syuの日記・気まま旅

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長浜・秀吉ゆかりの城下町

2014-08-30 | 気まま旅
長浜市は、琵琶湖北東岸で、姉川などによって沖積形成平野にある。縄文時代の遺跡が多く出土、古代の条里遺構も市内の全域で確認されていると云う。
鉄砲鍛冶の集落「国友」、文化財が多い。
「長浜曳山狂言」は、16世紀末、羽柴秀吉が男子出生を祝い、秀吉が町民に金を贈ったのに答え町民が12基の曳山をつくり、練り歩いたのが起源。

明治ステーション通り・駅前通り・大手門通り・ゆう壱番街・城外堀・北国街道・浜京極・博物館通り・長浜御坊表参道・旧8号線と碁盤


長浜城廃城後も、浜縮緬・長浜縮緬の伝統が引き継がれている。鉄道・湖上水運・北陸街道(8号線)等交通の要となっている。
八幡宮の長浜曳山狂言は、山車の上で子供歌舞伎を演じる祭りで4月中旬に行われる「重要無形民俗文化財に指定されている」

北国街道日の出橋開知学校が、滋賀県初の小学校(駅より徒歩3分)・「安藤家」も街道筋で近い
    

「長浜のまち」
琵琶湖に面し、桜の名所長浜城址、JR北陸線「長浜駅」、長浜恵比寿神社の豊国神社、明治ステーション通り・駅前通り・大手門通り(八幡宮)
壱番街が駅に向かい、鉄道と並行して、長浜城外堀通り・北国街道・浜京極・博物館通り・長浜御坊表参道(十里街道)・旧道8号線と碁盤の目の街。
 
長浜のラーメン試食する。福岡にも長浜ラーメンがあるので比較したが、出汁は鳥汁で少々物足りない感が、麺は中でまずまず。
私は、福岡ラーメンに軍配を。

大手門通りに、豊国神社・黒壁ガラス館・曳山博物館・やわた夢生小路・長浜八幡宮
    

羽柴秀吉が初めて城持ち大名となって開いた城下町「長浜」。
江戸時代には北国街道の宿場としても栄え、現在でもその町並みを活かした黒壁スクエアはガラス工芸を中心としたショップや工房のほか、
郷土料理が楽しめるお店などが軒を連ね、若者にも人気のスポット。

「長浜八幡宮」市にある神社。県社で、日本三大山車祭の「長浜曳山祭」で有名。
神社は、平安時代後期(1069年)に「源義家」からの発願をうけた後三条天皇の勅により、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わる。
戦国時代には兵火を受けて衰退したが、長浜城城主となった羽柴秀吉により復興。

「曳山」
京都の祇園祭、高山市の高山祭と並んで日本三大山車祭の一つに数えられる。長浜曳山祭の曳山行事という名称で1979年(昭和54年)2月3日に重要無形民俗文化財に指定。

4月曳山祭り・8月北琵琶湖花火・10月豊公祭り・11月ゆう歌舞伎


「曳山博物館」
曳山を持っている「山組」から曳山をお預かりして公開展示。曳山は、4基収蔵し、2基ずつを3ヶ月交替で公開している。
4月の第一土曜日には展示している曳山の入れ替え(曳山交替式)、
館内では曳山の舞台上で演じられる子ども歌舞伎(狂言)の様子が映像で見られ、子ども歌舞伎の舞台模型を制作し、舞台に上って舞台の高さや広さなどを子ども役者の目線で体験出来る。

長浜曳山まつりを守り伝えていくコトの大切さを見てもらう、知ってもらう、考えてもらう施設として曳山博物館が誕生させ、これまで受け継いできたものが途絶えてしまわないよう、曳山の修理施設を備え、多くの職人たちが曳山の修復を行っていると云う。
曳山まつりで活躍できる義太夫や三味線奏者を養成する「竹本塾」を開講し、無形文化の伝承に努めている博物館。

浅井家の菩提寺「徳勝寺」は、北国街道南    明治ステーション通りに懐かしいガス灯が 


「北国街道」
江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還、善光寺街道などとも呼ばれ、追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
栃ノ木峠は、福井県南越前町板取と滋賀県余呉町中河内の間にある標高538.8mの峠で、峠名は峠の北に栃の大木(現在も巨木があり、昭和49年県天然記念物に指定)があったことに由来と云う。峠道を北国街道(東近江路)が通り、現在は国道365号が通っている。
天正6年 1578年 北ノ庄城主柴田勝家が狭く険しかった板取から木之本間の小道を大改修し、信長の居城である「安土城と北ノ庄」を最短距離で結ぶ
幅3間の道に拡幅改修し、この道が官道として重要性を増し、江戸期、福井藩は峠下の上板取宿に関所(口留番所)を設け、人馬の往来を監視した。
峠を越えた近江側には茶店ができ、峠から少し北の越前側に一里塚が設けられ、こうして街道の整備が進むにつれ、上板取は宿場として栄え、福井藩主等が参勤交代などに利用している。

