。
政は自ら皇帝(始めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものと云う。
南方地方へと、、、、、。



「国立博物館・平成館」
1階の考古展示室は、考古遺物で石器時代から近代まで日本の歴史をたどり、縄文時代の土偶や、弥生時代の銅鐸、古墳時代の埴輪など作品が、
講演会やさまざまな催しのための講堂、およびガイダンスルームがありる。

       「中国始皇帝と大兵馬俑」は、2階特別展示専用の展示室で開催入館料¥1600
    

泰の始皇帝陵には、7000体の等身大の兵士(陶器で形作られた人形)・馬の「兵馬俑坑」。
秦は、中国七つの国の争う戦国時代で、「秦」は西の位置していた。
最古の王朝ー殷きょう後の漢武帝も泰山で儀式を行っている。
神に捧げたにんげん、大量の人骨(皆首を切り取られている。甲骨文字・青銅器発掘・神に捧げた食べ物「鼎」・「青銅器は、王の権威を象徴している。

    

「周」は、封建性で「泰」は郡県制であったと云う。
第一章 泰王朝の軌跡ー周辺小国から兄弟帝国へー鐘・石鼓・飾り・形器・釜甑・他・・容器・文鏡・壺・鎧・石製冑・金具、、、。
第二章 始皇帝の実像ー半両銭・甕・壺・鈴・瓦・水道管・・・・。
第三章 兵馬俑と銀馬車ー俑・馬・穀倉・竈・軍馬・・・・。
                     
                  映像コーナー(兵馬俑・一部撮影コーナーが)
    

泰の始皇帝陵の7000体と馬などの「兵馬俑坑」の一部が展示(20~30体程度)

       永遠に守る軍団ー将軍俑・軍史俑・歩兵俑・騎兵俑・・・・。
  

「輪王殿」
輪王寺宮ー法親王の御座所ー現在は、葬儀や法要等で使われる。
寛永20年の1643年、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山。
その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。
法親王は、1654年、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、明暦元年1655年、天台座主を兼ねることとなった。
以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。
貫主は、「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていたと云う。
歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれ、
東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における
四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もあるが。

    

江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだと云う寛永寺。
現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像でき、現在の「国立博物館の敷地」は寛永寺 本坊跡・博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあった。
上野の山は、幕末の慶応4年、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、明治維新後、
境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年、旧境内地が公園用地に指定され、寺は廃止状態に追い込まれるが、
明治8年、再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)となる。

    

「幸田露伴」 1867-1947 第一回文化勲章受章・小説家、随筆家・考証家 下谷生まれ。
作品ー風流仏・五重塔(谷中墓地にあった五重塔をモデルに)・頼朝・運命・芭蕉七部集・・・など。

                  幸田露伴の旧宅門(輪王殿境内にある)
  

「東叡山寛永寺現龍院」  天台宗。本尊ー阿弥陀如来木像。
地蔵菩薩銅像・五大尊二脇士付き木像・僧形文殊菩薩木像・同普賢菩薩木像・毘沙門天木像。千葉三塗台(長福壽寺)の学頭を兼任した学僧であった
「権大僧都什誉師」創建ー真岡藩主稲葉佐渡守越智正成の開基。
寛永寺36坊の一つ。正成の前室の春日局が天海僧正と図って、正成を弔うために新規に建立した寺だという。
1696年、1709年、1772年、それぞれ焼失、創建の地は信濃坂(善光寺坂)上にあり、1720年、1914年、現在地に移転。
徳川家光死去に伴う殉死者の墓がある。

         門前に「慰霊碑 哀しみの東京大空襲」がある
    

「東京大空襲慰霊碑」
第二次世界大戦中の1945年3月9日から10日未明にかけ、約10万人の命を奪った「東京大空襲」の慰霊碑が。

落語家・初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子(78)が、ここ現龍寺・哀しみの東京大空襲慰霊碑前で
8回目の供養式を開催したと云う。海老名さんは、下町大空襲でご両親を亡くし、戦災孤児に。(合掌する)

