syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

小田原一里塚跡

2011-12-30 | 気まま旅

小田原の市名は古く中世から、原野を小田に開墾したことに由来、土肥一族、小早川氏の早川荘の中核として開かれた。
その後、北条早雲が、大森氏から奪取し、関八州(武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)を支配する
北条氏の城下町として発展する。小田原攻め落城で徳川家康に変わり、江戸時代は、大久保氏が小田原藩を治め、江戸を守る重要な拠点となる。

箱根、東海道の宿場町となる。東海道が御殿場経由に変わり一時衰退する。1934年の丹那トンネル開通により商業都市として再生している。
箱根外輪山の豊富な林業資源で箱根細工、温泉などの観光都市となり、伊藤博文、閑院宮家、山県有朋、北原白秋、谷崎潤一郎
など多くの著名人が居住している。

「松原神社」
市本町2丁目、主祭神 日本武命,素戔嗚命,宇迦之魂命。 県社、創建 伝近衛天皇久安年間と云われている。
小田原宿総鎮守。5月3日から5日に松原神社例大祭が行われる。地区により浜降りが行われ、本社神輿は各町を持ち回りで渡御される。
各町は山車、屋台、御輿を出し、宮入が行われる。創建の時期は不明。かつては鶴の森明神、松原大明神等と呼ばれていた。
後北条氏が社領を寄進するなどして崇敬し、稲葉氏、大久保氏からも崇敬。小田原宿の総鎮守とされた。

    

「侍所奉安所」碑、
1279年の10月12日の宗祖日蓮所顕と伝えられる本尊(日蓮正宗)(総本山大石 寺奉安堂に安置)を帰命依止の本尊と定め、
宗祖の出世の本懐と云われ、小田原では他の神輿と合体したり、木遣りとともに駆ける 小田原担ぎがある。
小田原城大手門から(国道一号線)見附跡へ。「唐人町ー新宿ー浜町」

小田原宿の「一里塚」碑。
山王神社の西に,小田原宿の江戸口見付と一里塚があった。小田原一里塚、江戸日本橋から20里。

   

「北条稲荷」
ここは、小田原城の鬼門(旧東海道、国道一号線)小さな神社である。小田原北条氏絡み。かつて小田原城の城内にあった「かわず石」がここに移されている。

    
 

「蓮上院土塁」当時の日本一と云われた小田原城の広大な城であったのが解る。一部太平洋戦争本土爆撃で大きくえぐれている所があった。

   

  

「新宿町」この辺は、江戸時代城下町・宿場で賑わい、新宿の名は商店街の名が残った、

日蓮宗法光山・「法久寺」
    


真宗太谷派「善照寺」
    

一里塚址から国道1号を下ると、「北村透谷生誕地」
近代文学の先駆者北村透谷(門太郎)は、1868年小田原藩士北村玄快の息快蔵の長男として、この地の同番地国道筋に生まれた、  

唐人町、1607年に来日した朝鮮通信使の記録『慶七松海瑳録』によれば、このとき通信使一行が宿泊した小田原大蓮寺に葉七官という唐人がたずねてきている。
葉七官は中国福建の人で、乗船中に遭難して小田原に漂着し、帰国しなかった十余人とともに小田原で生活していたとのこと、小田原には唐人が住む集落があり、
これが江戸期の小田原唐人町の起源となったといわれる。

                        北村透谷生誕地碑
    

次回は小田原文学館へ。

太閤一夜城跡と早川の町

2011-12-28 | 気まま旅
石垣山は登り口から約4kmの行程、1時間半の山登りで城跡に到着。

                        関東大震災で崩れた石垣
    

1590年、豊臣秀吉(54)は、小田原の北条攻めに参加した武将たちの論功行賞を行い、豊臣秀次(23)には100万石、徳川家康(49)には関東八州240万石を与え、
その代わりに旧領三河・駿河の五国200万石は、召し上げた。秀吉に冷遇されたと不満を感じつつも、荒れ地である江戸の地に本拠地を移し、
新たに町づくりに精を出していく。
 
    