            油の量り売りの店が、博物館通りとゆう壱番街付近は、昔の建物が
  

「安藤家」は、室町時代から長浜に移り住んでいる旧家、賤ヶ岳合戦(1583年)では、秀吉に協力、秀吉は、町衆の中から「長浜の自治・十人衆」を選び
その十人衆の一つに選ばれている。
安藤家は、近江商人で、呉服問屋として事業を営んでいる。又、東北を商圏とし、福島県の「中合」を開業。現在の建物は、明治38年の近代和風建物。
庭園は、長浜で多くの庭造りを手掛けた「布施宇吉・植宇」で、10年の歳月をかけて完成している。
「古翆園」は、大正3年築造され「池泉回遊式庭園」。
芸術家・美食家「北大路魯山人」30歳の頃長浜に逗留し「福田大観」と名乗り「篆刻作品」を数多く創作。「小蘭亭」と名付けられ、中国の「蘭亭」
にあやかったと云う。(9尺の安東家(呉服)の看板字を彫っている)

         豪商安藤家は、明治・大正の建物・北大路魯山人の篆刻作品製作の場を提供
    

「黒壁ガラス館」は、市中心市街地黒壁スクエアにある、
明治33年に建てられた国立第百三十銀行の跡を利用したガラスのアートギャラリーである。1989年(平成元年)にオープン、
現在では多くののガラスショップや工房、ギャラリー、美術館が建ち並ぶエリアとなった。年間約300万人の観光客でにぎわっていると云う。

「浄琳寺」は、寺内に入れず、道路沿いに太鼓楼。
宗派, 真宗 大谷派. 開基, 道光. 寺歴, もと天台宗、小谷城落城後尊勝寺から移転. 現在の本堂竣工中と云う。
  

「街を流れる米川」
旧長浜城外堀などが町家の裏手を縫うように流れている。かつては薪や野菜などを運ぶ小舟が行き来しました。川の両岸には石積みが施され、水路に降りる石段に。

市街地を流れる米川の清流は、その付近に神社や地蔵堂、曳山蔵などが点在するなど、人々の暮らしと深く結びつく川。
春には桜やモクレンの花が咲き、新緑が映え、夏には蛍が飛びかい、小鮎が川藻の中を群泳し、秋には紅葉がひらひらと舞い、冬には雪が舞い散り、
地元地域に親しまれている。

市内には、真言宗の寺が多い、舎那院・神照寺・総持寺・大通寺等がある。
    

次回は、彦根城へ。

湖北・長浜城、秀吉天下統一

2014-08-28 | 気まま旅

「長浜城」
長浜駅西前、現在「豊公園」、「京極導誉」(米原・太尾山城)が13世紀に築いたのが前身と云う。
浅井氏滅亡後、「豊臣秀吉がこの地に築城して本拠地とした。
後、豊、山内一豊らが城主と続く。

          1573年浅井長政滅亡後、羽柴(豊臣)秀吉、翌年築城開始、木材竹生島から
  

秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。
賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用。

彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。
その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができると云う。
市内にある知善院の表門も、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元、「市立長浜城歴史博物館」が運営。

                秀吉一国一城の主となった最初の拠点に
  

「豊臣秀吉」 1537-98 下層から天下人に、尾張国中村出身、初名(藤吉郎)、信長から近江国長浜を領す。
信長の仇「明智光秀」を討ち、「柴田勝家」を滅ぼし、「小牧・長久手」で徳川家康と対戦するが講和し、長宗我部氏・島津氏を下し、
天正18年「小田原・北条氏」を滅ぼして天下統一する。
出世は、墨俣城築城にあると云う。秀吉一人進んで命を引き受け、築城の大量の材料は「筏」に組んで川を下るなど、奇抜な発想で完成させた。
家康には、上亰を拒んだ祭、自分の妹を差し出す、それも拒む家康に実母を人質に送っている。
秀吉の戦略は、策略を好まずで、降伏してきた者は許し、城主一人の切腹で城兵を助けている。
後継の「関白秀次」殺している。

駅前に石田三成出会いの像がある。 三成1560ー1600 豊臣政権の吏僚として活躍・秀吉亡き後家康打倒を画策し敗れる。
    

「北 政所」 1549-1624 秀吉の正室、杉原定利の娘、「おね」「ねね」とも、
従一位に、朝廷から「豊臣吉子」の名を賜る。秀吉亡き後、隠居し「高台院」と名乗っている。
秀吉の浮気に悩み信長に愚痴ると、信長「禿げ鼠には勿体ない妻、奥方らしく寛大に構えよ、焼き餅など焼いてはいけぬ、、」柔和慈悲深い女性になったと云う。秀吉なき後、子飼井の武将には、徳川方につくよう一貫して説いたと云う。

