syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

栄あれ仙台  東北の旅 1

2015-09-29 | 気まま旅
今回震災後の東北を旅することににしました。

私が仙台に単身で赴任した(仙チョン族といっていた)昭和末頃は、仙台ー上野東北本線所要時間4時間強、
座席も90度直角で車内は常に大混雑で苦労して月に一回東京に帰京していた。

明治9年に、「奥羽巡幸」において明治天皇が馬車で各地を回り、明治16年、仙台 - 福島の運行を開始したと云う。
当時は、都市間乗合馬車を乗り継くことで、東京 - 仙台の所要時間は3泊4日に短縮された。
1887年の明治20年、日本鉄道の駅として仙台駅が。上野駅から宮城県・塩竈駅まで通じ、上野 - 仙台間の所要時間は12時間20分の記録がある。
「仙台駅」初代の駅舎は木造平屋建ての小さな建物で線路の西側に位置し、馬車を回すロータリーがあったと云う。
昭和20年、仙台空襲により焼失した。
1906年に日本鉄道は国有化され、国鉄東北本線・1925年に仙台地区では初の直流電化路線である宮城電気鉄道(後の仙石線)が西塩釜駅まで開業し、
1929年には仙山東線(後の仙山線)が愛子駅まで敷かれ、所要時間は1926年に上野 - 仙台間が8時間弱。
この頃の仙台駅は東北地方で最多の旅客数であったが、貨物では青森駅・塩竈駅(旧駅)などに引き離されている。
1926年の大正15年、仙台市電が仙台駅前駅 - 荒町日赤病院前駅において開業し、駅前広場に隣接する駅前通りに仙台駅前停留所が設けられた。

     

岩出山町「座散乱木遺跡」・古川市「馬場壇遺跡」は旧石器時代の」遺跡で、縄文時代では小牛田町の「素山貝塚」・石巻の「沼津貝塚」・七ヶ浜町の
「大木囲貝塚」等。弥生時代では仙台市の「小泉遺跡」・塩釜の「崎山囲遺跡」・多賀城の「枡形囲遺跡」等が知られている。
古墳時代では、名取市「雷神山古墳」・丸森町の「台町古墳」・「京銭塚古墳」等がある。
724年には、多賀城に「陸奥国府、鎮守府」が置かれている。その80年後「坂上田村麻呂」が鎮守府を胆沢城に移す。
1051年、「前九年の役」が起こる。1083年、「後三年の役」が、1170年「藤原秀衡」が鎮守府将軍となる。
1189年、源頼朝の奥州征伐で「藤原氏」は滅ぶ。1333年、北畠顕家が陸奥守~1591年天正19年、「伊達正宗」米沢より岩出山に移っている。1601年、正宗は、仙台城築城し移る。3年後、松島に「五大堂」が完成。
仙台湾には、北上川・阿武隈川・名取川が注ぎ沖積平野を形成し、水田面積は、他県に劣らない「東北地方第一位」。
古代から、東北地方の海の玄関口、陸奥国府「多賀城」(現多賀城市)に設置されている。
三陸南部はリアス海岸で、天然の良港ー寒流の親潮と暖流の黒潮がまじわる漁場と云う。石巻・気仙沼が知られている。

                杜の都「仙台・青葉通り」


「仙台七夕」ー約3000本の七夕飾りがアーケード街を埋めつくす。
古くは、藩祖「伊達政宗公」の時代から続く伝統行事として受け継がれ、 日本古来の星祭りの優雅さと飾りの豪華絢爛さを併せ持つお祭りとして全国に名を 馳せており、旧暦7月7日の行事として全国各地に広まっている。

短冊ー学問や書の上達を願う。紙衣ー病や災いの身代わり、または、裁縫の上達を願う。折鶴ー長寿を願う。巾着ー富貴と貯蓄、商売繁盛を願う。
投網ー豊漁を願う。くずかごー飾り付けを作るとき出た裁ち屑・紙屑を入れる。清潔と倹約を願う。吹き流しー織姫の織り糸を象徴する。

戦後の昭和21年、仙台空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りで仙台七夕は復活・ここ商店街で、、。
      

 「穴蔵神社」
鎮座地ー・青葉区霊屋下(瑞鳳寺参道横)  主祭神ー宇迦之御魂神  祭日ー9月19日
  

元米沢に御鎮座。
伊達氏の守護神として奉斎、藩祖政宗伊達郡梁川に遷し、、後、青葉城を築くのとき鈴の沢の地を選び城に向けて遷し祀るとある。
「夕日明神」と称あり。天保6年ー広瀬川の氾濫と崖崩れの災をおそれ遂に川下の現在の地に鎮められた。
藩祖の信仰あつく社殿の修復のことは勿論、本社に三貫文の地を寄進し、更に年一石の饌米を奉献するを例とし、歩卒172家をもって祭事が、
公の奥方・愛姫(陽徳院)は安産の守護神として深く信仰したと伝えられている。

