syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

松戸ー江戸川を下る 10

2016-05-31 | 気まま旅

千葉県松戸市・県北西の住宅都市。更級日記に「まつさと」とあるのが地名語源と云う。
市は、下総台地の西端部で丘陵地であるが、江戸川沿いは沖積低地が見られる。
常陸と武蔵へ通じる交通の要衝として発展してきた。江戸時代は、幕府直轄領、旗本領であり、江戸川沿いの新田開発が進められた地域。
台地上には「黄金牧」が置かれた。
江戸川と日光街道が交差する地点で宿場町として栄えた。特に江戸川舟運が、野田・銚子からの中継河岸であった。活況を呈していたであろう。
1896年の明治29年、-日本鉄道海岸線・現在の「常磐線・土浦ー田端」と1955年の私鉄新京成電鉄・松戸ー津田沼間開業により内陸部の開発が
進んだと云う。住宅と共に工業団地の建設が早くから行われた。
現在の鉄道は、JR常磐線・新京成・東武野田線・総武流山電鉄・北総開発が東松戸ー矢切り通過している。

「陸前浜街道」東京日本橋ー宮城県。
千住(都足立区)で、日光街道と分かれ、水戸ー平ー宮城県岩沼ー奥州街道に合流する。
明治以前「浜街道」・東京では、水戸までを「水戸街道」と呼び、水戸では「江戸街道」とも云っている。(五街道ー東海道・奥州街道・中山道
に日光街道・甲州街道)陸前浜街道も道中奉行支配街道であった。(参勤交代に利用)

              都葛飾区金町に「関所」があった。
    

松戸江戸川の向かいが埼玉県八潮で、中川と綾瀬川に狭まれた沖積低地で、山東菜で知られている純農村、地盤沈下で騒がれている。

「坂川・六間川」-流山・松戸・市川ー江戸川に注ぐ。
松戸柳原水門で洪水が、流山街道に沿って分水され、松戸市内に坂川と六間川が流れ桜の名所に。
    

「一里塚」
江戸日本橋を起点に一里の約4kmごとに設け、塚は道路の両側に設置され、「榎」などが植えられた。
榎は、根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割が。一里塚の起源については諸説あり、現在の一里塚といえば、1604年、に設置が命じられ
江戸時代のものをさしている。
明治の末頃までは、塚の跡が残っていたが、今は、姿を消している。

 東京湾から、ここは約20.1km   川の一里塚の碑が
    

「葛飾区の工業」ー葛飾区が、現在のように工業地帯として発達を遂げた原因は、その立地条件にある。
明治・大正と、物資の運送手段は、陸運より水運が特に重要視され、江戸川、中川、荒川、綾瀬川に囲まれた葛飾区は最もその条件に適したと云う。
三菱製紙、江戸川化学(現在の三菱ガス化学東京工場)、日本紙業(現在の日本板紙)、日本建鉄(現在の森永乳業東京工場の場所)、浜野繊維、
宮本染色、新理研工業、那須アルミ、東洋インキ、ミヨシ油脂等の各工場は、いずれも中川、綾瀬川の舟運を利用する関係から設立された。
舟運のみならず、これらの川の水を利用する工業として製紙業、染色工業、布さらし工業などが集中。



          現在葛飾には、セルロイドの玩具中小の工場が


「松戸・排水機場、樋門」-昭和40年代からの松戸は、宅地開発が。
広大な水田を埋め立てられ、このため少しの雨でも浸水する地域ができ、これの解消のために排水路の整備が。
排水機場を設け、馬橋排水機場の他、4箇所の排水機場を建設し管理されている。
松戸排水機場 国土交通省 100m3/s 平成7年 ー古ヶ崎排水機場 国土交通省 15m3/s 昭和55年ー樋野口排水機場 千葉県 15m3/s 平成7年
柳原排水機 千葉県 26m3/s 平成7年ー馬橋排水機場 松戸市 5.1m3/s 平成7年ー栄町西排水機場 松戸市 1.66m3/s 平成7年
栄町排水機場 松戸市 3.7m3/s 平成6年ー中堀排水機場 松戸市 2.79m3/s 昭和52年ー矢切新田堀排水機場 松戸市 1.8m3/s 平成10年 。