                 国友鉄砲鍛冶・堺と並ぶ火縄銃の二大生産地に、
    

「柴田勝家」 ~1583 信長の勇将 信長の弟「信行」に仕え、北陸攻略に活躍して越前国を与えられる。北庄城を築いた。
六角義賢に包囲され極度の水不足に陥り、勝家は、水はフンダンにあるよう欺き油断させ、味方の前では最後の水瓶を槍でたたき割って、兵士に死の覚悟を促しと云う。「瓶割りの柴田」の異名をえている。
秀吉軍に「賎ケ岳の戦い」大敗死、勝家は、北庄城(福井県)で妻「お市」と共に自害している。

 賎ケ岳の戦いで大敗した柴田勝家は、北庄城(福井県)で妻「お市」と共に自害
  

「淀殿」 1567-1615 秀吉の側室、浅井長政の娘で母「お市の方」名は「茶々」、秀吉の間に鶴松と豊臣秀頼を生む、秀吉亡き後、大阪城入り
豊臣家の実権を掌握する。秀吉側室十数人いたが、子を成したのは淀殿だけという。
自ら主戦論展開させ「大坂の役」を誘発したと云う。

「当主 浅井長政」 は、その将来を有望視され、織田信長 にも気に入られたという若武者でしたが、「朝倉家」 と 信長 の板挟みに
  

京極導誉家臣「今浜六郎左衛門」が築城し、その後、上坂氏守将が在城した。南北朝時代から天正の始め一国一城となり、羽柴秀吉が城を築き
地名を「長浜」と改め、城下町を造営、約7年間居城する。
天正11年「賎ケ岳の戦い」で、長浜城根拠地として大勝、天下にとどろかせた。
天正13年~18年「山内一豊」在城、1606年内藤信成が入城、その子信正が1615年摂津・高槻城に移り「廃城」となっている。
建築物は、大半「彦根城」に移されている。

                 北に小谷城・賤ヶ岳合戦場・竹生島が 西に安土城  
  

天守閣からー「東」
関ケ原古戦場・石田三成出生地・1377mの伊吹山・小堀遠州出生地・姉川合戦場・鉄砲の町国友町等

「小堀遠州」
小堀 政一は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。
備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。

           南に三成の佐和山城 東に関ケ原・姉川合戦場・国友鉄砲の里・伊吹山
  

西側は、比良山山地・沖島・安土城址・太閤井戸・琵琶湖等

「鉄砲の町国友町」
「国友鍛冶・一貫斎」
国友鉄砲鍛冶集団の町、近世、堺と並ぶ火縄銃の二大生産地の一つ、重要な役割を果たした。
我が国で初めて「反射望遠鏡」を作り、月面や太陽黒点の観測を行った。

日本初、反射望遠鏡を作り、月面や太陽黒点の観測をおこなった。江戸後期「国友鍛冶・一貫斎」が注目されてきた。
  

南側は、彦根城・佐和山城址・雲仙山など。

「姉川合戦場」
上洛を目指す織田信長は、北近江の領主・浅井長政に妹のお市を娶らせて同盟を結ぶ。
信長は、1568年に、越前朝倉氏の元から足利義昭を迎え、上洛戦を開始。
浅井軍と共同して南近江の六角氏を破って上洛を果たし、足利義昭を将軍に据えた。
1570年、信長は将軍・足利義昭の名の下、諸大名に上洛を命じる。
しかし、信長を敵対視していた朝倉義景がこれを無視したため、越前へと軍勢を進めた,,,.。

            「海北友松」絵師で東福寺で禅修業にだされ、中央で才能開花させた
  

北側は、金糞岳・小谷城址・虎御前山・山本山(賎ケ岳合戦場)・竹生島等。

「小谷城址」
日本五大山城の一つに数えられる。
標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、「浅井長政とお市の方」との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
城主は、浅井長政・豊臣秀吉。

「小堀遠州」は、大名・茶人・建築家・作庭家・遠州は、武家官位遠州守の唐名・近江小室初代藩主(江戸中期)
  

「黒田官兵衛と長浜」
黒田家の祖先は近江国伊香郡黒田村の荘園領主で、黒田判官と呼ばれたといわれている。
屋敷跡とされる場所には、黒田判官を祀る石碑があると云う。
館内には、長浜文化展・国友鉄砲と郷土史・湖北等が、展示。博物館が設置されている。入館料400・