(社伝、稲荷神祠頌)大正11年八木山の越路神社(山神)を合祀。平成15年参道修復工事、平成17年本殿改築。
    

「瑞鳳寺」
広瀬川右岸の丘陵経ヶ峰のある臨済宗妙心寺派 山号ー正宗山 開山ー清岳宗拙。

本尊ー釈迦三尊 伊達正宗の遺言ー二大藩主「伊達忠宗」が1636年に創建・三代藩主「伊達綱宗」
    

三大の霊廟が「瑞鳳殿」-伊達正宗・「感仙殿」ー伊達忠宗・「善応殿」-伊達綱宗がある。
「瑞鳳殿」は、桃山時代の建築様式をつたえる豪華な霊廟建築と云う。1979年復元(国宝指定)

    

「伊達正宗」1567-1636 東北の猛者、独眼竜と恐れられた。
仙台藩主・伊達輝宗の長男、蘆名義広を破り「会津」掌握。
小田原征伐で遅参し、豊臣秀吉から領国一部没収されている。「関ヶ原の戦い」東軍に与する。-62万石大名に。
スペイン通訳「シピオーネ」(支倉常長)-正宗は、奥州を植民地としてスペインへ献上し、次期皇帝の最高実力者と記した宣教師「ソテロ」の書簡
が残っている。正宗は、天下を狙っていた証拠度と云われている。独眼竜正宗、片目を苦にし、自分の像には両目を添えよと遺言している。

「人そめて くにゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ 仙台のまつ」伊達正宗・和歌ー仙台の名はここから
    

米沢城主伊達輝宗(1544-85)-出羽半国・最上義光(1546-1614)の妹・義姫保春院(1548-1623)-最上氏の宿敵。
長男「伊達正宗」(1567-1636)-妻は、愛姫・陽徳院(1568-1653)陸奥三春城城主の一人娘ー3男1女をもうけた。小次郎ー1590正宗毒殺未遂事件で
正宗に斬殺                   井伊直政(1561-1602)亀姫徳川家康の命で「伊達秀宗ー政宗庶長子」に嫁ぐ。

政宗の三男飯坂宗清(1600-34)母の実家飯坂氏養子へ。 宗勝十男末子(1621-80)一関藩主
松平忠輝(家康6男)ー越後高田藩75万石太守となるが大坂の陣遅参で改易。  五郎八姫(天麟院)忠輝改易と共に離縁・仙台で暮らす
伊達忠宗(政宗次男嫡男)政宗死後家督継承陸奥仙台藩二代藩主ー長男宗綱(1603-18)、正宗の5男16歳で早世
忠宗の正室は、徳川家康外孫姫路藩主池田輝政の娘、徳川秀忠養女が嫁いでいる。その次男嫡男が伊達光宗(1627-45)19歳で病没。

田村宗良(1637-78)忠宗の三男ー愛姫遺言で田村家の名跡を継いだ。
綱宗(1640-1711)忠宗の六男ー19歳で家督を継ぐが酒色に溺れ2年で隠退
宗房(1646-86)忠宗の八男が五代藩主に。

「秀宗と亀姫」
宗実(1612-44)は、病弱で地位を同母弟「宗時」に譲っている。   宗時(1615-53)実質的藩主とし活躍したが襲封前に死去
宗利(1635-1709)秀宗の三男は、伊予宇和島藩二代藩主に。     宗純(1636-1708)秀宗の五男は、父から3万石分与、伊予吉田藩主に。

「涅槃門」
樹齢数100年の青森檜葉に飾り彫刻ー涅槃とは、煩悩を取り払った悟りの境地となる状態を云う。

資料館には、副葬品等が展示されている。金製飾り・大刀・兜・手箱など。

    

参道は、石造り階段と左右に杉並木(樹齢380年余り)が、、、。

「瑞鳳殿」
1636年政宗70歳の生涯を閉じ遺命により、その翌年造営された霊屋ー墓所。桃山文化を伝える豪華絢爛な廟建築。
柱には、彫刻ー獅子頭・屋根には竜頭瓦が

  

「感仙殿」-二代将軍 伊達忠宗(1599-1658)
政宗の治世を引き継ぎ、新田開発、港湾整備と産業・経済の復興を図り領内の安定に尽力し、基礎固めを成し遂げている。
瑞鳳殿と同様、豪華なもの。

  

「善応殿」-三代藩主 伊達綱宗(1640-1711)
芸術的才能にたけ、隠居後は、書画・蒔絵などで余生を送っている。水墨画などは、江戸期東北を代表する作品を残している。
墓室からは、香道具や文具など多数副葬品が出土。

    

