syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

呉・旧日本軍墓地と音戸

2014-06-30 | 気まま旅
                             「同期の桜」 作詞不詳

            貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く  咲いた花なら 散るのは覚悟  見事散りましょ国の為
            貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く  血肉分ける  仲ではないが  なぜか気が合うて別れられぬ
            貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け  南の空に    まだ還らぬ一番機、、、、、。

1889年(明治22年)半農半漁の呉村に海軍鎮守府が開庁され、海軍工廠が設置し、軍港として発展し派兵の出撃基地「呉」。
昭和20年3月より数回の激烈な空襲により呉軍港、広海軍工廠、呉海軍工廠は壊滅し、 世界的軍港「呉」は、日本海軍の墓場と化した。

戦艦大和の建造でも知られる海軍工廠は東洋一と言われるまでに隆盛を極め、発展を続けた「呉」、
この地に、1890年(明治23年)帝国海軍によって設置された「旧海軍墓地(長迫公園)」

13万3千余柱の呉海軍鎮守府関係の戦没者の英霊が眠っている。

大東亜戦争は、 大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・中華民国などの連合国 との間に発生した戦争、


大東亜戦争 戦没者之碑. 航空母艦. 空母瑞鶴 碑記念樹. 軍艦信濃戦没者之墓 ...
潜水艦. 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 . 伊号第八 潜水艦之碑 伊二九潜戦没者慰霊碑 不朽. 伊号第122潜水艦戦没者 ...
海軍戦没者柔道部員之碑 呉所管看護長・看護師・看護手・看護婦之墓地等が。

浜風は、日本海軍の駆逐艦、陽炎型の13番艦。「武蔵」「金剛」「信濃」の沈没に立ち会い、自身も1945年坊ノ岬沖海戦で「大和」と戦没。 


明治期に海軍軍人の埋葬地として開設された「海軍墓地」(現・長迫公園)には、
戦艦大和戦死者の碑など、戦争の死者を弔う91基の合祀碑が並び、献花が絶えないと云う。

島風は、日本海軍の駆逐艦、峯風型駆逐艦の4番艦である。日本の駆逐艦 として公試運転時に40.698ノットの新記録を、哨戒艇に改装


帝国海軍の重要拠点だった各港は、一転して連合国軍の管理下に置かれた。
東シナ海への入り口となる佐世保は米海軍第七艦隊基地として、朝鮮戦争やベトナム戦争で作戦基地、補給基地となった。
1952年に海上警備隊が発足し、呉と佐世保に地方総監部が置かれ、日本の軍港として復活。

戦艦大和の碑


戦艦大和五代目艦長 有賀幸作大佐 •戦艦大和四代目艦長 森下信衛大佐 •戦艦大和三代目艦長 大野竹ニ大佐 •戦艦大和二代目艦長 松田千秋大佐

「戦艦大和の初代艦長、高柳儀八大佐」
第二艦隊参謀長となった森下信衛少将から「戦艦大和」の艦長をひきついだのは、
水雷学校の教頭をしていた、「有賀幸作」大佐、有賀大佐は、戦艦大和最後の艦長となった。

「シーライオン」の魚雷攻撃を受けた。6本の魚雷を発射、12ノットで航行していた「金剛」の左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中。
戦艦「長門」を狙って外れた魚雷1本が護衛の第十七駆逐隊旗艦「浦風」に命中、「浦風」は、轟沈、第十七駆逐隊司令部、艦長以下乗組員全員が戦死。
    

「戦艦大和」 約137,802,000円 1936年3月 艦政本部試算 。排水量 基準 64,000t・公試 69,000t・満載 72,809t・全長 263.0m・水線長 256.0m
       全幅 38.9m・公試吃水 10.4m・主機関 ロ号艦本式缶12缶・艦本式タービン4基4軸・153,553馬力・最大速力 27.46ノット(公試成績)
       航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)・乗員 竣工時:2,500名・ 最終時:3,332名