「海老名香葉子」さん、初代林家三平の妻として、夫の死後も一門の中心として活躍されている。
笑顔素晴らしい香葉子さんは、第二次世界大戦中、静岡県沼津市の叔母宅に疎開した。
当時は、国民学校の5年生だったが、その最中に起きた東京大空襲で、父である竿忠の3代目・音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす(三兄で4代目を継いだ中根喜三郎のみ生き延びる)。身寄りを亡くしたため、終戦・帰京後は、親戚をたらい回しにされるが、
父の知人で釣り好きで知られた3代目三遊亭金馬に引き取られる。
金馬家に七代目林家正蔵の妻が出入りしていた関係から、その実子であった初代三平と結婚し、以後三平の芸能生活を陰からサポートした。
長女・海老名美どり、次女・泰葉、長男・九代目林家正蔵、次男・二代目林家三平と、4人の子供をもうけ、東京大空襲の犠牲者の供養に活動している。

                  東京大空襲慰霊碑
  

  JR鶯谷・北口から南口前に「新坂・昔、闇坂と云った」を下ると朝顔市の入谷に出る。
    

戦後、駅前から坂の途中まで闇市が     バナナのたたき売りで黒山の人・人に。
    

「谷中七福神」ー不忍池弁天堂(弁財天)・護国寺(大黒天)・天王寺(毘沙門天)・長安寺(寿老人)・修性院(布袋尊)・青雲寺(恵比寿)
        東覚寺(福禄寿)

鶯谷根岸~上野桜木町

2016-03-26 | syu散歩
久し振りに都内を散策します。何度も歩いている道ですがまた違った発見もあります。

寛永寺の歴代貫首住職は,京の都を懐かしみ、「鳴き声になまりがある」と江戸のウグイスを嫌い、それ以来、京言葉のウグイスがさえずるようになったり、JRの駅名となった「鶯谷」の由来と云う。
駅のホームを挟んで寛永寺の反対側は台東区根岸。
江戸時代は田園地帯で「根岸の里」と呼ばれ、ウグイスの名所だった。
商家の旦那、文人墨客が別荘や庵を構え、詩歌や書画、茶の湯を楽しんだ隠れ里だった。
田畑地なので町奉行所の管轄外。監視の目は緩い地域と云う。
江戸時代、西蔵院のすぐ北側を小川(音無川)が流れる「根岸の里」の一等地が、「田沼意次」の娘、「佐々木三冬」が住む別荘は、「円光寺の南」。
剣術家で明治の政治家、山岡鉄舟が常連だった、鉄舟庵があった。
明治の外相、陸奥宗光もすんでいた洋館も、俳人・歌人の「正岡子規」も、1902年に病没するまで8年半、根岸に暮らした。
子規の句ー「雀より鶯多き根岸かな」。明治になっても根岸はウグイスの名所であった。もう一句ー「妻よりは妾の多し門涼み」。
江戸時代は、大名が上屋敷・中屋敷・下屋敷を置き、別荘に愛人を住まわせ、また、裕福な町人も多く、こうした別荘は「根岸の寮」と言われたと云う。
今は、駅前、ラブホテルが多い、それは、戦後、東京の遊郭が廃止された結果、上野周辺で連れ込み宿が繁盛し、鶯谷駅前までその波が押し寄せてきたのが、現在のラブホテル街だ。
根岸なは、施設では正岡子規の住居を再現した「子規庵」、初代林家三平の資料館「ねぎし三平堂」、1692年創業の豆腐料理「笹乃雪」、
1856年創業の入谷交差点角にあった居酒屋「鍵屋」、1925年創業の洋食屋「香味屋」(柳通り沿いの路地にはかつての料亭街の雰囲気が)

              正岡子規を訪ね、夏目漱石は、言問通りで寛永寺坂を
    

「根岸のお行の松」旧根岸は、上根岸・中根岸・下根岸に別れ、松は、下根岸。
根岸お行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれている。
江戸名松の一つに数えられ、西蔵院不動堂の境内にありる。
この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にも、初代の松は樹齢350年を経た後枯れ、現在は、昭和51年に植えられた3代目の松が。

