syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

富士川に沿って 由井から「田子の浦にうち出でてみれば白妙の・・

2018-08-31 | 気まま旅
東海道五十三次
江戸・日本橋 - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - 原 - 吉原 - 蒲原 -「由比」 興津 - 江尻 - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川
袋井 - 見附 - 浜松 - 舞阪 - 新居 - 白須賀 - 二川 - 吉田 -御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - 宮 - 桑名 - 四日市 - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - 関 - 坂下 - 土山 - 水口 - 石部 - 草津 - 大津 - (京・三条大橋)・ 京街道(大坂街道) (京) - 伏見 - 淀 - 枚方 - 守口 - (大坂・高麗橋)

「由比宿」
由比は、江戸より数えて「16番目の小さな宿場町、海と山に挟まれた鰻の寝床が連なる農漁村だが、本陣、脇本陣が一軒ずつ有って密集し、昔は賑わいを
見せていたのであろう。「弥次喜多道中」で茶屋の女性達の呼び込みに辟易したのはどの辺であったのか。
宿場の西に由比川が流れ、水量が増すと「歩行渡り」で、越えなくてはならなかったという。「踏み込めば 草臥足も治れるかや 三里たけなる由比川の水」
と当時の狂言である。

JR東海道本線「由井駅」                   駅前商店街
    

「地持院」は、山号を北田山、臨済宗妙心寺派に属し、往古地持院山の麓か西山寺にあったという。1573~91年 開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。
爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行って、明治初年の神仏分離策により、現在の寺形になった。
本尊は地蔵菩薩「市指定文化財」、他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地蔵」や「六地蔵」「わらべ地蔵」「のっぺらぼう地蔵」、
寺領ヌクイから掘り出された「掘り出し地蔵」等がある。お地蔵さまの寺とも呼ばれている。
本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立し、開山暗室和尚より鮎川博道和尚で27代目。

地持寺                               楼門
    

境内は、約二千坪に本堂・堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼等諸堂が配置され、飾る四十四面の襖絵・彼岸庭になっている。
心にやすらぎを与える禅寺らしい寺。本堂(大正10年建立)、客殿(平成7年建立)、彼岸庭より見た客殿。
書院(平成7年建立)、鐘楼(昭和34年建立)、住職手造の山門・塀と所々の彫刻もある。

寺の隣には、「駿河國廬原郡 豊積神社・旧郷社」がある。御祭神ー木花之佐久夜比賣命、旧由比町の鎮座。
鳥居をくぐると、茂った木々で境内は暗い、境内に、二基の鳥居、大イチョウの木がある。
神事の、「太鼓祭りは有名」境内には、太鼓の彫刻もあった。正面の社殿の後方には、垣に囲まれて、流造の本殿がある。参拝。

神社鳥居               拝殿                  地持寺   本堂
    

浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していたという、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇から取られたという説もある。
坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り、ここで、宴を催したことから、太鼓祭りが起ったという。境内社の数も多い。

神社本殿                            緑に囲まれた境内
  

「経塚山、妙栄寺」は、1854年、日満上人が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志と石塔と草堂を建立。
これを経塚山妙栄寺と称し自ら開山となった寺。
当初は三間四面の辻堂にして、無檀無禄であった。明治23年、望月与平が堂宇を修繕してついに題目修行の道場とした。
18世一妙院日久と一浄院日豊法尼の心願によって現本堂が建立され、20世真亮院日恩に至って境内地の整備された。

                           本堂
   

「由比本陣」(大名が宿泊する施設)は、本陣一軒と脇本陣一軒、旅篭屋が三十二軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。
弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも往時の賑わいぶりを伝えている。
由比町には、今も当時の面影を残す所が多く、町ではこの本陣屋敷を整備し、江戸時代の生活文化を知る貴重な体験ゾーンとして町民をはじめ訪れる人々が
江戸文化に触れることのできるよう由比本陣公園として開放。
                                 資料展示場
    

表門、石垣、木塀など、本陣は普通に見られる本陣とは少し異なっていて、街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した。
「遮蔽型本陣」といわれる形式を特徴としている。表門、石垣、木塀や馬の水呑場などは、当時の佇まいを彷彿させる物。
「本陣記念館(御幸亭)」明治天皇がご小休された離れ屋敷。
茶室、水屋などを備えた伝統的な和風建築、出来るだけ当時のままを復元されている。
記念館前にある庭園は「松榧園」といい、その由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名したもの。
記念館北側の庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組みなどを修復しながら再整備された。

                     本陣 庭園
    

「楠木正雪」は、慶安4年・1651年に、「由井正雪の乱・慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。正雪の首塚が「菩提樹院」に存在する。
慶安の変 は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を
集めて幕府転覆を計画した事件。しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。

東海道幕末の風雲児、正雪は、駿府まで逃げて自刃したが、遺髪を託し「正雪紺屋」の浦に埋められているという。
明治に掘り出されかけたが、災いが起きたため中止されている。