「葛飾大橋」- 外環の葛飾区間の国道部は、昭和53年に着工し、平成17年、葛飾 大橋の千 葉方面行きが開通した。
又、同年には、三郷~松戸市間の約8.4kmが4車線で開通した。
高速道路部の千葉方面への延伸に向け、平成20年度から、東日本高速道路により、江戸川渡河部での橋脚工事が始まっている。

               これで葛飾橋の渋滞も、約3割転換しと云う。


「内国通運会社・通運丸」-明治・大正時代、利根川水系蒸気船。
貨物・旅客の定期貨客船(船の両側に大車輪・推進機として走る)-全長約20m・巾約3m・時速11km。
廃業までに40隻地殻造船している。



千住宿から二つ目の「松戸宿」
松戸宿は、江戸川に面しており、江戸側の対岸には金町松戸関所が置かれていた。
江戸時代には江戸川に橋は架けられておらず、渡船となって、松戸側にも渡船場跡付近に「天領」を示す御料傍示杭が建ち(現在はその付近に石碑が)
そこが松戸宿の江戸側の端となっていた。
歌で知られた「矢切の渡し」は、松戸宿の南、旧矢切村に位置。
松戸駅北側の松戸市根本(旧根本村)は駿河田中藩本多家の領地で松戸宿ではなかったと云う。松戸宿近在の農家には江戸川対岸に農地を持ち、
自家用船で川を往来する者もあったと云う。
松戸の宿場町は南北に約1kmほどの範囲に広がって、松戸はまた、物資集積地としても栄えた場所であり、数百軒の家並みが並ぶ大規模な集落を
形成していたと云う。
          運河としても使われた坂川が市街地を横切って流れている。
    

                  東京スカイツリーが
  

「戸定邸」
松戸宿は、江戸と水戸を結ぶ「水戸街道」の宿場町。
同邸そばの松戸神社には水戸藩二代藩主ー徳川光圀ゆかりの銀杏の樹があるなど、古くから水戸藩とつながりの深い土地。
1884年の明治17年、に完成し、昭武の生活の場として使われたと云う。
明治30年代に実兄である元将軍ー徳川慶喜が何度か訪れ、昭武とともに趣味の写真撮影などを楽しんだと云う。
多くの皇族が長期に滞在するなど、由緒のある屋敷として知られた。
明治25年、昭武の嫡男武定が特旨によって子爵を授けられると、以後は松戸徳川家の本邸となった屋敷。

                坂川河口、江戸川と合流する
    



                   御料松戸宿の碑が


松戸には、「本土寺」北小金にある日蓮宗の寺、山号長谷山、1277年鼻和地蔵堂が、アジサイ2万株と約5000株の菖蒲が植えられている。(紫陽花寺)
     「万願寺」馬橋、臨済宗の寺、山号法王山で開基行基ー千葉氏ゆかりの寺、1379年足利氏満が中興で一字の「満」。




次回は、野菊の墓・矢切りの渡しへ。

流山 利根運河ー江戸川を下る 9

2016-05-28 | 気まま旅

「流山」は、千葉県北西部・江戸川に沿って埼玉県に接する市。
流山の市名の由来は、江戸川の流れで山が削られ出来た土地と、群馬県赤城山の土砂が流れて来たとの伝説・諸説がある。
「万葉集」に「にほどりの 葛飾早稲をにへするとも その愛しきを 外に立てめやも」と詠まれるように、古代から江戸川沖積低地の稲作地域
であった。江戸時代には、江戸川水運の河港として栄え、新田開発により良質米が増産された。
この米を利用して酒造業が。又、「みりん製造」が盛んとなり、今でも流山は主要産業。
廃藩置県により葛飾県庁が置かれたが「千葉県成立・1873年」県庁、千葉市に移転した。
JR常磐線の通過を拒否し、後一時衰退した。
現在は、JR武蔵野線南流山・東武野田線「初石・江戸川台・運河」・総武流山電鉄「流山・平和台・鰭ヶ崎」近郊住宅都市として発展している。