樋口一葉・芥川龍之介・谷崎潤一郎・永井荷風なども「寛永寺坂」歩いている。
    

「正岡子規」 1867-1902 夏目漱石の親友・俳句の革新に努めた。俳人・歌人。伊予の松山藩の子
矢野竜渓・坪内逍遥・幸田露伴の作品に感動し小説家を目指しが果たせず、俳句に興味を覚え同志を集める。1892年日本新聞社に入る。
俳句・俳論などを発表し俳句の革新に努め注目、高浜虚子等多くの門人が輩出した。
晩年は、脊椎カリエスで床の中で過ごしている。

    夏目漱石・森鴎外・与謝野鉄幹・伊藤左千夫などここに訪ねている。
    

明治31年・我に20坪の小園あり。園は家の南ありて上野の杉を垣の外に控えたり。場末の家まばらに立ってられたれば青空は庭の外に拡がりて
雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。「小園の記」

「台東区立書道博物館」
正岡子規庵前にある、中国および日本の書道に関する博物館。
この建物は、 洋画家・書道家 中村不折の旧宅建物跡。中村不折は、正岡子規の松山時代の知人。
中村氏が蒐集した甲骨文、 青銅器、石経、墓誌、拓本、法帖などの書道史研究上重要な資料約16000点が展示。
    

京成電鉄旧廃駅舎跡     奥は桜並木の谷中墓地         寛永寺坂上お導き地蔵
    

「寛永寺」 天台宗別郭大本山。
1622年、徳川二代将軍秀忠・天海大僧正のより、「徳川将軍の祈願所」として創建。
3年後、三代将軍家光公が1625年正式に発足した。

山号ー東叡山(東の比叡山、造営も比叡山延暦寺にならっている)
    

当初、寺領2100石・寺域17万坪・上野公園中央の地に五代将軍綱吉公が「根本中堂・間口45.5m奥行42m高さ32m大伽藍」の建物。
八代将軍吉宗公の時代は、堂塔伽藍30余棟・子院36坊・境内地30万5千坪・寺領11700石に及んだとある。
輪王寺宮(一品法親王・天皇家皇子を迎え引き継がれ)東叡・比叡・日光の三山を兼帯し、天台宗別格本山の地位となっている。

当初の根本中堂は、1868年戊辰戦争で焼失、明治12年川越喜多院本地堂(1638年三代将軍家光公建立)移築。
四代将軍家綱公の梵鐘は、私の子供の頃、大晦日・除夜の鐘を打ちに出掛けていました。

二代喜多川歌麿・歌川広重の「上野 東叡山之図」が。         寛永寺霊園
  

「小泉八雲」 1850-1904 日本を世界に紹介した文学者・ギリシャ出身(父アイルランド軍医)
30歳でアメリカへ渡り、新聞記者から文筆生活、松江中学英語教師・第五高等学校・東京帝大文学部・早稲田大学で講義。
松江時代藩士の小泉節子を知り結婚し、日本の古伝説・怪談に興味をもち、日本に帰化している。
作品ー心・怪談・日本原風景を世界に。

向かいに博物館が 子ども図書館工事中噴水に小泉八雲が  京成・旧動物園駅
    

「旧因州池田屋敷表門・黒門」
国立博物館敷地内にある池田家上屋敷表門(黒門)はもともと旧丸の内大名小路(現丸の内3丁目)にあった。
鳥取藩(因幡・伯耆32万石)池田家江戸上屋敷の正門を移築したもの。
正式には「旧因州池田屋敷表門」、入母屋造屋根に、門の左右に向唐破風造の番所を設け、江戸時代末期の大名屋敷の門として最も格調が高いもの
明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建され、のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれ、昭和26年、
重要文化財・指定。昭和29年、に、現在のこの場所に移築・修理された。