明治天皇休息処碑                 本陣前の紺屋
    

「神沢川酒造場」は、由比町の酒、 南部杜氏、仕込水は、神沢川の伏流水。
秋には黄金色に染まる米どころ、冬には雪に閉ざされる寒冷な気候、そんな所が酒蔵にふさわしい風景のように思いがち。
しかし一年を通して温暖な気候の静岡にも三十数件の酒蔵がある。

静岡のほぼ中央、東海道の十七番目の宿場町今なお古い町並みを残す由比町に正雪の蔵元、神沢川酒造場はある。
北に富士山を背にし、南に駿河湾を望む由比町は、小倉百人一首の中に山部赤人が「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」
と詠われた地と言われる所で古くから東西の交通の要所として栄えた町。
古い歴史を持つ由比町は、駿河湾でしか捕れない桜えびの産地として水産加工業の盛んな町でもあり、田圃もなく温暖な気候のこの地で
創業大正元年、酒蔵としては若い歴史であるが、酒質の向上に努めているという。

由井宿に残る黒塀                       造り酒屋 工場の煙突 昔は、煙がもくもくと
    

仕込み水は、横を流れる神沢川の上流より引き込んでいるものを使用して、鉄、マンガン、マグネシウムなどをほとんど含まない軟水で
スッキリしている酒であった。

工場内              瓶詰工場
  

「酒の話・ジンの製造」
原料は、ライ麦とトウモロコシを蒸煮した後麦芽を加え糖化、醗酵液を蒸留し、留液をアルコール分50-60%まで水を加える。
杜松の香料を刻むか蒸留釜に置く方法(ジンヘッド)アルコール蒸気が通過する方法。杜松(ジュニバー)特有の香気をもったものになる。
安価なジンは、ジンエッセンス(香料植物)加えたものもある。

「蒲原宿」へ
駿河の海を見渡し、みかんの山を眺めつつ、歩いた。ここは、天下の東海道、五十三次、15番目の蒲原の宿。街は、由比と同じ細長く、格子戸が並ぶ町並み、江戸時代と大きく変わっていないようだ。
蒲原宿は、山、川、海に囲まれた静岡市清水区蒲原である。駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域。温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。
海辺の町らしく明るく伸びやかで、確かな歴史の息吹が感じ、通りの人に聞くと左に見える山の頂上に「蒲原城」が有ったという。

「蒲原城」は、 山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等

歴史は、鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。

1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる。

蒲原城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれていた。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害であった。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続きます。そんな中でも、北条の長老格であった
幻庵長綱の子ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつであったという。

蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           


蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きをし ていたという。

宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


蒲原宿は、町をあげて古い物を大事にしているという。小さい蒲原宿の名所の中には「旧五十嵐歯科医院」、「志田邸」「青山荘」などがありました。

旧東海道蒲原宿の街並み                 大正時代の歯科医院    


「志田邸」は、東海道蒲原宿でコメや醤油を扱っていた商家志田家の主屋。国の有形登録文化財に選定された。
東海道町民生活歴史館は、志田家に残る江戸時代からの醤油工場等を活用した資料館、江戸時代から昭和前期までの町民生活に関係したもの
展示している。

志田邸跡


山梨南アルプス駒ヶ岳、釜無川・笛吹川源流から南に流れ、ここ蒲原の駿河湾に注いでいる富士川河口「新富士川橋」を渡ります。
登呂の遺跡、駿河国府、今川氏の本拠地、家康の城下町、、。歴史の静岡市と別れ富士市の中心「吉原宿」に向かいます。

新富士川橋


「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。

                             富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。

この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。

浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが


「吉原宿、田子の浦」
吉原は、富士市の中心より少し東に位置。田子の浦港に架かる橋「沼川橋」を通ると、戦国時代の「吉原宿」のあった所。
田子江川、潤井川、小潤井川、和田川、沼川が流入し、港の周辺は、古くから製紙の町として発展してきた。
富士市ということもあって日本製紙・王子製紙・三島製紙などの製紙工場が多く、倉庫(埠頭倉庫)、運輸業、食品加工工場も集中する。
南側には石油埠頭があり、油槽所も多い、西側には、旭化成の工場、東側寄りには貯木場となっている。
港を作る前は砂浜海岸であり、湾になっていることで、定期的に浚渫工事が行われている。
しかしながら、田子の浦港に入港する外航船(外国貨物を運ぶ船舶)は、主に紙の原料となるチップや コーンスターチの原料となるトウモロコシなどの
バルカーがあり、これらはパナマックス級であることが多いが、このクラスの船に貨物が満載の状態や潮の干満を考慮しないと船底を擦ってしまい
接岸できなかったりする。

沼川の石水門は、明治19年に完成し、「6つめがね」の通称で親しまれていた。長さ63.5メートル、幅・高さ6.9メートルの立派なもので、沼川一帯の農耕地を海水の逆流から守ってきましたが、貯木場を建設するために取り壊され、(現在は沼川橋になっています)昭和41年12月沼川石水門は、撤去され、碑が建てられている。

