syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

森鴎外旧宅

2017-10-28 | syu散歩
「上野不忍池が競馬場地」
パリ・ブローニュの森にあるロンシャン競馬場などを意識し貴族の社交場として競馬場は公園内にあるのがふさわしいと考えたからだと言われている。 不忍池周囲を競馬場として整備する総工費は11万7千円、国家事業である鹿鳴館の総工費18万円と比べてもその事業規模の大きさがわかる。
共同競馬会社は管轄である農商務省から不忍池の7年間の借地を認められ、不忍池の北側は川に通じていたのを埋立、池畔の湾曲していた部分も埋め立てて整形してコースを作り、北側に馬見所(メインスタンド)や厩舎が、コースは不忍池を左回りで回り長さ880間(1,600mコース幅12間(21.8m)。馬見所(メインスタンド)が設けられ2階中央は天皇の玉座、2階左右では外国公使や政府高官およびその夫人たちなどが観覧し、1階は上等客の席、馬見所(メインスタンド)の横にはやや格が下がる中等馬見所(サブスタンド)や200頭収容の厩舎が設けられ、コースの外柵際の桟敷席で一般人も間近にレースを観戦することが出来たと云う。

       根津谷のみち「薮下道」から不忍池へ、森林太郎は、何回も観覧している。


「留学中のドイツの女性」
森鴎外の遺品として,残っているモノグラム。森鴎外の本名である森林太郎のイニシャルをデザインしたものが、薄い金属にいくつも彫られたものであると云う。モノグラムは,刺繍をするときに,型として使われるいくつもあるデザインをみると,豊穣を願うサクランボがテーマだったり,幸せが周りにも行き渡るようにという意味で,文字の周りに下向きの馬蹄を描いたものだったりと,どれもセンスの良さを感じさせるものばかり。
当時のドイツでは,婚約をすると,男女の名前を入れたモノグラムを作ったと言われている。
森鴎外の持っていたモノグラムにも,ひっそりと隠し文字としてそれは彫られていた。森林太郎のM・Rが。

森鴎外の経験がモデルだとされている「舞姫」
主人公は,留学先のドイツで,スラム街に住む仕立物師の娘である若い女の子,エリス・ワイゲルトを恋人にし,その恋人のお腹には赤ちゃんもいたのに,別れを告げ,彼女を発狂させ,自分1人だけ日本に帰る物語。
この物語がそのまま現実に忠実なら,先ほどのハンカチ入れに謎が、ハンカチ入れに使われた良質の材料,金糸を使った高度な技術から、良家の子女を思わせるものなのと云う。森鴎外がドイツで愛したのは,本当は誰だったのか。今でも、研究が行われている。

              急な石段ー鴎外旧宅の裏道になる。


今から120年前・明治29年(1896)、漱石は、台東区の根岸の「子規庵(正岡子規の自宅)」を訪れている。その席で初めて漱石は、森鴎外と顔を合わせた。時に、漱石、数え30歳で、愛媛県尋常中学校(現・松山中学校)の英語教師をつとめていて、冬休みの帰省中に同い年の親友で俳人の正岡子規)が主催する句会に誘われた時と云う。
鴎外は、漱石や子規より5つ年上。東大医学部を卒えて陸軍軍医となり、ドイツ留学もしている。
当時は、軍医学校長をつとめている。
小説家としても、「舞姫・文づかひ」などの作品ですでに世に知られる存在だった。
漱石が処女作「吾輩は猫である」を発表するのは、この9年後。

              文京区団子坂にあるー森鴎外記念館ー


「森鴎外」 1862-1922 軍医の肩書の作家 本名林林太郎 東大医学部から陸軍省へ
衛生研究調査でドイツ留学ー留学中ドイツ女性と知り合う。職務の間に小説「舞姫」発表・「うたかたの記・文づかい」訳詩集「於母影、即興詩人」
「阿部一族・山椒大夫・雁・高瀬舟」など史伝物の領域へ。

