syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

大晦日の散歩 高井戸~宮前

2014-12-31 | syu散歩
今年も今日で終わります。いつもご訪問ありがとうございます。来年もぜひぜひよろしく!!
暖かい日差しの中今日の散歩Dコースです。(月に2~3回)

新年の立派な門松が飾られています。




三鷹井の頭公園・井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流。
流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず
全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。

神田川




新興住宅街で空き地も多い





京王井の頭線
  

  

高井戸清掃局の煙突


京王井の頭線


富士見が丘駅


富士見が丘商店街


宮前公園


今年オープンした体育館




「与謝野晶子」 1878-1942
明星の同人1901年「与謝野鉄幹」と結婚、「みだれ髪」「源氏物語」全訳。パリ帰国後女子教育と女性地位向上に積極的に発言。





都心にしては静かな散歩道。

少林寺 達磨寺とブルーノ・タウト

2014-12-31 | 気まま旅

「妙義山」は、群馬県南西部、下仁田町で、今回は廻らないが、上毛三山の一つ。白雲山(高さ1104m)金鶏山(856m)御岳(963m裏妙義)に分け、
第三紀火山で古いため火山と言わない。「妙義荒船佐久高原国定公園」に属している。

妙義神社は、よく参拝する神社の一つ、白雲山東麓に鎮座で渡己曾神を祀る古い神社。
後白雲・金洞・金鶏の妙義三山を合祀している。祭神ー日本武尊。

群馬県と云えば、昭和13年中島知久平(近衛内閣鉄道大臣)・福田赳夫・福田康夫・中曽根康弘・小渕恵三と4人の総理大臣が出ている。
大正「内藤鳴雪」76才の時、高浜虚子と共に高崎来遊。大正11年建立碑が「達磨寺境内に」

                      秋の空 出てみれば 何もなし
今日は、達磨寺からスタート
冬の風物詩・小林寺七草大祭「だるま市」。数十万人の参拝者に賑わう


「鳳台院達磨寺・山号ー少林山」
黄檗宗 。本尊ー十一面観音 • 北辰鎮宅霊付尊神 。創建年ー正徳2年? 。「高崎のだるま市」で有名な寺。
建築家ブルーノ・タウトが2年ほど過ごし、助監督時代の黒澤明が脚本化、「達磨寺のドイツ人」の舞台でもある。

明治14年6月14日の火災によって寺院と共に古文書の大半が焼失してしまい、創建などの詳細については不詳。
(田島武夫 1973)によれば、(戦時に供出されてしまった)煩鐘の鐘銘に「正徳2年壬竜猛夏仏生日洞山卅六世少林二世天湫出撰」と記載があったと指摘し、正徳2年には成立していたと考えてよいと云う。

「上野国史」では享保7年に前橋城・酒井雅楽頭忠知の懇請をいれて開山水府公護持の霊符を謹請し鎮護国家・武運長久の祈願所としたとある。
また一説には古くからこの地に観音堂があり、1673年~1681年、この地を訪れた一了が達磨禅師の像を彫って安置したと言う。諸説様々である。

縁起だるまで知られている少林山達磨寺は、前橋藩を守護する寺院であった。


「ドイツ建築家ブルーノ・タウト」
1880年生まれのタウトは、ケーニヒスベルクの建築学校を卒業後、ベルリンのブルーノ・メーリンク、シュトゥットガルトのテオドール・フィッシャーの設計事務所勤務を経て、1909年、ベルリンで建築設計事務所開業。
1910年、ドイツ工作連盟に参加。ライプツィヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる。
1919年に、アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想「アルプス建築や宇宙建築師」(Der Weltbaumeister)を描いた。
1924年から携わったブリッツのジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受け、第1次世界大戦で敗戦国として製品を作ることで賠償金を支払っていたドイツでは、労働者が劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであったと云う。
住宅供給公社ゲハークに就職したタウトは、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924年から1931年の8年間で12000軒の住宅建築に関わった。
1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の教授に就任。

本堂には、北斗七星を神格化した「北辰鎮宅霊符尊」を祀り、開運達磨大師の像を安置している
    

親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道でウラジオストックに、海路で日本の敦賀に上陸した。
祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年、日本を訪れ、そのまま亡命した。

来日の翌日、桂離宮へ案内され、桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。
当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。
その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎の達磨寺境内の洗心亭で過ごした。
群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。
1935年に東京・銀座に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。
また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催。
日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の商人・日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。

上州のからっ風が張り子の達磨乾燥に適し、農閑期の副業として発展
  

1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住。
首都であるアンカラのアンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍した(そのほとんどは現存している)。
1938年に長年患っていた気管支喘息のため死去。
最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇。タウトの遺体はエディルネ門墓地に.