妙雲界廟・御子様廟
感仙殿北・東正面に九代藩主 伊達周宗公・南正面に十一代藩主 伊達斎義夫妻の妙雲世廟が。
参道手前に五代藩主 伊達吉村公・歴代子公女の墓域になている。

    

美食大名と云えば、徳川家康・伊達正宗、政宗は、意外なことに料理が趣味。
もともと兵糧開発だったのが平和な世になるや美食を極める為に料理研究し、仙台に美味いものが多いのはその名残か。
政宗談ー「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と云う。
広瀬川で自ら魚を釣り客にふるまったとある。酒に弱かったとある。

    

次回は、青葉城へ。

勝沼 大善寺

2015-09-26 | 気まま旅

「勝沼町」
勝沼には、「釈迦堂遺跡群の文化圏に含まれる集落跡である宮之上遺跡」・甲府盆地東部は古代に仏教文化を先進的に受容した地域、
町域には古代豪族「三枝氏」の氏寺である「大善寺」をはじめとした古刹が分布する。
柏尾山頂の柏尾山経塚は東国では早期の1103年銘をもつ鋳銅製経筒が発見されている「経塚」。
中世に入ると、「勝沼氏居館跡」・石和(笛吹市石和町)に本拠を置いた甲斐国守護・「武田氏」の所領があり、
下岩崎には武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した「岩崎氏の館跡」がある。
町域には戦国期の武家居館である勝沼氏館が所在し、勝沼氏居館と中心とした町割が形成されている。
勝沼氏居館は武田信虎が弟の信友を祖とする親族衆・勝沼氏の居館で、武田氏のが郡内領主の小山田氏を服従させると、郡内地方への目付として
築造された館である岩殿城など。
町域は甲州市塩山の黒川金山に、近年、勝沼氏居館から金の加工に関わる金熔融物付着土器が出土していることも注目。
日川扇状地中心に古くから「ぶどう郷」は広がっている。ぶどう・ワインは日本一の生産。甲州種の発祥地
ぶどうは、アメリカ、デラウェアー甲州種ー巨峰ービオーネ、、順。現在は、桃など果物も盛んに栽培されている。
JR中央本線「勝沼ぶどう郷駅」に近い。

勝沼の「雀宮神社」100段以上の 石段、途中に「芭蕉の句碑」あり。
                       「勝沼や馬士も葡萄をくひなから」ー蓮之の句と云う。
          句は、蓮之の作、芭蕉作として早くから誤伝されてきた碑で、昭和11年建立。

      蓮之は通称松木次郎右衛門ー1731年、松木蓮之は中川宗瑞、長谷川馬光、佐久間長水らと俳諧撰集「五色墨」刊。
                    中興俳諧の先駆的役割を果たし、1734年に蓮之が江戸から甲州に旅をして詠んだ句と云う。
                   
                       「山さとは万歳遅し梅の花」ー故郷の伊賀で詠まれた句云う。
「勝沼の芭蕉塚・芭蕉句碑」
松尾芭蕉は、江戸時代の天和貞享年間2回にわたって甲斐の地を訪れ、勝沼を訪れたかどうかは?。「万福寺」に一時滞在したという言い伝えが。
勝沼町に、7基の芭蕉の句碑が、芭蕉の没後、建立。

「蛤の生ける甲斐あれ年の暮」大善寺・「行駒の麦に慰むやどりかな」力万福寺・「いささらば雪見にころぶ所まで」蓮華寺
「草臥れて宿かる比や藤の花」立正寺・「物云ば唇寒し秋の風」林照寺・「山さとは万歳おそし梅の花」金比羅神社
「勝沼や馬子も葡萄をくひなから」雀宮神社。(勝沼町教育委員会)

            甲州街道・勝沼宿は、江戸から36番目の宿場町
    

                   毘羅神社芭蕉句碑
  

立正寺末「長遠山・上行寺」ー日蓮宗ー

勝沼町誌ーかつては応化山長遠寺というお寺で、1532-1537?、日蓮宗に改宗する際、庚徳山・上行寺に改名。
休息山・立正寺の末寺籍に入る際、旧寺号をとり「長遠山・上行寺」現在に至る。
    

「勝沼氏館跡」- 勝沼氏は、武田信虎(信玄の父)の弟・信友の家系で、武田軍団の御親類衆でしたが、1560年、武田信玄に滅ぼされている。
勝沼氏の館跡は、現在、県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり県教育委員会による調査が始まり、多くの遺物が出土しました。
現在もまだ調査中と云う。

「上行寺北」ー真言宗大善寺末「勝尾山海蔵院」という寺院が。勝沼武田氏の祈願所であったと伝わりる。現在廃寺で、葡萄畑が。
    

「大善寺」-柏尾の新義真言宗智山派の寺。山号ー柏尾山

                     開創ー718年・行基
  

僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った
「薬師如来」が現れ、行基は、
その夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ「薬師如来像」を刻んで、柏尾山大善寺に安置。
行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、
この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられる。