兵装が、新造時 45口径46cm3連装砲塔:3基・60口径15.5cm3連装砲塔:4基・40口径12.7cm連装高角砲:6基・25mm3連装機銃:8基・13mm連装機銃:2基
    最終時 45口径46cm3連装砲塔:3基・60口径15.5cm3連装砲塔:2基・40口径12.7cm連装高角砲:12基・25mm3連装機銃:52基・25mm単装機銃:6基
        13mm連装機銃:2基 ・装甲 舷側 410mm・甲板 200mm〜230mm・主砲防盾 650mm・艦橋500mm であった。

潜水艦の碑・巡洋艦の碑・駆逐艦の碑・上海満州事変の碑・傷疫の碑・海軍航空隊の碑・戦艦の碑・戦艦大和戦死者の碑等。        
    

「青葉ー重巡洋艦」の最後
潜水艦の攻撃で大破した青葉は、呉で本格的修理を行う予定で「呉」に、あまりも大きすぎる損傷のために修理の見込みが立たず、呉工廠近くに
繋留放置されていたと云う。
1945年3月に米軍空母機動部隊による攻撃が開始されると、「青葉」も防空砲台として奮戦したが、7月24日に命中弾1至近弾1、28日に命中弾4を受けて
艦尾はほぼ切断状態となり、艦内は海水で満水となった結果ついに大破着底。
そのままの状態で終戦を迎え、1946年11月より播磨造船の手により解体されたている。

上海満州事変戦没者之碑・昭和8年建立・合祀者49柱)
    

「戦艦日向」は、進水 1917年・就役 1918年・その後 1945年、 呉軍港空襲により大破着底、終戦後に解体 ・除籍 1945年。

性能諸元、航空戦艦改装時は、排水量 38,872トン(公試時)・全長 219.62 m・全幅 33.83 m・吃水 9.03 m・機関 ロ号艦本式缶8基
     艦本式ギアード・タービン4基4軸 80,640馬力 ・速力 25.1 ノット ・航続距離 9,500海里/16ノット・乗員 士官、兵員1,669名
兵装    四一式35.6cm連装砲4基・12.7cm連装高角砲8基16門・25mm3連装機銃19基・搭載機 常用22機(カタパルト2基)

日向(ひゅうが)、大日本帝国海軍の戦艦で「伊勢」型戦艦の2番艦。
    太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。
    艦名の由来は宮崎県の旧国名からで、艦内神社は宮崎神宮からの分神。(艦名は帝国海軍ではこの艦のみ)

休山旧海軍墓地から呉街並みと桟橋方面
  

                     「海行かば」     大伴家持

          海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ

呉のドックと呉港・戦前ここで「戦艦大和」が。


「音戸の瀬戸公園」 
平清盛が夕日を招き返して1日で切り開いたという伝説のある名勝地、約2、300本の桜、と約8,300本の紅白のツツジが咲き乱れ
真紅の「音戸大橋」とマッチした素晴らしい景観の公園。
 


約800年余り前、平清盛が、巌島神社に至るために切り開いたと伝えられる、呉市と倉橋島のわずか90mの狭い海路である。
今は瀬戸内海航路の要衝であるが、潮の流れが速いため難所としても知られている。
昭和36年、真っ赤な音戸大橋(アーチ型らせん式高架橋)によって呉市と陸続きになった。

音戸の瀬戸とは、呉市にある本州(警固屋)と倉橋島(音戸町)の間に存在する海峡のことである。
幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4ノットと潮流が早く、狭い所を広島市と松山市を結ぶ定期船など
1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域。
日本一短いとされる海上定期航路(音戸渡船)も就航している。
南端最狭部にはアーチ橋とツツジで有名な音戸大橋が、北端には2本目の橋である第二音戸大橋がかかる。

瀬戸公園登り                                 阿賀港か
  

「吉川英治文学碑」が、小説「新平家物語」の執筆中に、音戸の瀬戸を訪れた際に残した感慨の句、
「君よ今昔之感如何」を刻んだ石が、音戸の瀬戸公園の高台の一角に建てられていた。

高島台「平清盛日招像」


この海峡は平安時代に日宋貿易の航路として、1167年に平清盛が開削したといわれている。
一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという伝説。
工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたともいわれる。
平清盛ゆかりの土地であることから、開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向に扇を向けて立つ姿の2.7mの銅像
「日招像」が瀬戸の東側の高烏山麓「音戸の瀬戸公園」内に1967年、昭和42年に建立。

