syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

吉祥寺と井の頭公園

2011-04-30 | syu散歩
人気のある「吉祥寺駅」を下車。
JR東日本の中央本線、京王電鉄の井の頭線が乗り入れ、接続駅となっている。京王井の頭線は当駅を終点としている。駅構内は、若者でにぎわっていた。


「雲洞山月窓寺」曹洞宗。ご利益は諸願成就・道中安全、吉祥寺の四軒寺の一つで、蓮乗寺の東隣、光専寺の南隣にある。
正門は商店街サンロードに面し、本堂左脇にある観音堂に安置されている白衣観音坐像は、武蔵野市内最古の銘(元禄二年)を持ち、武蔵野市の重宝に指定されている。
かつては土地の馬頭観音信仰と結び付き、「馬掛けの行事」が盛大に行われていた。 観音堂の脇に吉祥閣落慶を記念して玄奘三蔵法師像が置かれている。
山門、境内、本堂、左に観音堂がある。

                     三蔵法師像                     本殿
    


吉祥寺 ハモニカ横丁 。吉祥寺吉祥寺駅前に残る昭和な空間、新旧100余の名物ショップが融合し、近年ますます注目度アップ。
八百屋、魚や、惣菜や、漬物や、和菓子、易などの小さい店が、ハ―モニカの穴のように整然と並んでいる。路地も大人一人が
通れるほど。

ハーモニカ横丁
  

      


「井の頭恩賜公園」は、武蔵野市の南東から三鷹市の北東にかけて広がる公園である。総面積は約380,000m²である。
井の頭池は北西-南東方向に延びる細長い形の池であり、北西端は二つに分かれ、南東端からは井の頭池を源とする神田川が流出している。

雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れ、そのさらに南には西園が位置している。この西園には、400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館がある。
玉川上水の下流側の脇には小さな広場のある東園がある。井の頭自然文化園と雑木林の御殿山は武蔵野市に属している。井の頭池の北側はすぐに武蔵野市になる。

井の頭公園の近隣は、井の頭池から北500m弱にはJR中央線吉祥寺駅が位置している。
この吉祥寺駅には井の頭公園に向かう公園口(南口)が設けられており、吉祥寺駅から井の頭池にかけての道路に面して若者向けの商店が並んでいる。 

  


弁財天(弁才天)はもともとはインドのヒンドゥー教の神様サラスヴァティー。 このサラスヴァティーとは聖なる(豊かなる)河といった意味で、水の神様とされてきた。
日本でも、三大弁才天とされている、江ノ島・竹生島・厳島をはじめとして、水のそばにまつられていることが多い、井の頭弁財天も井の頭池の中におまつりされている。

  

牡丹、花言葉は、「王者の風格、風格ある ふるまい」・「牡丹散って うちかさなりぬ 二三片」 与謝 蕪村。

  

次回は善福寺池へ

国分寺恋ヶ窪と湧水

2011-04-29 | syu散歩

武蔵国分寺が「全国の国分寺」の中でも最大の規模であったが、何故武蔵国分寺はそれほどの規模であったのか。
現在の首都である東京があるから、武蔵国は特別な存在なのだと1300年前の人が考えるわけもない、
しかし東国に置いては奈良時代でも,武蔵国は中心的な存在であったことは想像がつく。


現在の国分寺境内の東にある「真姿の池」は、府中街道とほぼ同じ道筋となる東山道で、
鎌倉街道の宿場であった現在の恋ヶ窪。湧水がある。

所々に湧水が 
  

「都立武蔵国分寺公園」
この公園は、旧国鉄の「中央鉄道学園」跡地を取得し、また郵政省の戸建て宿舎跡地等を換地して用地の確保がなされた。
公園を含む周辺地域は、埋蔵文化財包蔵地に指定されており、発掘された土器や矢じり等から、
先土器時代より生活の拠点として環境条件が備わっていたことがうかがえる。

この公園の北側地区には、直径160mの円形芝生広場があり、災害時の避難広場としての機能の他、
既存の樹木を中心とした植栽や透水性舗装園路等雨水の地下浸透を図り、湧水の涵養に寄与した整備がなされている。

南側地区は、国分寺崖線の保全と水源涵養を図る「保全ゾーン」であり樹木を有効に利用した樹林広場となっている。
また、この地区の南側に隣接する国分寺緑地には「お鷹の道」や「真姿の池」があり、周辺はハケと言われる
湧水群となっていて、日本名水百選に選ばれている。また、崖線下には、国指定の「武蔵国分寺」の遺跡があります。

このように、この公園は、環境を保全、活用し、周辺に残る国分寺崖線や雑木林と調和を図り、
文化的、歴史的遺産に配慮するとともに防災機能を備えた総合公園です。
開園年月日 平成14年。開園面積 108,839.26m2で拡張計画もある。