                    大表作ー舞姫ー


軍医の森鴎外と脚気
日本で脚気の原因が栄養にあることが認められたのは海外での研究の結果であり、海外での成果が確定すると細菌説の支持者は一斉に手のひらを返した。鷗外が初代会長を務めた「臨時脚気病調査会」は、原因が栄養であるという国内での研究の阻害こそすれ、その研究に貢献したとは言い難い。
ただし、当時の日本は年間で1万から2万人が脚気によって死亡しており、またコレラの流行で4万人が死亡するなど病死の捉え方、あるいは生命の価値というものが現代とは大きく異なる部分があった。
「パンを食うぐらいなら、麦飯を食うぐらいなら死んだほうがマシ」という声は脚気が即死するような病でないこともあって少なくなかった。
日本で脚気患者が根絶といってよい程度に激減するのは、ビタミンを薬品として大量供給できるようになった1960年代以降。

                     軍服姿の鴎外ー馬を愛したと云う






                鴎外邸(模型ー邸宅の一部がホテル鴎外荘で使われている)


コレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」
鴎外には、篤次郎、潤三郎という二人の弟がいました。
現在ではその名前を聞く機会が少なくなってしまいましたが、それぞれ劇評家、考証学者として活躍した人物。
二人はそれぞれの得意分野、専門知識を発揮して、鴎外主宰の雑誌の編集を補助したり、作品執筆における資料調査・蒐集を担うなど、鴎外文学の一端を支え,鴎外はそんな弟たちを頼りにしながら、長兄として弟たちに尽くしたという。

                     森鴎外記念館にて


























「明治中頃」
1900年が明治時代の中頃、日本が農業中心の国から工業中心の国に変わろうとしていた時代。
自動車はまだ実験段階、道には路面 電車や人力車が行き交っていた。
日本で初めてエレベーター付きのビルや公衆電話が東京にできたのもこの頃。
家の中はというと、電気やガス、水道などが家庭には届いていなかった。
水は、「井戸」からくみ、食事はまきや炭を燃やして作り、油を使った「あんどん」などで明かりを取っていた。

上野広小路 朝の公園

2017-10-26 | syu散歩

「藤堂高虎」 築城の名人  1556-1630 伊勢国初代津藩主
早くから徳川家康に近寄り「カラスの鳴かぬ日はあっても 高虎の登城せぬ日はない」と云うほど、毎日家康も元に伺候したと云う。
家康臨終に際して高虎に「おまえとは宗旨が違うので、死んでから話が出来ぬな」と云うと、高虎はその場で家康と同じ「天台宗」に改宗したと云う。
徳川家光の代まで長生・晩年失明していた。
浅井長政・豊臣秀長の子「秀俊」に出仕(2万石)・高野山に隠居後豊臣秀吉の命で直臣・伊予国宇和島7万石拝領・朝鮮戦争で水軍を率いて活躍・
関ケ原の戦い・大坂の役で徳川川で善戦している。32万石大名に。

上野は、台東区の西部、武蔵野台地突端の台地と低地部。地名は、「忍ヶ岡」と呼ばれていたが、「藤堂高虎の屋敷が、高虎の領地伊賀上野(三重県)
にちなんでいる。江戸初期から城の鎮護のため建立された「東叡山寛永寺」の門前町として江戸の有数盛り場で栄えた。
1625年天海僧正を開祖として徳川将軍の墓所は、幕府の手厚い保護を受けていた。

            門前町盛り場で栄えた。上野松坂屋前・広小路交差点


維新後「上野の山」は公園となり、公園下が「上野駅」・繁華街と戦後、闇市がガード下に「アメヤ横丁」が出来、賑わいを見せている。
今は、少なくなったが、映画館、娯楽施設、音楽喫茶等が多くあった。落語の「鈴本演芸場」寄席は古くからあった。