近年の地質調査では、清盛の時代より遥か以前から、この海峡には船舶の航行に十分な水深があり、本州側と音戸側が地続き、あるいは浅瀬で結ばれていたと考えられている。

江田島                   音戸大橋          江田島市大黒神島
     

「音戸大橋」
音戸の瀬戸上に架けられた日本初のアーチ型らせん式高架橋。
ループ式道路を組み合わせた美しい橋。橋長172m。幅員6m。全長1,184m。

とびしま海道・江田島                 公園案内板                絶景が広がる
    

次回は、岩国へ。





江田島・入船山

2014-06-26 | 気まま旅

「旧海軍兵学校」は、大原湾に面し、西岸にあった。
1888年、東京築地から移築され、ここから多くの海軍士官が、(現在、海上自衛隊・学校)53万m2の敷地、今でも松・桜が多いと云う。
赤レンガの重厚な建物が建ち並んでいる。
教育参考館には、東郷元帥の遺髪や海軍将校の遺書遺品・特攻隊の遺書遺品、遺影等が展示されている。(今回は、海軍墓地方面へ)

大和ミュージアム・呉中央桟橋ターミナル           通勤サラリーマン学生が多い
    

                      「江田島健児・海軍兵学校」神代猛男

    澎湃寄るする 海原の 大波くだけ散るよころ 常磐の松の 緑濃き 秀麗の国秋津洲 有史悠々m数千載 皇護仰げば 弥高し

    、、、、ああ 江田島の健男児 機到りなば雲喚びて 天かけ行かん蚊龍の 池に潜むにも似たるかな 斃れて後に止まんとは

    我が 真心の 呼びなれ。

堺川の入り江に桟橋目の前が江田島


「呉」は、大和・ 飛鳥時代 7世紀後半 律令地方行政制度の整備に伴い、呉地域に安芸郡海里(呉湾沿海 地域と島しょ部)フナキ里(灰ヶ峰山ろく)が置かれ、奈良時代 8世紀 安芸国に遣唐使船の建造が命じられている、(「続日本紀」) 。
平安時代 11世紀末~ 12世紀初 呉浦の開発領主「呉氏」は、未開発地を開発して「呉別符」とし、 雑公事部分を石清水八幡宮に寄進。
安土桃山時代、1575年、 呉の末永景道、仁方の白井縫殿助ら,小早川水軍として石山合戦 に参加する。
白井縫殿助は戦死したと伝えられる。
江戸時代に入り、 宮原村の呉浦を、「呉町」に、「伊能忠敬」により仁方村と広村小坪において測量実施。

明治の1886年ー 第2海軍区鎮守府の位置を安芸郡呉港に設定。 呉鎮守府開庁。同時に海兵団・呉海軍病院なども業務開始する。
   1897年ー 呉海軍造船廠において最初の軍艦「宮古」(通報艦)進水
       呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠が合併し、呉海軍工廠設立。廠内に造兵部・ 造船部・造機部・会計部・製鋼部・需品庫を設置。
        呉線呉~広島間開通。
1907年ー 呉工廠内において最初の戦艦「安芸」(19,800排水トン)が進水し~戦艦大和~現在の呉湾になった。

「亀山橋」を渡って約500mでめがね橋交差点 、右に 曲がり約400m進むと呉自衛隊教育隊正門、
    

「呉海軍鎮守府」
明治16年、呉湾近海測量、三方山に囲まれ防御に優れていた所が「呉湾」。
艦艇の入出港や生産活動の拠点として最も適した地、明治19年鎮守府決定された。当初は、一日1800人以上もの建設に従事し、明治22年
開庁している。
亀山神社の跡地に、洋風木造の「軍政会議所・水交社」が建てれた。

入船山記念館(有料)                          金唐紙作品資料館で展示
    

明治38年・1905年発生・芸予地震発生(日露戦争直後)マグマ7.2大被害を受けている。
イギリスで建築学を学んだ「桜井小太郎(1870-1953)」イギリス様式長官官舎を設計している。第7代―32代約40年使われた。

