尾竹通り正面に区立N小学校
昭和22年全国都市の児童約300万人に対して学校給食を開始しました。
当時の給食は、ララ寄贈食料品によるもので、ミルク(脱脂粉乳)、トマトシチューなどでした。
昭和24年 ユニセフ(国際連合児童基金)からミルクの寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始されました。
昭和25年 8大都市の小学校児童に対して、初めて完全給食が実施。
昭和27年 完全給食が全国すべての小学校を対象に実施され,当時の代表的な献立としては、
コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、鯨肉の竜田揚げなど。
父の会社も台風で倒産。、家庭は、高校1年の姉に全てが移り、母親代わりを務め,他は男の世界、姉は通学時間を惜しみ近くの都立T高校に転校している。多少やけ気味の父の晩酌は、毎夜続き、暴力は以前より増していった。子供の時は、あの様な父になりたくない、たくましい父を望んだ。
5つ違いの兄は中学生になっていたので自分の事は自分でできたが、私と5歳下の弟は、まだ母親を必要としていた。
父は昭和24年岡山県の女性と再婚した。そして翌年弟が生まれた。
父と義母と赤んぼの三人家族となり、Sと5歳の弟は、仲間はずれとなり、あらゆる場面で悲しい生活が始まる。
一番困ったのは弁当であった。
まだこの時代、弁当を持って来られない子、主食がさつまいもだけの子、外米だけの子ーたまに石が混じりぼそぼそしている。
S家は、そのぼそぼその外米と梅干しのみ、または佃煮の「あみ」だけがのせてある日もあった。
裕福な子供は、白い米に卵焼き、海苔、など自慢し見せて回るのだ、だがクラスの半分は、弁当箱を隠し食べる子が多かった。
運動会や遠足などお弁当のある日は悲しい思い出しかない。今スーパーのお弁当でさえ嬉しく感じるSである。
小学校も高学年となり学校給食が始まり、弁当が要らなくなった。
学校全体が同じ食事の給食となった。
これほど嬉しいことは無い、全クラス、同じものを差別なく、みんなで食べられることに感激であった。
今日からかくしてベントを食べなくても良い喜びは、たまらなくうれしかった。今でも忘れない。
こんなことも多かった。たまに学校から寄付依頼があり、裕福な家庭の子は、10口~20口と出せるが、
貧乏な子は、1口~2口と隠して先生に渡していた。
sの家は、寄付が出来ないので常に下を見て先生の顔を避けていると、
最初は、S君また忘れたの~と疑っていたがそのうち何も言わずに無視された。
「上野動物園に象ー花子・インディラが」
1947年の昭和22年、sが9歳に、タイ王国で生まれたタイでの名前はカチャー・日本名花子が、日本に。
インドから送られたインディラ・元タイ国軍事顧問で実業家の「ソムアン・サラサス」が、
日本の戦争で傷ついた子どもたちの心をいやそうと私財を投じて発起人となり、日本に贈られ、s-達は、上野動物園で出迎えた。
戦争中に餓死した「花子」の名を継いで「はな子」と名付けられた。
上野動物園には、「はな子」到着のすぐ後の1949年にも、インドから贈られた「インディラ」も到着。
翌1950年から、「はな子」と「インディラ」は移動動物園で日本各地を訪れている。
1954年、「はな子」は上野動物園から井の頭自然文化園に移された。
上野清水観音堂
当時の給食は、ララ寄贈食料品によるもので、ミルク(脱脂粉乳)、トマトシチューなどでした。
昭和24年 ユニセフ(国際連合児童基金)からミルクの寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始されました。
昭和25年 8大都市の小学校児童に対して、初めて完全給食が実施。
昭和27年 完全給食が全国すべての小学校を対象に実施され,当時の代表的な献立としては、
コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、鯨肉の竜田揚げなど。
父の会社も台風で倒産。、家庭は、高校1年の姉に全てが移り、母親代わりを務め,他は男の世界、姉は通学時間を惜しみ近くの都立T高校に転校している。多少やけ気味の父の晩酌は、毎夜続き、暴力は以前より増していった。子供の時は、あの様な父になりたくない、たくましい父を望んだ。
5つ違いの兄は中学生になっていたので自分の事は自分でできたが、私と5歳下の弟は、まだ母親を必要としていた。
父は昭和24年岡山県の女性と再婚した。そして翌年弟が生まれた。
父と義母と赤んぼの三人家族となり、Sと5歳の弟は、仲間はずれとなり、あらゆる場面で悲しい生活が始まる。
一番困ったのは弁当であった。
まだこの時代、弁当を持って来られない子、主食がさつまいもだけの子、外米だけの子ーたまに石が混じりぼそぼそしている。
S家は、そのぼそぼその外米と梅干しのみ、または佃煮の「あみ」だけがのせてある日もあった。
裕福な子供は、白い米に卵焼き、海苔、など自慢し見せて回るのだ、だがクラスの半分は、弁当箱を隠し食べる子が多かった。
運動会や遠足などお弁当のある日は悲しい思い出しかない。今スーパーのお弁当でさえ嬉しく感じるSである。
小学校も高学年となり学校給食が始まり、弁当が要らなくなった。
学校全体が同じ食事の給食となった。
これほど嬉しいことは無い、全クラス、同じものを差別なく、みんなで食べられることに感激であった。
今日からかくしてベントを食べなくても良い喜びは、たまらなくうれしかった。今でも忘れない。
こんなことも多かった。たまに学校から寄付依頼があり、裕福な家庭の子は、10口~20口と出せるが、
貧乏な子は、1口~2口と隠して先生に渡していた。
sの家は、寄付が出来ないので常に下を見て先生の顔を避けていると、
最初は、S君また忘れたの~と疑っていたがそのうち何も言わずに無視された。
「上野動物園に象ー花子・インディラが」
1947年の昭和22年、sが9歳に、タイ王国で生まれたタイでの名前はカチャー・日本名花子が、日本に。
インドから送られたインディラ・元タイ国軍事顧問で実業家の「ソムアン・サラサス」が、
日本の戦争で傷ついた子どもたちの心をいやそうと私財を投じて発起人となり、日本に贈られ、s-達は、上野動物園で出迎えた。
戦争中に餓死した「花子」の名を継いで「はな子」と名付けられた。
上野動物園には、「はな子」到着のすぐ後の1949年にも、インドから贈られた「インディラ」も到着。
翌1950年から、「はな子」と「インディラ」は移動動物園で日本各地を訪れている。
1954年、「はな子」は上野動物園から井の頭自然文化園に移された。
上野清水観音堂