「大善寺」は、1582年、新府城から落ち延びた「武田勝頼一行」が大善寺に立寄る。
武田勝頼、兄の仇の子息ではあるが快く迎えて(良晴に嫁したのち勝頼の乳母となっていた)。

   寺の薬師堂に勝頼、勝頼夫人、武田信勝を迎えて理慶尼と4名で寝所を供に。 
    

勝頼一行は、この寺で、岩殿城・小山田信茂の裏切りを知り、天目山に変更している。

「理慶尼」  1530-1611
戦国時代の女性。甲斐武田氏の一族勝沼信友の娘。武田晴信(武田信玄)の従妹。
俗名は「松の葉・松葉」勝沼信元、上野原加藤氏の名跡を継いだ加藤信厚の妹。

郡内の「岩殿城」で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この「柏尾山・大善寺」で戦勝を祈願し、一夜を明かす。
武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は、夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は「天目山」へ。
織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来500年続いた「甲斐源氏」滅亡。

その一部始終を目撃した「理慶尼」が記したー理慶尼記ーは、
武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいたこの「大善寺」に今なお大切に保管されていると云う。
勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは、後に徳川家康に重用され、
江戸時代には各地の城主に任命され、勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が今でも安置されている。

  

これで、甲斐の国は終了します。

景徳院 武田家終焉の地

2015-09-24 | 気まま旅
                              「武田慕情」ー作詩 いではく・ 作曲 遠藤実・ 編曲 一京建輔
            夕日に染まる 甲斐の山
            こだます鐘に 春おぼろ
            戦いくれた つわものの
            大和ごころを 知るように
            舞い散る花は 山桜
                        苔むす森に 蝉しぐれ
                       夢うたかたの まぼろしか
                       しずかに眠る 勝頼の
                       無念の涙を 惜しむよに
                       天目山の 夜半の雨
                                 山狭深く せせらぎは
                                 紅葉をうつす 流れ帯
                                 人馬のひびき 歴史は過ぎ
                                 田野の河原に 月の影
                                 武田の里は 今しずか


                     武田慕情 碑


「景徳寺」ー甲州市大和町田野・山号ー天童山 ・曹洞宗の寺・本尊ー釈迦如来・創建年ー天正10年の1583年・開基ー徳川家康、
拈橋チョウ(人偏+長)因(開山)・別称ー田野寺・札所等ー甲斐百八霊場19番

                山門(県指定有形文化財)
    

天正10年の1583年、3月ー甲斐国国主武田勝頼は
織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市)を捨て「大月・岩殿城」家臣の郡内領主小山田信茂を頼り落ちのびるが、小山田信茂の謀反に遭い天目山へと敗走し、名門の武田氏はここで、滅亡。
信長が横死して無主状態となった甲斐は最終的に徳川家康が領するが、家康は同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院を創建。
広厳院(笛吹市)から武田家臣小宮山内膳の弟である「7世拈橋チョウ(人偏+長)因」を招き、
1589年、には伽藍が完成した。「国志」・「景徳院文書」による)。
家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘される。
江戸時代には住職不在状態となり衰退し、1624年 - 1644年、に広厳院から住職が招かれ再興されているが、旧武田氏家臣の幕臣の要求により、
下総総寧寺の末寺とされたという。「1830年 - 1844年、火災が生じて主要伽藍を焼失し、1844年 - 1848年、明治時代にも火災が生じている」
武田軍の残党は、家康に感謝し、徳川軍として関ヶ原の戦い等で大いに働いたと云う。

    天正16年,境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみ。当時の面影を残す。(看板資料)
    

「景徳院」
当主武田勝頼、北条夫人、嫡男信勝が自刃し、侍卒ら約50人が殉死の地。
境内には勝頼ら3名の影像と殉難家臣の位牌、遺品などを納める甲将殿・勝頼の墓所・甲将殿前には勝頼らが自刃した場所といわれる生涯石がある。
境内南寄り傾斜地の石仏3体は没頭地蔵といわれて、勝頼らの首の無い遺体を埋めた場所と伝われる。
戦国の世、悲運に散った武田家終焉地、境内全体が武田家滅亡の歴史舞台で、今にしのぶ。(大和村の文化財)

    

武田勝頼公、武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を(看板資料)

県指定史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見.
江戸時代中期に供養が行われたことが判った。地下には埋納施設が存在する可能性が指摘され、本格的な発掘調査が.
    

黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒ー勝頼

おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端ー北条夫人

                  勝頼・北条夫人生害石
    

3月11日-滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲。
逃れがたいことを悟った、勝頼は自刃して果てた。

武田勝頼ー37歳・北条夫人ー19歳
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職・拈橋の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれ、拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていったと云う。
勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首の無い三体の地蔵尊を安置、「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
        
    

「武家の妻」
は、「内を治める」家内の管理、それは、食事の準備、被服の生産など、家族だけでなく家臣の生活にも気を配り、大切なのは、子供の教育だった。
戦国時代の妻たちは、「自分の意思にそぐわない政略結婚をさせられた不幸な存在」と考えられ、戦国時代のこと、ライバルの妹や娘を妻に迎えるのは、
人質として最適であったと思う。
斎藤道三の娘で信長の妻となった濃姫や、浅井長政の妻となり、その後柴田勝家に嫁入りした信長の妹のお市の方、豊臣秀頼のもとへ嫁いだ家康の孫娘・千姫など数多い。
武田勝頼の北条夫人は、暖かい小田原から、雪の深い寒い甲州の御坂峠を通り嫁入りし、最後まで勝頼と共に生きた北条夫人。
歴史人物の中でも一番知りたい女性の一人といえる。
政治の道具代わりに使われていたことから考えても、戦国時代の女性はさぞ地位が低かったと思いがちであるが、北条夫人を知り、決してそうではなかったと思える。
妻の権利は色々と保障されていて、大名の妻たちが後家になった場合などは、子供への財産分与が確定した際に、後家にも一定の財産が配分された。また、まだ小さな子供が跡を継いだ場合には、後家は「大方どの」と呼ばれ重要な後見人となっている。



次回は、勝沼方面へ。

中央本線・甲斐大和駅

2015-09-21 | 気まま旅
甲斐大和駅は、甲州市大和町初鹿野にある、JR・中央本線の駅。
開業当初の駅名は初鹿野、1903年の明治36年に大月駅から当駅までの開通により開業した古い駅。
当駅止りから甲府駅までが延伸となったため今は、中間駅。駅開業当時、この駅は東山梨郡初鹿野村にあったと云う。
初鹿野村はその後、1941年の昭和16年、付近の村々と合併し大和村となった。52年後の平成5年、に現在の甲斐大和駅へ改称された。
平成17年、大和村は附近の市町と合併して「甲州市」。
駅一帯は、国中地方と郡内地方との境に近い山間部。日川渓谷によって出来た小さな平地。長大トンネルの間にはさまれて駅は位置。
東は、笹子駅の付近まで笹子トンネル (中央本線)と新笹子トンネル、西は短い鶴瀬トンネルをはさんで勝沼ぶどう郷駅の手前まで殆どが
新深沢トンネルと新大日影トンネルとなっている。
「武田勝頼一族が自害した天目山」
駅北東にあり、「景徳院ー武田氏ゆかりの史跡が。

「武田勝頼」 1546-82 天目山に散った名門武田家の御曹子、信玄の4男・母ー諏訪頼重の娘
初めは、諏訪氏を称し、信濃国「高遠城」にいたが、世嗣となり信玄死後家督を相続した。「長篠の戦」大敗後家臣達の離反が相次ぐ。
天正10年、織田信長軍の大軍に攻め込まれて、ここ天目山で自害した。
偉大な父、武田信玄の後を継いだ勝頼は、老臣に侮られぬよう積極果敢に近郊へ攻め込み、信玄も落とせななかった「遠州国・高天神城」を落とし
これに慢心し、重臣の反対を押し切って「三河国・長篠に進出ー織田・徳川鉄砲隊に大敗、多くの宿将を死なせてしまう。
以降家臣の信頼を失った勝頼は没落の一途を辿っていく、勝頼の首級を見た織田信長は、悪態をついて、足で蹴っ飛ばした云う。

             甲斐大和駅前広場に、武田勝頼公の像が


「滝川一益」 1525-86  忍者出身、織田家重臣・四天王の一人
近江豪族一勝の子、伊勢攻略の功で北伊勢5郡を拝領・武田征伐で先鋒・上野国と信濃国2郡を与えられる。関東管領任命
信長没後、北条氏直に敗れ、秀吉に。その後、出家し越前へ。
武田征伐大功国持大名だが「自分が欲しいのは国ではなく名物茶器「珠光小茄子」だ。遠国(群馬県)配されて残念、都で茶を楽しめない、地獄だ」
と悲しんだと云う。

「勝頼撤退」木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し逃亡、1000の兵と共に新府城に撤退した。
勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である
深志城の攻略に向う。武田氏一族の「穴山梅雪」が「徳川家康」に通じ、織田側に寝返った。
家康は、梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始。
織田信長は安土城を出発、揖斐川に到達し、ここで嫡男・信忠から「仁科盛信」の首が届き、これを長良川の河原に晒したと云う。
「信長公記」に拠れば、3月3日に勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り逃れる。「甲陽軍鑑」に拠れば、勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対し信濃の国衆・「真田昌幸」が上野岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案したが、勝頼側近の長坂光堅が
信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れるべきと主張したという。
一方、「甲乱記」では信勝・昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対して郡内へ逃れることを諮問したとと云う。
「岩殿城」は、都留郡北部に位置し小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山田氏の城と見るか武田氏の城と見るかで議論がある。
                    天目山の戦いが。