現在の街並み                      石水門の碑             
    

「田子の浦」
「田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」 山部赤人(新古今集)。
(田子の浦まではるばる来てみると、富士山の高いところは真っ白になっている。今でも雪は降り続いているのだ)

「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)。
 (“田子の浦ゆ”の“ゆ”がまず違い、これは経由の由(ゆ)。
 ”田子の浦に”ではここから富士山を見たという事になり、“田子の浦ゆ”ではここを通って富士山が見えるところまで出たという)

“雪は降りつつ”と“降りける”でもかなり違う。“つつ”では今も降っているという意味になり、“ける”では降ったということになる。

“白妙の”と“真白にぞ”でもかなり違ってくる。万葉集・新古今集とどっちが・・・・。

田子の浦みなと公園の森                田子の浦    化学工場のクレーンが
    

「田子の浦みなと公園」山部赤人の歌碑あり。
公園から残念ながら田子の浦の港は臨められないが、秋には、展望台から、御前崎、東は箱根山麓、南は天城から大瀬崎、そして北は富士山、愛鷹山、
南アルプスと見える時もあるという。

公園展望台から                  園内の神社で参拝
    

「市の津波想定」は、東海地震の被害想定で、富士市沿岸に到達が予想される津波の高さは2.6~2.8mと推定、
田子の浦湾内に侵入した津波は高さ3.8mと推定され、市の海岸沿いには、過去の高潮被害の後に高さ17mの防潮堤が設置されており、この防潮堤を超えるような
推定はされていないという。
市内の津波の浸水の深さは0.5m以下と推定されて、津波による家屋の倒壊や人的な被害は想定されていない。
しかし、東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会の報告にもあり、想定できなかった地震の規模と巨大津波が東北地方を中心に発生し、
未曾有の大震災に日本中の沿岸地域に住んでいる人々が不安を感じている。

ここ「みなと公園」も、海は、コンクリートの壁。

「毘沙門天・妙法寺」は、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にある毘沙門天妙法寺。
毘沙門天は、四天王最強の神で、すべてのことを一切聞きもらさない知恵者というところから多聞天とも呼ばれている。日本では財宝や福徳を与える神様としている。
毎年旧暦の正月に行われる毘沙門天大祭は日本三大だるま市の1つとして有名で、ここで売られる立派なひげのだるまは五穀豊穣、商売繁昌などの縁起物として人気。

毘沙門天妙法寺                   正面
  

山号、香久山、毘沙門天、市今井町、 日蓮宗 本尊 一塔両尊、創建 1627年  開基 渡部彦左衛門 、開山 日深上人、本寺 身延久遠寺、 日蓮宗橘、
毘沙門輪宝 鎮守 毘沙門堂、 旧暦正月7~9日:大祭(だるま市)。

銭洗いの池に、「お札やコインを洗って種銭して下さい」、と書かれていた。毘沙門天は勝負運、開運に利益があるとされて、ここでお金を洗って商売の種銭にしたり、
勝負事などにも御利益が?。

大鳥居                        鐘楼          本堂前           
    

本堂は、毘沙門堂と呼ばれ、日本風建築、奥には、インド風建築の建物。同じ寺内の建物とは思えない、屋根は、竜が彫られている。
左右に狛犬も彫られ、歴史を感じさせる。呪文で、フクジュウカイムリョウの呪文を唱えは、惣無量の物を与えたまえの意味らしい。

焼香殿                              本殿
  

本堂の中に、大きなダルマがあり、網で囲われていた。立派なひげをたくわえたダルマが笑っている。手前には商売繁盛と家内安全の文字。
小さなダルマは、右目だけ黒く入れられていた。念願が成就したときに左目を入れるのであろう。

本堂内                      竜神                         本殿外廊下
    

富士川に沿って、続きます。

江戸っ子だってね 寿司食いね~清水港、日本平

2018-08-29 | 気まま旅
「薩った峠の戦い」薩った山の戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂。

直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、
「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る」
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」

直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。


海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像する。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。ここでも「親不知、子知らず」の道と呼んでいる。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着く。

春になると境内は山桜、かすみ桜など22種220本の桜で満開になる。駿河国三宮、創建は不詳、御廬神社とも記され、「日本三代実録」元慶3年に
「駿河国従五位上の御廬神に正五位下、下総国正六位上の子松神に従五位下を授ける」とあり、879年に正五位下の神階を授けられている。

松原神の道の入り口神社           鳥居               境内
    

重要文化財・ 太刀、 無銘、鎌倉時代の作。鎬造。糸巻太刀拵が付属する(市指定文化財)。本殿、 江戸中期の建立。入母屋造り。
その他・ 羽衣の裂 羽衣の笛 三保古絵図ねど。