                      アメヤ横丁入口


上野駅は、東北本線・信越本線・上越線・常磐線・高崎線・山手、京浜東北線・新幹線・私鉄京成電鉄・地下鉄等で利用客が多い。
駅は、明治16年開業している。山手線は、その2年後で品川ー赤羽間開通した。

            現在、池袋・新宿・渋谷などに追い越され7~8位と云う。


            戦後、上野ガード下に、全国から食職を求めての人人。


「清水観音堂」
松の木は、浮世絵で有名な歌川広重が「名所江戸百景」で描いた松。

              150年ぶりに、復活したとのこと、「月の松」


「上野恩賜公園の桜」
江戸時代からお花見のメッカとして知られ、東京を代表する桜の名所。
開花時期には、お花見の様子がニュースで流れる。
袴腰ー噴水池あたりまで、花見には、800個ものぼんぼりが灯され、夜桜も堪能できる。

           不忍池周辺で骨董市が催されるなどイベントも、桜並木通り


                    清水堂から不忍池・弁天堂


                     月の松と清水堂


清水観音堂は、京都の清水観音堂がモデルと、本堂正面を舞台づくりにし、不忍池の景色を眺められるようにしたとのこと。
元々は、1631年に公園内のすり鉢山に建てられ、1694年に現在の場所に移転。

                重要文化財に指定されている歴史的建造物


「彰義隊士」
維新の際、江戸入城に反対し、朝敵の汚名を奉じ旧幕府軍3000人が上野山にたてこもり、1868年5月15日大村益次郎指揮する官軍の総攻撃を受ける。

                 山岡鉄舟の筆による戦士の墓が                      


                  輪王寺宮公親王を守り


                     彰義隊士の墓


                     西郷隆盛銅像


「小松宮彰仁親王」 1846ー1903、日本の皇族、陸軍軍人。
官位は、官軍元帥陸軍大将大勲 位功二級。仁和寺宮嘉彰親王と同一人物。 伏見宮邦家親王第8王子。

                      小松宮銅像


上野公園周辺
日本学士院・国立科学博物館・国立西洋美術館・東京文化会館・上野の森美術館・東京芸術大学など

                     東京国立博物館


                      東照宮鳥居








                       本殿


昭和29年に、「赤胴鈴之助ー剣を取ったら日本一」がラジオに流れた。
その頃、東北の村から続々と上野駅を目指し、集団就職の学帽を被った少年たちが降り立った。
望郷の応援歌・井沢八郎が歌う「あゝ上野駅」街に流れた。

2003年、元プロボクサーのファイティング原田や集団就職で上京した中小企業経営者らによる有志団体によって、上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立され、同年7月6日に井沢や作詞者の関口、吉住弘台東区長、上野駅長、有志関係者ら約2,000人が参加して除幕式が行われた。
歌碑は高さ2.6mで、C62形蒸気機関車や駅に降り立ち荷物を持ちながら歩く学生服姿の若者達が描かれたレリーフ板と歌詞の銘板からできている。
上野駅界隈のご当地ソングとして広く知られるため、歌碑も観光名所の一つとなっている。建立費用や維持費など計2,000万円は、ほぼ寄付で賄われたという。2013年,上野駅開業130周年を記念し、上記の歌碑から連なる13番ホームにおいて発車メロディとして採用されたと云う。
その後、現在は16・17番線の発車メロディーとして使われている。

「どこかに故郷の香りを乗せて・入り列車のなつかしさー上野駅はオイラの心の駅だ、、、」

集団就職は、数年続き、私と同じ年齢の中学卒業の生徒が上野駅のあふれていた。

湯島天神と岩崎邸

2017-10-24 | syu散歩
「泉鏡花」
明治6年、石川県金沢市下新町に生れ、父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れ。
幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場している。
明治16年、母が次女やゑ出産直後に産褥熱のため逝去し(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受けたと云う。
明治17年、父とともに石川郡松任の摩耶夫人像に詣った。このとき以来、鏡花は終生、摩耶信仰を保持し、金沢高等小学校に進学、翌年には、
日本基督一致教会のミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、明治20年、退学、市内の井波他次郎私塾で英語などを講じ、金沢専門学校(後の第四高等学校)進学をめざしての退学で、早くに志を改めたと云う。
明治22年、下宿において尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
その11月に、紅葉の門下に入ることを志して上京し、明治24年、牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活をはじめ、翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼されたと云う。

            泉鏡花「婦系図」の舞台・湯島の白梅ー湯島天神鳥居ー


歌手小畑実さんの「湯島の白梅」
湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の影法師~境内出れば 本郷切通し あかぬ別れの中空に
鐘は 墨絵の 上野山。
                   不忍池からの入り口に梅の古木が


「菅原道真」 貴族・学問の神様 845-903
文章博士・官僚讃岐守ー醍醐天皇時、従二位・右大臣。 左大臣藤原時平と対立し、太宰権師左遷・失意し他界。
梅を愛しー東風吹けばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそーと呼んだ
今でも太宰府天満宮に「飛梅」がある。
                      祭神ー菅原道真


                       1355年創建


       天王寺(台東区谷中)・目黒不動(目黒)と共に「江戸三富(宝くじ)」








「坂本龍馬」
1835年、高知県高知市・土佐藩士ー坂本八平の次男として生まれ、坂本家は、郷土株をもつ豪商の分家で裕福な家庭。
龍馬は、1862年土佐を脱藩し、その後は志士として活動し、長崎で貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中」(「海援隊」)を結成し、薩長同盟、
大政奉還を成立させ、倒幕及び明治維新に影響を与えた人物。

「岩崎弥太郎」ー実業家。
1834年、現在の高知県安芸市・半農半士であったー岩崎弥次郎の長男として生まれ、幼い頃から文才を発揮し、江戸に遊学していた時、父が酒に酔ってけんかをして投獄されたことを知り、帰郷。
父の冤罪を訴えたことで弥太郎も投獄されている。
しかし、獄中で同房の商人から算術や商法を学びます。
出獄後は、「吉田東洋」の私塾に入門し、そこで「後藤象二郎」に認められ、土佐藩は外国との貿易を行うために長崎に土佐商会を設立しもす。
弥太郎もそこで働くことになります。

「旧岩崎家住宅」ー重文ー
最高裁判所司法研修所内にある。
                   イギリス人コンドル設計の明治建築


「吉田東洋」 土佐藩藩政家 1816-62
藩主山内容堂が抜擢・一時失脚後安政4年復職し「後藤象二郎・板垣退助など」若者を積極的に登用して改革を進め、土佐の開国論者であった。
土佐勤王党と対立し、暗殺された。

「坂本龍馬」 土佐藩の風雲児 1835-67
大政奉還は後藤象二郎にさらわれた形、それに対し竜馬は「事は十中の八~九まで自分でやりとげ、残りの一~ニを他人に譲り手柄とさせるのが
良いのだ」と笑った言ったと云う・政府の職制案を作ったときも自分の名は名簿からはずしている。

「岩崎弥太郎」 土佐  1834-85 実業家
吉田東洋・後藤象二郎を知り、長崎の土佐商会に勤め、廃藩置県時、土佐藩大坂表の全財産を継承して「九十九商会」・「三菱商会」・「帝国郵便
汽船」・「為替業、保険業ー日本郵船」次々設立した。