武田征伐ー1582年3月11日 ・場所:天目山付近 ・結果は、織田軍の辛勝

交戦勢力ー織田軍(滝川一益)3~4千。 武田軍指導者は、 武田勝頼・武田信勝。43人程



織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。
この時に処刑されたのは一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉などである(一条信龍については信長公記の誤記)。
新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。
「甲陽軍鑑」では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、
勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。
「理慶尼記」では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。
一方、「甲乱記」では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で
信茂離反を知ったとしている。
勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に対峙する。
勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。
安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死、勝頼最後の戦となった「田野の四郎作・鳥居畑」では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退。

勝頼、信勝父子・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。
「甲陽軍鑑」が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。
勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった「小桜韋威鎧」(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。
その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。



1582年3月11日、
武田勝頼に従っていた僅かな家臣が織田信長の数千の軍と戦ったのが鳥居畑古戦場.
同日、武田勝頼の勘気を被って蟄居させられていた「小宮山内膳」が勝頼のために駆け付け奮戦したのが

                 「四郎作古戦場」


鳥居畑古戦場は、「景徳院」の前にある下り坂を50m位歩いた場所、
四郎作古戦場はそこから更に50m程歩いた場所にある。


JR甲斐大和駅から登山コースに、湯の沢峠~大鹿峠がある。
湯の沢峠ー左・黒岳(1987m)-石丸峠へ。右・大蔵高丸をえて米背負峠ー大鹿峠に出る。
展望が素晴らしい、富士山・南アルプス・白根三山、北岳・間ノ岳・農鳥岳・八ツ岳・金峰山などが望める。



「北条夫人・桂林院(法号)」
家康をけん制のために、勝頼は、北条と同盟を結ぶ決意をし、その証しとしての政略結婚の相手が北条夫人。父・信玄以来の重臣の高坂弾正昌信は、
「この結婚で、勝頼さんは、氏政(氏康の息子で第4代・北条当主)さんの妹婿・・・ここ3年ほど心配でたまらんかったけど、やっと安心して眠れるわ~」と、大喜び、この結婚は、周囲に望まれた結婚。
結婚1年後、あの越後(新潟県)の上杉謙信が急死、その後継者争いとして勃発したのが、「御館の乱」。
謙信の養子として迎えられていた謙信の甥の「上杉景勝」と、同盟の証しとして北条氏から養子に入っていた「上杉景虎」、その北条から養子に入った
景虎が、先代・氏康の息子、北条夫人の10歳年上の兄である。勝頼ははじめ、この景虎を応援する立場をとる。
しかし、拠点である春日山城を占拠した景勝側は、そこにある巨額の軍資金に物を言わせての再三の交渉し。
やがて、勝頼は、自らの妹・菊姫と景勝との結婚を承諾し、同盟を結んでしまいます。
「御館の乱」は、景勝の勝利に終わり、景虎は自害。北条と武田の同盟関係は崩れ落ち、敵同士となる。
自分の夫と兄が戦闘状態に。武田勝頼は、夫人に実家に戻るように勧めている。
キッパリとそれを断ったのは、北条夫人・彼女。すでに武田の女として生きる決意を固めていた。
その2年後の 1581年、勝頼は、隣国との要所であった高天神城ー静岡県掛川市、を家康に奪われてしまいます。
高天神城は、勝頼の誇り、武田の勢いを裏付けるシンボル的な存在。
その城を落とされた事によって、勝頼にも、そして武田の家臣たちの中にも動揺が走り、この頃から、武田に見切りをつけて寝返る者が多くなってきますが、新しく建築した新符城・山梨県韮崎市に家族&家臣とともに移り住む。
金銀珠玉に飾られた豪華絢爛な城は、城郭を造らなかった信玄から脱皮するような甲斐(山梨県)初の本格的な城郭でしたが、その引越しからわずか1ヶ月後の正月、信濃福島城主の木曽義昌が寝返ります。この寝返りは、武田方に大きな痛手となる。
この木曽義昌の妻は、勝頼の妹・真理姫(真龍院)。戦国の世のならいとは言え、身内まで寝返りがある。
離反は後を絶たないが、北条夫人は、その揺るぎない心を見せつけてくれます。
県にある武田八幡宮には、その年の2月19日の日づけで、北条夫人が夫・勝頼の武運を祈って捧げた自筆の願文が残っている。