                        呉の町は、旧海軍の町
  

終戦と同時に、呉は、オーストラリア軍、英連邦軍の占領地域に。呉鎮守府司令長官舎は占領軍総司官舎として使われた。昔の面影は無くなっている。
昭和41年、1966年、返還。入船山は大蔵省、翌年「呉市入船山記念館」としてオープンされた。(県重文)一般公開(有料)

東郷平八郎 1847-1934 T字戦法でバルチック艦隊全滅させた  連合艦隊司令長官・薩摩藩出身
  

入館料を払い、番兵塔、右手に旧高烏砲台火薬庫(明治35年陸軍音戸・休山から昭和42年移築し復元展示)、左手に「郷土館」(旧呉鎮守守司令長官
・舎関係の資料展示)庭には旧砲台等があり、突き当りに「旧呉鎮守府司令長官官舎」和室・洋館。「旧東郷家住宅跡」。「歴史民俗資料館」が、
(昭和61年開館、金唐紙コレクション等が展示されいた。)

戦艦大和・第2艦隊司令長官「伊藤氏」を思い出し、映画で「鶴田浩二」が演じていた。参謀長草鹿氏から「一億総特攻の先駆けになってほしい」
伊東氏は「それならわかった」と受け入れたと云う。また、伊東氏は、部下に「我々は、死に場所を与えられた」と続ける。

                          司令長官舎
  

この地には、「八幡神社(後亀山神社)」の始まりを大宝3年、703年と「芸藩通志」に残って、古くからこの辺りを「入船山」と云っていた。
亀山神社は、少々下った所に移り、明治19年、鎮守府が設置されている。
市街地の中に入船山があり、鎮守の森、昔から自然林の景観をそのまま残している。

          和式内部                                     洋館
    

「金唐革紙・もしくは金唐紙」は、日本の伝統工芸品である。
和紙に金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)をはり、版木に当てて凹凸文様を打ち出し、彩色をほどこし、全てを手作りで製作する高級壁紙である。
金属箔の光沢と、華麗な色彩が建物の室内を豪華絢爛に彩る。

                      金唐革。紙の伝統工芸
  

「後藤 仁」
1999年に移情閣〔孫文記念館〕(重要文化財、神戸市)、2002年に旧岩崎家住宅(重要文化財、台東区)等の主要な復元を行う。
紙の博物館(東京都王子)、呉市立美術館(広島県呉市)、旧岩崎邸庭園、入船山記念館、フェルケール博物館(静岡県)、大英博物館、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(イギリス)等で「金唐革紙展」を開催して、その普及に努め、これらの功績により、研究所を代表して上田尚が2005年、選定保存技術(文化財の修理復元等のために必要な伝統的技術として、文部科学大臣が選定するもの。)の保持者に認定される。

現在、研究所は本格的な製作体制は終了して池田和広、粕谷修朗、柳楽雄平、宮澤利行らは各々の日本画制作活動等に戻る。
後藤仁は2006年に研究所をはなれ、金唐革紙製作技術を日本画にも取り入れ日本画家として活動するとともに、「金唐革紙保存会」を主宰して展覧会等での金唐革紙の紹介や製作技術保存にも尽力し、必要があれば製作出来る体制を維持している。
現在、金唐革紙製作全般にわたる本格的な製作技術を有しており、現役で製作可能なのは後藤仁のみとなっていると云う。

                     金唐紙工芸品


「亀山神社」
祭神ー品陀和気命・ 帯中日子命・ 息長帯日売命。旧呉市内の総氏神として信仰される。
旧県社、創建ー伝大宝3年(703年)。別名ー八幡様。例祭ー10月第2日曜日。

                        亀山神社の石、銅鳥居 
    

豊前国宇佐に鎮座していた八幡神が、豊後国姫島、安芸国栃原を経て大宝3年、703年に宮原村亀山(入船山)に遷座したのに始まると伝える。
皇城宮・大屋比売神社・大帯比売神社・比売志麻神社・鈴音宮などと呼ばれたが、一般には「八幡様」と呼ばれていた。