「利根運河」
流山市と野田市の境界に明治期に掘削した「利根運河」は、江戸川と利根川を結ぶ全長8.5Kmの遺構が保存されている。
江戸川河川事務所が管理する水路で、散策路もよく整備され両岸に展開する手付かずの里山を貫く。
土木遺構は、貴重な存在と云う。
運河の竣工は明治23年、パナマ運河竣工の24年前、徳川中後期にかけて江戸は既に世界一の人口を擁する百万都市であり消費物資の物流路は
唯一舟運に頼っており、この大動脈が銚子から利根川、関宿から江戸川へ、小名木川、隅田川経由で、東北や関東各地の米穀、木材、魚介物その他
産品が大量に供給され江戸の生活が成立していた。
舟運には利根川筋に難点が、江戸川流頭の分流点関宿から鬼怒川合流点付近の部分に冬季渇水や土砂堆積でしばしば航行不能になり木下河岸から
陸路行徳河岸へ、布佐から松戸、布施から流山など3ルートを馬の背に頼り、更に江戸川で船に積み替えていた。
鮮魚など急送産品は時間短縮の為に常時、木下街道などの鮮魚街道を経由したとも云う。
利根運河の掘削案が明治14年、茨城県会議員・広瀬誠一郎が発案し、が、数代に亘る千葉、茨城両県知事も巨額工事の賛否が定まらず内務省は
鉄道建設を物流の本旨とし、この件案には否定的で公費建設は断念し、運河会社を設立した。-利根運河株式会社を設立した。
                流山橋(向かいは埼玉県吉川市)


流山6丁目に小山があり、その名は、「赤城山」-群馬県赤城山の土砂が流れて出来たと云う。流山の地名伝説になっている。
その小山に、「赤城神社」もあると云う。
                 運河河口公園ー海から35km
    

「流山線」
大正元年、地元数人の商工人が発起人で鉄道建設、それが「流鉄・流山線」-5.7km-
流山ー平和台ー鰭ヶ崎ー小金城址ー幸谷(武蔵野線)-馬橋(常磐線)6駅で都心通勤電車に、ワンマンで、単線。

               使われていない「利根運河」
    

「流山三輪茂侶神社のチンガラ(神賀楽)餅神事」
正月新春イベントー5升の鏡餅を若者が割れるまで激しく揉み合い・奪い合うと云う。その餅の割れ方でその年の豊作を占うと云う。

                  工事中で砂利トラック
  

            野田の関宿・中の島工事で運ばれた土砂の山
    

                 江戸川河川敷下の小さな「稲荷神社」
    

「愛宕ふえあいの森」
愛宕神社に隣接する市民の森。
園内には多くのサクラの木があり、開花の頃には多くの花見客でにぎわう。
                   面積ー 約0.8haある。
    

「埼玉県三郷市早稲田ーJR武蔵野線の三郷駅」
「丹後神社・稲荷神社」がある。そこの石碑がー万葉集に歌われた「葛飾早稲」の発祥の地と云う。
ーにほ鳥の葛飾早稲を饗すとも その愛しきを外に立てめやも
「にほ鳥(鳰鳥)」は 水鳥の「カイツブリ」の古名で“葛飾”へのかかりことば「(葛飾でとれる)早稲米を神様に供えるおめでたい夜は 身も心も清く
保たなければならないのに, 愛しいあの人が来たら 外に立たせておくことはできない, 迎え入れてしまうでしょう」という一種の恋歌。
「葛飾」は、 東京・葛飾区から 千葉県市川市~流山市, 埼玉県三郷市などを含む 江戸川流域の一帯を云う。
万葉集が編纂された8世紀ごろには 早稲米の産地として知られていたのであろう。
この神社のあたりは かつて“早稲田村”と呼ばれ, 現在も“早稲田”の地名が 残っている。
丹後神社の他に、 千葉県流山市の「諏訪神社」「茂侶神社」 野田市「中根八幡前遺跡」にも 同じ万葉歌の石碑が建っていると云う。

埼玉三郷には、新撰組近藤勇陣屋敷跡がある。
                   愛宕ふれあいの森
    

                東武野田線「江戸川台」駅


「一茶双樹記念館」ー市指定史跡「小林一茶寄寓の地」の保全及び文化の振興を。
一茶は、この地を数十回訪れている。
茶会・句会等に利用できる双樹亭・往時を偲ばせる主庭を中心に、商家を再現し、みりん関係資料などを展示している。