天下統一を目前にした豊臣秀吉が北条氏に対し宣戦布告。秀吉は総勢22万の大群で押し寄せ、北条方の各支城を尽く攻略。
北条氏が約5万の兵で篭城する本城、小田原城に対しては約14万8千の兵で包囲するが、全長9kmの総構を誇る戦国時代最大級の城、
小田原城は落城の気配すら見せなかった。

              石垣山頂上から相模湾を見る、毛利軍はこの地から上陸
  

石垣城築城に際し石垣の専門職人を始め約5万6千の将兵を当て、天正18年4月から6月26日までの約80日間が築城に費やした。
本丸展望台より小田原城を望む、約400年前秀吉も同じ光景を眺めていたのだろう。

  

堀秀政 1553-90 北庄城主 信長に臣属、秀吉仕え、越前国18万石、小田原征伐で陣中で病死、秀吉は関八州を与えると考えていた。
天下指南して落ち度のない人物。

千利休 1522-91 茶道の開祖 信長、秀吉の茶頭、「風炉に中水を差す」何げなく水を差しただけで作法に。小田原に千利休も参加。

石垣山下山JR早川駅に出る。
    

石垣山のある丘陵地帯から早川、相模湾へ急傾斜となっており、日当たりの良い斜面ではミカン栽培が行われ、早川河口付近が住宅街となっている。
相模湾に面して小田原漁港があり、水産業も盛んである。

「海蔵寺」は、明治時代まで秋田の武将、そして小田原の陣で没した戸沢盛安の墓があったといわれているが見つけられない。

  

  

次回は小田原市内に。

石垣山を登る

2011-12-27 | 気まま旅
箱根登山鉄道の箱根湯本の一つ手前「早川」で下車、石垣山の一夜城をめざした。

二級水系 早川、延長 20.65 km、水源の標高 723 m、水源 箱根外輪山・芦ノ湖、河口の合流先、 相模湾、足柄下郡箱根町の芦ノ湖に源を
発し東に流れ、小田原市南町と小田原市早川の境界から相模湾に注ぐ、箱根外輪山からの水が芦ノ湖に集まり、芦ノ湖北端の湖尻より流下する
川が本流の早川と呼ばれる。河床勾配が大変急で、芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たしている。

箱根登山鉄道 早川駅                        早川 
    

早川をわたると石垣山登山道にでる。石垣山は、小田原城の南西約2.8km地点にあり、1590年豊臣秀吉が後北条氏の小田原城を攻略した際、
築いた本陣のあったところであり、その名称は城壁の石垣に由来している。旧名は笠懸山。なお石垣山城は、関東で最初に造られた総石垣の城であり、
その石積みは近江国の穴太衆による野面積みといわれる。

小田原の役後は廃城となったが、その歴史的意義とあわせて城歴が限定されていることは、築城史を研究する際の規準となる遺跡であり、
価値が高いことから、1959年5月13日、国の史跡に指定された。現在は「石垣山一夜城歴史公園」として史跡の保存と整備が進められている。

山の中腹に石垣がおちている
  


石垣山山頂(標高241.6m)には、豊臣秀吉が小田原j北条氏を攻めるために築いた太閤一夜城城址があり、一夜で築いたという例えから「一夜城」
と言われているが、実際は4万人が動員され80日間かかったそう。展望台からは小田原市街~相模湾、三浦半島が一望できる。

  

橋を渡ると間もなく石垣山頂上近くに出る。
  

次回は石垣山一夜城跡へ。

 

クリスマス イルミネーション

2011-12-25 | 諸々日記
12月もあと少しになりました。何かと気忙しい日々ですが、旅の記事を一休みしました。

クリスマスイルミネーション、銀座や新宿まで行けば美しい飾り付けのイルミネーションも見られるのですが、我が家の付近でもこんな家があります。

毎年この時期家の前が輝きます。今年は節電でしょうか、夜も10時には消灯してしまい寂しいですが、近所の人たちは皆たちどまって眺めます。


ケーキ屋さんのウインドウ


貸衣装屋さん ウエディングドレスとクリスマス

松田山 最明寺跡

2011-12-23 | 気まま旅
松田山は足柄平野全域を眺められ、富士山もよくみえる。
頂上部はほぼ全域、チェックメイトカントリークラブの敷地となっていて、夜間はゲートが締まり、車は入って来られない。

