syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

お弁当と学校給食

2016-09-30 | 諸々日記
               尾竹通り正面に区立N小学校


昭和22年全国都市の児童約300万人に対して学校給食を開始しました。
当時の給食は、ララ寄贈食料品によるもので、ミルク(脱脂粉乳)、トマトシチューなどでした。

昭和24年 ユニセフ(国際連合児童基金)からミルクの寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始されました。

昭和25年 8大都市の小学校児童に対して、初めて完全給食が実施。

昭和27年 完全給食が全国すべての小学校を対象に実施され,当時の代表的な献立としては、
コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、鯨肉の竜田揚げなど。

父の会社も台風で倒産。、家庭は、高校1年の姉に全てが移り、母親代わりを務め,他は男の世界、姉は通学時間を惜しみ近くの都立T高校に転校している。多少やけ気味の父の晩酌は、毎夜続き、暴力は以前より増していった。子供の時は、あの様な父になりたくない、たくましい父を望んだ。
5つ違いの兄は中学生になっていたので自分の事は自分でできたが、私と5歳下の弟は、まだ母親を必要としていた。

父は昭和24年岡山県の女性と再婚した。そして翌年弟が生まれた。
父と義母と赤んぼの三人家族となり、Sと5歳の弟は、仲間はずれとなり、あらゆる場面で悲しい生活が始まる。

一番困ったのは弁当であった。
まだこの時代、弁当を持って来られない子、主食がさつまいもだけの子、外米だけの子ーたまに石が混じりぼそぼそしている。
S家は、そのぼそぼその外米と梅干しのみ、または佃煮の「あみ」だけがのせてある日もあった。
裕福な子供は、白い米に卵焼き、海苔、など自慢し見せて回るのだ、だがクラスの半分は、弁当箱を隠し食べる子が多かった。
運動会や遠足などお弁当のある日は悲しい思い出しかない。今スーパーのお弁当でさえ嬉しく感じるSである。
小学校も高学年となり学校給食が始まり、弁当が要らなくなった。

学校全体が同じ食事の給食となった。
これほど嬉しいことは無い、全クラス、同じものを差別なく、みんなで食べられることに感激であった。
今日からかくしてベントを食べなくても良い喜びは、たまらなくうれしかった。今でも忘れない。

こんなことも多かった。たまに学校から寄付依頼があり、裕福な家庭の子は、10口~20口と出せるが、
貧乏な子は、1口~2口と隠して先生に渡していた。
sの家は、寄付が出来ないので常に下を見て先生の顔を避けていると、
最初は、S君また忘れたの~と疑っていたがそのうち何も言わずに無視された。

「上野動物園に象ー花子・インディラが」
1947年の昭和22年、sが9歳に、タイ王国で生まれたタイでの名前はカチャー・日本名花子が、日本に。
インドから送られたインディラ・元タイ国軍事顧問で実業家の「ソムアン・サラサス」が、
日本の戦争で傷ついた子どもたちの心をいやそうと私財を投じて発起人となり、日本に贈られ、s-達は、上野動物園で出迎えた。
戦争中に餓死した「花子」の名を継いで「はな子」と名付けられた。
上野動物園には、「はな子」到着のすぐ後の1949年にも、インドから贈られた「インディラ」も到着。
翌1950年から、「はな子」と「インディラ」は移動動物園で日本各地を訪れている。
1954年、「はな子」は上野動物園から井の頭自然文化園に移された。

                       上野清水観音堂

頼りの母残念な逝去

2016-09-27 | 思い出



母は、かって貧乏旗本「M家」から平民の父のもとに見合いで嫁いでいる。
父は、日本橋で生まれ、商家の長男、背も高く優しい風貌を持ったどちらかと云えば男前、
175CMの長身、いい男の部類に属すだろう。
商家は、次男が引き継ぎ、本人は、大学を出て出版社へ就職。
母は、160CMのうりざね顔の色の白、典型的日本美人と云えた。
性格も明るく、くよくよすることが嫌いで、意気で気風の良くユーモアのある頼りの家族の中心人だった。
頼りにした父には、これと云って才覚のあるわけでもなく、sから見て、平凡な人で、家のことは、すべて母に頼り切っている。
母は、働き者で、人から聞いた情報を頼りに東武線の越谷方面へ月数回買い出しに、、母の着物を背負い食料と物々交換、
交渉もうまかった。また、子供連れが良かったのか、小学のSが、一番多く連れだされた、。

だんだん交換する物資も底を突き出し思うように交換できなくなっている所に、大家さんから移るように言われ、
やもえず、一軒屋の桜木町は、わずか半年で、中根岸町へ引っ越した。

中根岸の御行の松(現在は姿を消している)


一代目の大松の一部が、(安藤広重)