「小林一茶」(1763-1827)江戸時代を代表する俳諧師ー北総地方には、悠々自適の境地を楽しもうという、俳人山口素堂の一派である「葛飾派」の俳人が多く、馬橋で油屋を営む俳人大川立砂もその一人で、一茶もはじめは葛飾派に属している。
流山の秋元三左衛門(俳号:双樹)と知りあったのも、おそらく立砂を通じてではなかったか、北総地方は、一茶にとってはいわば第二のふるさとであり、流山の双樹のもとには、 50回以上も来訪したことが知られている。

「秋元双樹」-流山で醸造業を営み、(みりん)の開発者のひとりと言われている、秋元家5代目三左衛門(1757~1812)。
秋元三左衛門は家業の傍ら俳句をたしなみ、俳号を双樹と号しました。
秋元双樹の俳句は、「伊勢派撰集」(1780)に入選する程。石碑ー「夕月や 流残りの キリギリス」

今回は、江戸川から離れているので次回とする。



                     JR流山駅前
  

                      松戸市に



次回は、松戸から江戸川を下ります。

野田市 醤油の香りー江戸川を下る 8

2016-05-25 | 気まま旅



野田市は、遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少なく、中世の情報はわからないことが多い。
江戸時代に入るとやや記録が増え、大消費地となった江戸に出荷する「醤油産業」が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として
栄えて、陸上交通としてもー日光東往還ーが通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。
明治22年、 野田町・清水村・上花輪村・・・・・・等、大正まで合併が続く。
・・船形村・尾崎村が合併して川間村が置かれ、木野崎村・三ツ堀村・瀬戸村・二ツ塚村・上三ケ尾村・西三ケ尾村・下三ケ尾村・大青田村の一部
(利根運河の北側)が合併して福田村が置かれ、野田市の年表(明治28年)
梅郷村のうち江戸川右岸(今上の一部)を埼玉県北葛飾郡旭村に編入し、旭村が埼玉県中葛飾郡金杉村大字金杉の飛地を編入し大字金杉を設置。
明治32年、 川間村が茨城県猿島郡中川村の一部(利根川以南)を編入し大字小山・筵内・長谷を設置
大正6年、 高梨家・茂木家など在郷醤油醸造家が合同して設立されていた野田醤油醸造組合が株式会社が。
大正10年、 野田醤油労働争議が勃発し、全国から労働運動家が来訪、大正12年、 福田村事件が起こる。
昭和25年、 野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、「野田市」となる。

「福田村事件」-1923年(大正12年)9月6日、
千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川で、 香川県三豊郡の薬売り行商人15名が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺害。
これが「福田村事件」。被害者は全員、香川県の被差別の人たちでした。

「桜木神社」ー桜咲く 桜の宮に 詣づれば 大神の恵みいただき 大願開花 とー
御神徳ー五穀食料の守り神・商業・産業繫栄の守り神・勝機勝運の守り神・生命と男女の祖神・健康長寿・良縁・夫婦円満の守り神。

祭神ー倉稲魂命・武甕槌命・伊弉諾尊・伊弉冉尊。
    

県最古の神社・宗祀ー851年(中国文化から日本文化へ梅から桜へ)
    

                      荘厳な社殿


「キッコーマン」
永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。
1661年、に上花輪村名主であった梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、
翌年の1662年、茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がけ、その後、江戸の人口の増加と利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大する。
1800年代中頃には、梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醬油の指定を受け、1887年の明治20年、
「野田醤油醸造組合」が結成。
1917年の大正6年、茂木一族と梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立。
「キッコーマン株式会社」
『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。
野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もある。

「醤油醸造家」
梨兵左衛門(初代) 上花輪村名主で醤油醸造家(キッコーマン)、旧邸宅は現・上花輪歴史館として名勝「高梨氏庭園」に指定。
茂木七左衛門 醤油醸造家(キッコーマン)。邸宅群は登録有形文化財(建造物)(非公開)
茂木佐平治 醤油醸造家(キッコーマン)。旧邸宅は国の登録有形文化財(現・野田市民会館)。
六代茂木七郎右衛門 野田醤油初代社長二代茂木啓三郎(飯田勝治) 「新式二号醤油」製造技術を無償公開した。

