syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

戦国の杜 米沢城跡

2011-10-30 | 気まま旅

「米沢城」
最初に築かれたのは、鎌倉時代中期の1238年と伝えられる。
鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたと推定。

1589年政宗は蘆名義広を破り、蘆名氏を滅亡させると黒川城に本拠を移し、晴宗の弟にあたる宗澄ついで宗清を城代に据えた。
しかし、豊臣秀吉はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢に戻すことになる。
1591年 政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城に移った。

置賜郡は伊達氏代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷の支配するところとなり、重臣・蒲生郷安が米沢城主となった。
郷安はこの時、城の改修を行っている。文禄年中に白子神社が米沢城鎮守となる。
1597年 氏郷の子、秀行は下野国宇都宮に移封となり、会津には越後国より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・直江兼続を置いた。

「上杉景勝」1555~1623 上杉謙信の後継者 初代米沢藩主 小田原征伐、朝鮮出兵、秀吉より会津120万石、五大老に、関ケ原で石田三成と結ぶ、
会津没収、米沢30万石に。晩年城下の整備拡張に尽力。謙信死後後継者争い、北条家の養子の景虎がいて、武田勝頼も来攻していたが、
景勝は、勝頼に黄金を贈り籠絡に成功、勝利。

米沢城堀                        上杉景勝像
    

武家屋敷
  

松岬神社
          


「直江兼続」1560~1619 身長180㎝イケメン、マルチ人間で上杉家宰 謙信、景勝に仕え、直江家継ぐ、晩年古典籍を収集し保存整理に努める。
家臣でありながら天下人で、秀吉、家康が魅了した男 義人、文人、武人、愛の兜、愛民の精神。
神社仏閣、城跡、街づくり、の功績や文献資料が多く残されている。


          


「伊達正宗」 1567~1636 仙台藩主 会津蘆名氏破る。北条攻めを決めた政宗は死装束で秀吉のもとに参上。
しかし、小田原の陣に遅参した政宗は、会津などの所領を没収され再び出羽米沢へ移った。
又、翌年には旧葛西・大崎領への所領替えを命じられる。このとき豊臣秀吉の意を受けて政宗と蒲生氏郷の領界裁定のために
岩手沢(現在の宮城県岩出山町)に滞在していた徳川家康は、岩手沢城を修築して居城にするように取り計らった。
岩手沢城に入った政宗は、城名を岩出山城に改め、米沢から家臣と領民を移住させる。

    

「上杉神社」
上杉謙信が1578年、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て1601年に米沢へ
移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。

以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、
謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。
更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。
この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職

        

東北気まま旅はここで終わります。  

上山城跡と武家屋敷

2011-10-29 | 気まま旅
「上山」古くは神山、上の山形、昭和29年上山に。1697年松平信通の城下町、羽州街道の宿場街で温泉場、高松、葉山、河崎などで上山温泉郷を形成。
蔵王観光の基地でもある。
春雨庵は、配流された沢庵禅宗の庵がある。上山温泉は、15世紀に発見されている。60~70度食塩石膏泉、神経痛、婦人病など。


「上山城」
天童氏(最上氏庶流)の一門「上山氏」が城を持っていた。
1508年に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は滅亡。伊達家臣 小簗川貞範がこの地に入った。
その後、上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって改めて築城された平山城が現在の上山城である。

明新館跡                    月岡公園              上山城
    

「4軒の武家屋敷と明新館跡が並ぶ通り。通称『上山藩武家屋敷通り』」
上山城近くにある学問所と武家屋敷、上山城から徒歩2分くらいの場所には武家屋敷通りがあり、明新館の跡と4軒の武家屋敷がある。
明新館とは今で言う学校のことで、1809年 に当時の上山藩松平信行が儒学を重んじ、家臣に命じて学問所を建設したのが始まりで、
1840年に藩主松平信宝の代に独立学舎を新築して、幕府儒官林大学頭の命名により、『明新館』と改名した。

「武家屋敷」は、現在も一族の者と思われる方が居住していてるので、勝手に庭先や中には入らない。上山かかし祭りのイベント時期に、
武家屋敷の庭園を覗ける。

城跡から見た上山温泉街


芭蕉の石碑
            


「月岡神社」
創建は明治11年(1878)に上山城本丸に社殿が建てられたのが始まり。
祭神は最期の藩主となった藤井松平家の始祖である利長公、2代目で家祖となった信一公で、藩政時代は同様に本丸に東照宮があり2神を
祀っていたが、明治4年に廃藩置県になると松平家は東京の方に移り住み、東照宮も共に奉遷されたので2神の御霊は一旦日枝神社に遷座し、
月岡神社の社殿が落成すると同社殿に奉遷座した。
例祭で奉楽される鼓笛楽は、江戸時代から伝わる貴重な存在として上山市無形文化財に指定されています。

    

「武家屋敷」
横一列に武家屋敷が並んでいる所は、全国的にそう多くはない、屋根が藁作りな部分と、木造建築の作りが武家屋敷独特の雰囲気を感じさせる。
武家屋敷や城の年間の維持費は、大変らしい。庭の手入れも行き届き、上山藩の歴史の重みを感じる所でした。

           


             




次回は赤湯から米沢へ

 