                 博物館横にある黒門
    

「都恩賜上野動物園」
明治15年に日本で最初に開園した動物園で、約400種3000点の動物を飼育している。
総面積14haの園内は東園と西園に分かれ、いそっぷ橋とモノレールで結ばれている。

入園料¥600 動物園正面      昔の正面は、芸大、都美術館の裏側であった


「上野東照宮」
上野恩賜公園内にある神社。
旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて「上野東照宮」と呼ばれる。

      徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
    

寛永4年の1627年、「藤堂高虎」が上野の高虎の敷地内に創建した。
社伝によれば、1616年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。
現在の社殿は、慶安4年の1651年、家康の孫・徳川家光が改築したもの。
社殿は、平成21年ー25年まで修復工事。平成26年、公開。

                   拝観料ー¥500
    

                     社殿


次回も、上野博物館「始皇帝と兵馬俑校坑」へ。

雪の富士山 山荘オープン

2016-03-24 | 富士山麓日記
お彼岸も過ぎてやっと少し暖かくなったので山荘のオープンに出かけました。
今日の富士山は快晴でまだまだたくさんの雪が太陽に輝いています。
一合目からの富士山

富士吉田からの富士山

3か月ぶりの山荘、庭は落ちた枯れ木がいっぱい、焚火をして燃やします。今焚火の出来る所は少ないそうです。

ピンクの花が芽を出しましたヒマラヤユキノシタ。

ねこやなぎ

マンサクも春一番の花

ワサビも芽を出しました。

フキノトウも沢山採れました。酢味噌和えでビールがおいしかった。


可愛い松ぼっくりが落ちていてドライフラワーとリースをつくろうと拾って乾かしています。

これも山アジサイの枯れた花、寒い冬を越して元気に残っていました。

このリースは昨年つくったものですが、こんなものをつくろうと楽しみにしています。

3/21は雪が降りました。うわー普通タイヤで来たのでどうしよう!!

ここは標高1000mまだまだ桜も冬です。ここの桜は連休頃に咲きます。

富士山も寒そうにどんよりです。



多摩川散歩終りは東京湾 (39)

2016-03-23 | 気まま旅

多摩川散歩もこれが最終となります。
ここで、南品川埋め立て陸続きの「台場・御殿山下砲台、陸(おか)砲台」を想いだし記しておきたい。
アメリカ海軍提督M・C・ペリーが、1794~1858年、戦艦4艘を引き連れ、浦賀沖に、(ペリーは、インド艦隊司令長官)アメリカ大統領親書を
持っての来日、江戸湾黒船の異容を誇示は、250年余の鎖国日本には、江戸庶民も驚いた事であっただろう。
静岡県韮山市で、紹介した。「江川太郎左衛門英龍」(1801~55)ー韮山代官で幕府に信頼され、36歳で坦庵の号は、俊才として嘱望されていた。
砲術の大家「高島秋帆」に学び、開明的思想家で、「渡辺崋山・高野長英」などと親しく交際し、西欧先進国の学問に造詣が深かったと云う。
江川は、幕府の役人の中でも西欧学問・技術に最も精通していた人物であったと云う。
ぺりー帰国後、高島秋帆は、町奉行鳥居氏に捕えられ、安中藩預かり10年辛酸を嘗めている。
江川は、幕府に願い出て「高島」の身柄引き受け人となり、江戸湾の砲台建設に「高島」の助言と知識を受けた。
世界文化遺産「韮山反射炉」を築き、臼砲製造し、武具や道具類の試作・洋式兵学を身に付けたと云う。
江川は、高島の恩を感じていたとある。

六郷渡って、腹ごしらえ、弥次・喜多八も万年屋の奈良茶づけをー

「羽田神社」-祭神・素盞嗚尊、稲田姫尊 住所、本羽田3丁目

境内社には、鈴納稲荷神社、増田稲荷神社、日枝神社、羽田稲荷神社 ・祭日ー例祭日7月第一土・日曜日

                旧羽田村、猟師町の鎮守、
    

小田原北条氏が治め、領主・行方与次郎が牛頭天王社を祀ったことにはじまる。
江戸時代には、旧羽田村(本羽田)・旧羽田猟師町(羽田)の鎮守。
明治維新の神仏分離により、八雲神社と改称、明治40年に羽田神社と改称している。