1月6・7日、七草大祭「だるま市」は、9代東嶽和尚発案と聞く。
  

著書ー篠田英雄訳 「日本の家屋と生活」。「タウト 日本の家屋と生活」。1995年ほか篠田英雄訳「ニッポン ヨーロッパ人の眼で観た」 ・「タウト著作集」(全5巻)。
他は、「建築・藝術・社会」、「日本の藝術 ヨーロッパ人の眼で観た」、「日本の建築」。篠田英雄訳 「画帖 桂離宮」
篠田英雄訳「日本 タウトの日記 1933年-1936年」、森儁郎〔トシオ〕訳 「日本文化私観 ヨーロッパ人の眼で見た」
「ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た」、斉藤理訳「新しい住居 つくり手としての女性」、斉藤理訳 「一住宅」 杉本俊多訳「都市の冠」等多い。

                   達磨の置物 
    

桂離宮と日光東照宮を対比させ、日本の伝統美を見出し、「ニッポン」・「日本美の再発見」などを著した。
数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えたと云う。
日向別邸は熱海市に寄贈・「旧日向家熱海別邸地下室」が重要文化財に指定。
(日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された)
高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている。

                  タウト・思惟の径(境内)


ブルーノ・タウトが2年間生活した家「洗心亭」
    

「上野國一社八幡宮」
高崎市八幡町にある神社。
旧社格は郷社。元々は碓氷八幡宮と呼ばれていたと言われ、「八幡八幡宮」と通称されるほか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれている。

                      八幡宮


上野國一社八幡宮
957年に源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建。
源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。
主祭神は品陀和気命、併せて息長足姫命、玉依姫命が祭祀。
                              楼門
    

境内敷地は約9,000坪。
現在の社殿(隋身門、拝殿、本殿)は,
1750ー1757年の再建とされる。
本殿は、天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮。

重要文化財ー3面の算額が県の重要文化財に指定されており、その中には、1810年と、県内で最古。
平成の世に入っても算額の奉納を受け付けていると云う。

舞殿                                   拝殿
  

「観音塚古墳」
八幡宮と隣接、7世紀の「前方後円墳」で1945年(昭和20年)発見された。
墳丘長さ105m・前方部高さ14m・後円部の径70m・高さ12mは、県最大の横穴式石室(長さ15.3m)
出土品ーこの後の考古資料館にて。

「観音山古墳」は、倉賀駅東より綿貫町で同じ7世紀の古墳、長さ98m・高さ10m・の墳丘で周囲二重の濠を持っている。石室12.4mで玄室8.17mは
県内最大と云う。出土遺跡は県立博物館に展示されている。

間違いやすいので観音山古墳も説明しました。ここは、「観音塚古墳」。


「観音塚古墳」
主軸はほぼ東西にとり、前方部が西側、後円部が東側に位置。6世紀末頃の築造とさている。県区域では、最後の前方後円墳と考えられている。
石室の構造で自然石最大重量55tで「群馬の石舞台」と称されている。

                        観音塚古墳
  

巨大な石室は、1945年、昭和20年の終戦まじかで防空壕を掘って見つかったと云う。
数多い副葬品は300点余にのぼり古墳時代当時の文化・技術・生活等最高水準を示したと云う。

                       石室
    

1988年高崎市観音塚考古資料館開館ー月曜・祝日休館
古墳石室内も見学できる。古墳出土品展示は入れ替わるので確認して下さい。体験コーナーで古代ガラス・粘土・織物が。

考古資料館
    

考古資料館は、JR群馬八幡駅下車で、国道18号安中バイバス・国道406線・県道前橋、安中線・環状線の中央にある。
その正方形に、八幡二子古墳・八幡宮・剣崎長瀞西遺跡・「観音塚古墳」・平塚古墳が密集している。
平塚古墳ー全長105m以上、5世紀築造。           八幡二子塚古墳ー全長66m、6世紀前半。

出土ー銅椀[6世紀頃中国・朝鮮から伝来した仏教文化、、、。大刀ー原形をとどめて現存銀装(中には、鶏のトサカのような装飾柄頭・唐草金具も)
馬具ー銀・銅・金銅・鉄・木・鹿角・皮等轡のセットも・花形・葉形など。
銅鏡・装身具ー神獣鏡・五鈴鏡・耳環14点。          須恵器ー5世紀のはじめ頃から製造(硬い黒味おびた肌の器)