神社前                                    本殿
  
 
鬱蒼とした境内内                      三保の松原神の道松並木
    

「神の道」は、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ松並木を云う。清水港から駿河湾に突き出した半島が三保。東岸に広がる三保の松原は万葉の昔から知られた景勝地で、
霊峰富士を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は、今も変わらない。

歌碑の立て看板が            並木
    

昔から親しまれている三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
 
風雪で曲がりくねった古松が             松並木のトンネルを
    

1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。
原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したため、土砂の需給バランスが崩れたことと考えられている。
現在、静岡県は海岸から百メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置し、砂を補給するなどの養浜対策を講じている。
また「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行している。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状。

並木を抜け砂浜海岸へ
  

日本新三景の一つ三保の松原は、天女の羽衣の松が樹齢650年。晴れていれば、老松林越しに見える富士山の姿も絶景。
江戸時代には三保全体が松林に覆われ、清水湊を挟んだ対岸の江尻宿からは、海にぽっかり浮かんだ松林が見れたという。

羽衣伝説の三本松の一本が枯れかけている  自然のバランスが崩れ浸食
  

静岡茶摘み、
         夏も近づく八十八夜
                    野にも山にも若葉が茂る
                         あれに見えるは
                               茶摘ぢやないか
                                  あかねだすきに菅の笠

日本平へ。
清水駅は、貨物の取り扱い駅であった。2002年まで、JR貨物の駅。車扱貨物のみの取り扱いで、武田薬品工業の化学薬品の取り扱いを、新南陽駅から輸送された原料の(PPG) をタンクローリーに詰め替え輸送していた。
2001年まで、現在も駅北東にある東燃ゼネラル石油清水油槽所の荷役設備へ専用線が続いており、潤滑油発送が行われ、発送先は汐見町駅や安善駅、1980年代までは駅南東にある豊年製油静岡工場(現・J-オイルミルズ静岡事業所)へ続く専用線もあり、接着剤などの発送が行われている、国鉄分割民営化前には、駅舎北に複数の有蓋車用貨物ホームが残っている。

現在は、明るい駅舎と駅前にサッカーの像がある。
近代的駅に生まれ変わり、清水市は、"日本のブラジル"といわれ、清水で、定期的な国際交流試合が数多く行なわれている。
その数は国内で開催される外国との年間60の交流試合の4分の1に当たり、サッカー交流している都市もブラジル、韓国、カナダ、台湾、ウルグアイ、アルゼンチン
とアジア、アメリカ大陸にまたがる。
各種大会の招待チームに至っては、ヨーロッパのチームの参加例も多くまさに全世界的な広がりを見ることができる。
組織化、国際化などの点で清水は日本サッカー界あるいは日本のスポーツのパイオニア的な地位を占め、全国大会での優秀な成績がその有効性を裏付けていという。

JR清水駅前ロータリー                  サッカー像が


「清水駅前銀座商店街」は、清水駅前銀座アーケード街で120店舗が並ぶ、「七夕祭り」「鉄火巻日本一に挑戦」などででも知られている。
地元のお客との結びつきを深め賑わいを見せている。店舗は、 食品、衣料など多種にわたり、個性豊かなお店が多い。

商店街通り             店の間に地蔵尊が
  

古代の清水は、1万年以上前であったと言われており、縄文前期にはすでにムラが形成されていたことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている。
5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現し、律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国の国衙が置かれ、県中部地域の中心であった。
日本書紀には、663年の朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。
日本武尊の伝説
につながる草薙神社や三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載され、江戸時代まで戦国時代に駿河の今川氏領国を経て、甲斐国武田氏によって
駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になり、江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水港は駿府(現在の静岡駅周辺)の外港として機能し、江戸への中継基地として富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送で賑わっていた。

「市指定史跡 清水天王山遺跡」有度山東麓の扇状地に立地。
縄文時代から古墳時代にかけて生活が営まれており、そのなかでも縄文時代後期・晩期を主体とする集落跡。
住居跡やお墓の跡・竪穴式住居・平地式住居が3軒見つかる。
(竪穴式住居:地面を一段掘り下げて炉や柱を設置し、そのまわりに周堤を築き、平地式住居、地面を掘り下げず炉や柱を設置し、そのまわりに周堤が、遺物包含層が何重にも存在し、縄文土器の編年研究上、特に重要な遺跡として知られている。
この地域では数少ない縄文時代後期・晩期の貴重な遺跡。

清水と云えば清水港           港から富士山が美しい、今日は薄曇り


清水港は、663年「やまとの国の救将 廬原君臣 健児(兵士)万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済に至らむ・・・。
これが清水港が史書(日本書紀)に出てくる最初である。
 
いろいろな船の出入りが多い港              清水港


童謡「赤い靴」の歌詞は、赤い靴 履いていた 女の子 異人さんに  連れられて 行っちゃた

歌詞の中に出てくる、「いじんさん」というのは幕末から明治にかけてよく使われた言葉で、異人さん、異邦人つまり外国人のことである。“青い目”と歌われている事から、西洋人と見られる 