                 地下鉄「湯島駅」北西約300m。


                北側の「無縁坂」は、森鴎外の小説「雁」の舞台に。


「明治初期の日本」
江戸時代初期に隔年の参勤交代に伴って、五街道や脇街道などの道路網が整備され、年貢米を商品集積地大阪や消費地江戸に廻送するために東廻り海路と西廻り海路が開拓されて、18世紀初頭には世界で初の米の先物市場が大阪で機能していた。
寺子屋は、明治維新までに1万を超え、読書と習字、あるいは算術が教えられている。
藩士の子弟の養成を目的として設立された藩校も200以上設立され、庶民に門戸が開かれている場合が少なく、明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもあると云う。
開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は、(1596年~1623年)から(1711年~1740年)の頃までの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着し、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていたと云う。
明治維新の1868年、政府は、欧米諸国へのキャッチアップのための環境整備を始動させた。
廃藩置県(1871年)による中央集権化、秩禄処分(1873年)による士農工商制度の解体、地租改正(同年)による政府収入の確保、内務省設置(1873年)による「殖産興業政策」の推進等多岐にわたり、新しい時代の要請に合わせて、国の仕組みを同時に改革するという大裁断であった。
教育面では、学制(1873年)を公布し近代教育制度を構築・その後、教育令(1879年)で義務教育が最低16ヶ月(毎年4ヶ月以上を4年間)、小学校令(1886年)で4年、改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まる。
明治政府の殖産興業政策は、工部省(1870年設置)及び内務省を中心に進められ、富国強兵をキャッチフレーズとして、特に軍事工業に重点が置かれ、旧幕府直営鉱山であった佐渡や生野鉱山の官営化や横須賀などで官営の軍事工場の経営が進められ、官営の模範工場が設立されたが、そのうち富岡製糸場(1872年設立)や新町紡績所(1877年設立)などが名高い。
当時生糸が輸出の中心的存在だったため、生糸の生産に力を入れていたことによるものである。
1890年代に、繊維産業の輸出に占める割合は50%強、製造工業生産額に占める割合は40%強となっており、産業の担い手の役割を務めていたと云う。

殖産興業政策の進展する中、特定の民間事業家が特権的地位を与えられ、政商と呼ばれ後の「財閥」の芽生えとなったと云う。

御茶ノ水・神田明神

2017-10-22 | syu散歩

「孔子」紀元前551年9月ー紀元前479年・書籍ー礼記、書経
春秋時代の中国の思想家、哲学者。
儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼。孔子とは尊称である。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"の名で知られている。
読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。
生まれた魯で、周公旦を開祖とする諸侯国で、 周公旦は周王室の有力者で殷を滅ぼした武王 ... 旦の時代から約500年後の春秋時代 に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。儒教 - 孔子廟 - 孔子 - 孔子鳥
諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず,晩年は魯で弟子の教育と著述に専念 し,『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。
『論語』は孔子とその弟子との 言行録である。堯,舜,文王,武王,周公旦らを尊崇し,古来の思想を大成した。
名言・格言. 十人が十人とも悪く言う奴、. これは善人であろうはずがない。 だからといって. 十人が十人ともよくいう奴、. これも善人とは違う。 真の善人とは、. 十人 のうち五人がけなし、. 五人がほめる人物である。 - 孔子 -
「仁」は、孔子の中心思想・「仁」とは人間がもつ普遍的な愛の心をいう。
そして この「仁」が最も純粋に現れるのが家族であるとして,「 孝悌 こうてい (父母に孝行をし、 兄によく従うの意)」をまず「仁」の実践 ...。

「春秋戦国時代」
紀元前770年に周が都 を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代。
この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることも。


「魏晋南北朝時代」 後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期(184-589)
長江中下流域(江南)における「六朝時代」がほぼこの時期と対応している。
後漢の滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼び、この時代には魏・呉・蜀 の三国が争覇した事で有名である。
280年から始まった西晋の統一時代はわずか31年間と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びた(完全に滅びたのは316年)。
晋は南へ逃れて建康にて亡命政権を作り、これが「東晋」である。
一方、華北では西晋を滅ぼした前趙を初めとした匈奴ら南下した牧畜民が中心となった国が興亡し、西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起。
304年から、439年の北魏による華北の再統一までを「五胡十六国時代」と呼んでいる。
しかしこの胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって「東晋十六国」の名前が使われ始めている。
ただ五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含んでいるため、この用語も完全に適切とは言い難いと云う。
439年から589年の隋による南北統一までを「南北朝時代」と呼んでいる。
またこれとは別にこの時代に江南地域(長江流域)に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から宋・斉・梁・陳までの六の王朝を合わせて「六朝時代」とも呼んでいる。