鏡は弥生時代伝わり、神仏に奉納している、人々が鏡に何を託してか。
    

次回は、箕輪城・榛名神社へ。

お江戸見みたけりゃ 高崎田町

2014-12-29 | 気まま旅

1604年慶長9年「酒井忠次」下総白井から高崎に入封。1680年徳川網吉(館林城主から将軍に)。
1738年京都西陣から桐生に高機技法が入る。
1783年浅間山噴火。1871~81年群馬県成立・高崎に県庁開設~前橋に決定する。
1884年上野ー高崎間鉄道開通ー1956年電化、1889年小山ー高崎間に両毛鉄道開通、1910年東武鉄道浅草ー伊勢崎全面開通、
1931年上越線全線開通。1955年昭和30年三國トンネルが開通した。
1972年東北・1980年関越自動車道開通。1982年昭和50年上越新幹線開通。

1590年「箕輪城」に入城した「井伊直政」が中山道整備して、戦国時代の「和田城」跡組み込みー「高崎城」築城。城門など主要建物は、
箕輪城から移籍している。
安東氏藩主時代は、「お江戸見たけりゃ高崎田町」の賑わいを見せている。

高崎公園は市庁舎の南側で旧高崎城隣接地を造成し、広くはないが平坦で多くの樹木に覆われていて憩いの場所として


「井伊直政」 1561-1602 井伊の赤備え・徳川四天王の一人。箕輪城主。井伊直親の子、武田旧臣を付されて軍団(井伊の赤備え)を組織した。
小牧・長久手の戦いで先鋒、池田恒興撃破で、上野国12万石・関ケ原の戦い軍功近江国佐和山18万石。

「酒井忠次」 1527-96  徳川家の宿老、徳川四天王の一人。家康駿河行に随行、吉田城東三河の旗頭と成り国を平定尽力、内政・外交に活躍
姉川・三方ヶ原のたたかいで軍功。家康嫡子「信康」が、武田旗内通の疑いを織田信長にかけられと時、弁明の使者に立っている。
信康の暴虐を吐露している、その為家康は信康処刑。

高崎城は、慶長3年(1598)、徳川家康の命を受けた箕輪城址・井伊直政によって築城


「高崎城跡」は、駅西約500m、室町時代に「和田義信」が築いた「和田城」が前身で、1598年井伊直政が烏川東岸河岸段丘上に築城している。
天守閣は明治維新まで残存したと云う。
1872年・明治5年陸軍の管轄となる。終戦まで軍用地であった。

城は、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭。三の丸 外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残っている。
    

室町時代、関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属した。
1561年、城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄についた。
和田城は、上杉勢の度々の侵攻によく耐え、その子、「和田信業」は、北条氏に属した。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城した。
和田城の留守を預かる信繁の子・「和田兼業」は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月に落城、廃城となった。

東門・乾櫓は、復原
    

家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた「井伊直政」は、1597年、家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為と云う。
1598年、直政は箕輪城から築城中の高崎城に移っている。
直政は、入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開山龍山詠譚和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」との進言により)と名付けたとされている。箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。

春には約300本の ソメイヨシノやツツジが満開となる。城を囲む土塁の上は遊歩道になっている。
    

1600年、の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封。
その後、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎える。
最後の藩主は松平輝声である。
1619年に入城した安藤重信は城の改修に着手し、以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備されたと云う。
1633年には、実兄である3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が当城で自裁した。

高崎城乾( いぬいやぐら)は移築整備され群馬県指定の重要文化財に、高崎城東門は高崎市指定 .
  

「大河内 輝声」1848 - 明治15年・ 1882年は、幕末の上野国高崎藩の最後の藩主。高崎藩 大河内松平家11代。はじめ松平姓を称した。

「徳川忠長」  1631年、不行跡(家臣1名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられる。
その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、1632年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。
秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。(その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易処分)
新暦1634年、幕命により高崎の大信寺において自刃。享年28。1675年、大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡。「硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている」と云う。

江戸幕末の時代に思いをはせながら散策、 高崎城本丸にあった三階建ての御三階櫓(天守)4基の隅櫓、樹林歩道が。
    

「高崎観音山」
白衣大観音・慈眼院     標高190m、高崎西部の丘陵に建立された高さ41.8mの白衣大観音像


観音山は、桜の名所3千本が咲きほこる。参道が長くヒツバタキという「蒟蒻」のおでんで知られている。

「井上保三郎」氏建立
高崎を代表するシンボルの一つ白衣観音を、昭和11年に巨額な私費を投じて建立した のが「井上保三郎」氏。
保三郎は1868年に町民の子として「あら町」に生まれ、生涯を 高崎で送った。
市制が施行され、初代市長に矢島八郎が就任し、保三郎も初代市議会議員に選ばれ、1917年まで前後一6年間、市議を務め, 1906年には、矢島市長が総合計画に当たる市是を発表、今日的に見ても模範的な施政方針に、保三郎は、 1910年の剣崎浄水場、南尋常小学校、高崎公園の完成、1917年の高崎公会堂の建設。昭和に入って駅前凱旋道路のアスファルト舗装や橋梁の永久橋化をもって市是に応え、
保三郎の事業の成功は、金もうけ主義などではなく、進んで市是を具現化したと云う。