「有度丘陵・日本平」は、丘陵は駿河湾沿いにあり、最高地点は有度山の標高308メートル。
広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい
地殻変動である。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走っている。

丘陵は眺望に優れ、1959年には「日本平」として国の名勝に指定された。
1980年の日本観光地百選コンクールでは第1位となった。頂上付近からは富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈も見える。
眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、夜景のスポットにもなっている。

赤い靴の歌碑                            母子像


「日本平ロープウェイ」は、名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道である。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧が楽しめる。

              日本平から下界を               放送アンテナ      


「船越堤公園」は、1988年にできた面積94000㎡の大きな公園です。船越堤には様々な植物があり、中でも約千本の桜(ソメイヨシノ・他)が有名。
船越堤の桜はワシントンのポトマックというところから里帰りした桜で、今でもワシントンのポトマック河畔の桜は毎年咲き乱れ、桜祭りが催され日米親善の
シンボルとなっている。
清水とカナダとの交歓留学記念植樹や平成18年に秋篠宮家の長男として誕生した悠仁親王殿下御誕生奉祝植樹などがされている。
散歩コースとして、地元の人々で多くの人に親しまれている。

公園入口
  

天文台(41cm反射望遠鏡・田阪鏡、旭精光製赤道儀)は、定期的に星を見る会が催されている。せせらぎの小川では夏が近づくとホタルを見ることができる。
散歩やトレーニングをしている人がたくさんいた。車椅子の方や階段が苦手な方は横にスロープが整備されている。
階段を登った所からの景色は、清水市街を眺めることができ、晴れた日は富士山が見えると云う。
紅葉の里の散歩道がある、この脇には戦時中に使われていた防空壕があった。

散歩の伯父さん元気に「おはようございます」と挨拶が
  

奥にはステージがありイベント等も行われ、花見の宴会会場でにぎわいを見せる。8月の清水港花火大会はここから花火を見ることができる。

整備された園内と濃い緑
    

「鉄舟寺」は、市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は補陀落山、本尊は千手観音菩薩。
飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した。その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという。
平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄え、1570年、武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、
宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属す。

江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。
旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある「山岡鉄舟」が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。
鉄舟の書跡の遺品も多い。

鉄舟寺入口                        楼門
  

「国宝・久能寺経 法華経(久能寺経)19巻」 現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託している。
鉄舟寺所蔵品の員数は19巻、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。 なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
 
「重要文化財」 錫杖 康治元(1142年)年銘。
「県指定文化財」 木造千手観音像(観音堂)、 木造蘭陵王仮面 伝赤鶴(シャックル)作。
         高塚竹堂銅像など。

仁王像                  楼門の中                 高台にある鐘楼               
    

「山岡鉄舟」1836-88  徳川家存続に尽くした剣術家、槍術の山岡家を継ぐ、新政府軍西郷隆盛と会談し徳川家存続を訴えた。
山岡の「鉄砲突き」で恐れられていた。墓は、谷中全生庵にある。

山岡鉄舟像                              本堂と境内
    

「梅蔭禅寺」は、臨済寺妙心寺派、開山は足利時代と言われる古寺。境内には、清水次郎長と、側近の大政・小政・増川仙右エ門・お蝶夫人の墓がある。
入館料¥300円、
「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるもの、侠客としては、全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されて、
初代の銅像は太平洋戦争で供に出され、現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作された。
背後の石垣は、駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられる。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されている。
 
                     本殿                   次郎長の墓(有料)
    

「清水次郎長」1820-93  博徒、甲州の黒駒勝蔵らと抗争、旧幕府艦隊の死体を収容し埋葬した。

「浪曲虎造さんの、森の石松」
  旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名題なるかな東海道、 名所古蹟の多いとこ。なかに知られる羽衣の松とならんでその名を残す、
   街道一の 親分は、清水港の次郎長の数多身内のある中で、四天王の一人で乱暴者といわれたる・・・・・・・。

境内                              清水次郎長像
  

「清水次郎長生家」は、新清水駅から歩いて20分位、次郎長生家の前は商店街になって、名前は、「次郎長通り」。
次郎長通りを歩いて行くと、次郎長生家は商店街の中に有る。商店街の一部に同化している。復元された建物ではなく、当時の生家そのままという。
生家内には、次郎長に関する展示物と、奥のほうにはお土産なども売っている。次郎長生家の裏手には巴川が流れていて、海に近い。