             黒田家の祖先は近江国伊香郡黒田村の荘園領主
    

「君が代も わが世も共に 長浜の 真砂のか須の つき屋らむまで」 (竹中半兵衛)
秀吉は、1573年浅井氏を滅ぼして小谷城主になったが、山の雪と寒気に悩まされ翌春より今浜城(後の長浜城)の建築に着手した。
地名を長浜と改め、小谷城下や近郷から寺院や商家を移し、 楽市楽座の制度と三百万石の地租免除の恩典を与え、商工業の発展に力を尽くす。

                豊臣秀吉出世城「長浜」
  

「豊国神社」
長浜市に鎮座する神社。 「豊国大明神」こと豊臣秀吉のほか、事代主大神、加藤清正、木村重成を祭神とする。
近江長浜6瓢箪巡りの第一番札所。

江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたが、町民によって祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた(現在の豊国神社で事代主が一緒に祀られているのはこのため)と云う。
明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建。
明治14年に村社、大正9年に郷社、大正11年に県社に。

              秀吉公の遺徳を偲んで町衆が建立した神社


長浜城は、周知の通り模擬天守で、本来の城は、江戸時代初期に廃城となっ たため、往時の姿・形は、無い。
往時の城郭は、現在の湖岸よりも琵琶湖 に張り出し、湖面と繋がった広い内堀と、二重の外堀に囲まれ、さながら湖上の城であっ たと想像。

           秀吉・三成出会いの地、半兵衛・官兵衛の家臣など,ここで、「天下統一」を


次回は、長浜城下町を。

近江商人発祥の地「米原」   

2014-08-26 | 気まま旅
「琵琶湖」は、滋賀県中央部、県面積の約17%を占め、我が国最大の湖。
江戸時代から「琵琶湖」と呼ばれ、都に近い淡水湖「近つ淡海」・近江国の語源である。浜名湖を「遠つ淡海」・遠州国に対する呼称と云う。
琵琶湖の周辺には、縄文・志那湖底遺跡。赤野井河遺跡。湖南遺跡等沿岸に約80所の湖底遺跡がある。
葛籠尾崎湖遺跡は水面下60~80m深湖底の存在している。

伝説に、孝霊天皇5年に一夜にして湖と富士山が出来た云う。「帝王編年記」、地質学的のは、約500万年前、伊賀上野(三重県)地域で誕生し
地殻変動に伴い、北上し約120万年前今の湖になったと云われている。
近江盆地全域の水が流れ込み、自然排水路で、瀬田川―宇治川の峡谷をつくり、京都盆地で木津川・桂川と合流し淀川ー大阪湾へ
東岸は、姉川・犬上川・愛知川・日野川・野洲川などが流入、西岸に安曇川三角州に、東麓の比叡山地が連なり、北部は山地が迫りリアス式湖岸に、
湖中には沖島・多景島・竹生島がある。
豊かな魚貝類と近畿の水がめと我が国最初の国定公園指定になり観光面でも人気がある。
湖の周りは、平野が広がり、北は、福井県・東は、岐阜県・南は、三重県・西に京都府で古代から近江国の政治・文化・経済の中心である。

中山道を、ーで大垣城、「赤坂宿」-「国分寺」ー「垂井宿」-「関ヶ原宿」-「今須宿」-「柏原宿」-「醒ヶ井宿」ー滋賀県「近江・米原宿」で
    大津宿も近い。

            中世・南北朝「近江守護職 佐々木京極道誉」の歴史の町


「滋賀県坂田郡米原町(まいはら)」
琵琶湖の東岸の町、アシの茂る荒野で通行人が道に迷った為「迷原」と呼んでいる。東部は山地、西部は沖積平野の千拓地で、水陸交通の要衝として知られている。西岸の「朝妻筑摩」は、古代から皇室の御厨であった。近世には、南部の番場、北東部に中山道「醒ヶ井宿」で又、米原は北国街道の宿場でもある。1889年 明治22年、「湖東鉄道」で「米原駅」が出来ている。

「青岸寺」
曹洞宗、山号 汲湖山、本尊ー聖観音坐像、14世紀中期守護「佐々木導誉」創建、江戸初期再興している。

              「吸湖山・青岸寺」琵琶湖108霊場会53番札所・近江七福神札所
    

「佐々木 道誉・ 高氏」は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。
初めの主君である鎌倉幕府の執権・北条高時より1字を受けて名乗った名前であり、 鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)・ 京極 高氏とも呼ばれる。

初めは執権・北条高時に御相供衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、「太平記」には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。

                   歴史を感じさせる見事な庭園(有料)
    

戦国時代に焼失したが、1650年、彦根藩主井伊直澄の命により彦根大雲寺の要津守三が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興。
1656年 伊藤五郎助が卒したことを悼み、彼の諡である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めた。

寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺となった。再興時に作られた庭園は彦根の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出され、荒廃していたが、後に彦根藩士の香取氏により 1678年,に再築。

                        三尊石と枯滝石組
  

「庭園」
江戸時代前期の枯山水庭園。
三世住持の興欣により書かれた「築園記」によると、1678年、興欣の依頼で、玄宮園・楽々園築造に関わった井伊家家臣の香取氏が作庭したとされる。
座視式を基本とする庭園、面積2,717㎡と広大であるため回遊式も兼ねると云う。

背景となる太尾山山腹の斜面地に無数の石を用いた石組み群によって山を築き、巨石で組まれた力強い蓬莱島を前景の焦点としている。
枯池泉における水の流れは、一般的な白砂や土ではなく、杉苔を用いることに拠って柔らかく表現。
多量に用いられた石の白との色の対比を計算したものとされ、近代に建てられた書院「六湛庵」は庭園の風景に溶け込んでいる。

                      江戸時代前期の枯山水庭園
    

「文化財」青岸寺庭園 - 国の名勝(1934年指定)、延宝6年(1678年)再築、・木造聖観音菩薩坐像 - 滋賀県指定文化財、当寺本尊。室町時代永和2年(1376年)作・木造十一面観音菩薩立像 - 米原市指定文化財、鎌倉時代中期作・梅渓の襖絵など。

           琵琶湖108霊場53番札所・井伊家ゆかりの「ふく福めぐり札所」・近江七福神霊場札所。
    

「湯谷神社」
祭神-大己貴命・水門神・保食神
上古出雲国人が諸国を巡ってこの地に至り、里人に池を掘らせると、霊泉が湧き出、又荒地を開墾したところ、五穀がよく成育したので、出雲の祖神大己貴命を小谷の岩上に奉斎した。
温泉は万病に効くと伝えられ、崇敬者が多く、後に水門神、保食神を合祀したと伝えられている。輿地志略に「湯谷は昔此の地に温泉あり諸病を治す。或日葦毛の子を此の湯坪に洗いしより此の湯かるゝ」とある。後白河上皇の御代、日吉の社領となって、当社を山王権現社とも称せられた。今井備中守秀遠は、箕浦庄の地頭職として、当地を治めた故、当社を守護神と崇め、その一族米原氏も社殿を修理し、社領を献じた。文明3年米原山太尾城に激戦があり、当社は焼失したが、天文13年今井氏は、米原氏をして再興せしめ、大山咋命を勧請した。文禄4年岩脇氏は、社殿を修復し神門を寄進した。
享保17年彦根藩主井伊直惟は社殿を再興し、手水鉢、木造狛犬を献じ、明治22年には、三条実美が社号額を寄せている。
境内には明治11年明治天皇北陸巡幸の際小休止された北村邸の行在所がある。
大正7年村社に列し、同年神饌幣帛料供進指定。

例祭,10月第2日曜 ・ 曳山子ども狂言で知られている。
「湯谷は昔此の地に温泉あり諸病を治す。或日葦毛の子を此の湯坪に洗いしより此の湯かるゝ」とある。後白河上皇の御代、日吉の社領となって、
                    「山王権現社」とも称せられた
    

「太尾山城跡」
南北朝に遡るお城で、「佐々木氏」が近江の守護に任ぜられた時に築城したと伝えられている。
鎌倉時代に京極氏の居城となり、その後、京極・浅井氏と六角氏との勢力争いが繰り返され、1573年、織田信長に攻め落とされている。

            鎌倉時代に京極氏の居城「太尾山城跡」・湯谷神社裏山に城跡が)


海抜254mに位置し、北鈴鹿霊仙山系の最西端にある太尾山は、
JR米原駅の東側にある里山。城跡は堀切を挟んで北城と南城に分かれ、「別城一郭」とよばれる構えとなっている。
ハイキングコースが整備されており、山頂からは伊吹山が望める。

米原山太尾城に激戦、湯谷神社は焼失したが、今井氏は、米原氏をして再興せしめ、大山咋命を勧請したと云う。土塁堀部・曲輪・主郭跡が。
    

戦国時代には京極氏、佐々木六角氏、浅井氏、さらに織田信長を登場する戦乱の舞台となった「米原」。
佐々木京極氏が建立した青岸寺、太尾山城の守護神として敬われた 湯谷神社など、、。
古い宿場町の雰囲気を味わいながら、中世の歴史に 。

    

近畿・東海・北陸の結節点、「米原」、古来から交通の要衝として栄えてた。
1603年に、現在の「JR米原駅」のあたりに米原湊が開削され、琵琶湖水運の拠点として利用され、米原の発展の最初のきっかけ。
1611年には中山道の番場宿と米原湊を結ぶ連絡路が開通し、米原は物資の集散地として大きく発展し、明治に入ると鉄道が開通、
巨大な駅が設けられたことから米原は鉄道のまちともいわれた。が、駅の周辺はさほど発展が進まず、旧北国街道沿いも現在は忘れ去られたように
ひっそりとしている。