高さ41.8m(9階相当)・重さ6000t、胎内は、仏様が安置され肩まで登れる。
    

「慈眼院」
高野山金剛峯寺の塔頭寺院のひとつで、学侶方の寺院として隆盛を誇る。
明治の廃仏毀釈で高野山でも寺院の統合廃寺がすすむなか、衰退しつつも慈眼院は昭和初期まで存在しており、高崎白衣大観音建立後、昭和16(1941)年に高野山より別格本山として高崎への移転が決まりる。

創建は、鎌倉中期、執権北条義時の三男、相州極楽寺入道重時と伝えられ、寺記によると、元禄時火災により炎上、過去帳や古文書の類はことごとく焼失したといわれている。
続紀伊風土記には、本尊の聖観世音菩薩は鎌倉坂下村の安左衛門という文人が由比ヶ浜で漁をしたときに網にかかった尊像とある。

33体の石仏観音安置
    

「清水寺」

518段の石段、808年坂上田麻呂が、京都の清水観音の名はこの観音様から起きたと云う。堂まで300mの登り

清水寺
    

清水寺は、高崎観音山の東腹にある曹洞宗の寺院。
古くから養蚕の仏様として近郷の信仰を集め、 808年、坂上田村麿が東国平定の際に戦死した将兵の冥福を祈り、京都の清水寺から勧請して建てたと伝えられ、本尊ー千手観音。近隣丘陵地の名称「観音山」の基となる。
正面右に田村麿の像を安置する田村堂が、田村堂内には、1864年、下仁田において水戸天狗党と戦って戦死した高崎藩士36人の木像を安置。

石段の参道両側には、多くのアジサイが植えられており開花期には参詣者で賑う。
観音堂(本堂)前には楼門風の舞台があり、高崎市街が見晴らせる。

清水寺


「坂上田村麻呂」 758-811  奥州平定した征夷大将軍、父苅田麻呂、朝廷武官。蝦夷平定で武功をあげた。蝦夷に農耕養蚕を進めている。
京都の「清水寺」創建。
身の丈約1.75m・胸の厚さ一尺二寸黄金色の顎鬚、勇力抜群両眼鷹の眼、睨めば猛獣も倒れ伏し、にっこり笑えば赤ん坊もなついたと云う。
東北地方に神社・寺院が多い。

清水寺
  

「洞窟観音・山徳記念館」
観音山中腹を堀抜き400mの随道と大ドームを浅間山の溶岩で建設し、その中に観音霊場を実現した。
「高橋楽山」の枯山水を配し西国三番・坂東33変化観音を安置されている。
神秘的な法悦の世界。入場料有料

洞窟観音
    

多額の私財を投じ、洞窟観音を作ったのは事業家・「山田徳蔵」氏。(新潟県柏崎出身)
大正8年に着工し、88才で生涯をとじるまで50年間工事を続けた。
自然鍾乳洞があったわけではなく、なにもない山肌をツルハシ・スコップといった人力のみで掘ったんだとか。
強固な地盤でツルハシは壊れてすぐだめになり、毎朝、ツルハシを研いでから作業にはいったと云う。

洞窟観音
  

洞窟の隣には徳明園と呼ばれる庭園がある。 庭園の中にある建物には漫画家北沢楽天、渡辺崋山、円空らの作品が展示。
  

洞窟観音
      

「染料植物園」
染料植物を約8.5haの広さの中に植えて、染料植物公園。
園内には、160種類、1万7千本の染料植物が植えられている。
また園内の入り口に比較的近いところに、温室がある。温室の中ににはさまざまな熱帯植物を見ることができる。
工芸館では草木染めの実演、入館料100円。

日本初の染料植物園
  
  
温室では、亜熱帯地方に自生する染料植物が


工芸館では、藍染・草木染の体験も
    

「染色方法」
植物の葉、茎、根、実などを煮だした液に繊維を浸し、20分程度加熱し、染まった色素を金属イオンと結合させて発色させ、金属イオンとの結合を媒染といい、アルミニウム、銅、鉄分などを溶かした液に繊維を20分程度浸す。
植物抽出液と媒染を繰り返すことで色素の繊維染着を良くし、染色濃度を上げる。

染料植物園
    

草木染めは合成染色に比べて、品質が一定しない。
天然染料は色素の含有量が一定せず、また単一の色素のみを持つことも少ないので、同じ色を出すのはほぼ不可能と言われる。
濃く染めにくい。
天然染料は色素を持っていても、合成染料のように多量に含んでいるわけではないので、濃い色に染めるのは手間が非常にかかる。
染色の時期が決まってくる。
染料自体の採取時期による色の違いや、季節による染色の向き不向きがあるので、染色を行う季節は自然と固定されるものが多い。
被染色物(染められたもの)の色が光や汗、果汁などに対して弱いものもある。
工業的に量産という点では欠点があると捉えられるが、身近な材料で家庭でも手軽に染められることや、趣味や手工芸の分野では同じものができないことを魅力だと捉える人もおり、草木染めならではの面白さだ.