緑一杯の園内、                       遊歩道も整備され親子蓮れが多かった
  

入口から広い池になっている
  





「一葉松」は、
武将・畠山重忠と傾城・夙妻太夫 との悲運の恋に由来している松、夙妻太夫の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えた松。
不思議な一本葉の松で、夙妻太夫の一途な思いの現れとも云われ、いつしか「一葉松」(ひとはまつ)と呼ばれるようになった。
言い伝えの一葉松はすでに枯れて、現在 、枝を植継いだ松が東福寺内の本堂・事務所にむかう階段横に数本植えられており、
中央の若い松が三代目の一葉松。
                                    東福寺本堂     
    

畠山重忠(1164-1205)鎌倉武士、頼朝上洛時先陣を切る。平家追討戦で武功を挙げる。重忠の2度目の妻は、
北条時政の娘、最期は北条義時に討たれ畠山一族は全滅する。


国分寺市恋ヶ窪の湧水
  

「姿見の池」緑地公園は、鎌倉街道の宿場であった恋ヶ窪にあり、湧水が集まり池になった公園。
宿場の遊女が朝夕に自分の姿を映して見ていたことから「姿見の池」と呼ばれた。大岡昇平の「武蔵野夫人」の舞台にもなっている。

  


次回は、吉祥寺へ。





春の武蔵国分寺と湧水

2011-04-28 | syu散歩

国分寺崖線の南側すぐの位置に、東山道武蔵路を挟む形で東側には武蔵国分寺、西側には武蔵国分尼寺が立地。両寺院の間を府中街道とJR武蔵野線が通過している。

尼寺を後に東側に、(武蔵国分寺)1922年に七重塔・金堂・講堂・北院・西院等の跡地が発掘され、国の史跡に指定、1976年に東僧房の跡地を追加指定している。
1979年発掘調査によって国分尼寺が判明された。

西院の跡地の一部も追加指定され、2003年には史跡公園(国分寺市立歴史公園武蔵国分尼寺跡)として整備、
2004年には府中市内で確認された武蔵国分寺の参道口が追加指定。
史跡指定地内には、鎌倉時代末期の分倍河原の合戦の兵火で旧武蔵国分寺が焼失した後、新田義貞の寄進によって再建されている。
現在の「国分寺」は、江戸時代の社寺保護政策により徐々に復元され、1733年に本堂が建立され、昭和62年に改築し今に。
境内には、薬師堂文化財保存館や、万葉植物園なども出来た。

武蔵国分寺                   楼門
  


国分寺薬師堂【市重宝】

国分寺境内にあり、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、現在の金堂跡付近に建立されたと伝えられている。


国分寺薬師堂 
     

国分寺の西にある堂宇で、隣接して仁王門や鐘楼がある。市指定有形文化財。本尊の木造薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されている。
毎年1回、10月10日に一般開帳される秘仏。

境内                       
  
  
鐘楼                      本殿
   



「お鷹の道・真姿の池湧水」全国名水百選、都名湧水57選
848年、重い病に苦しんでいた絶世の美女、玉造小町は、「池で身を清めよ」との霊示を受けて快癒した、その池が「真姿の池」。
また、湧水群の清流沿いは、江戸時代のお鷹場に由来する「お鷹の道」で、カラーの花が多く、ほたるの養殖が取り組まれている遊歩道。
                            真姿の池に通じた小川、遊歩道
  

「資料館」は、僧寺、尼寺のほか、住居を含むと、東西1.5K,南北1Kと広大な範囲に及んでいた。長年の発掘調査で出土資料、
瓦、土器、皿、農具、仏像など展示されている。

資料館入館料 ¥100  旧石器時代から江戸時代の文化財など展示
  

次回国分寺続きです。

武蔵国分尼寺跡

2011-04-27 | syu散歩
「西国分寺駅」は史跡が周囲に多数ある。今回は駅周辺のウオーキング。3回に分けて取り上げる。
東京 - 高尾間の中央線の駅では最も新しい西国分寺駅。武蔵野線開通に伴い、乗り換えの便を図るために設置された。
1973年 武蔵野線開通と同時に開業。1987年 国鉄分割民営化により出来た武蔵野線は、1990年から京葉線直通で東京駅への乗り入れを開始したため
中央線・武蔵野線双方に別ルートの東京行きが存在する。西国分寺駅からスタート。

武蔵野台地南西部、段丘の間には、国分寺崖線と呼ばれる崖が走る。湧水の多い崖線付近は、先土器、(縄文時代)の遺跡が多く出土している。
武蔵国分寺建立の地で、当時の姿が偲ばれる。江戸に入り新田開発され農村地帯となる。昭和30年に入り、東京のベットタウンとして都市化が進んだ。



「伝鎌倉街道」鎌倉上道と呼ばれ、群馬の上野と、信濃に向かう主要道路であった。現在国分寺崖線を切り通した120m程の道
が残り、
12世紀に幕府が開設され相模国鎌倉と結んでいた当時の雰囲気が感じられる。

      