「米原駅」は、東海道線・新幹線・北陸線・近江鉄道線・中山道・国道8号線・北国街道が集結している町
     

「近江商人」
物資と人の流れの活発さは、「近江人」に多様な文化を生んでいる。近江商人と云えば行商、一定の販路を開き「資本」をつくり、出店を広げる方式で、
販路の行商の途中で「販売・仕入」をすると云う効率的商業活動、その先がある出店相互間で回転させ、各地の需要供給と価格差に注意を払ったと云う。
生活必需品を、時・所・機会に合わせたと云う。
行商は、単身赴任・独立採算制・地方出身採用現代的経営している。

琵琶湖の流れ込む「天野川」平安末期の朝妻の湊「舟遊女が朝妻に乗って、湖上を旅する、、、、、」
  

788年最澄、比叡山寺建てる・1184年源義経軍・義仲を粟津原に破る・1467年応仁の乱で東軍京極兵と西軍六角兵が戦う・1473年京極氏近江守護に
1568年織田信長、六角氏「箕作城」攻略・1571年信長、比叡山を焼き討ち・1574年羽柴秀吉、「長浜城」に入る。

現在の「JR米原駅」                        近江商人発の地碑
  

次回は、長浜へ。

美濃ー中山道・赤坂宿場

2014-08-24 | 気まま旅
気まま旅に戻ります。

「関ヶ原の戦い」で、徳川家康は、1600年9月11日 江戸から尾張の清洲城へ入り、 14日に岐阜を経由して長良川の船橋を渡り、河渡を通ってその正午
には、赤坂に到着している。即、岡山と呼ばれた高地の頂上に置いた本営へと入っている。
其処は、大垣城の約5.5km。
鎌倉時代、源頼朝の父、義朝は、東国へ落ち延びる途中に、垂井・赤坂に泊っていると平家物語に記されていると云う。
関ケ原の岡山を、東軍が勝った所から「御勝山」と改名したと云う。
東軍は、一部兵力を残し、大垣城を監視させ、他全軍、近江を抜け、石田三成本拠地「佐和山城」を急襲し、大阪を目指している。
情報を知った三成は、大垣城を出て「関ヶ原」へ向かう、家康の戦略に乗ってしまったとも云う。
9月15日決戦の幕となる。

西軍の先頭を行く石田三成隊が、この関ヶ原の地に到着したのが9月15日の午前1時ごろ、笹尾山に陣をとった。三成の家老である島左近と蒲生郷舎が、それぞれ一隊を率いて前衛部隊となった。島津義弘隊は午前4時ごろに到着、三成隊の1町半南にある小池村に布陣し、甥の島津豊久はその前方に備え、石田隊と島津隊で北国街道を抑える形をとったのである。続いて小西行長が着陣、島津隊の右側へと落ち着いた。最後に到着したのが宇喜多秀家の隊で、天満山の前に布陣した。兵を前隊と本隊の二つに分割し、これを東南の方角へ備えた。北陸地方の平定を担当していた大谷吉継は、大垣城には入らず山中村に布陣していたが、西軍の基本戦略が「関ヶ原に進出して東軍を迎撃」という方向に定まるや、関ヶ原方面へと進軍し藤川を前にして陣取った。その左側には戸田重政の部隊が、そして中山道を挟んだ右側には共に北陸平定戦を戦ってきた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4部隊が陣取ったのである。さらにその南、松尾山には小早川秀秋の軍勢8千があり、東側の南宮山付近には毛利秀元や吉川広家、安国寺恵瓊ら、そして栗原山に長曾我部盛親の部隊が鎮座していた。西軍の布陣を見てみると、西から東へぐるりと東軍を包囲するような陣形、すなわち図らずも鶴翼の陣形となっており、その総数はおよそ8万という大軍。

             金生山の大理石・石灰と化石の美濃「赤坂宿」


「赤坂」岐阜県大垣市、元不破郡赤坂町、江戸時代は、中山道の宿場と本陣跡・お茶屋敷跡・杭瀬川の河岸跡・南に勝山・北に金生山(石灰山地)
    大理石加工場広がる地域。

中山道69次道主の宿場町、江戸板橋ー埼玉ー群馬ー長野ー木曽馬籠ー岐阜中津川落合ー可児郡伏見ー樽見線美江寺ー大垣城赤坂ー垂井ー関ヶ原ー関所ー
滋賀県愛知川ー大津、69次ある。