染料植物園
  
魅力だと捉える人もおり、草木染めならではの面白さだとされる。

「主な天然染料」
アカネ・ベニバナ・ムラサキ・アイ・(タデアイ)・カリヤス・キハダ・ウコン・ゴバイシ・クサギ・イラクサ・ヨモギ・カキシブ・天然染料ー動物性の染料として、貝紫、セピア、コチニール、ラックダイなどがある。

染料植物園
    

次回は、達磨の少林寺方面へ。

前橋 上野国分寺跡

2014-12-27 | 気まま旅
上毛三山ー赤城・榛名・妙義やま。その赤城山は、頭部が切れた円錐型の成層火山で、約50万年前生じたと云われている。
山頂部はカルデラが生じ大沼はその中の火口原湖で、湖畔に赤城神社が祀られている。外輪山の一部の「黒檜山」が高さ1828m。火口丘の地蔵岳
寄生火山の鍋割山・小沼等がある。ブナ・ナラの林地が広がる。裾野は長く南から北西に広がる。
農地・養蚕・桑園が多いが最近は減少。

「妙見寺」 高崎市にある天台宗の寺院。山号は三鈷山。院号は吉祥院。本尊は釈迦如来。
714年か翌年の715年、「上野国大掾藤原忠明」の開基により創建されたと伝えられる。
797年に成立した「続日本紀」にも「妙見寺」に関する記載があることから、古くからある寺院と考えられている。
古くは「七星山息災寺」と号し、妙見菩薩を祀る寺として信仰、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられている。

「妙見寺」-上野国分寺跡の近い、引間町に鎮座(市指定文化財)
    

境内の由緒石碑によると、妙見寺の正式名は「天台宗三鈷山吉祥院妙見寺」.西の法淨院、南の貴法院と妙見寺は、妙見社の別当寺であったとある。
妙見寺の由緒書によると、花園星神記に、和銅七年秋、上野大掾忠明という人が妙見寺に来て一宿、夜半目覚めて庭に出ると乾(北西)の方に光明が立ちのぼった。
不思議に思って侍臣を遣して調べると冷水村の小祝池からと判った。そこで水底をさぐらせると、目が赤く首の白い不思議な亀を得た。
忠明は早速、時の帝に献じたところ大変喜ばれ、和銅七年九月二日、年号を霊亀と改めたという。  

「妙見寺」境内
    

「上野国分寺(古代上野国中心地)」
高崎市・前橋市境、ここが国を支配する役所である国府の北西の地が選ばれ、西に僧寺・東に尼寺が並び立っている。
北西榛名山・北東赤城山・西浅間山が見渡せる場所。
周辺に大規模古墳群
保渡田古墳群・総社古墳群・三ツ寺Ⅰ遺跡北谷遺跡・山王廃寺跡・総社神社・城館跡などなど分布している。

ガイダンス施設「上野国分寺館」で発掘調査成果の紹介もある。
  

741年聖武天皇は、国ごとに僧寺と尼寺を建立し、全国に68の国々「金光明四天王護国之寺・金光明寺・尼寺法華滅罪之寺・法華寺」が創建された。
「国分二寺」と呼ぶ。
国分二寺に七重塔を有する大規模な伽藍を持つ僧寺を「国分寺」と呼んでいる。

上野国分寺


総国分寺は、都(平城京)の東大寺と共に、仏教の力によって災害・疫病・外敵を防ぐ「五穀豊穣」を祈ることで国家安泰・鎮護国家の思想にもとずく
一大寺城であったと云う。
塔におさめた護国経典「金光明最勝王経」・金堂には、本尊「釈迦如来」・脇侍に普賢菩薩・文殊菩薩、それに四天王など安置された。

上野国分寺ー復元された金堂等の基壇(基礎石)
  

「続日本紀」碓氷郡と勢多群の豪族たちが、上野国分二寺造営に協力に対し報償されてとある。

538年百済国から仏教が伝わるー694年金光明経諸国におくー701年大宝律令が定められるー741年聖武天皇国分寺尼寺建立の詔が発す
817年最澄東国伝道・上野国藤岡市滞在ー939年平将門上野国府占領国司追放ー1108年浅間山大噴火ー1180年足利俊綱上野府中攻め
1783年浅間山大噴火ー1786年紀行文で国分寺の様子が書かれる。・・・・・・・。

