「北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に5代続く
氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦にて小弓公方を滅ぼした。
この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。
北条五代記や「北条氏康条書」などでは氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。
氏康期の1553年、甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立。
信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅。
1546年、河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。
後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。
局所的な戦闘に於いては敗退することもあったが、着実に支配を広めていく。
氏政が実権を掌握した1571年、甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、1578年、越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。
氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している。
後北条氏は、織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの恩賞は無く、織田家重臣の滝川一益の関東入りとなった。
これが北条家が織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。
しかし、中途半端な状況で本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。
滝川一益は、広大な領国の経営に頭を悩まされているところであった。
そこに、配下で信濃に在国していた森長可の逃亡や甲斐の河尻秀隆の戦死などに遭い、しかも相次いで発生する一揆の鎮圧や、従前の仮想敵国である上杉領に対する攻勢の準備などで忙殺されていた。
こうした滝川軍に対して北条氏は同盟の一方的な破棄を通告、氏直を総大将とする4万6000の軍勢が織田領へ雪崩込み、駆逐に成功した。
滝川軍を敗走させると、信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、これを巡って、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が三つ巴の戦いを繰り広げることになる。
織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる。





「小田原城の支城・山中城」 箱根芦ノ湖~静岡三島間
「難攻不落の山城ー山中城」面積11万8000m2・北条氏康築城。
豊臣秀次兵数約22万・北条軍4千ー「小田原の陣」はここからはじまる。(1589年)
民衆と土の城・山中城は、全長約9kmで土塁も高く、空堀で囲まれ、曲輪・橋は、引き橋とすべて障子堀、45度以上の傾斜・・・。
戦国時代ー全国に90近い山城があるが、これだけの城は珍しいと云う。
豊臣軍は、苦戦し「一柳直末討死」
最近できた吊橋付近

峠を登ると芦ノ湖が


箱根山の中腹の山中新田にある。
昭和48年から発掘調査後、城が復元された。現在三島市立山中城址公園として整備されている。

1590年3月、
山中城攻めに向かったのは、豊臣秀次を総大将として約6万7千の大軍勢。
一方の山中城には松田康長が入り、援軍として派遣された玉縄城主・北条氏勝とともに約4,000の軍勢で守備についていた。
秀次の陣立ては先鋒右翼に中村一氏、左翼に一柳直末を配置。第二陣として山内一豊、堀尾吉晴らが配されていた。
秀吉が秀次陣の前に出て、山中城の出丸である岱崎(たいざき)まで八町(約880m)ほどのところまで上がり、秀吉は、谷の向こう側から中村一氏を呼び、こう命じたと云う。 「岱崎出丸を攻めて攻撃のための根小屋にせよ」。
中村一氏は、このことを家臣の渡辺勘兵衛に伝え、これに対し、勘兵衛はこう進言した。
「もっともではあるが、出丸前方のつぶら(小高い丘)に20人とか30人の軍勢を入れ、そこから出丸に鉄砲を撃ち掛け、出丸の軍勢が色めきたっている間に、急いで掻き揚げ土塁を築いたらいいのではないか」。勘兵衛の意見は取り入れられ、堀道具を揃えるよう指示が出されたと云う。

山中城は,
改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。
1590年,豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。
間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の「一柳直末」
など多くの戦死者を出した。
しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死。
次回小田原城址
氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦にて小弓公方を滅ぼした。
この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。
北条五代記や「北条氏康条書」などでは氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。
氏康期の1553年、甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立。
信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅。
1546年、河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。
後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。
局所的な戦闘に於いては敗退することもあったが、着実に支配を広めていく。
氏政が実権を掌握した1571年、甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、1578年、越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。
氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している。
後北条氏は、織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの恩賞は無く、織田家重臣の滝川一益の関東入りとなった。
これが北条家が織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。
しかし、中途半端な状況で本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。
滝川一益は、広大な領国の経営に頭を悩まされているところであった。
そこに、配下で信濃に在国していた森長可の逃亡や甲斐の河尻秀隆の戦死などに遭い、しかも相次いで発生する一揆の鎮圧や、従前の仮想敵国である上杉領に対する攻勢の準備などで忙殺されていた。
こうした滝川軍に対して北条氏は同盟の一方的な破棄を通告、氏直を総大将とする4万6000の軍勢が織田領へ雪崩込み、駆逐に成功した。
滝川軍を敗走させると、信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、これを巡って、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が三つ巴の戦いを繰り広げることになる。
織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる。





「小田原城の支城・山中城」 箱根芦ノ湖~静岡三島間
「難攻不落の山城ー山中城」面積11万8000m2・北条氏康築城。
豊臣秀次兵数約22万・北条軍4千ー「小田原の陣」はここからはじまる。(1589年)
民衆と土の城・山中城は、全長約9kmで土塁も高く、空堀で囲まれ、曲輪・橋は、引き橋とすべて障子堀、45度以上の傾斜・・・。
戦国時代ー全国に90近い山城があるが、これだけの城は珍しいと云う。
豊臣軍は、苦戦し「一柳直末討死」
最近できた吊橋付近

峠を登ると芦ノ湖が


箱根山の中腹の山中新田にある。
昭和48年から発掘調査後、城が復元された。現在三島市立山中城址公園として整備されている。

1590年3月、
山中城攻めに向かったのは、豊臣秀次を総大将として約6万7千の大軍勢。
一方の山中城には松田康長が入り、援軍として派遣された玉縄城主・北条氏勝とともに約4,000の軍勢で守備についていた。
秀次の陣立ては先鋒右翼に中村一氏、左翼に一柳直末を配置。第二陣として山内一豊、堀尾吉晴らが配されていた。
秀吉が秀次陣の前に出て、山中城の出丸である岱崎(たいざき)まで八町(約880m)ほどのところまで上がり、秀吉は、谷の向こう側から中村一氏を呼び、こう命じたと云う。 「岱崎出丸を攻めて攻撃のための根小屋にせよ」。
中村一氏は、このことを家臣の渡辺勘兵衛に伝え、これに対し、勘兵衛はこう進言した。
「もっともではあるが、出丸前方のつぶら(小高い丘)に20人とか30人の軍勢を入れ、そこから出丸に鉄砲を撃ち掛け、出丸の軍勢が色めきたっている間に、急いで掻き揚げ土塁を築いたらいいのではないか」。勘兵衛の意見は取り入れられ、堀道具を揃えるよう指示が出されたと云う。

山中城は,
改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。
1590年,豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。
間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の「一柳直末」
など多くの戦死者を出した。
しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死。
次回小田原城址