                 野田市駅から醤油の香りが。


海外への輸出と海外への進出が行われた。敗戦後に途絶えたが、1949年より輸出が再開し、その後に販売会社も海外に再度設立された。
米国においては店頭プロモーションを行い、人気を元に工場も建設。その後、台湾や中国でも事業を展開している。
              製造工場は、現在最盛期の半分に縮小


「醤油の歴史」
醤油は、古代中国に伝わる「醤」であるといわれている。
原料を塩漬けにして保存したことから始まったもので、果実、野菜、海草などを材料にした「草醤」、魚や肉を使った「魚醤)、「肉醤」、
穀物を原料とする「穀醤」などがあり、しょうゆは、その中でも米・小麦・大豆を使用した「穀醤」が原型。
日本に「(ひしお)」として伝わったのがいつ頃なのかは明らかではないが、「大宝律令」によると、宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされている。
「醤」は、今でいうしょうゆと味噌の中間のようなもので、宮中宴会などで食卓にのぼっていたようである。
その後、信州の禅僧・覚心が、1254年の鎌倉時代、中国から持ち帰った径山寺味噌の製法から、味噌づくりが開始。
紀州・湯浅の村人にその製法を教えているとある。
この醤からしみだす汁がとてもおいしいことに気づき、今でいう「たまりしょうゆ」になったと云われている。

          水運時代は、この江戸川から江戸へ運ばれていた。


江戸時代に入り、江戸の発展に伴い醤油の需要が拡大、「江戸川水運の整備」により、当地の豪農・豪商が相次いで製造に参入し「上方の下り醤油」で
銚子を凌ぎ、現在でも全国生産のの3分の1を占めている。

                   東京湾から38・5km
    

1977年、江戸川に沿ってのバイバス有料道路「野田流山ー延長・7.1km」が、30年で償還完了し、2007年の平成19年無料になった。
5号線松戸ー流山(常磐自動車道)ー野田ー国道16号へ、

    

江戸川と利根川を結ぶ「利根川運河」。
               キッコーマンの貯蔵タンク   
  

                    所々で土砂工事
    

川の向かいは、埼玉県吉川市。
                       富士山も
    

「国土交通省・江戸川河川整備局・事務所ー川の観測・被害情報などを管理している。



江戸川を下ります。

野田・清水公園 江戸川を下る7

2016-05-22 | 気まま旅
「私鉄・東武野田線」
昔は、千葉県営で醤油を運搬していた、寄せ集めの青いボロ車両達で統一され、戦時中から買い出し路線、
JR武蔵野線とは違い、一見ただの田舎の集合体路線であると思えるが、実態は、違って春日部から客を大宮方向に奪う路線なのだ。
この現象は、「柏」あたりでも見られる現象と云う。
意外と乗客は多く、「柏駅」は、東武でもかなり栄えている駅。
東武の前、京成の子会社が客の都合よりも醤油専用列車を優先した関係で柏駅の構造がおかしくなり、大宮~柏間と柏~船橋間で分断されていた。
元々は、千葉県が水運の便を良くするために作られたが、後に沿線の某世界的醤油企業から醤油を運ぶのを主にするようになり、後に、
千葉県の路線を京成電鉄の子会社が引き取って、一方で柏~船橋間と大宮~野田市間を完成させ、全線開通させたのだ。
しかし、戦時中になって、元々から京成系列だった船橋・大宮方面を含め、全線が東武線に。
東武に変わり、新車や伊勢崎線への乗り入れや、最近は、某コンビニエンスストアの傘下に収まり、車両も、店舗の宣伝も兼ねて黄緑と明るい青色の帯
を巻き始めている。今後、期待する鉄道に。

野田市を中心に見ると、県境の利根川を境に茨城県岩井市(菅生沼)、柏市手前から鬼怒川が合流する。反対には、埼玉県庄和町との県境の江戸川が、
その間が、野田市で東武野田線は、野田市駅から江戸川を渡り春日部駅を経由して大宮へ。