黒鐘公園は、2009年開園。 国分寺崖線の南、遺跡地帯に位置する黒鐘公園は、 国分尼寺跡と伝鎌倉街道に隣接し ている。
公園内の池は、水量がだいぶ減りましたが崖線からの湧水でできている。
桜の名所としても知られ、高低差のある地形を利用されている。面積は、12,528㎡ある。

  


「武蔵国分尼寺跡」は、
JR武蔵野線西側に広がっており、国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定。史跡指定地は、公有地化と整備事業を終え、国分寺市最初の市立歴史公園として平成15年4月に開園。  
尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示。

尼坊は柱位置が判明し、新たに石を配置してある。 このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)もある。
金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設がある。
尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられ保存したまま、広場としいる。
さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが貫通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡がある。


「伝祥応寺跡」は鎌倉時代末期に立てられた 寺跡
    

東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)で、古代道路跡として学術上価値が高いものです。



東山道武蔵路の西に「国分尼寺」があった。

  

現在、国分寺市歴史公園で、金堂の礎や塀を見る事が出来る。

  

国分寺は、741年聖武天皇が、国ごとに建てた官寺、僧寺を金光明四天王護国の寺とし、奈良の東大寺を総国分寺、尼寺を法華滅罪の寺、法華寺を総国分寺とした。

尼寺跡にある土台の石
    

8世紀の国内は、餓死、千害、地震など災害、疫病で人々は苦しんでいた時代。朝廷は、仏教の力を借りていた。

    

全国の国分寺の中でも規模が大きく、歴史的にも重要、国指定史跡に指定されている。


  


武蔵野線ガードを潜り国分寺・跡へ

小岩・影向の松

2011-04-25 | syu散歩
下総国甲和里が変じて「小岩」になった。江戸時代は、江戸川の市川橋付近は、関所があり、渡し場になっていた。
1899年総武本線「小岩駅」が開業、1933年市川駅まで電化に、1969年地下鉄東西線、1988年京葉線、道路も拡張され、水田、ハス田は住宅に変わっていった。
JR小岩駅前は、フラワーロード、サンロードと乗降客で賑わう商店街が続く、江戸川湖畔には、北原北秋が約一年居を構えている。
「柴畑草舎」と名付けている。作品は、白秋小品、短歌の煙草の花など残している。

「八幡神社」祭神 誉田別命、 葛飾区鎌倉、 旧鎌倉新田村鎮守、もと別当浄光院 、相模鎌倉郡、源右衛門が当地開発に際し、1624-44年に鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたと伝えられ、江戸時代には旧鎌倉新田村の鎮守。

                                    小岩から見た市川橋
      


「萬福寺」真言宗豊山派の寺院。
萬福寺は、五社山明寿院と号す。宥唯上人が開山となり、1536年創建。明治15年に区内で2番目の公立小学校が本堂を借りて開校したので区登録史跡となっている。
小岩生まれで近代相撲の開祖といわれる第44代横綱栃錦の菩提寺。

  


「善養寺」真言宗豊山派に属し星住山地蔵院という。「小岩不動」とも言われ「影向(ようごう)の松」で知られている。
銅版ぶきの本堂は、1845年の再建されたもの。

  


「影向の松」は、樹齢600年以上と云われている。東西の枝の長さ約30m。繁茂面積は日本一。都天然記念物指定。影向とは、神
仏が姿を現すという意味。




境内は12000m2ある。中央に「影向の松」が、どんと茂っている。松を囲むように仁王門、大師堂、鐘楼、星降の松などがある。
 
  


「篠崎公園」
千葉県との境を流れる江戸川の堤防の西に広がる公園。広場と運動施設を備え、緑地の少ない東部地区にあっては、貴重な存在。
昭和15年の紀元2600年記念事業としての公園。
一部に高射砲陣地などが設けられ、その他は農地に。戦後、再び公園に、今後、計画に従って、南部区域が造成される。

  


「浅間神社」
木花開耶媛命、 大山祇神の娘で、石長姫神・など祀られている。内火難消除、安産、航海、漁業、農業、機織などの守護神として信仰。
平安時代932年に下総国弥山の人弥山佐奈比が神人として奉仕したと風土記にある。
正史に言う承平天慶の乱のとき、将門平定と関東の平安を祈り、940年に平貞盛が霧島神社を祀り、金幣と弓矢を献し祈願した。
浅間神社の創建は、天慶元年(938)5月15日で、1100年の歴史を持つ。

    


夕日を浴びながら江戸川土手をウオーキング、江戸川は1654年幕府が江戸の水害防止のため、利根川大改修をし分流し、
運河として利用東京湾に注ぐ、長さ59.9km。

  


「寿昌院」
黄檗宗の寿昌院は、江島山と号し、草創は寛文年間といわれ、貞享元年(1684)に寿昌院桂月元皎禅尼が開基しました。
山号 江島山、院号 寿昌院、住所 江戸川区松本、本尊 千手観音像、 松本弁天。

境内の弁天堂にちなんで、「松本弁天」とも呼ばれている。
「臥竜の松」は樹齢270年といわれ、枝を広げた姿の美しい名木である。



今回で江戸川方面終わります。