次回は、武田勝頼の菩提寺、景徳院へ。

大菩薩峠

2015-09-18 | 気まま旅
笹子峠は、県東部で大月市と大和村の境の峠、国中地方・甲府盆地ー郡内地方・県南東部を結んだ、甲州街道の難所である。
峠の下には、県道日影笹子線隧道(旧国道20号)が通り、JR中央本線笹子トンネルがある。
現在は、国道新笹子トンネル・中央高速笹子トンネルと上下5本の道になっている。中央高速笹子トンネル内で天井版が落下し大事故があった。
笹子峠と云えば、「矢立ちの杉」がある。2代歌川広重・葛飾北斎が描いた巨樹(天然記念物)。

蔵元「笹一酒造」 大月市笹子町吉久保ー銘柄ー笹一。


「酒の話」
酒母ー麹と蒸米と水に酵母を加え酵母を増殖させたのが酒母。
速醸酒母は、最初から乳酸を添加・最近の汚染を防ぎ、酵母のみを増殖させる方法(生酛できるのに半分の日数で済む)温度管理が重要に。

            山梨県の蔵元数23家あったが、(平成2~3年頃)
    

           「矢立ちの杉」歌ー杉良太郎 作詞・作曲大地 良
                  絹雨が降り足が止まる
                  虹が出て まるで夢の中
                  目の前に そびえる千年の杉
                  旅人よ 少し休んでいないかと
                  語りかけてくる ここは、甲州笹子峠黒野田村
                  矢立ちの杉の物語、、、、。

樹高28m、根回り14.8m幹が損傷し、空洞が、 樹齢1千年におよぶ甲州街道笹子峠の「杉の大樹」
上九一色村の「精進の大杉」につぐ県下第二位の名木と云う。( 県の天然記念物)

鎌倉時代、源頼朝が富士の巻狩りで矢を立てた物語や、500年前には武田氏の里から岩殿城に出向した武士達が
「岩殿山で国みれば国恋し矢立の杉がみえ候」などとうたわれ既に名木であったことが伺える。
戦陣に向かう武士達はこの山中巨木の生い茂る中に超然として他の大木を従えて立ち、強い生命力をー大杉を神霊と仰いだー

      戦勝・無事を大杉の前で凱旋できることを祈って一番矢を射立てたといわれる。
    

「大和村」
織田・徳川軍に敗れた武田勝頼が最期を遂げた武田家終焉の地、竜門峡近くの「天童山・景徳院」には一族の墓がひっそりと佇み、
甲斐国主武田家の悲しい歴史を今に。
                     大菩薩峠


「甲州市交流保養センター・ 大菩薩の湯」
展望の素晴らしい露天風呂がある。
重川の清冽な流れの音が温泉で暖まった心に爽やかなここち良さをあたえ、大菩薩嶺の裾野に湧出した高アルカリ性泉・ 水素イオン濃度10.05が測定。
マイルドで貴重な名湯。
地元の農産物や加工品の直売コーナーや農村と都市住民との交流を深めるための広場もあり、都心から近い。

   

「小説・大菩薩峠」ー中里介山作の長編時代小説ー
1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。
幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。
連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった。
作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。
世界最長を目指して執筆された時代小説で、大衆小説の先駆けとされる不朽の傑作である。
最長時代小説は山岡荘八作の「徳川家康」。
同時代では菊池寛、谷崎潤一郎、泉鏡花、芥川龍之介らが賞賛し、中谷博は文学史上において大衆文学の母胎と位置付けた。
戦後にも安岡章太郎「果てもない道中記」をはじめ数多くの研究や評論が展開されている。
 
    

大菩薩峠ー
幕末の安政5年、江戸から西に三十里離れた甲州裏街道(青梅街道)の大菩薩峠で、一人の老巡礼が武士机竜之助に意味もなく斬殺。
老巡礼の孫娘お松は、通りがかった盗賊裏宿の七兵衛に助けられ、養育される。
竜之助は、峠のふもとの武州沢井村の沢井道場の若師範であった。
甲源一刀流の師範宇津木文之丞は御岳神社の奉納試合で竜之助と立ち会うことになっていたが、その内縁の妻お浜は妹と偽って竜之助を訪ね、試合に負けてくれと懇願する。
竜之助は拒絶し、与八にかどわかさせて、お浜の操を犯してしまう。あげくに竜之助は試合で文之丞を惨殺し、お浜を連れて江戸へ出奔した。
文之丞の弟の兵馬は仇を討つべく竜之助の後を追う。
四年後の江戸で竜之助と兵馬は互いの素性を知らずに試合を行い、引き分ける。
翌年、兵馬から果し状を受け取った竜之助は、悪縁のお浜を諍いの末に切り捨て、兵馬との試合をすっぽかし、新選組に居場所を求めて京都へ向かう。
しかし、竜之助は、近藤と芹沢の争いで揺れる新選組をよそに、遊郭の里島原で狂乱し、またも失踪する。
その後、三輪の宝蔵院流の槍術を伝えるという植田丹後守の道場に身を寄せた竜之助は心中者の生き残りで亡き妻お浜に生き写しのお豊に惹かれる。
しかし、竜之助は成り行きで天誅組の変に参加し、十津川郷に敗走する途中、泊まっていた山小屋で追っ手の放った爆弾が爆発し失明してしまう。
竜神村でお豊と再会した竜之助は、お豊と逃亡。竜之助の世話のために苦しい生活を強いられたお豊が自害したと間の山の芸人お君から聞かされた
竜之助は、東海道に旅立ち、山の娘たちに助けられ療養するが、ふとしたきっかけで甲府に赴き、夜毎に辻斬りを仕出かしだす。
その後、竜之助は八幡村へ、江戸へと流れるが行き着く先で夜毎に辻斬りを仕出かしだし、慶応3年秋、白骨温泉に赴く。
小説は四散した登場人物全員の旅路を詳細に描いていく。数多の登場人物は慶応3年秋の日本各地をいつまでもいつまでも彷徨い続ける。(未完)