「野田持忠・右馬介」ー生没年不詳ー
室町時代・戦国時代の「永享の乱」から「享徳の乱」の時期に活躍した武将。
古河公方・足利成氏の重臣・関東野田氏当主、下総国・古河城主のちに下野国・野田城の城主。野田右馬助とも呼ばれた。
永享から康生年間(1429~1457年)に活躍し、実名中の「持」は鎌倉公方・足利持氏の偏諱と云う。1440年、結城合戦の際に、結城方として
古河城に立て籠った城主・野田右馬助が「野田持忠」と考えられている。
鎌倉大草紙ー永享記、によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らとともに城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け
落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死したとある。
野田氏は、木戸氏とともに鎌倉府・奉行衆の宿老、「永享の乱」で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏のもとで再興し、持忠もその
家臣として活動を始める。
宝徳3年の1451年、野田持忠は「野田持保」の知行に強入部し、これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つで、室町幕府から批判される。
1455年、「享徳の乱」のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野国・野田城(足利市)に入り、上杉氏に対抗、「享徳の乱」初期、
上野国の岩松持国を足利成氏に取り次いでいる。以降の動静は不明と云う。

    野田の地名・野田右馬助所領地か、低湿地を意味する「ニタ・ムタ」の転訛か


柏・船橋ー川間ー七光台ー「清水公園」-愛宕ー野田市ー春日部・大宮「東武野田線」

東武アーバンバークライン・さくら名所100選 「清水公園」下車。桜並木が続く


清水開運不動尊「慈光山ー金乗院」野田最古の寺院
金乗院は、応永5年の1398年、京都醍醐山の宥秀上人により開山されたという。
現在は、新義真言宗豊山派に属し、昔は、古義・真言宗・総本山の醍醐派に属した修行寺としてこの地方の加持祈祷や教学の中心。
火災で資料なども焼失しいる。

本尊は、薬師如来で秘仏となっている。安政6年(1859年)の「算額」(野田市指定文化財)や徳川家の御朱印状(非公開)が保存。


清水公園は、28万m2の広さを有する自然公園
         明治27年、茂木家庭園を街に開放された民営公園


「ポニー牧場」が
ポニー種・サラブレッド・ヤギ・うさぎ等と遊ぶ広場も(乗馬教室)

昭和4年林学の大家ー東大名葉教授ー本多静六博士の設計で拡張された。


園内には、フイールドアスレチックが、冒険・水上・フアミりーの3つのコースがある。興奮いっぱい


マス釣り・キャンプ場・バーべキュ―場も、世界初ー噴水迷路と立体迷路、水しぶきを


花のファンタジア季節の花が700種ー7万m2の総合花園


花ー3~5月は、牡丹・藤・薔薇・カンヒサクラ・ヤエサクラ・しだれ桜・ソメイヨシノ、、、、等。
  6~8月は、アジサイ・ハス・百日紅・各ツツジ、、、、、、等。
紅葉11月~銀杏・ナンキンハゼ・モミジ・欅・ドウダンツツジ、、、。


花ー9~11月は、コスモス・ジュウガツザクラ・紅葉、、、等。
  12~2月は、サザンカ・蝋梅・梅、、、等。
日本桜100選選定公園で桜・つつじは関東でも有数の名所。


「旧花野井家住宅」一般公開は、していないようであった。
花野井家は江戸時代、代々幕府直轄の小金牧の牧士を任され、名字帯刀を許された家柄。
小金牧は、現代の千葉県北西部に位置した広大な牧で、野馬奉行配下で牧の管理、野馬の捕獲を指揮したのがこの牧士である。
野馬の捕獲は多くの農民を動員し、たいそうな賑わいで、はるばる江戸からも見物客が訪れ、それを目当てに茶店まで出来たと云う。
捕獲した馬の多くは民間に払い下げられた。
花野井家住宅は元々流山市の「前ヶ崎城址」付近にあった家屋を、昭和46年に寄贈・移築したもの。
昭和44年、重要文化財指定ー建築年代は17世紀後半・桁行15.5m、梁間9.1m、平屋・屋根は寄棟造、茅葺。
正面左側に土間、中央に囲炉裏付きの居間、奥には部屋と納屋、右側には玄関、中の間、床の間付き奥の間が配されている。
現在でも茅葺き屋根の保護のため、しばしば囲炉裏の煙で燻している(囲炉裏の煙は防虫・放湿効果)。