                      次郎長通り商店街       朝の街    
    

次回は、東海道「由井宿」方面へ。

静岡 おせんげんさま浅間神社

2018-08-25 | 気まま旅

静岡県の面積は全国13位、北は南アルプス・南は太平洋で温暖・多雨ー東海型気候下にある。みかん畑や茶畑の暖地性植物の栽培条件に適している。
東海道53次のうち22宿が県内にある。そのため、東京と京阪神の」両中心地の経済、文化、政治の接触地域でもある。
1854年のぺりー艦隊が下田に停泊・下田開港・1889年に東海道本線開通・1934年丹那トンネル開通・1968年東名高速路が、地形も相模灘・駿河灘
遠州灘に面して水産業にも恵まれている。焼津のカツオ一本釣り、御前崎漁場は南方へ拡大さ。せ世界の海へ。
静岡市は、県中央部にあり、県庁所在地都市・江戸時代から徳川家康の謁見するために、12万人の人口の一大としであったと「ドン・ロドリゴ」が
松尾芭蕉は、「駿河路や 花たちばなに 茶の香り」幕末開港後製茶が静岡を支える産業になったという。
早くから人が住み着いた静岡は、「登呂遺跡」でも知られるが、旧石器・縄文・弥生・古墳時代の遺跡が多く、646年遠州国・駿河国が成立している。

東海の日光「おせんげんさま・静岡浅間神社」 駿河国総社・富士新宮

神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の3社を総称して「静岡浅間神社・おせんげんさま」広く信仰されている。
3社とも鎌倉時代以降歴代幕府の崇敬を受けており、特に江戸時代の徳川氏からは、金額10万両の巨費で現在の社殿群が。

                         赤大鳥居


「山田長政」 ~1630 シャム国王に重用された日本人・駿河国生まれ、慶長16年タイに渡り、9年後、日本町の頭に「日本人部隊」を卒いて
シャム王国に尽くした。
                   山田長政産土神としても知られている。


                主神ー大己貴命・木之花咲耶姫命・大歳御祖命

                           神社マップ


                祭儀 廿日会祭ー春の訪れ告げる祭典が(舞楽)4月1日から5日
                静岡まつりと同時。 
                            楼門(重文)


       宝物ー家康公の太刀・三十六歌仙扁額・今川家、武田家、豊臣家、徳川家などの古文書・・・。

賤機山古墳(国指定史跡)


              末社ー麓山神社・少彦名神社・八千戈神社・玉鉾神社などが

                           本殿


「賤機山古墳」は、山の南端の宮ヶ崎町 古墳時代の円墳が、石室には家形石棺・装身具・馬具・祭祀具・武器などが出土したと云う。

                           大拝殿(重文)


                        麓山神社社殿には、百階段を


                            八千才神社


                            総門(重文)




                           舞殿と回路


                           手水舎


                            神水


・一つ石ー神社の周りの水路の底に面して一段の石が聞かれていると言う。
・叶馬ー左甚五郎作、安永の火災で二頭の木馬逃げたが一頭は、そのまま残ったという。
・水飲み竜ー左甚五郎作 火災時池の下で水をはいて御殿にかけたと伝わる。・・・七不思議として話が残されている。





                            境内


                 神社近くの骨董屋さんで「家康しかみ木彫り」が




                           駿府城外堀


                          駿河から見た富士山


駿府城公園へ。

徳川家康のふるさと駿府城 

2018-08-23 | 気まま旅

東海道の中心として栄えた城下町「静岡市」。初代将軍の徳川家康は幼い時と晩年を過ごし、そして最後の将軍・徳川慶喜も戊辰戦争で破れた後、謹慎中を含めてその生涯の約20年を、ここが、静岡市で過ごした。
徳川慶喜が静岡市へやって来た時は33才で、多くの時間を写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など多くの趣味に没頭する生活を送っている。
写真や狩猟の際には屋外に出かけ、見かけた静岡市民からは「ケイキ様」と呼ばれて、多くの人々から親しまれていたと云う。
徳川慶喜が静岡市で住んでいた場所は、JR静岡駅から徒歩5分の場所にある、静岡随一の名園「浮月楼」一般公開されている。
市の繁華街からすぐ近く、周囲の喧噪とはかけ離れ静けさに包まれた場所に、「浮月楼」はあり、「浮月楼」こそ、徳川慶喜が大政奉還後の明治2年から約20年あまりを過ごした屋敷跡。
浮月楼は、徳川慶喜が平安神宮を手がけた京都の庭師に造らせた回遊式の庭園が元になっていると云う。慶喜はこの美しい庭を眺めながら、静かに過ごしていましたが、近くに東海道線が開通し、汽車の音がうるさいため、別の場所に引っ越しをしている。その後、残念ながら屋敷は火災で焼失し、現在では庭園や一部の建物を残すのみで、現在は、料亭「浮月楼」として約2000坪の庭を眺めながら食事を楽しむことができ、多くの静岡市民にとって憧れの催事場となっていると云う。
1868年に慶喜は退隠・後に養嗣子「田安亀之助ー徳川家達」が藩主となり、「駿府城」に移っている。
その後、「廃藩置県」により静岡藩県知事に家達・1891年明治24年、家達東京へ「駿府城」は静岡市に払い下げられ「中央公園」となる。