大菩薩峠の映画は、日活(稲垣監督)・東映(渡辺監督)(内田監督)・大映(三隅監督)・東宝(岡本監督)がある。



大菩薩峠は、江戸時代までは武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州道中の裏街道であった。
青梅街道の重要な峠として利用され、青梅街道の最大の難所でもあった。
峠を越えると街道は北都留郡丹波山村を通過する丹波山通と小菅村を通過する小菅道に分かれ、武州川野村(現在の東京都西多摩郡奥多摩町)で再び合流

峠より以西では、両村からの米や塩、木材など物資の輸送にも利用された。現在の峠は近年に認定されたものであり、江戸時代からの街道としての旧峠は賽の河原という地名で残っている。
1878年の明治11年、青梅街道は県令藤村紫朗の主導した道路改修により柳沢峠を開削した新ルートに変更され、現在は柳沢峠にその役目を譲っている。



「小説家、中里介山」
西多摩郡羽村、に精米業者の次男として生まれ、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれたと伝えられる。
生家は自由民権運動で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地で、長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。
1898年の明治31年、西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での電話交換手や母校の代用教員の職に就き、一家を支えた。
この時期に松村介石に傾倒し、号の「介山」も松村にあやかるものだという。

生活信条は、青年時代から独身を貫くと決心をしていたと云う。
27歳の時勤務先の都新聞社で独身会を結成し機関誌「独身」を発行している。
好男子であったので女性には大変もてたというが終生妻は娶らなかった。
評論家北嶋広敏によれば幼少のころ味わった家庭の暗さがトラウマになっているからという。
介山の言「女遊びは構わない、それは魂を傷つけぬから。恋はいけない、魂を傷つけるから」。
晩年まで簡素でストイックな生活を貫いた。「大菩薩峠」がベストセラーになって得た印税は事業につぎ込み、本人は菜食を中心とする粗食で、住まいは六畳間一間しかなかったと云う。



山梨県甲州市塩山上萩原と北都留郡小菅村鞍部の境にある(標高1,897m)
峠から稜線を北へ辿れば大菩薩嶺がある。国中方面からは、萩原越や大菩薩越、青梅通とも称された。

                      峠入口ー黒門
    

「裂石山・雲峰寺」ー甲州市塩山上荻原ー
            臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊・十一面観音像(裂石観音)
  

笛吹川支流の「重川上流部」、青梅往還を大菩薩峠へ向かう登山道沿いに立地。
元は、天台宗寺院、745年、に行基が大石が裂け一夜にして生えた萩木から本尊の十一面観音を彫刻し、開山したと伝えられている。
室町時代には恵林寺住職の絶海中津が観音堂改修の浄財勧募を行っており「絶海録」
この頃には恵林寺末寺として臨済宗に改修していたものと考えられている。
戦国期には甲府(甲府市)が甲斐守護武田氏の本拠となるが、雲峰寺は甲府の鬼門に位置するため、「甲斐国志」に拠れば武田氏の祈願所となった。
天文年間に火災に遭い、紹謹禅師の尽力と甲斐守護武田信虎・晴信(信玄)の支援により復興、1558年、晴信は住職芳書記室に武運長久祈願を命じている。
「御旗」-1582年、武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで滅亡した時、武田家の家宝である 「日の丸の御旗」 「孫子の旗」 「諏訪神号旗」 などを
山伝いに運んだといわれ、寺宝として保存され現在も宝物殿 に。近世には徳川氏から寺領安堵を受けている寺。
   
    

重要文化財ー本堂・庫裏・書院・仁王門

          開基は、行基  甲斐108霊場の11番寺
    

次回は、武田勝頼・北条夫人他の眠る「景徳寺」へ。