歌川広重「木曽街道六十九次・赤坂」


「赤坂宿」は、中山道江戸から数えて56番目の宿場。
大垣藩領(1843年)・人口、1129人・家数、292軒・本陣、1軒・脇本陣、1軒・旅籠、17軒と云う。

        西国33霊場最後の地・谷汲街道の起点「赤坂」
    

この一帯には「二つ塚古墳」「車塚古墳」「鉄砲塚古墳」「長塚古墳」「粉糠山古墳」など多くの古墳が存在している。

「照手姫水汲みの井戸」
昔,武蔵・相模の横山郡代の娘で照手姫と言う絶世の美女がいて,「小栗判官正清」と相思相愛となる。
判官は、横山家の家来に毒を盛られた。彼女は悲しんで放浪の末,人さらいに遭いこの地の青墓長者の元へ売られてきたという。
長者は、照手姫の美貌を見て身分の高い人の相手をさせようとするが姫は拒み続けたと云う。そこで長者は照手姫にざるの籠をもたせ十八町(約2km)も離れた井戸から風呂の水を満たせとなどと嫌がらせをしたと云う。その井戸が「照手姫水汲み井戸」。

一方判官は,遊行寺14代上人である大空によって助けられ,紀州の熊野にある湯ノ峰温泉に密かに送られて霊泉につかり蘇生して,照手姫を探し出して妻に迎え幸福な生活を送り、 判官が亡くなった後,照手姫は長生院に住み尼となって終生判官の菩提を弔いながら余生を送ったと云う。

この伝説は色々な内容に変わって行き,話の筋も幾種類もある。
藤沢市遊行寺や横浜市金沢区,神奈川県相模湖町,和歌山県湯の峰温泉などにも小栗判官照手姫伝説に関する史跡や伝承が残っている。

「青墓のよしたけ庵跡」・「小篠竹の塚」
平治の乱(1159)で源氏が敗れた後,、父義朝は知多半島で討たれ兄頼朝とも離ればなれになり,隠れ住む鞍馬山も危うくなった牛若丸が,奥州の「金売り吉次」一行に隠れての「東山道」逃避行の際,当地「青墓」で休息し、 持っていた杖代わりの葦(あし)を地面に差し

        「差し置くも 形見となれや 後の世に 源氏栄えて葦竹となれ」 
と読んだ場所と伝えられている。
その葦から見事な竹が芽をふき杖から竹が成長したと云う。そこでこの珍しい竹は「よし竹」と呼ばれここを「よし竹庵」と呼ばれるようになったと云う。ここは「円願寺廃寺跡」である。 

敷地の街道側の,玉垣の中に五輪塔がいくつも集められている。ここは「小篠竹の塚」と呼ばれ,照手姫の墓と伝わっている。これも「小栗判官と照手姫」の伝説の一つである。  

青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)
 一夜見し 人の情に たちかえる 心に残る 青墓の里   慈円(後の慈鎮、天台宗座主、愚管抄の作者でもある)。

「照手姫水汲み井戸」と書かれた案内標識があり左折し,県道216号線の手前にその井戸がある。
    

「圓興寺城」
「美濃雑事記」などによれば、円興寺城は里見氏の居城。
しかし、円興寺城はもともと伝教大師最澄に帰依した青墓の大炊氏が建立した山岳寺院で、盛時には末寺百ヶ寺、寺領5千俵を有していたと伝えられる。円興寺城は、1574年、織田信長の兵火にいよって伽藍すべてが焼失した。里見氏と円興寺との関係はよくわかっていない。

「白髭神社」琵琶湖の西側にある白髭神社の末社と云う。
    

圓興寺      山門                 鐘楼                   本殿
    

「お茶屋屋敷跡」
慶長10年(1605),関ヶ原の合戦に勝利し天下統一を果たした徳川家康は,中山道や東海道に「将軍専用の宿泊施設」として「御茶屋屋敷」を造ったうちの一つで,徳川家開運の地であるお勝山の北方のこの地に設けた。

邸内に,信長ゆかりの「岐阜城千畳敷御殿」を移築させたと云われ,家康や二代将軍秀忠及び千姫も泊った。
寛永年間(1624-44)に建物は取り壊され,土地は明治維新廃藩置県の時,赤坂村名主矢橋宗太郎氏に払い下げられた。創建時は61もの建物があった小さな城郭造りで,当時を偲ぶ土塁や空濠の一部を残す貴重な遺構である。

現在は矢橋グループの私有地ながら東海一の「牡丹園」として無料公開されている。残念ながら既に牡丹は盛りを過ぎていた。
鴻巣宿にも将軍の狩り専用宿泊施設があったことを思い出したが,そちらはその遺構は全く消えてしまっていたと記憶している。
街道に戻って西へ進む。