                          徳川家康像


「徳川家康」 1542-1616 関が原で天下を、江戸幕府創始者・征夷大将軍・松平広忠の子。
織田信長と同盟、「小牧・長久手」で豊臣秀吉と戦い講和・北条滅亡後、秀吉から「関東250萬石」を与えられ・豊臣5大老の一人に
石田三成、関が原で破り対抗勢力一掃・大阪の役で豊臣氏を滅ぼす。
家康は、6歳で人質    物まねをする珍鳥を貰ったが
「この鳥には自分がの声がない・人も器用な輩は知恵が無いものだ・このように己を持たぬ鳥は、大将の玩具にふさわしくない」と突き返した。
家臣達は、家康の聡明さに感嘆したと云う。
「三方ケ原の戦い」で、信玄の上洛を阻止するか、黙って見過ごし通過させるかの瀬戸際の選択に阻止を選び、寡兵で大軍にたち向かった。
徳川軍惨敗し、家康退却途中で恐怖のあまり脱糞・・。が、のちの勲章となった。
家康は、人徳者で、信長が罵詈雑言を浴びせた武田勝頼の首を丁寧に供養させ「若気の至りでした」慇懃に述べたという、これを知った武田の旧臣は、
家康に感謝し、抜群の働きを塩田と残っている。
遺骨は遺言通り、久能山・日光東照宮へ。晩年は、ここ、駿河城で。

                       朝の静岡駅前


「徳川慶喜」 1837-1913 徳川幕府の幕引き最後の将軍。
徳川15代将軍・常陸国水戸藩主徳川斉昭らの7男、一橋家を相続、家茂を補佐して幕政を担った。積極的幕政改革推進したが慶応3年「大政奉還」を。
慶喜の英明と行動力は、討幕派陣営にも知れ渡っていた。木戸孝允は、「侮れない、家康の再生を見るようである」と評している。

「竹千代時代」
母親とは3歳で生き別れし、父親とは8歳で死別した。
物心ついてから竹千代の苦難が始まったが、駿府に人質として来た竹千代には、じめじめとした暗い人質のイメージは少ない。
今川家軍師の臨済寺雪斉和尚からも勉学指導を受けるなど、通常の人質とは大きく違った。
一般的に人質というと暗い座敷牢の感覚であるが、やせても枯れても竹千代は岡崎のプリンスで、人質と言うよりは岡崎から来た「政務見習い」として
駿府に預けられたという見方を。
竹千代が人質の身分であったことには間違ない、竹千代の駿府生活は、8歳から19歳まで。

                     竹千代時代の家康。


「駿府城」 静岡駅を北に約700m。 徳川家康の居城跡   面積ー約50万M2
                         マップ


               1607年「今川氏・駿府城地」大拡張して築城した。

                         外堀


                    本丸と二の丸の堀はうめられた。

                          石垣


                     三の丸外堀と石垣は再建

                          県庁が


                       駿府城公園内のマップ


                  大手御門  三の丸堀 当時は土橋






                          二の丸堀


                           中堀




                      巽櫓は往時を忍ばせている。




                           未申櫓


















                        発掘が


静岡市は、駿河国府所在地で、「府中・駿河など」呼ばれ、明治維新から「静岡」に。

                     駿府城公園の廻り


さすが徳川家康の城下町、幼少の頃、「今川氏」人質として駿府で過ごしている。名物に篭細工・桑細工・紙絹、紙合羽 、藍鮫細工などで
江戸時代は都会の府として商人が多く集まったという。安倍川餅を食べに、、、。

駿府博物館の家康・勝海舟の書跡 県立美術館の池大雅 片山廃寺跡・・などがあるが又に。

これで静岡は終わります。

島田市 世界一長い蓬莱橋 武士たちの茶畑

2018-08-20 | 気まま旅

東海道の中ほどに位置する、静岡県「駿河路」
駿河湾がきらめく天下の景勝地、徳川家康が、終の棲家として選んだ地で江戸時代初期の駿河路は、「家康詣で」をする国内外の要人たちで活気にあふれ
広重が描いた絶景・弥次喜多が食べ歩いた名物、そして東海道一の難所は、「大井川」。
江戸時代に東海道を抜けるには、難所と呼ばれるところが2か所、1か所は、「箱根の峠越え」・1か所が「大井川」。
なかでも大井川は、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように、箱根以上の難所であった。
そんな大変な大井川を渡るのに、なぜ橋や渡し船がなかったか。そんな素朴な疑問が。
増水により川止めが2~3日も続くことが、また、大井川を渡るためには、川越人足とよばれる人たちに肩車をしてもらうか、蓮台と呼ばれる梯子のようなものに乗せてもらう以外に方法はありませんでした。
旅に慣れた人の間では「川を越してから宿を取れ、川の手前で宿を取るな」というのが常識となっていたと云う。
旅人がそんな不便な思いをしているにもかかわらず、江戸幕府はどうして大井川に橋をかけなかった。また、なぜ大井川には渡し船がなかったのでしょう
一般的には、江戸を守るための軍事的な理由から、幕府によって大井川には橋を掛けることが許されていなかったと云うが、大井川に橋がかけられていなかった理由は、いくつか考えられ、川の勾配や川幅といった地形的な問題や水量などを考えると、当時の架橋技術では橋を架けることが困難であったということ。確かに明治12年になって大井川に橋がかけられましたが、その長さは900mにもおよび、世界一長い木造橋といわれた。
江戸時代の架橋技術でそれだけの橋を作ることは、実際に難しかった事・しかし、それだけが理由ならば、なぜ渡し船がなかったのかという疑問が。
実は、ここに大井川になぜ橋がかけられなかったのかという本当の理由は、
川越人足の既得権益者を守るためと渡し船を認めてほしいという請願が幕府に対して何度も出されていると云う。
しかし、幕府はそれを頑なに認めようとせず、島田と金谷の両方の宿で、川越人足を束ねる組織がつくられ、その業務を独占的に行うことを幕府から認められていたのが大きいと云われている。
川越人足は、最盛期には1000人程度もいたといわれ、当時においては巨大産業の一つ。現代の日本においても、従業員が1000人規模となるとかなりの大きな企業で、当時では、他に考えられなかったと云う。