明治19年(1886年)、亀山に呉鎮守府を開設するのに伴い現在地に遷座した。

    狛犬               手水舎                        銅灯籠
    

                          拝殿


「千福」は、呉市の酒造メーカー、「株式会社三宅本店」によって造られている日本酒の銘柄。
三宅本店は1856年、安政3年創業。大正5年に、日本酒の銘柄として「千福」を加えた。「千福」の名前の由来は創業者の母と妻の名前からとったと云う。

                        株式会社三宅本店


「三宅本店」は、中四国・九州エリアで、大手の規模を誇る酒造メーカー。
戦前にその品質の高さから旧海軍の全基地に納入され、それを足がかりに全国に展開。呉の大空襲で灰燼に帰し、その後復興を果たした蔵を支えてきたのは、戦前から受け継がれてきた品質第一の精神と云う。
酒に対する深い見識を持った専門家と認められる、酒類総合研究所の「清酒の官能評価分析における専門評価者」の第1号に技術室のスタッフが認定されるなど消費者に人気ある。

                        工場内と井戸湧水


「酒の話」
酒造好適米は、大粒で心白(米一粒の中心の白色不透明部分)が良い、蛋白質・脂肪の少ない米「品質低下させる」。
評判の良いのに「山田錦」「雄町」「五百万石」「たかね錦」、、、。中国地方は、雄町・幸玉・改良雄町・八友などで、硬い米を選ぶ。
精米歩合、40%~70%削り込むため、酒米は、崩れにくい硬い方がよい。

次回は、旧海軍墓地方面へ。

呉 戦艦大和

2014-06-24 | 気まま旅

「呉」、広島県南西部・中央に「休山」が、市街地は西・呉平野と東広平野に分断されている。低湿地地の地形、それを「呉」と呼んだ、市の中部の灰ヶ峰より桶や船材用の「榑くれの木」が産出、古代人の渡来人を「呉」と呼んだなど諸説は多い。
昔は小漁村であったが、1889年・明治22年に、旧海軍鎮守府が置かれて以来、水深で周りに山で囲まれ天然良港地であった。
軍港都市として急速に発展している。
1903年「呉海軍工廠」がつくられている。第一次・二次世界大戦を通じて軍需工場が林立、人口も一時40万以上に膨らんだ。
世界最大級「戦艦大和」も、ここで建造されている。

現在は、石川播磨重工・日新製鋼・日立製作所・東洋パルプなど、重工業都市に転換。





戦前には軍港や戦艦大和を建造した海軍工廠があった呉に開館した「科学館」
呉の歴史と、造船や製鋼をはじめとした科学技術を、当時の生活・文化に触れながら紹介する。
館内には戦艦大和を詳細に再現した実物の10分の1サイズの模型が展示されており、同館のシンボルとなっている。
簡単な工作を通して科学の原理を体験できる実験工作室や艦船に関する資料などを豊富に揃えたライブラリーがある他、呉港が見渡せる展望テラスも。

大和ミュージアム    入館料¥500


大和の模型の他、戦艦陸奥や重巡洋艦青葉に実際に搭載されていた主砲身、戦艦金剛の英ヴィッカース社から輸入した当時のボイラーや、戦艦陸奥の錨、航空戦艦日向のマストに掲揚されていた軍艦旗、零式艦上戦闘機六二型、“人間魚雷”回天10型(試作型)、特殊潜航艇「海龍」を展示の主体として、海軍兵器の実物が数多く展示されている。
その他、実物の水中翼船である「金星」の屋外展示など、戦後の海事史についての展示。

1階「展示室 呉の歴史」では、日本の幕末から太平洋戦争終結までの戦史と呉海軍工廠の歴史、戦艦大和について、当時の記録映像の上映、海軍兵器の実物、戦没者の遺品などの歴史的資料の展示を通じて解説。呉軍港空襲や広島市への原子爆弾投下に関しても、呉の人々の視点から見えた当時の様子が、



特殊潜航艇「海龍」 後期量産型、操縦装置は双発爆撃機「銀河」のものと同じ。
浮力タンクによらず補助翼によって潜航浮上するため運動能力に優れていた。
二人乗りで九八式45センチ魚雷2本を艇の外に装備で、水上はディーゼルで走り、水中では電池とモーターで走行する。