        魏晋南北朝時代  儒学の老荘思想 儒教経典を解釈する「玄学」が現れた。


「儒教」
「仁」は慈悲やおもいやりのことで、多くの徳の核心・ 人に「仁」があれば、あらゆる徳の元素を生み出す・ 孔子は最も詳しく「仁」を論じ、
曰く、「仁は人なり。」「仁は人を愛す。」
孟子は、「この仁すなわち人々が、全て完全無欠の特性を具備すれば、人の心徳、元性、良心、故に万物同体であり、「殺」を造らず己に克ち礼に復す。これを仁と言いう。(争いも戦争も起きない)

        仁を根本とする政治・道徳を説いた孔子を祖とする中国の教説を云う。


「御茶ノ水」
神田川の南北両岸一帯を云う。1657年の明暦の大火で、現在、駒込に移転した「高林寺」の境内・現在順天堂病院前付近から湧出した清水を徳川家康
のお茶を点てる水として献上したことに由来。
東京医科歯科大学は、東京師範学校(現筑波大学)・女子のお茶の水大があった。
上写真の向かって左が順天堂・右が医科歯科大である。

              聖橋から秋葉原方面に淡路坂が


                     淡路坂


「聖橋」
千代田区と文京区にまたがってかかっている。
大きなアーチ形が特徴で、神田川を渡る船から最も美しく見えるように設計されたという。

             東京を舞台としたアニメやドラマにもよく登場する橋ー昭和2年ー


「湯島聖堂」は、文京区。
本殿は、孔子を祀る「孔子廊」ー中国風の建物・昌平黌が設置され駿河台が学校街にー








「孟子、荀子」ー儒家ー
儒家というと孔子ですが、時代はかなりズレがある。
孔子が生きた時代は「春秋時代末期」、孟子は「戦国時代」、荀子は「戦国時代の終わりが見えてきてから」の人物で3人とも出会いも無ければ関係もない。が、学術的に儒家に属する人物。
孟子の教えは孔子のソレを踏襲していますが政治思想は孟子に大局観があり、これは鄭の宰相である子産の評価が分かれているからと云う。

子産が雨振る中、道端でうずくまっている庶民を見つけ川の向こう岸まで行きたいが増水していて渡れないとの話を聞くと自分の車に乗せて向こう岸へ連れて行ったとか…
孔子、孟子とも仁義と説いていますが孔子は、庶民に仁義を施した子産を褒めていますが孟子はこれを「小恵」と表現して謗っている。
孟子、曰く「一国の大臣なら川に橋を架けるべきである」とのこと。
孟子は、稷下学で論客として幅を利かせ儒家の勢力拡大に貢献して孔子と並んで亜聖(聖人の次に偉い)と尊称されている。

「唐代」-道徳論・「宋代」-性理学・朱子学と体系化され・「元代」-官学として採用・「明代中期」ー陽明学が隆盛・「清代」-訓詰、考証学。
我が国は、応神天皇の代に「論語」が伝来したと云われ、以降政治・文化に大きな影響を与えていく。
中国は、「漢代」-国政そして成立し、民族の伝統的精神文化の一代支柱となる。



1630年三代将軍徳川家光が林羅山に学問所と書庫を「上野忍が丘」に建てさせたのが始まり~五代将軍綱吉が「孔子廟・大成館」を中心に聖堂建造のため現在地に移した。これが後の「昌平坂学問所・官学」。

                史跡 湯島聖堂 入口


堂内に、儒学・儒教の始祖「孔子」などの像がある。

                  聖堂・案内板


「神田明神・神田神社」

       日枝神社と共に古く、天平2年創建された。以前は大手町にあった。


       祭神 大己貴命・少彦名命であるが、平将門を合祀る(大手町の首塚)