    拝殿右奥には、区文化財ともなっている富士塚(通称羽田富士)がある。
    

「牛頭天王社」
羽田神社境内にあり。除地9畝2歩免田1段1畝22歩。
当村及猟師町の鎮守なり。本社1間四方、拝殿3間に2間。
鳥居2基たてり。神体は本地佛薬師如来の立像なり。
長3尺許り。稲毛領平村の八幡神主小泉氏社役をつとむ。
祭礼は6月6日より11日まで、神輿を渡せり。
稲荷社。社地の内にあり。尤小祠。(新編武蔵風土記稿羽田村自性院項より)

  

「自性院」-真言宗智山派寺院ー
常呂山本覚寺と号し、慈性(平治元年1159年寂)が開基・創建したと伝えられる。
恵麻法師(1559年寂)が中興し、境内の牛頭天王社は江戸時代に羽田村・羽田猟師町の鎮守。
牛頭天王社は、明治維新後羽田神社として分離、現在境内に残されている牛頭天王堂は大森の弁天神社(三輪厳島神社)より昭和4年に移築した。

  玉川八十八ヶ所霊場78番、東海三十三観音霊場25番・文化財ー•牛頭天王堂(区指定有形文化財)
    

「多摩川河口干潟」
多摩川河口の干潟は、東京湾最大の河口干潟。
ヨシ原が広がり、アシハラガニやクロベンケイガニが、水辺ではヤマトオサガニ、チゴガニ、 アナジャコ、トビハゼ、ヤマトシジミがみられる。
干潟の豊かさを求めて、たくさんのカモ類、シギ、チドリなどの鳥たちも。
豊かな多摩川の自然や地域の歴史、文化等を伝えてえて行こう。
現在、NPO法人多摩川干潟ネットワークと川崎市が恊働で。

「本羽田公園」には、ウメ、サクラ、クスノキなどが、多摩川沿いにあるテニスコートが5面ある公園。
    

「六郷の渡しと六郷大橋」
六郷は、東海道が多摩川を横切る要地の名。
1600年、徳川家康が六郷大橋を架け、1613年・1643年・1662年・1681年・1684年、に架け直され、
1688年の貞享5年、の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。
六郷大橋は、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋。
寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)・幅4間1尺7寸 (約8m)・高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。
貞享元年の橋は、長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。

明治7年、に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けたなが、長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。
この橋は、明治11年、に洪水で流された。1883年の橋は、左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続き、地元の人々が六郷架橋組合を作って
明治16年、有料の橋を架け、「六郷橋」と名づけた。
明治18年、破損したものの引き続き使用され、1900年の明治33年、京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収し、明治36年、通行料の徴収をやめ、
明治39年、国に譲渡されたが、また、明治43年、流されたと云う。
1910年の橋・流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられ、1913年の大正2年、流されたが再建。
大正14年、長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられ川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、
河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。この時の工事を請け負った業者の1つが、俳優・船越栄一郎の曽祖父が営む飯島組と云う。
1984年、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。
六郷橋の拡幅のために架け替えられたのが、現在ある橋で、1979年の昭和54年、工事を始め、段階的に工事を進め、昭和59年、旧橋の上流側に接して新橋の一部が完成し、交通を切り替えた。旧橋を撤去して、昭和62年、新橋が完成した。その後第3期の工事が完了したのは、平成9年、橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加。
                  向かいは川崎市
    

             羽田七福ー学業成就の「高山稲荷神社」
    

             羽田七福ー開運長寿「重幸稲荷神社」
    

                   八雲神社
  

             羽田七福ー招福厄除「妙法稲荷神社」
      

「萩中神社」
天照皇大神ー太陽を信仰し発展した神霊であるといわれ、太陽は地球上の生命にとって必要不可欠であることから、
日本皇帝の祖神として祀られ、日本の総氏神。
豊受姫大神ー宇迦之御魂神の別名、一般的に商業、工業方面で霊威を発揮するといわれ信仰されている。
たびたび豊受大神と同一神としてみられることがありますが、別の神様と云う。