                   不動尊本殿


ここは、桜木町と違い2階建ての古い暗い家で、
二階は、根岸芸者の置屋として使われていたので、2階の使える部屋は、たった8畳の一部屋。

今までわが家は、それほど貧乏だと思って居なかったが、根岸町の借家に入り子供心にわが家も経済的に
大変なのだと思うようになった。
歌舞伎好きの両親に連れられて銀座に出掛け食事やデパート、芝居を見ると云う戦前の千鳥町が思い出された。
それが終戦と同時に借家から借家の生活であった、ろくに食べる物もなく、毎日毎日ひもじい生活が続いた。
母は、自分は食べたふりをして食べ盛りの我々、子供に,弱音は吐いたことがない強い母、弱虫を嫌った明治生まれの母。
また疎開先まで持って行った僅かな着物などを食料に換え、金目の物はみるみるなくなっていった。
母は、他人には優しかった、家がどんなに困っていようと、他人が困っている様子を見ると黙っていられない性格であった。

父のお客が来れば、できる限り接待をし、同居をしていた従兄弟が友達を大勢連れて来た時などでも、
なけなしの食料をいろいろ工夫し、食べ盛りの彼らにご馳走をしていた。
我々子供には、「これから日本の為に頑張る人たちなんだから我慢しなさい」という母だった。

数年後彼らは中には、東大の教授、船舶の会社社長、医師等に。
母は、中学の兄を東大にと期待していたようだ。
長女の姉にも、厳しく家庭科の宿題は母がやり、その代り英語の単語を覚えるようにと云う教育熱心な母であった。

父は、コンデンサーの電気関係の会社経営していたが、下町にあった工場が台風で大損失を。
倒産寸前で、父は、心も荒れていた。
こんな時代でも酒好きで、家では毎日晩酌を欠かさず、酒の度が過ぎると、
急にちゃぶ台をひっくり返すといった気の小さい短気な所もあり、家じゅう大変な騒ぎになることもあった。

父、子供達は全て母一人の背に掛かっていたのである。
小学二年の冬、雪の降る寒い日、私か高熱を出し学校を3日休んだことがあった、その時母は、一生懸命看病し、
父でも滅多に口にしない鯛の煮つけを特別に食べさせてくれた。
母は、「みんなに内緒よ」と云いながら御粥と一緒に口まで運んでくれた、その時母の子でよかったと嬉し泣きをしたことを覚えている。

小学三年に入り、隣町の上根岸に家を新築し、再び自分たちだけの家が建った。家が持てたのだ、家族全員大喜びした、
母は、父の収入の中やりくりで資金を蓄えていた。
姉、兄の月謝だけでも大変だろうに、父は「収入は増していない中良く蓄えたと感心していた。

母は、洋裁が好きでミシンを良く踏んでいた、われわれの衣服は母の手作りで、子供たちの前では、
愚痴と不満を口にしたことは無い。
子供に対ししつけは厳しく、母に、あざになるほどつねられ、痛かったことを思い出す。
我が家もやっと落ち着き、一家水入らずの平和な日々が続いていたが、
母は家の新築、引っ越し、買いだし、家計のやり繰りなど疲れが一気に出たのか体調を崩してしまった。

母は人前では決して弱音を吐かない勝気な女性であったので、東大に入院した時には重症であった。
即入院と云われた時は我が家の大黒柱であっただけに、家族のショックは大きかった。
医療もこの時代であり、全てが不足して天下の東大といえども、すべての抗生物質(ペニシリン)を手に入れるのは大変であった。
母は、すっかり痩せてしまった。長女の姉は、そんな母を見て我々に「若い時の美しかった昔のようだ」と云った。

叔父の関係で特別に手に入れた薬などで最善の治療をしたが、そのかいもなく半年で他界した。
昭和22年7月19日、私が小学3年生であった。42歳、あまりにも短い命であった。
死を直前にしたとき、姉にお化粧をしてほしいといい、身ずくろいをし、我々を枕元に呼んで「お父さんをお願いね、家族助け合ってね。」と云い少しも乱れを見せず静かに息を引き取った。
旗本の衿持を失わず毅然と生きた。武家の女性の最後の死、明治の強い東京人女性であった。




姉は、高校・兄は、私立中学・Sは、小学校3年生・弟は、幼児。父のコンデンサー工場は、水害で倒産、家には差し押さえの赤紙が。

        上根岸の正岡子規庵



昭和29年・吉田茂内閣

2016-09-23 | 思い出
上野 国立西洋美術館(世界遺産に)