        東武野田線ー清水公園から野田市駅下車する。



次回は、野田市内~江戸川を下って行きます。

関宿ー2・江戸川を下る6

2016-05-19 | 気まま旅
利根川は、渡良瀬川や鬼怒川等多くの川が合流し、かんとうの大動脈として江戸へ物資や人を運ぶ大川で暴れ川である。
利根川の水運主役は「高瀬舟」と呼ぶ大型川船(長さ30m)・米俵約1300俵を運べたと云う。

「関宿水閘門」
利根川から分派する江戸川の流頭部は、明治44年、からの江戸川改修工事により、江戸川放水路開削・河道拡幅・江戸川流頭部の付け替えといった工事とあわせて建設されてきた。
江戸時代、江戸川流頭部で活躍してきた棒出しに代わり、利根川から江戸川に流れる水量を調節することと、船を安全に通すことを目的に、大正7年、に着工し、昭和2年、に完成。
当時は、大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わりつつある時代で、コンクリート造りの関宿水閘門は当時の建築技術を知る上でも
貴重な建造物と云う。
基礎となる堰柱、翼壁ともにコンクリートが採用され、隅石などには花崗岩の石張りが施してあり、見た目はレンガ造りの水門様式を残している。
水流を制御するための水門には、8つのゲートがあり、水門は、スートーニー式鋼製ゲートで、当時は蒸気エンジン、現在はディーゼルエンジンで駆動し、上流から見て右側には、船が行き来するための閘門も造られ、水門を境に利根川と江戸川の水位が違うためにそのままでは船が通過できない。
水位を調節して船が通行できる閘門の幅は10m・長さ100mほどの水路の両側にゲートが設置されている。
閘門は、合掌式鋼製ゲートで、2門を手動で開閉。

                    関宿の棒出し


「船橋随庵」1795-1872 関宿藩家臣・家老、水害や米の不作に苦しむ農民の為に水路を開いたり新田を開発するなど努力された。
「鈴木貫太郎」1867-1948 関宿藩家臣「鈴木由哲」の長男・藩の飛領地の和泉国伏尾(大阪)で生まれている。大戦終結に努力した。
「関根金次郎」1868-1946 将棋・13世名人ー坂田三吉と宿命のライバルで数多い名勝負を。

                 関宿の町から見た城


河川交通は、多くの人を運んでいた。
文人・芸術家等、訪れている。小林一茶・松尾芭蕉など・近代には、長塚 節・伊藤左千代・・・。

      利根川と江戸川が分かれる関宿の河岸・日光東往還の宿場町で栄えた


利根川は、群馬県と新潟県県境の「大水上山」から「関東平野」を流れ「千葉県銚子河口」で「太平洋」へ。
全長約322km・流域面積は日本最大の河川。
江戸川は、関宿から野田(旧関宿)で利根川から分かれ、約60kmの東京湾へと向かう利根川・江戸川と共に近世以降「江戸と地方」を結ぶ
水上交通の役割をしている。
しかし反面水害を幾多と引き起こしている。現在でも治水工事が。



「江戸時代」
上流では川底が石・岩・で流れが早く、中・下流域緩やかであるが水量が多く、ちいきで工事方法が違います。
上流ー大聖牛・棚牛・菱牛、合掌枠・沈枠。
中・下流ー出・土俵・羽口
沼の千拓ー水害防止・新田開発・水運等の目的で江戸時代は開拓工事が継続的の試みられている。徳川幕府の大きな遺産。

                 関宿の渡しの風景


「水運」
江戸時代から「高瀬舟」が、利根川・江戸川を上り下りし、人・荷物を運んでいたが、明治に入り、「蒸気船・通運丸」が登場した。
銚子ー利根川運河ー東京間運行。



中世の関東平野の河川は、現在とは全く別であった。利根川水系は大きく整備された。その為様々な河川技術が考えら出されている。
今日の護岸工事の基礎となっている。
利根川の開削工事は、本流を途中で締めきって新たに川をつくったりしながら東へ・東へ変えている。
1654年、利根川は銚子河口で太平洋に流し完了させている。(その前は、隅田川筋で東京湾へ)