    

身体安全の「東官守稲荷神社」
は、「萩中神社」に。
昔 萩中町7番地(旧番地)辺りにありに鎮座、敷地も広く東に向き、海に向かって建てられていたと云う。
当時この地に住む村人らは半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めていた。
大正6年、風水害により社は被害を受けたが、萩中神社再建の際、萩中神社の境内に移されたと云う。
昭和20年4月、戦災の為焼失している。

    

「京急」
前進は、現在の大師線にあたる大師電気鉄道が開業したのは今から約100年前の1899年(会社創業は1898年)。
日本で3番目、関東で は1番最初の電気鉄道として開業した。
開業当初は約2kmの路面路線で車両は1両編成と小さな規模であったが、日本では、初の国際標準軌1435mm。
を採用し、その後、都心までの延長を目指し、また横浜方面への延長を進め「京浜電気鉄道」となり
1905年品川まで到達し、建設された湘南電気鉄道と1925年乗り入れを開始、逗子や浦賀まで足を伸ばしている。
現在は、京成電鉄と連携し千葉県へ。



        京急空港線・蒲田から一つ目の「糀谷駅」と駅前商店街
    

今回で、多摩川散歩は終了します。

大森貝塚 羽田渡しー多摩川散歩(38)

2016-03-20 | 気まま旅

「大森貝塚」
1877年の明治10年、横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に
貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、政府の許可を得た上9月、に発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、
9月・10月から本格的な発掘を行った。(国の史跡に指定)
モースらの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、
昭和50年、全て国の重要文化財に指定された。
縄文時代後期は、寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。
東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、それに伴い急激な人口減少が起きていると云う。
そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。
寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。

大森貝塚の碑は、現在の大森駅にあるが駅から坂を下ると、当時は、すぐ海が広がっていた。(発掘調査は、大森と品川の二個所と云う)

「羽田七福稲荷めぐりと弁天様・八神社で得るご利益」
七つの稲荷神社と一つの弁天様はそれぞれ違うご利益がある。
東官守稲荷神社は身体安全、妙法稲荷神社は招福厄除、重幸稲荷神社は開運長寿、高山稲荷神社は学業成就、鴎稲荷神社は開運招福、白魚稲荷神社は無病息災、穴守稲荷神社は航空安全、家内安全・・・。長寿の弁天様。

   羽田七福の神社はどこも近い、穴守神社の次が白魚稲荷神社・無病息災の神様。
  

「弁天橋」多摩川の海に入る「海老取川」そこに架かる「弁天橋」と「大鳥居」。
海に囲まれたこの土地は、「羽田猟師町」(漁師町ではない)とも 呼ばれ、伝統的な文化が残された漁業の盛んな町だったと云う。
今でも、吊り舟が並んでいる。
不思議な大鳥居は、この 羽田弁天橋に聳え立っている。
60年安保の「ハガチー事件」で、全国的に有名になった羽田の 弁天橋。
江戸末期に羽田の湿地帯(海)を 埋め立て新田開発を行った鈴木弥五右衛門の名にちなんだ「鈴木新田」とも云われる。

海苔の養殖作業の一つ、「ひび建て」という海苔下駄を履き、振り棒で海底に穴をあける作業
    

            東京国際空港に向かって「大鳥居」が
    

「玉川弁財天と水神社」
羽田多摩川岸からほど近くにある神社。
玉川弁財天の創建年代は不詳。古くより弁天社として祀られ、弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作した神体があり、龍王院が別当寺となっていた
といい上の宮と称したとある。
羽田空港の地の新田開発に伴い、下の宮として弁天社が創建、祀られていたと云う。
昭和20年9月連合軍の強制立退命令により、下の宮(現玉川弁財天)を水神社のあった当地に遷し、現在に至るという。
羽田七福いなりめぐりの一社。