山形上山と斉藤茂吉

2011-10-28 | 気まま旅
「斉藤茂吉」(1882~1953)アララギ派の歌人、精神科医  山形、上山 東京帝大、青山脳病院院長
少年時代から和歌に興味、正岡子規門下の伊藤左千夫から指導を受ける。「アララギ」短歌雑誌編集経営に尽力、
「赤石」を刊行、万葉調の生命感あふれる歌風で注目され、東洋的自然観照の境地を深めていった。
作歌、歌論、西洋研究、隋筆文学でも新境地を開いた。1951年文化勲章。


蔵王連峰、奥羽山脈の一部を構成する連峰である。
古くからの名は刈田嶺、不忘山という。宮城県と山形県の両県南部の県境に位置し、主峰は山形県側に位置する熊野岳(1,841m)である。
活火山であり、新噴気口や火口湖の御釜が見られる。火山の恩恵である温泉が両県の裾野に数多く存在、両県における主要観光地の1つでもある。

茂吉が部屋から見ていた「蔵王」



上山(上山温泉)は、もっとも古い湯町地区は昔ながらの温泉情緒を残している旅館が多く、にぎやかでである。
蔵王連峰の山麓にいだかれた市内には、斎藤茂吉記念館の他に、沢庵禅師が配流のおり過ごした春雨庵、蟹仙洞、上山城など旧跡がある。
「斉藤茂吉記念館」は、茂吉の生地上山市金瓶の南の丘に、昭和43年秋開館した。
現代歌人のうち、とくにすぐれたひとりである斉藤茂吉の文業や生活を伝える興味深い自筆の書画、原稿、映像などの資料を、
その生涯の活動にそって展示している。入館料¥400


  


 散歩道                         館内庭園
  

  

歌人であり、精神科医として病院の院長であった斎藤茂吉は、 強羅にあった別荘生活について、北杜夫や斉藤茂太のエッセイに懐かしく出ている。
ここにあった茂吉の部屋は、記念館に移築された。

                               明治天皇休憩所
  


かなりの食いしん坊であった。中でも鰻が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の缶詰を食べていた。
味噌汁の具にも口うるさく注文し、家人からネギもあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほどこだわった。
茂吉が風邪で寝ていた時、ぜひともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て
「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。
あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産のカステラを食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

粘着性気質で、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」
と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。
子供のころ質素倹約を旨とした農村社会の生活をしていたので、物を大事にする傾向が強かった。
妻との旅行中、ドイツの山間の駅で絵葉書を物色中に、汽車が妻を乗せたまま出発、慌てた茂吉は猛スピードで追いかけ辛うじて飛び乗った。
この時もきちんと金を払って絵葉書を買ってから汽車を追いかけたという。

斉藤家の箱根強羅別荘、茂吉が学生時代の勉強部屋
  

次回は、上山温泉街と城跡へ

山寺 (2)

2011-10-27 | 気まま旅

「山寺・立石寺」の
中世鎌倉時代は、幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により
禅宗に改宗となったが、1356年 斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。

1521年、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。
1520年、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、
翌年焼き討ちを受けたものである。現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。

五大堂から見る天童市方面

崖の上にある納経堂


観明院                                   百丈岩
    

仁王門
  

  

五大堂は立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香を供えている。
向かって左、岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物である。県指定文化財で、昭和62年に解体修理がおこなわれた。

その真下に、貞観6年(864)歿の慈覚大師が眠る入定窟がある。頭上の建物は五大堂といい、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場で、
山寺随一の展望台でもある。

開山堂                          五大堂
  

次回は斉藤茂吉館へ

山寺 (1)

2011-10-25 | 気まま旅
山形「山寺村」に入る、立谷川と紅葉川合流部に位置し、立石寺の門前町として発達し、宮城県名取郡に通ずる二口越えの口留番所が
おかれた宝珠山一帯は凝灰岩の風化した奇岩が多い。特異な景観をし、「名勝・史跡」に指定されている。
蔵王国定公園の一部で、寺と対岸に芭蕉記念館がある。

山寺「立石寺」は、天台宗、山号宝珠山。奇岩怪石から岩山寺、一山を山寺と総称。
860年慈覚大師(円仁)の開基と云う。開山と共に比叡山延暦寺の法燈を受け継ぐ羽州随一の霊場として信仰を集めている。
1689年松尾芭蕉が行脚で訪れている。「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」はここで詠んだ句。

立石寺仁王門 根本中堂・念仏堂のある麓から~奥の院まで1100段の石段。



「円仁の入定窟」慈覚大師の遺骸を安置すると伝える入定窟がある。
史実としては、円仁は864年、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、
入定窟の上に立てられた1144年の「如法経所碑」が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれている。
この時代(12世紀)、すでに円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。

昭和23年から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。
この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風からも9世紀頃の制作であると認められている。

  


比叡山焼き討ちの際に、延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、
立石寺側から逆に分燈されることとなった。

立石寺は山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。
最上義守の母・春還芳公尼は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光も立石寺を援助した。
義光の時代の分限帳によれば、立石寺には寺領1,300石が与えられている。

  


「重要文化財」立石寺中堂(根本中堂)、建造物、天養元年如法経所碑考古資料、立石寺三重小塔建造物、
木造薬師如来坐像彫刻、木造慈覚大師頭部・木棺彫刻。
 
  

    

次回山寺の続きです。