本土決戦用のものは挺首に炸薬をつめ、両わきに抱えた魚雷を発射後、目標に突入体当たりする予定であったと云う。 基地発進用として運用される計画だったが実戦での使用はなかった。
この艇は、昭和20年、静岡県網代湾で艇尾部に米機のロケット弾(不発)を受け沈没、昭和53年に引き揚げられたもの。

零銭艦上戦闘機・人間魚雷回天等と、戦艦模型が、昭和20年に入ると主力艦は空母にとってかわられた。



「戦艦大和」
進水 1940年、-その後 1945年4月沈没 。建造所 日本・呉海軍工廠 。建造費 約137,802,000円(1936年 艦政本部試算)
排水量 基準ー 64,000t・満載ー 72,809t・全長 263.0m ・水線長 256.0m ・全幅 38.9m 。主機関 ロ号艦本式缶12缶、艦本式タービン4基4軸
153,553馬力 ・最大速力 27.46ノット。航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)・乗員 竣工時、2,500名・ 最終時:3,332名

兵装 (新造時) 45口径46cm3連装砲塔3基・60口径15.5cm3連装砲塔4基・40口径12.7cm連装高角砲6基・25mm3連装機銃8基・13mm連装機銃2基
兵装 (最終時) 45口径46cm3連装砲塔3基・60口径15.5cm3連装砲塔2基・40口径12.7cm連装高角砲12基・25mm3連装機銃52基・25mm単装機銃6基
        13mm連装機銃2基・装甲 舷側 410mm・甲板 200mm〜230mm・主砲防盾 650mm・艦橋500mm・搭載機 7機(カタパルト2基)。



「山本五十六元帥」 1884-1943 ソロモン諸島で戦死・海軍航空育ての親、新潟県長岡、山本家養子、海軍兵学校・大学卒、日本海海戦に参加。
1919年ハーバード大学に学び、後霞ケ浦航空隊副校長。日・独・伊同盟に反対。1939年、連合艦隊司令長官に就任。
ミッドウエ―海戦総指揮官、ソロモン諸島上空で戦死。

          「軍艦マーチ」

                守るも攻めるも黒鐵の 浮かべる城ぞ頼みなる 浮かべるその城 日の本の 皇國の四方を守るべし 
                                眞鐵のその艦 日の本に 仇なす國を攻めよかし、、、、。



沖縄を目指す大和は、豊後水道に達しようとしていた。
午後6時、乗組員は甲板に集められた。そして、初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。

乗組員1「みんなの顔色が変わりました。真っ青でしたよ。それが、まもなく真っ赤に変わった。
よしやるんだ。帰らないんだと、体に伝わったと思いますよ」

乗組員2「特攻で死んでいくことを、名誉の戦死と言いましたよね。それを美学だとさえ、当時は思っていたんです。でないと、17歳で特攻にはいけないと思いますよ」。

4月7日早朝、大和を察知したアメリカ軍は、空母部隊に迎撃命令、その兵力は、新鋭空母12隻、艦載機およそ800機が。



姉妹艦「武蔵」の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの国民・乗組員に衝撃を与え、、いずれ「大和」も同じ運命を辿るのではと覚悟する者も宇垣は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。
武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」
レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、
「大和」と「信濃」が合同することはなかった。
「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続け、1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかったと云う。

同年3月、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

同型艦「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、「大和」は2時間近くの戦闘で沈没した。
「武蔵」に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。
有賀幸作艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。
新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀が巨艦「大和」の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。
1945年(昭和20年)以降の「大和」は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった、、、、、。残念な最期である。

    

当時の小学一年生でも、我が国には、「戦艦大和」があるから勝てると信じた。
「昭和20年4月7日14時22分」 大和は横転、大爆発を起こした。
沈没によって命を落とした乗組員は、3000人以上に上る。 大和の沈没、これは、かって無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴するものでもあった。
昭和20年8月15日、日本は、敗戦の日を迎えることになる。

  

