「米沢城」
最初に築かれたのは、鎌倉時代中期の1238年と伝えられる。
鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたと推定。
1589年政宗は蘆名義広を破り、蘆名氏を滅亡させると黒川城に本拠を移し、晴宗の弟にあたる宗澄ついで宗清を城代に据えた。
しかし、豊臣秀吉はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢に戻すことになる。
1591年 政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城に移った。
置賜郡は伊達氏代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷の支配するところとなり、重臣・蒲生郷安が米沢城主となった。
郷安はこの時、城の改修を行っている。文禄年中に白子神社が米沢城鎮守となる。
1597年 氏郷の子、秀行は下野国宇都宮に移封となり、会津には越後国より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・直江兼続を置いた。
「上杉景勝」1555~1623 上杉謙信の後継者 初代米沢藩主 小田原征伐、朝鮮出兵、秀吉より会津120万石、五大老に、関ケ原で石田三成と結ぶ、
会津没収、米沢30万石に。晩年城下の整備拡張に尽力。謙信死後後継者争い、北条家の養子の景虎がいて、武田勝頼も来攻していたが、
景勝は、勝頼に黄金を贈り籠絡に成功、勝利。
米沢城堀 上杉景勝像
武家屋敷
松岬神社
「直江兼続」1560~1619 身長180㎝イケメン、マルチ人間で上杉家宰 謙信、景勝に仕え、直江家継ぐ、晩年古典籍を収集し保存整理に努める。
家臣でありながら天下人で、秀吉、家康が魅了した男 義人、文人、武人、愛の兜、愛民の精神。
神社仏閣、城跡、街づくり、の功績や文献資料が多く残されている。
「伊達正宗」 1567~1636 仙台藩主 会津蘆名氏破る。北条攻めを決めた政宗は死装束で秀吉のもとに参上。
しかし、小田原の陣に遅参した政宗は、会津などの所領を没収され再び出羽米沢へ移った。
又、翌年には旧葛西・大崎領への所領替えを命じられる。このとき豊臣秀吉の意を受けて政宗と蒲生氏郷の領界裁定のために
岩手沢(現在の宮城県岩出山町)に滞在していた徳川家康は、岩手沢城を修築して居城にするように取り計らった。
岩手沢城に入った政宗は、城名を岩出山城に改め、米沢から家臣と領民を移住させる。
「上杉神社」
上杉謙信が1578年、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て1601年に米沢へ
移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。
以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、
謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。
更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。
この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職
東北気まま旅はここで終わります。