日本は、敗戦によって大きく変化、ー女性の参政権・民主主義と言論の自由・・・国民は大きなものを手にしたー。
敗戦か8年で「テレビ放送が始まり・電気洗濯機・電気冷蔵庫(3種の神器)」生活・経済は大きく成長していったが、そこには、
貧富の差が露骨に広がっていった。
昭和20年の天皇戦争終結玉音放送後に「鈴木貫太郎(海軍)内閣辞職・東久邇皇族内閣・その10月に、
外交官の幣原内閣が成立したが21年4月辞職
5月に極東国際軍事裁判が開廷している・キーナン主席検事は「天皇は訴追せず」の声明が出た。
その一か月後に、無所属で「吉田茂内閣」が成立(蔵相石橋湛山)-GHQは、農地改革で、小作地80%を開放した。
昭和22年5月社会党「片山哲」首班内閣が成立・23年2月辞職し・民主党「芦田均」内閣は、その10月昭和電工事件で辞任。
23年第二次「吉田茂・民自党」内閣成立。
東条英機ら7人絞首刑執行、他の岸信介・児玉誉士夫・笹川など容疑者の19人は釈放された。
吉田茂内閣約6年間には、帝銀銀行事件・太宰治入水自殺・全学連結成・法隆寺金堂焼失・ソ連から引揚・
湯川秀樹ノーベル物理賞受賞

現在の寛永寺坂陸橋(昭和20年頃は、焼け野原の下町が一望できた)


昭和25年6月ー朝鮮戦争勃発ー・カルメン故郷に帰る初の総天然色映画が松竹から・保安隊が発足
昭和28年朝鮮戦争不戦協定調印・その翌年、自衛隊が発足された。
「幣原喜重郎」 1872-1951  1903年三菱「岩崎弥太郎」娘雅子氏と結婚・昭和天皇「人間宣言」を起草。
「片山哲」 1887-1979  社会党・9が月で倒閣。
「芦田均」 1887-1959 昭和電工事件で倒閣。
「石橋湛山」 1884-1973 言論の自由を主張。
「吉田茂」 1878-1967 サンフランシスコ講和ー日米安全保障条約締結した。

寛永寺坂陸橋で、sの凧上げで一番凧に(姉のミシン糸無断で使用)



昭和22年、GHQから政府に、「教育基本法」男女差別を禁じ、男女同権と共に共学文化が一気に受け入れられた。
それまでは、男女同席せず。ーアメリカでは、最近男女別学の良さが見直されてきているという。

前方JR鶯谷駅・右寛永寺・徳川家墓所。



Sは、1945年昭和20年、7歳小学一年生~1950年昭和25年小学6年生に。
この6年間で、母が過労で亡くなり、水害で父の会社が倒産し家が差し押さえに・・・。Sの家族は。これから苦しい生活が始まる。

GHQは農地大改革を

2016-09-21 | 思い出


1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。
この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
不在地主の小作地の全て在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等、また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、
農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。
この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府やGHQもその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
ー戦後50年 毎日ムックよりー

一億総懺悔

2016-09-18 | 思い出


「東久邇稔彦」 1889-1990 終戦処理にあたった皇族総理
陸軍士官学校・陸軍大学校卒業、太平洋戦争突入持、防衛総司令官、敗戦後、鈴木貫太郎内閣の後、総理大臣に。
就任後の記者会見で、
「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」という。

いわゆる「一億総懺悔」発言を行い混乱の収拾に努め、当時の日本国民の内、いわゆる大和民族は約六千万人程度、
ここで言及されている「一億」には四千万人足りないが、これは当時、まだ大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)といった主権国家が朝鮮半島に成立しておらず、今後の扱いが不透明であった台湾及び朝鮮半島の住民合わせて約四千万人を含めて「日本国民として太平洋戦争を戦った者が総懺悔」とした表現であり、この時点では未だ国際法上の日本国籍を喪失していなかった台湾及び朝鮮半島住民も含めて、世界に対して敗戦国民として戦争中の過ちを反省し、懺悔するという意味とされている。
この「国体護持」と「一億総懺悔」を敗戦処理と戦後復興に向けた二大方針。
東久邇宮内閣は、省庁再編、軍の武装解除、連合国軍の進駐、降伏文書調印など、次々と重要課題を処理していくことが求められ、いまだ体制の整わない連合国軍最高司令官総司令部ーGHQーからの指令にも対応していった。
このような中で、GHQから、昭和20年10月、に伝えられた、いわゆる「自由の指令」(人権指令とも。「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」)への対処が問題となった。
この指令は、人権確保のため、治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特別高等警察(特高警察)の解体、“日本共産党員や違反者の引き続きの処罰”を明言した山崎巌大臣始め内務省幹部の罷免などを内容。
しかし、東久邇宮内閣はこの指令を実行することによって国内での共産活動が再活発化し革命が起こることを危惧し、指令の実行をためらい内閣総辞職に至り、短命内閣であった。
その後、皇籍を離脱し新興宗教教祖となり話題になった。

ー戦後50年 毎日ムックよりー