「呉市」の、主たる島は、江田島、西能美島、東能美島。
3島は地続きである。次いで大きい島は東能美島の西、西能美島の南にある大黒神島で、このほかにもいくつか小さな島が、江田島と西能美島の間の湾を江田島湾、西能美島と東能美島の間の湾を大原湾という。

東能美島の東にある呉市の倉橋島とは早瀬大橋で繋がっており、倉橋島と本州本土間も音戸大橋で繋がっているため、本州とは実質的に地続き。
戦前より日本海軍・海軍兵学校の拠点、
現在も海上自衛隊幹部候補生学校や第1術科学校、江田島基地などを抱え、自衛隊などの火薬などを製造する中国化薬江田島工場がある。

    

「呉・海上自衛隊」
昭和20年8月15日の終戦を経て、同年11月30日の海軍省廃止に伴い、呉鎮守府は閉庁されることとなり、その一方で大戦末期、米軍は瀬戸内海を含む通航量の多い海峡や湾港に多数の機雷を投下し、それらの除去と通航の安全確保は戦後復興の絶対条件でもあったことから、敗戦にもかかわらず
掃海部隊等による掃海作業は連綿と続けられる。
「掃海部隊等による掃海作業」
昭和27年4月、海上自衛隊の前身となる海上警備隊が創設され、同年8月の保安庁設置、海上警備隊から警備隊への改称を経て、
昭和29年7月、防衛庁設置及び海上自衛隊創設と同時に、海上自衛隊呉地方隊が新編され、その司令部として呉地方総監部が呉鎮守府跡である
        現在の場所に置かれ、今に至っております。



次回は、市内入船山記念館へ。

宮島 厳島合戦跡 要害山

2014-06-22 | 気まま旅

「以八寺 光明院」
浄土宗の寺。京都の知恩院の末寺で、1583年、年頃、「以八上人」の開基。
宮島の産業として杓文字の製作技術を島民に広め、水飢餓に苦しんでいた島民のために各所に井戸を掘り、道路を改修するなど、島民に物心ともに大きな影響を与えた「誓真」、この寺で修行し、後に南隣にあった神泉寺(現在は廃寺)の番僧になる。
「誓真」の功績を称えた誓真大徳頌徳碑は、この寺にある。
                       
    
                        
「山辺の古径」
緑豊かで静かな山沿いの道、宮島張り子の工房や寿山亭の土壁に安置された女人像、乳地蔵のある女人坂。
南側に下りる小路は「鬼隠」。坂の下には、角を曲がった一帯は魚之棚町で、昔は魚の荷の揚げ下ろしが行われた浜辺で魚市場も立っていと云う。
山沿いの道のため勾配がきついところもある、坂の上の高台からみる眼下の景色は、素晴らしい。
古い石垣や桜の老木、猿瓦と呼ばれる瓦や小さなお堂などがある。浄土宗の古刹・光明院もこの一角に。

    

                       宮島町・宮尾城跡「要害山」

宮尾城跡・要害山は、1555年、毛利元就は陶晴賢を討つ為に、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点とした。
「陶軍」の広島湾進出を阻止しようと軍備を整え、城は、数個の郭に分かれた山城、海上に突き出し、毛利水軍と連絡できる水軍城の特色を持つ。
1555年9月、陶 晴賢は、2万余の大軍率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、
毛利300余の城兵はよく守り持ちこたえ、元就は主力の軍を率い、包ヶ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させた。 「毛利元就ゆかりの地・厳島合戦跡」である。

宮尾城跡


「武田元繁と毛利軍の有田合戦」1517年
武田元繁 は、毛利方の 小田信忠 が城主の有田城を落とし、その後、毛利本家の都山城(高田市吉田町)を攻める策に出る。
局地的な戦いにおいては一進一退であったが、武田の大軍に攻められた有田城は命運尽きたかにみえたが、援軍の元就の奇襲を受け 有田中井田 で
元直 が戦死。 これを知った武田元繁 は、「 元就 を討ち取って 元直 の弔いに」と総攻撃をかけた。 
さすがに毛利方も敗走をし、武田方の勝利は間違いない戦況となった。
ところが、武田元繁は、血気にはやり、自ら敗走する毛利兵を深追いし 「又打川」 を飛び越えようとしたその時、近くに潜んだ毛利方兵士の弓矢を胸に受け落馬し憤死。この戦で宗端 も戦死。