上野国分寺ー伽藍ー橋・南大門・中門・講堂・東大門・北大門・西大門・金堂回廊・七重塔・南辺築垣。
  

1030年「上野国交替実録帳」によれば、築垣・南大門・僧坊などは無く、数多い仏像も壊れていたが金堂が残存している。
南北朝時代には、金堂の一部は墓所として利用。

上野国分寺ー調査で確認部分と推定部分、確認部分ー築垣・中門跡・七重塔跡・金堂・東門。
    

18世紀の国学者の紀行文に、その当時の国分寺遺跡となった姿を描写している。
伽藍の構造、金堂の釈迦三尊像はじめ多くの仏像が安置されていた様子が判ると云う。七重塔は、記載されておらず、そのまま残存していた可能性が
推定できると云う。

古墳
  

「県内の遺跡・古墳群」で、新たな発見が次々と
「甲を着た古墳人」が発見ー金井東裏遺跡、
6世紀に起こった榛名山二ツ岳の2回の大きな噴火、火山灰や軽石が厚く積もった場所は多い所で火砕流が50センチメートル、
噴火で、軽石が2メートル積もったことが、地層から分かったと云う。
これは、厚く積もった火山灰や軽石により、当時の生活の様子が保存されたため、良い状態で残っているという。

甲を着た古墳人が発見された周辺からは、同時期の人の足跡や馬のひづめ跡なども数多く見つかり、甲を着た古墳人などの人骨や人の足跡、馬のひづめ跡などから、火山灰が降った後、火砕流が発生するまでの間、人々がここで生活。
土器を集積した祭祀跡と思われるものも、この周辺に集落があったことが想定されたと云う。
甲を着た古墳人と同時期の住居などはあまり発見されていない、今後の調査待ち。

「総社二子山古墳」群馬総社近く、前方後円墳で総社古墳群の一つ、長さ90m-横穴式石室、国分寺南方約2km。
  

「宝塔山古墳」総社古墳群の一つ、一辺約60m、2古墳には、石材加工技術が見られる。
  

国分寺尼寺に近い「山王跡寺・古墳」徒ね川・17号線に沿って蛇穴山・宝塔山・二子山古墳が並ぶ。
  

次回は、高崎城址から。

前橋 飛び巨岩から敷島公園

2014-12-25 | 気まま旅
新潟南魚沼から、群馬渋川へ。
旧石器時代の岩宿遺跡で、赤城山噴火・縄文、月夜野大原遺跡・弥生、子持村押手遺跡(前期)・前橋天神山古墳・741年に国分寺・939年
平将門上野国を襲う・1108年浅間山が大噴火・1333年「新田義貞」挙兵・1335年「上杉憲房」以降上杉氏・足利基氏が上杉憲顕を
関東管領に任じ、守護代に「長尾景忠」としている。
1552年関東管領「上杉憲政」、「北条氏康」小田原に平井城追われ上杉謙信を頼る。
1582年織田信長、滝川一益を関東管領に任している。1949年昭和24年国立群馬大学開学、「相沢忠洋」岩宿のローム層で旧石器発見。

日本全体から見ると、北海道・九州から群馬県は直線で約1000km、日本列島の中央部に位置、気候も太平洋型と日本海型気候の境界である。
その為、「雷とからっ風」で知られ、雷を祀る神社が多い。

練馬ICから本庄児玉ICまで国道254号、本庄児玉ICから長岡JCTは国道17号がほぼ並行,三国山脈を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道.
上越新幹線とともに首都圏と日本海側を結ぶ高速交通網として重要な機能を持ち、藤岡JCTから上信越自動車道(関越自動車道上越線)が分岐。
首都圏と長野県北信地方・東信地方を結ぶ高速交通網の一部。


「前橋市」は、利根川の沖積平野を中心に、北赤城山麓広がり、東山道の駅家(碓氷峠、上野国府ー下野国府を結ぶ)所在地。
利根川に架かる橋名「厩橋」-「前橋」に、上野国府指定地があり、戦国時代は、厩橋城が築かれ、後酒井氏の厩橋藩が成立している。その時厩橋から
前橋城と名を変えている。幕末には21万国の城下町であった。
糸の町として発展、横浜港海港が1859年、以降最大の出荷地であった。世界恐慌まで糸の町として栄えた。

「吉岡町」は、関越自動道渋川・伊香保ICで、県のほぼ中央に位置し、榛名山の南東の山麓と利根川地域に町域がある。
西半分は榛名山の裾野の一部で、標高200~900mの傾斜地。一方東半分は、標高100~200mの洪積層からなる台地となっている利根川沿いの町。

