syuの日記・気まま旅

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北条氏の城ー小田原城・山中城

2018-01-30 | 気まま旅
「北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に5代続く
氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦にて小弓公方を滅ぼした。
この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。
北条五代記や「北条氏康条書」などでは氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。
氏康期の1553年、甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立。
信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅。
1546年、河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。
後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。
局所的な戦闘に於いては敗退することもあったが、着実に支配を広めていく。
氏政が実権を掌握した1571年、甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、1578年、越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。
氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している。
後北条氏は、織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの恩賞は無く、織田家重臣の滝川一益の関東入りとなった。
これが北条家が織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。
しかし、中途半端な状況で本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。
滝川一益は、広大な領国の経営に頭を悩まされているところであった。
そこに、配下で信濃に在国していた森長可の逃亡や甲斐の河尻秀隆の戦死などに遭い、しかも相次いで発生する一揆の鎮圧や、従前の仮想敵国である上杉領に対する攻勢の準備などで忙殺されていた。
こうした滝川軍に対して北条氏は同盟の一方的な破棄を通告、氏直を総大将とする4万6000の軍勢が織田領へ雪崩込み、駆逐に成功した。
滝川軍を敗走させると、信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、これを巡って、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が三つ巴の戦いを繰り広げることになる。

織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる。














「小田原城の支城・山中城」 箱根芦ノ湖~静岡三島間

「難攻不落の山城ー山中城」面積11万8000m2・北条氏康築城。
豊臣秀次兵数約22万・北条軍4千ー「小田原の陣」はここからはじまる。(1589年)
民衆と土の城・山中城は、全長約9kmで土塁も高く、空堀で囲まれ、曲輪・橋は、引き橋とすべて障子堀、45度以上の傾斜・・・。
戦国時代ー全国に90近い山城があるが、これだけの城は珍しいと云う。
豊臣軍は、苦戦し「一柳直末討死」

                     最近できた吊橋付近


                    峠を登ると芦ノ湖が




箱根山の中腹の山中新田にある。

      昭和48年から発掘調査後、城が復元された。現在三島市立山中城址公園として整備されている。


1590年3月、
山中城攻めに向かったのは、豊臣秀次を総大将として約6万7千の大軍勢。
一方の山中城には松田康長が入り、援軍として派遣された玉縄城主・北条氏勝とともに約4,000の軍勢で守備についていた。
秀次の陣立ては先鋒右翼に中村一氏、左翼に一柳直末を配置。第二陣として山内一豊、堀尾吉晴らが配されていた。
秀吉が秀次陣の前に出て、山中城の出丸である岱崎(たいざき)まで八町(約880m)ほどのところまで上がり、秀吉は、谷の向こう側から中村一氏を呼び、こう命じたと云う。 「岱崎出丸を攻めて攻撃のための根小屋にせよ」。
中村一氏は、このことを家臣の渡辺勘兵衛に伝え、これに対し、勘兵衛はこう進言した。
「もっともではあるが、出丸前方のつぶら(小高い丘)に20人とか30人の軍勢を入れ、そこから出丸に鉄砲を撃ち掛け、出丸の軍勢が色めきたっている間に、急いで掻き揚げ土塁を築いたらいいのではないか」。勘兵衛の意見は取り入れられ、堀道具を揃えるよう指示が出されたと云う。



山中城は,
改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。
1590年,豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。
間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の「一柳直末」
など多くの戦死者を出した。
しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死。


次回小田原城址

東洋一の湧水 柿田川公園

2018-01-29 | 気まま旅


静岡県は、関東と関西を結ぶ交通路で通過地、回廊性から脱皮出来なかった。今でも名古屋・阪神・京浜地方の谷間になっている。
東海道53次のうち22宿が静岡に。
人は、旧石器時代の浜北人の遺跡などが。646年、伊豆の6国「遠江国・駿河国」が成立・680年伊豆国・724年伊豆国遠流の国・864年富士山が大噴火している。1160年頼朝が蛭ヶ小島に流され・1338年遠江国守護「今川範国」。宗良親王漂流で井伊谷へ。1433年、今川範忠ー弟弥五郎家督争い
1526年、今川氏親が「今川仮名目録」を制定している。1549年、徳川家康今川氏の人質、、、1560年の永禄3年、今川義元桶狭間の戦いで敗死・・
1707年富士山大噴火が・・・・。



柿田川といえば狩野川水系の一級河川である清流として有名です。柿田川はこの柿田川公園の『わき間』から始まっています。柿田川は名水百選にも選ばれる全長約1.2kmの清流です。 多くの自然を保っている柿田川公園は地域住民の憩い・癒しの場所として、また観光地として親しまれています。自然がいっぱいなのでとても良い公園です。 国道1号の隣にありアクセスも良く、無料の駐車場もあります。

柿田川について
柿田川は柿田川公園の「わき間」から湧き出る湧き水に源を発し清水町役場付近で狩野川に合流する清流です。 水温は一年を通して約15度前後で安定しています。またミシマバイカモなどが有名です。 柿田川湧水郡は名水百選にも選ばれる名水で、湧水量は日に70万トンから100万トン程度で東洋一を誇っています。






