「勝海舟」 1823-99 幕臣・江戸無血開城に尽くした。
江戸本所生まれ、咸臨丸艦長、アメリカへ渡る。神戸海軍操練所長を務め、徳川家存続に尽力した。知人に「神戸は早晩必ず繁栄する土地、地所などしっかり買うように」と勧めたと云う。晩年茶畑開墾に・・・。
                         「勝海舟」像が。


勝海舟達は、咸臨丸で渡米したとき、茶の世界的な商品価値を知り、旧幕臣に「牧の原の開拓」をすすめたという。
明治2年、新政府の命を受け幕臣「中條景昭」ら、幕臣達が「牧之原」1425HAの茶畑の開墾し勝海舟は、物心両面で助力を続けた。
明治6年、仕事を失った川越人足達も41HAの茶畑を開墾し、大井川を渡って「島田」と交流を持ち、旧幕臣達も年々増えていったと云う。
当初は、小舟で大井川を渡っていたが、新政府は橋を架ける事を許可した。それが「蓬莱橋」である。
現在は観光用の橋であるが、勝海舟達の存在を抜きに語ることは出来ない。

                   天下に名を轟かせた暴れ大井川


壮大な街道筋の「牧の原茶畑」は、「金谷」。
小夜の中山で牧ノ台地・武田勝頼が1573年再築したと云う諏訪原城がある。
大政奉還後に職を失った幕臣達や川越人足達が開墾した。
武士たちは、紋付き袴に陣笠と鉢巻き姿で、尻もちをつきながらの野良仕事に励んだと云う。その道のりは厳しいものであったと云う。

                    蓬莱橋(明治12年完成)


                    全国でも数少ない「木造賃取橋」


                   長さ約897m-世界一の長さの歩道橋


                        島田駅から約20分


                     大古大井川は、流路移動が


                         蓬莱の島台


                        金谷~島田宿へ


                        恵比寿尊天像




                     島田宿は大名一行で約百両也


「鵜田寺」 虎御前と島田髷 で知られ、島田最古「野田薬師如来」
島田出身の遊女・虎御前が考案したと言い伝えられている<島田髷>を結って、市内を踊りを混ぜながら練り歩く<島田髷まつり>が9月第3日曜日
に行われ、最後に虎御前の菩提寺・鵜田寺で髷供養感謝祭が行われている。
島田髷ー日本髪で最もポピュラーな髪型で、江戸時代初期に島田宿の遊女の間に広まり、種々の型が生まれ一般に広り、その起源が虎御前にあると伝承されている。
虎御前は、<曽我兄弟の仇討ち>の兄・十郎の妾で、一生兄弟の菩提を弔ったといわれて、その虎御前の供養塔が、ここ「鵜田寺」にある。

鵜田寺は、758年開創されたと伝え、眼病にご利益がると信仰を集める薬師如来を本尊とし、野田薬師と呼ばれている。

山号:天正山・真言宗泉涌寺派の寺・開創は、758年・本尊 薬師如来・薬師如来坐像は、県指定文化財 藤原時代 像高52cm


                          弘法大師像が


                            本堂


「島田市バラの丘公園」有料

                    平成4年開園・バラは、市の花


                         香の部屋も


                      大温室ートンネル温室も


                       花博のバラ園




日蓮宗の「正覚寺」  本通り沿いにある。



                               山門


「大善寺」の梵鐘・時の鐘
鐘は、天明4年・1784年、「時の鐘」として備え付けられたという。以後、昼夜六時(2時間おき)に、この鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と、暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図となっていた。
この鐘は昭和19年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和48年に新しく造られた。
毎月1日・15日と大晦日に撞かれていると云う。



                                山門




                                本堂


島田観光出来なかった所ー智満寺「天台宗、千手観音、本堂」・東光寺日吉神社「猿舞」・天徳寺「曹洞宗の山門」・白岩寺・静居寺「惣門」等。
次回は、静岡駅下車。