「村社・赤城神社」
御祭神、赤城大明神、大国主神、磐筒男神、磐筒女神、經津主神、豐城入彦命。相殿、徳川家康公、大山祇神等、

赤城山の赤城神社の分社・群馬県の赤城山を祭る赤城神社の支流で、旧社格は村社。
    

「大胡城」は、大胡氏の居城。(赤城山・赤城神社・16号線・大胡町)
大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、東毛地方で勢力を扶植していた豪族。
「吾妻鏡」の1190年、の記事には大胡太郎の名前が見える。
鎌倉時代の初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われるが、大胡氏の居館は、現在の大胡城ではなく、城の西300mほどの所にある養林寺
の辺りであったのではないかと推定。
現存の城趾には近世大名牧野氏の城主時代の縄張りや構造が認められている。

城は、前橋市河原浜町・中世の日本の城(平山城跡)、大胡氏・上泉氏の居城、後に近世初頭に徳川氏の臣・牧野氏が入り城主。
1532年 - 1555年に築城されたとされ、1616年廃城となった。

前橋市河原浜町にあった中世の日本の城(平山城跡)


南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は山上氏らと共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、
やがて尊氏は勢力を回復し直義を自害に追い込んだ。
その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、「享徳の乱」のさなかに古河公方足利成氏は配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。
1469年に川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡城主とみられる大胡修茂の名が見えていると云う。

大胡氏・上泉氏の居城。後に近世初頭に徳川氏の臣・牧野氏が入り城主に なった。


1582年、武田氏も織田信長に攻められて滅亡し、その後信長の家臣「滝川一益」が厩橋城(前橋城)に入りこの地方を支配したが、本能寺の変で信長が殺害されると織田氏の勢力も一掃されるというように、めまぐるしく事態は展開した。
滝川氏が去った後はこの地方は完全に北条氏の支配下に置かれることとなる。
関東地方で最大勢力を誇った北条氏も1590年、小田原征伐で没落し、変わって関八州の支配者となったのは徳川家康。
大胡城には徳川氏家臣の「牧野康成」が2万石で大胡城に入城した。
しかし、入城後約25年の1616年、牧野氏は越後長峰に5万石で転封され、大胡領は前橋城主酒井氏の管轄となり、それにより上部構造物が撤去されて大胡城は廃城となった。

天文年間、1532年 - 1555年に築城されたとされ、元和2年、1616年廃城と。


城の古絵図によると、
細長い小丘陵地の南北を堀切で仕切り、土塁・枡形門を備えた本丸・二ノ丸は大胡氏時代の城郭構造であると推定される。
このほかに三ノ曲輪・四ノ曲輪(以上南側)・西曲輪・玉蔵院(西側)・根小屋(東側)・越中屋敷(北側)が位置する。
城北部に近接の近戸神社があるがこれも城郭の一部とされ近戸曲輪という。

複郭構造には牧野氏が拡充した近世城郭の様相も見て取れる。現在見られる石垣構造などはこの牧野氏時代に構築されたのでは。


渋川・伊香保IC、国道17号線・吉岡町に近い、「箱田城」は、
白井長尾氏の居城である白井城の出城として戦国時代に箱田地衆によって築かれたという。
箱田地衆というのは土地の地侍のことで、半農半士のような存在である。箱田地衆は木曽義仲に仕えた郎党の末裔を称する今井氏、高梨氏、小野沢氏ら
で形成されていたとされる。
前橋城から白井城へと続く利根川沿いの道には箱田城の他にも等間隔で砦が並んでいるが、戦国時代の上州は、北条氏と武田氏に上杉氏らが絶えず領土を奪い合っていた激戦地である。
箱田城も戦国時代末期まで使用されていたと思うが、落城伝説等は伝わっていない。

箱田城は白井長尾氏の居城である白井城の出城。利根川沿いの道には箱田城の他にも等間隔で砦が。北条氏と武田氏に上杉氏らが領土を奪い合っていた。
  

「岩神稲荷神社」(前橋市)
祭 神ー倉稲魂命 木花咲耶姫命。
神社裏に巨岩があり、往昔この巨岩を拝祭して岩神。
酒井河内守重忠公が領主とな、稲荷大神を勧請祭祀としている。
古くより岩神村の地名の起こりとして学術研究上貴重存在で、巨岩は「天然記念物指定」

県庁から北へ進んだ群馬大学医学部付属病院の隣に鎮座している。
鳥居を潜るとすぐに拝殿、短い参道には幟が立てられて境内は狭い。社殿は比較的新しく、土台もコンクリートに。

大学交差点・朱い鳥居と岩神稲荷神社と書かれた赤い幟が 見える
    

「岩神の飛石」
10万年以上前の赤城山の爆発により噴出した溶岩であり、約2万年前の浅間火山の爆発 によって生じた火山泥流によってここまで運ばれたと考えられていた(案内板)。
これに対し、浅間山研究の第一人者・群馬大学の早川由起夫氏は、
浅間山の噴火に伴うものとする新説を出し、今からおよそ2万4000年前の浅間山の噴火で起きた山体崩壊による泥流が吾妻川に流入し、利根川を流れ下ってこの場所で止まったのだとするものである。