今川氏の領国を失った「今川氏真」 1538-1614 没落大名
今川義元の長男・母武田信虎の娘ー信玄と家康に攻撃を受け、領国を捨て小田原北条氏に保護を受けた。
父の仇信長の御伽衆・四条河原で乞食をしていたのを家康に拾われととも云う。が、氏直の子孫は品川氏を称し高家となる。





三嶋大社 頼朝と政子の腰かけ石

2018-01-26 | 気まま旅

静岡県三島市・伊豆半島の基部。
北東部が箱根連山の西部・西部は、愛宕山東側斜面・境川と黄瀬川が流れ、扇状地上に市街地が広がる。
古代には、「伊豆国府」が置かれ、地方行政の中心地であった。
鎌倉時代以降、三嶋大社の門前町・江戸時代は下田街道の分岐点として東海道の宿場駅で賑わった。また、箱根越えの拠点で、三島代官所の所在地。
東海道本線は、迂回していたが、丹那トンネルの開通で活況を取り戻している。
戦後は、文教・住宅都市として発展している。
三島は、富士山の伏流水の湧水地が多い「水の都」でもある。「富士箱根伊豆国立公園の玄関口・三島」である。


      伊豆国一宮 三嶋大社
                       大社の門前町


                   「三嶋大社」 大宮町に鎮座。

          祭神ー大山祇命・事代主命(創建年代末詳、平安初期文献にあり)




「大山祇神」
日本全国の山を管理する総責任者。
その娘に、富士山の神の「木花咲耶姫」神とその対の存在であり同じ神の両面ともいわれる「木花知流比売」神、浅間山の神の「岩長姫」神、
稲荷神や大年神の母である神大市比売、神、などがおられます。
大山津見神、大山積神などとも書き、伊邪那岐神・伊邪那美神が神産みをした時の子で、奥様の野の神・鹿屋野比売神もその時いっしょに生まれた。
(百済から渡って来られたという説もある)
大山祇神は全国約1万社といわれる山祇神社にお祭りされていますが、その中心は、瀬戸内海の大三島に御鎮座する大山祇神社。
一説によれば仁徳天皇の時代に創建されたという、古い神社で、中世には瀬戸内海の水軍に篤く信仰され、そのため、武神とみなされることも。
この神社には多数の鎧・兜が納められており、国宝・重文級のもの多数あります。その数は全国の国宝・重文クラスの鎧兜の7割にも達すると云う。
ここの三嶋大社は、一説によれば平安時代にこの大山祇神社の御祭神を勧請して創建されたと伝えられている。
その地は娘の木花咲耶姫が管理する富士山のそばですので、ひじょうにふさわしい地であるという。
ただ、この三嶋大社については、いろいろ複雑な経緯があると云う。
特に三島神社は、鎌倉幕府・江戸幕府に保護されて、東国の武士たちに武神として篤く信仰されていたと云う。








 
                頼朝と政子のデートは、三島明神でした。











                江戸時代 朱印地530石領有している。




                   天然記念物 キンモクセイ

韮山のいちご狩り

2018-01-21 | 気まま旅

静岡県田方郡「韮山町」へ「いちご狩り」。
伊豆半島北部で狩野川中流に、西部方面は、狩野川が形成した肥沃、沖積平野と東部の丘陵地で温暖、いちご生産が盛んな所である。
1160年ー源頼朝ーが、「蛭ヶ小島」に流されている。また守山で挙兵した。頼朝や北条うじにかかわる遺跡が多い地。
また、世界遺産に登録された「幕末・江川太郎左エ門英龍が建設した・韮山反射炉ー炉内に燃焼ガスを送り込んで天井に畜熱し、その輻射熱を利用」
また、室山時代関東管領に叛いた罪で伊豆へ逃れた「畠山国清」が創建した「国清寺」が北部にある。
また、1457年将軍足利義政が遺わした弟政知が、鎌倉に入れずにここで住した地。伝堀越御所跡。
また、戦国時代「韮山城」を「北条早雲」が居城とした。後徳川家臣内藤信成が入封したが関ケ原の戦い後、廃城。
また、江戸中期から代官江川氏の支配地が多く、農業の盛んな地域となる。



「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍で義朝の嫡男。
20年以上流人生活・石橋山の戦いで、大庭景親に敗れ、房総へ逃れる。ここで兵を集め鎌倉へ、富士川の戦いで平家方敗走させた。
常陸の佐竹氏を討ち関東を固める。

「北条政子」 1156-1225 尼将軍と呼ばれた。頼朝の妻 2男2女を生む。
父北条時政、弟北条義時と結んで「北条氏」の権力拡大を図る。やがて頼家を廃して次男の「実朝」を将軍とする。その後見役として幕政に参画。
二大の執権として幕政の実権を握る。義時の死後長男の「泰時」を3代執権にしている。







月によって入園料は異なります。1月~2月は、高く、月200円ほど下がっていく。~5月上旬まで。












「北条早雲」 1432-1519 戦国の武将先駆け・小田原北条氏初代・通称新九郎・駿河の今川氏から興国寺城を貰う、伊豆国に乱入、相模国併合する。
農民への租税を四公六民とし、善政を敷いている。

                    北条早雲像(小田原駅前の像)