                 家康入府後に湯島台に移転


                  江戸城の鬼門にあたる。


              日枝神社の山王祭とここ神田祭(江戸二大祭)ー5月中旬ー


                  門前に甘酒・納豆・飴のお店が


「聖橋」の昭和2年は、大正天皇死去(47歳)昭和と改元され、2年に大葬が、内閣も田中義一(政友会ー立憲民政党・総裁に浜口雄幸二大政党が)
日本初の地下鉄が開通(浅草ー上野の約2.2km)・初の女性理学博士保井氏・アメリカの児童から日本の児童へ「青い目のお人形」が横浜港に。

国会議事堂と日枝神社

2017-10-20 | syu散歩

1927年の昭和12年「早川徳次」により、浅草ー上野(銀座線一部)を開業し翌年、新橋ー渋谷・昭和16年帝都高速交通営団に引き継がれた。
日本民営鉄道教会に加盟し、戦後ー営団地下鉄民営化され、平成14年東京地下鉄(株)が公布された。
「現在」
2号線 日比谷線ー 北千住駅 - 中目黒駅 20.3 km・ 3号線 銀座線ー 浅草駅 - 渋谷駅 14.3 km・ 4号線 丸ノ内線 本線 池袋駅 - 中野坂上駅 -
荻窪駅 24.2 km、 分岐線 中野坂上駅 - 方南町駅 3.2 km・5号線 東西線 中野駅 - 西船橋駅 30.8 km・ 7号線日比谷選 目黒駅 - 白金高輪駅 - 赤羽岩淵駅 21.3 km・ 8号線 有楽町線 和光市駅 - 小竹向原駅 - 新木場駅 28.3 km・ 9号線 千代田線 本線 綾瀬駅 - 代々木上原駅 21.9 km・支線 綾瀬駅 - 北綾瀬駅 2.1 km・ 11号線 半蔵門線 渋谷駅 - 押上駅 16.8 km ・ 13号線 副都心線 和光市駅 - 小竹向原駅 - 渋谷駅 11.9 km がある。

都営地下鉄線ー大江戸線・浅草線・新宿線・三田線・都電軌道・モノレール・都営バス他・JR山手線・中央線・・・・。と広がっている。



東京メトロ「赤坂見附駅」ー港区に立地する唯一の駅・東京メトロ •G 銀座線 - 駅番号「G 05」とM 丸ノ内線 - 駅番号「M 13」
有楽町線・半蔵門線・南北線が乗り入れる永田町駅(千代田区に立地)とは改札内で連絡しており、同一の駅として扱われる。
そのため、当駅発売の乗車券で永田町駅の改札からの入場も可能で、その逆も可能である。
当駅・永田町駅と、隣接する溜池山王駅・国会議事堂前駅間(銀座線・丸ノ内線・南北線、当駅と永田町駅と同様同一駅扱い)、青山一丁目駅間(銀座線・半蔵門線)、四ツ谷駅間(丸ノ内線・南北線)路線でも乗車することができ、当駅と永田町駅を合わせると、東京メトロの路線が1つの駅に「5路線」乗り入れることになり、これは、最多である。



            国会議事堂付近は、常に警察官が警備し路上にいる。


「山王坂」ー 別名 鹿島坂・千代田区永田町2丁目
衆議院新議員会館の間を西の山王社に向かう坂で、長さー170m(高低差7m,平均斜度3.3度)、傾斜は、やや急な坂 。
坂あたり,明治維新までは ほとんどが山王社の日枝神社 の社地であり,社前に下る坂なので この名が。
鹿島坂 ともよばれ、坂の近くに 明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があった。