「如来寺」
1195年 僧定尊が村東の花崗岩の上に三尊仏を安置し如来寺とした。
後年信長の兵火に遭い当地に遷り秘仏となる。長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから,「善光寺式阿弥陀三尊仏」と呼ばれている。
鎌倉時代の作と伝えられ,法身は中央の阿弥陀如来像が49cm,脇侍の「観音菩薩像」と「勢至菩薩像」が共に33cmの三尊が一つの光背に納まっている一光三尊仏であり,善光寺の分身物にふさわしい浄土来迎を思わせる紋様も彫刻されていると言う。

                           如来寺
    

「昼飯町」の由来が書いてある。
「むかし,善光寺如来という仏像が大坂の海から拾い上げられ,長野の善光寺へ納められることに、その仏像を運ぶ人びとが青墓の近くまで来た時は
5月の中頃。近くの山々は新緑におおわれ,つつじの花が咲き乱れ素晴らしい景色。
善光寺如来を運ぶ一行も小さな池のそばで,ゆっくり休み美しい景色にみとれ、一行は、ここで昼飯をとりました。
それからこの付近を昼飯と言うようになり、その名が下品であると言うので,その後飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが「いい」は言いにくいので一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになったと云う。
又ここの池は一行が手を洗ったので「善光寺井戸」と云われ記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたと云う。」

                    粉糠山古墳の宿場                              
    

「粉糠山古墳」
全長約100mの前方後円墳で築造年代は4世紀から5世紀とされている。 東海地方でも有数の規模を誇り有力豪族の墓と推定。
「粉糠山」の名は,青墓宿の遊女たちが化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり積もって小山になったという伝説による。
また青墓と云う名もこの古墳にちなんだものと思われる。

  

関ケ原本陣跡に神社      街道に戻り町並みを進む。時折地区の名家らしい長屋門を構えた古い家が散見される。
    

「脇本陣跡」
建て坪155坪。1751-63年以後,飯沼家が代々に亘り務め問屋。
年寄役を兼務して明治維新まで及び,その後榎屋の屋号にて現在まで旅館を営んでいると云う。
今も当時の座敷や賊の侵入を防止する珍しい紙張りの天井が残っていると云う。一軒置いた先に「五七処」、赤坂宿が日本橋を含めて57番目の宿場なので五七。お休み処。

                          脇本陣跡
    

「戸田三弥」像,
幕末維新の際に,大垣藩論を勤皇に統一するのに尽力し,戊辰戦争では大垣藩の軍事総裁として東北各地を転戦し軍功をあげ,
明治新政府の要職を歴任した。

「史跡 お茶屋敷跡」1604年徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構え、
    

街道の向かい側の奥まったところに「妙心寺」。「所郁太郎の墓」と「戸田三弥の墓」がある。
    
  
文久元年・1861年10月25日,皇女和宮が赤坂宿に泊られ、見苦しい家があっては失礼だと54軒もの家が建て替えられたと云う。
短期間での建築工事であったため,街道沿いの表側だけ二階建てという珍しい家で,現在も数軒残っている。
幕府から10年返済の助成金が出たが,幕府がすぐに崩壊したので返済金は3年程度でうやむやになって宿の人びとは得したというおまけ話もある 。

                皇女和宮之碑・赤坂宿に泊まる
    

「美濃赤坂駅」は、東海旅客鉄道(JR東海)と日本貨物鉄道(JR貨物)・西濃鉄道の駅。
JR東海・JR貨物の東海道本線支線(通称、美濃赤坂支線)と、西濃鉄道の市橋線(貨物線)が乗り入れる。
付近の金生山が石灰石を産出するため、石灰石輸送の中継地点となっており、1日2 - 3往復の貨物列車が発着すると云う。

                             美濃赤坂駅
    

次回は、琵琶湖・滋賀県坂田「米原」へ。

富士吉田 明見湖の蓮

2014-08-23 | 富士山麓日記
「富士吉田の蓮池」

周囲を懐かしい里山に囲まれた明見湖は、湖面に蓮が植生していることから通称「はす池」とも呼ばれ、清流と沼の多種多様な生き物が同居し、多くの水鳥が羽を休めます。
かつては、富士八湖(富士五湖・四尾連湖・明見湖・駿河の浮島沼、後に泉端に変わる)のひとつとして、富士山信仰の富士山道の垢離場<禊の場所>であったと言い伝えられています。

公園内では、自然観察、ウォーキング、釣りなど、自然とのふれあいを楽しむことができるほか、「杓子山」登山客のハイキングコース、写真愛好家の方たちのビューポイントとして、親しまれています。

毎年8月になると一面に蓮の花が咲きます。










公園内はよく整備されてオアシス的な憩いの場所としてベンチや緑が程よく配置され絶好の空間です。
小高い山に花々が植えられ散策する者たちを慰めてくれます。