総大将を失った武田軍は戦意をなくすもの、決死の弔い合戦を挑もうとするものでまとまらず結局敗走、安芸武田氏はこの戦いの敗北を機に、1221年、
武田信光 が初めて安芸の守護に任ぜられてから約300年にして、大きく衰退の道を歩むきっかけとなってしまう。



毛利氏の飛躍のきっかけとなった合戦が1540年の「郡山合戦」。
山陰に勢力をもつ月山富田城(島根県)の尼子氏が大軍勢を率いて郡山城の北4kmの「風越山」に本陣を置き、合戦が始まった。

毛利元就は、「宮崎・長尾で戦い」、大内軍が尼子の本陣を攻め、尼子久幸は討死、当主の尼子詮久は、富田城に敗走した。
1553年には、三次の旗返山城など備後地方の諸城を攻め、1555年10月、厳島合戦で陶氏、続いて山口で大内義長を滅ぼす。
1562年、ついに尼子義久らは降伏、元就は西日本最大の戦国大名となる。

中国地方平定の5年後、1571年6月、毛利元就は郡山城において病のため75年の波乱の生涯を終える。
信長37歳、秀吉35歳、家康29歳。
毛利家は孫の輝元が継ぎ、1591年、広島に築城、本拠を広島に移したのである。



「戦の勝ち負けを決めるのは数ではない」「黒田官兵衛」は、英賀合戦で自信を。

毛利軍5000で襲来する。浦宗勝は姫路城から約7キロ程度離れた英賀村に海から上陸します。5000の毛利軍が攻めてきたと聞いた小寺政職は、完全に逃げ腰、が、官兵衛は自らの手勢をかき集め、1000の軍勢で出陣する。
毛利軍は、長時間船に揺られていたので疲れが溜まっていると読んだ官兵衛は、上陸直後の毛利軍に奇襲攻撃を仕掛け、上陸直後で陣形も整っていないことに加え、大軍相手に戦を仕掛けてくるとは思ってもいない毛利軍は一気に攻め込まれる。



晴賢自身が軍を率いて厳島に上陸したのは、1555年9月のこと、岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられ、
陶軍は、厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡に本陣を置き宮尾城を包囲し攻撃を開始。
この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いている。
これは陰徳太平記によると易でいう悪日を避けたためとされているが、桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われる。
この攻撃の遅延が陶軍の敗因の一つという指摘もある。

宮尾城跡(要害山)
一方の毛利軍も、主力が厳島の対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していたが、兵数は4千から5千程度であったとされている。
この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に実際に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功したが、海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、厳島の接近と、晴賢が厳島から脱出するのを阻止するために傘下の毛利水軍ばかりでなく伊予の村上武吉・村上通康ら伊予水軍にも援軍を求めた。
この水軍はなかなか現れず元就も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し毛利軍に加わった。

    

「尼子経久」1458-1541 出雲の守護代から大大名に、月山富田城主、中国地方11ヵ国制圧、朝鮮貿易を行う、天性無欲と云われた。
「大内義興」1477-1528 10代将軍足利義植復職させた管領代、新興勢力「尼子氏」と交戦する、周防国、山口帰国し京都から人々が流入した。
「陶 晴賢」 1521-55 大内義隆の重臣、尼子氏と戦う、主君自害させ実権を、厳島で、毛利に敗れ自刃した。
「大内義隆」 1507-51 出雲の尼子氏と攻防、大陸貿易を行い、キリスト教布教許す文化人、陶晴賢に追い詰められ「大寧寺」で切腹。

    

「伊屋山 在光寺」は、 曹洞宗の寺。本尊ー 阿弥陀如来。広島・四国新88ヶ所ー72番霊場
要害山の麓にある寺。開基は不明、約300年前に出雲の「一畑薬師」から十二支人を持ち帰って開いたと伝えられる。
薬師堂があり、目の不自由な人に対してご利益があると信仰。

    

帰りは、街中を走る「広電」路面電車で「広島駅」まで、約1時間強。

  

次回は、呉へ。