「国会開設請願運動」

明治政府に対して、国会の開設を建白書や請願書などによって要求した国民的な運動。
1874年の明治7年、、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平、古沢滋ら8名は、愛国公党の決議として民撰議院設立建白書を左院に提出。
「愛国公党」は下野した参議を中心に結成された日本における最初の政党で、建白書はこの運動の一つの引き金となったが、その主張は、
士族と豪農商層に限っての政治参加を求めたもの、77年、8項目にわたって政府の失政をあげた立志社建白が、京都の行在所に提出され、民権運動の基本的要求である国会開設・地租軽減・条約改正などの国民的課題が初めて掲げられた。
75年、各地方の自由民権結社を結集して結成された愛国社は、その後自然消滅していったが、
78年、再興され、翌年の第3回大会では、豪農層を中心とする各地の政社も参加し、国会開設願望書の提出が決議された。80年の第4回大会には、2府22県、約10万人余の請願委託を受けた114人の総代が集まり、国会期成同盟として新発足し、片岡健吉、河野広中(こうのひろなか)らによって国会開設願望書が太政官に提出された。

一方、こうした「愛国社系政社の潮流」とは別に、この運動のもう一つの原動力となったのは、地租改正反対運動や民会・府県会活動を通して政治的成長を遂げた地方の豪農層主体の「在地民権結社の潮流」県議主導路線などともいわれる。
とくに千葉県の一村議桜井静は、79年、全国の府県会議員に、国会開設の方法を協議する東京集会を開くことを呼びかけた「国会開設懇請議案」は、
各地の活動家に大きな刺激を与えたと云う。
岩手、新潟、長野、茨城、山梨、岡山、広島、福岡などが、いち早く呼応し、署名獲得運動や政社の結成に向かった。その方法は、郡書記、県議、戸長などの村の有力者が先頭にたって、その信望を利用しながら、徹底した説得方式をとるものであったと云う。
「国会開設請願運動」は、「愛国社系」と「非愛国社系」の二つの潮流が合流して一気に盛り上がり、全国へと広がっていった。
1874年から81年の8年間に起草・提出された「建白書は90件、請願書は40件」で、国会期成同盟が結成された80年がピークとなっている。
これらに署名参加した者は、沖縄と宮崎を除く全府県から31万9000人以上を数え、とくに高知、千葉、広島、岡山、神奈川、長野などが目だって多い。この請願の波が、10年後の国会開設を約束した詔勅を引き出す大きな力に。
政府の公約した国会開設の時期が近づいた明治17、自由党解党大会で決議・「国会開設期限短縮建白書」が元老院に提出され、翌85年にかけて、同様の建白書提出の動きが各地で、

        議事堂は1936年の昭和11年完成している。


「国会議事堂」-日本の国政の中心・中央塔(高さ65.5m・間口約200m)
大正9年に着工、向かって左が衆議院(伊藤博文・大隈重信・板垣退助の銅像がある)。
80周年記念事業で「憲法記念館」が昭和47年開館した。国会図書館が昭和23年設立で約1200万冊の数と云う、一般会開。





「山王 日枝神社」
太田道灌が1459年ー城内に勧請し、1659年に現在地に鎮座した。日枝神社のお祭りは、神田明神祭を「天下祭」と云われ、神輿の行列が半蔵門
より練り込み、将軍が上覧したと云う。
                         日枝神社


                          鳥居





「猿が鎮座」
神社の“神の使い”は、狛犬でもキツネでもなく、「猿」。
「日枝神社の神様が山の神様で、山に多く猿が生息している事からお使いと考えられるように、猿の夫婦像は、神様のお使いの動物という意味合い。
日枝神社の猿には「まさる(神猿)」という名前が、その名前から魔が去る、勝る、優るという御利益があるとされている。
サラリーマンが多く、年始三が日で約30万人の参拝者が訪れるという。

      猿は「えん(縁)」とも読めることから、結婚や夫婦円満、子宝を望む女性たちからも支持されている。




                          宝物殿


                          本殿


                          神門


議事堂が完成した昭和11年、に(2.26事件)が、内閣は、海軍岡田啓介から広田内閣に、日独防共協定が成立ー日中戦争へと。