赤城山から噴出した火山岩といい国指定天然記念物。 
    

2万4000年前のこの時代、東日本の年平均気温は今より7~8度も低く、氷河の発達と後退がくり返されていたと云う。
海面は現在よりも約100mも低下し、日本列島の南北は陸橋により大陸とつながっていたと推定されている。

この岩塊に、何万年にもわたる太古の記憶が刻み込まれる。
地球上で最も古い岩石は、カナダ北西部で見つかった火成岩で40億3000万年前までさかのぼるという。

御神体は周囲60m、地表に出ている高さは約10m、さらに地下に数mは埋もれ ているという巨岩。


「国指定天然記念物  岩神の飛石」
周囲が約60m、高さは地表に露出した部分だけで9.65m、さらに地表下に数mは埋もれている。
昔、石工がノミをあてたところ、血が流れ出したという伝説があり、岩は赤褐色の火山岩で、地表には縞のような構造も見えると云う。
大きさのそろった角ばった火山起源の岩や石が多い部分もあります。この岩の火口から溶岩として流れ出したものではなく、火口から噴出した高温の火山岩や火山灰などが冷えて固まってできたものと考えられている。

岩を石材利用しようとノミを入れたら血が噴出して災いを起こしたという伝説が。


「国立群馬大学」
1949年に設置、大学の略称は群大ーぐんだい。

国立群馬大学教養部校入口


1873年に 群馬師範学校創設され、1915年 桐生高等染織学校として創設、1918年に、 群馬青年師範学校創設・1920年 桐生高等染織学校から桐生高等工業学校に改称され、1943年 前橋医学専門学校創設し、1944年 桐生高等工業学校から桐生工業専門学校へ改称をたどり、1949年に 新制群馬大学に。

群大校庭
    

「敷島公園」
90年以上の歴史、昭和4年「日本の公園の父」と呼ばれる「本多静六博士」(1866~1952)が敷島公園の改良設計。
博士は、日比谷公園をはじめ日本各地を代表する数百にもおよぶ公園の設計に携わっている。
公園を街づくりの中心施設として考え、
「公園を地域の情報発信基地にすれば人も集まりお金も動く、お金が動けば地域経済も豊かになり文化の向上につながる」という当時としては大変新しい考え方で公園を設計されたと云う。

敷島公園


「本多静六」1866ー1952年(満85歳没)
明治17年・1884年、東京山林学校(後に東京農林学校から東京帝国大学農科大学)に入学し、卒業時には首席。
卒業1年前の1889年、元彰義隊隊長、本多敏三郎の娘・詮子と結婚し婿養子。
東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学、ドイツでは、2つの学校に学び、最初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に1年半学問を極めた。ドクトルの学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授、教授に。
日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園や福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、東京都の明治神宮、長野県の臥竜公園、石川県の卯辰山公園、福岡県の大濠公園ほか、設計・改良に携わった公園多数。
東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っているほか、行幸通りも本多氏が担当、関東大震災からの復興に。

敷島公園
  

利根川東岸の市街地にある公園、旧河川敷の松林と池沼が中央に、運動公園が並んでいる。1912年旧国立蚕種試験場を移築した。

敷島公園
    

敷島公園
  

ばら園は、平成20年3月にオープン.
ばら園は、敷島公園の松林をぬけた西奥に600種のバラ7,000株が植栽され,平成20年の「全国都市緑化ぐんまフェアの総合会場」にもなっている。
園内には、郷土の詩人・萩原朔太郎の生家を移築した「萩原朔太郎記念館」や、「糸の町」前橋をしのぶ「蚕糸記念館」などがある。

敷島公園
    

「萩原 朔太郎」1886 - 1942年、日本の詩人。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」。
前橋中学卒業後、第5高等学校・第6高等学校・慶応義塾で、最終学歴、慶應義塾大学予科中退 活動期間は、1917年 - 1942年
詩・随筆・評論・小説・短歌 ・文学活動ー象徴主義・芸術詩派・アフォリズム・口語自由詩・神秘主義
代表作ー「月に吠える」(1917年)・「青猫」(1923年)・「純情小曲集」(1925年)・「氷島」(1926年)・「猫町」(1935年、小説)
受賞歴ー第8回文学界賞(1936年)・ 第4回透谷文学賞(1940年)
処女作ー「ひと夜えにし」(1902年、短歌)・「みちゆき」(1913年、詩)。
昭和16年「樋口一葉全集5巻」刊行し、翌年肺炎、自宅で死亡している。

敷島公園バラ園と萩原 朔太郎旧宅(無料)
  

次回も前橋市内。