松田山の横断コースは、松田駅-ハーブガーデン/自然館-最明寺史跡公園-谷戸口橋という“松田山みどりの風自然遊歩道”。
多くの野鳥・野草に出会える好散策コース。上りは車道歩きで問題ないが、下りの山道では道が崩れかけていて少々危ないところがある。
人通り無く寂しい道。
 
「最明寺史跡公園」は、標高500m以上のところにある自然公園。鳥や植物の説明パネルもあって散策には最適。池のある狭い平地部に八重紅シダレ、
斜面にはオオシマザクラが咲き、春にはお花見を楽しめる。

史跡公園から山の一番高いところを目指して歩いて行くとゴルフ場の末端に出る。ここは、丹沢・秦野が一望できる展望ポイント。
さらに、指導標に従って寄方向へ向かうと、ほどなくあずま屋にぶつかり、富士山展望ポイント。

史跡公園から尾根筋をさらに西に向かうと標高400mの高松集落へ下る。 


「最明寺跡」 鎌倉幕府の執権最明寺入道北条時頼が信奉した〈相州善光寺如来〉の寺として知られる最明寺(西明寺)。 

最明寺は、1221年、伊豆山の別当浄連上人源延が、信州善光寺の本尊を模写し、越前の仏師が彫った一光三尊善光寺如来立像を安置し開山した。
その後、応仁の乱など戦乱で衰えた寺勢の復活を諮ったが、山道険しく困難を極めた。1469年頃、大井町金子へ移る時に、
信徒が阿弥陀如来立像を作り本尊として祀った。護摩堂跡には善光寺如来と刻んだ石塔のほか、西方に鐘撞堂跡がある。

仏像は、〈庶子の善光寺さん〉と親しまれ、4月10日の例祭から庶子の各戸を巡回、信仰を守り伝えている。
平成7年頃までは背負い紐の厨子に納めていたが、重くて持ち運びが困難なため現在、手提げ用厨子にレプリカを納め、各戸を巡回している。


    

「からさわ古窯跡群古代瓦焼窯跡」
これは、今から1200年位前(奈良時代)の屋根瓦を焼いた松田町庶子にあった、からさわののぼり窯。
神奈川県内でも大変珍しいのぼり窯であり、永く保存したいという願いから、道路公団の協力を得て第三号窯を移築したもの。 
全体の長さは約7メートル、幅は約2メートル。のぼっていく角度は45度位。窯の規模からして1回に屋根瓦を150枚から200枚位は焼くことが出来たと思われる。
この窯跡から発見された瓦と同じ瓦がここから約8km離れた小田原市千代の奈良時代に建てられたおいう廃寺の跡から発見されているので、
その寺をつくる時の屋根瓦をからさわで焼いたことがわかる。運搬するには舟で酒匂川を利用したと思われる。


  


池のそばの短い石段を登っていくと最明寺の由来を記した石碑が建っていた。

  

「物言い坂」
この急坂は,昔はもっと急だったらしい、、荷物運びの馬も上るのは難儀して、母馬が仔馬に何か言い聞かせながら上ったことから「物言い坂」
と呼ばれると看板が。あまりの急坂で足の親指が痛み出した。
やがて展望が開け、明るい茶畑エリアに、ここまでくると下の方を通る東名のクルマの騒音も聞こえ、現世に戻ってこれたことを感じてホッとした。
ほどなく246号線にぶつかり、物言い坂ダウンヒルは終了。少々疲れが・・・・。

  

  

東名高速のガードを潜り、小田急の松田駅を目指した。右に酒匂川、旧道らしき峠の細い道を行くと「道祖神」「供養塔」
「庚申塔」等の
石塔が左右に点在していた。江戸、明治時代と思われる。

    

塔の建立は、いろいろで生物の霊を慰めるためのもの、峠や村境や橋のたもとが多い、外敵、疫病等を守るため、素朴な民間信仰から生まれている。
特にこの辺り、庚申塔が主で関所があった所と聞く、その為村や、集落の出入り口に申(さる)と太陽と月が描かれている庚申信仰された石塔が多かった。
旧相模国中心に広がったと聞く。

    

次回は小田原早川一夜城へ。