         現在は、鉄道や道路の発達で水運の利用が無くなった。


大正15年、関宿水閘門が新設された。権現堂川は、この年に江戸川を堰止めで廃川とした。現在の姿に。

「関宿棒出し」
両岸から突き出した一対の堤防を築き、水害は緩和した。
利根川・逆川・江戸川の水量を一定に保つよう昭和2年の1927年「関宿水閘門」が設置された。
江戸時代の棒出しは、その時に撤去された。

          利根川と江戸川の間には手賀沼と印旛沼が


利根川河口手前に「霞ケ浦・北浦」が           明治時代の蒸気船ー通運丸ー


鉄道の発達で水運は                  「高瀬舟」          堤防に


1633年ー関東地方洪水・1704年ー破堤(行徳本所)・1723年ー破堤・1728年ー両国橋破堤・1738年ー手賀沼決壊・1742年ー関宿城大破
1757年ー権現堂川決壊・1766年ー下利根川洪水・1772年ー権現堂川破堤・1780年ー利根川・江戸川・渡良瀬川洪水
1786年ー利根川全川水害、権現堂破堤、江戸市中浸水(新大橋・永代橋・両国橋大破)浅間山噴火で川床上昇洪水。
1791年ー上利根川大被害・1802年ー利根川洪水中条堤越水、権現堂川破堤、水江戸市中、荒川破堤

1822年ー江戸川流頭に棒出し設置・・・・・。最近では、鬼怒川破堤洪水があった。

洪水ー何度も起こる洪水、近・現在でも1910年の明治43年とカスリーン台風の昭和22年による洪水で大被害


治水ー洪水に供え各村では、共同で水害予防組合の組織し備えた。(屋敷前に土を盛ったり・・・)


利根川工事絵馬
河川改修工事は、流域の人々にとって意味の大きな事業。
工事の安全を願い、完成時絵馬が奉納された。当時の工事の様子が描かれている。



        関宿城・博物館から江戸川河川敷の橋を渡ると「中之島公園」


「浚渫船」は、河川や港湾などの浚渫作業を行う作業船。
河川や港のように土砂が流入する場所は次第に水深が浅くなるため、定期的に海底をさらう必要がある。
浚渫船はこうした水路の安全確保や、水中土木工事の基礎固めに使用され、必ずしも船の形はしておらず、四角いプラットフォームに近いものも多い。
艀のように自走能力がなく、タグボートに牽引されるものもある。
浚渫する場所の土質・水深・地形などで用途別の船が使い分けられ、泥土や砂など柔らかい底質の場合グラブ、バケット、サクション式など。
強固な底質の場合には大型のバケット式や、発破をかけ岩を崩した上でディッパー式など削岩できる浚渫船が。

                                        「水路浚渫機」


浚渫機が(模型)                      昭和23年の江戸川橋


堰き止めされている。                    関宿から東京湾へ


「中の島公園」
昭和初期の江戸川改修に伴い関宿水閘門脇に造られた公園。
江戸川の治水工事に関連した歴史遺産(関宿棒出しの石、大型バケット、トロッコのレール、鉄橋など)とともに、
関東屈指のこぶしの古木がある。



江戸川・旧江戸川の河口までの橋

江戸川
(利根川・江戸川分派点) - 関宿水門 - 関宿橋 - 宝珠花橋 - 金野井大橋 - 江戸川橋梁 - 野田橋 - 玉葉橋 - 江戸川橋 - (仮称)新流山橋 - 流山橋 - 江戸川橋梁 - ガス導管専用橋 - 江戸川橋梁 - 上葛飾橋 - 葛飾橋 - 葛飾大橋 - 江戸川橋梁 - 新葛飾橋 - 矢切の渡し - 江戸川橋梁 - 江戸川橋梁 - 市川橋 - 江戸川橋梁 - 江戸川大橋 - (江戸川・旧江戸川分派点) - 行徳可動堰・行徳橋 - 新行徳橋 - 水管橋 - 第二江戸川橋梁 - 江戸川放水路水管橋 - 市川大橋 - 江戸川放水路橋梁 - (河口)

旧江戸川
(江戸川・旧江戸川分派点)「 江戸川水閘門」 - 今井橋 - 浦安橋 - 第一江戸川橋梁 - 舞浜大橋 - 江戸川橋梁 - (河口)





次回から「江戸川散歩へ」・野田方面から。