戦国期は、羽田浦・北条早雲は江戸湾重視 猟師・漁師で水軍を作っている
    

「旧羽田道」
羽田道の分岐点である内川橋は、昔「するがや橋」といわれ橋の袂沿い、昔「駿河屋」という旅宿があったので、「するがや通り」という名が残り、
道は、美原通り(旧東海道)の内川橋袂から分岐し、大森東、大森南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る約五kmの道。
昭和初期に行われた耕地整理により、旧道は消えていったが大森東二・三丁目や羽田六丁目の七曲がり付近などは当時の旧道が残っていると云う。
羽田の魚介類や野菜を江戸に運んだり、羽田弁財天等に参詣する人々がこの道を利用した。
くねくね曲がった細い道で、昭和7年に産業道路ができるまでは、生活や産業のための大切な道であった。

江戸期・羽田村は荏原郡六郷領に属し幕府直轄領。
    

            鴎稲荷神社、狛犬でなく狛狐
    

羽田(羽根田)が登場するのは、平治年間の1159年、安土桃山頃には「行方弾正」により支配され、戸数も約270軒余りとある。
家康が入府すると、幕府に新鮮な魚介類を献上する「御菜浦」となり発展し、低湿地であった今の羽田飛行場あたりを、
「羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門」が譲り受け、新田の開発を始めた。
1819年、ほぼ完成の域に達し、これが「鈴木新田」で、新田を守る堤防の守り神として祭られたのが「穴守稲荷」、浮世絵に見られるように開発された
新田の中に。(羽田落雁・歌川広重(1797~1858)江戸近郊八景のひとつ、大田区立郷土博物館蔵)

「羽田の渡し・大師の渡し」
羽田の渡しは別名「六左右衛門渡し」とも言われ、江戸時代以前よりあったようである。
「字西町前河原より大師河原村字殿町に渡していた」「古渡し」とも云う。
「大師の渡し」は、字尾崎耕地より大師川原村中瀬に至る渡しで「新渡し」といわれ、渡しは大師橋の下流300メートルにあった。
羽田の城南造船所から対岸の川崎市殿町間を結んでいた。
羽田の渡し、(六左ヱ門渡)は、横町と前河原町会の境の桟橋から、対岸のやや上流にある川崎の殿町を結んでいる。
棹を使い、川の中段では櫨を漕ぐが、30分たらずの船道である。渡し船は大きな平底の船で、荷車のほかに人を30人ほどのせる。
船賃は荷車が三銭、大人が一人二銭であったと云う。
浮世絵から、「大師の渡し」は平間寺(現在の川崎大師)に向かうために羽田側から渡ったようである。
江戸時代中頃より、海岸沿いに羽田弁財天への舟が運航され、1842年、幕府に「羽田の渡しから川崎大師に参詣することを禁止してほしい」と
川崎側の宿屋役人が訴え、江戸からの参拝者が多かったことが伺われます。

                        羽田渡し・大師橋
    

「正蔵院」-真言宗智山派寺院ー
喜修山了仲寺と号し、創建年代は不詳。
正蔵院住職「重仙」が宝徳2年の1449年に、蔵院住職「乗信」が文禄4年の1595年、当寺の本尊不動明王像を修復したという。

室町時代以前の創建と推定ー玉川八十八ヶ所霊場79番、東海三十三観音霊場26番、武相不動尊霊場25番。
    

本尊の不動明王は伝教の作と伝えられる。
1449年、住職重仙により,1595年、乗信により修復されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている。
本尊不動明王にかえて大日如来を本尊としたこともあったと云う。1650年、境内は多摩川の洪水により川の中に入ったため,
元禄8年の1695年、織田越前守の検地により2段1畝8歩を境内地として与えられたという古刹。
大正11年に羽田仲塗師観蔵院を合併。ー大田区の寺院より。

多摩川河口と海の美しい地であった。


                   本殿


次回も羽田、京急・糀駅へ。