御苑の加湿式温室は、明治8年に内務省内藤新宿試験場に約100mのガラス張りの温室を建てている。
ここで、洋ランをはじめに熱帯・亜熱帯植物を栽培し、技術者養成指導、温室園芸先駆的役割を果たしている。
又、皇室献上植物栽培業務の一つとしている。昭和26年から一般公開。
熱帯季節林と熱帯植物のさまざまをゆったり展示している。
小笠原コーナー・乾燥地・山地・人と熱帯植物・熱帯池沼の植物・沖縄コーナー・戦前の温室遺構野いつ展示されている。
「内藤氏と新宿 ・ 内藤清成」
弘治元年の1555年、三河国岡崎にて竹田宗仲の子として生まれ、内藤忠政の養子・19歳で家督を継ぎ、浜松にて徳川家康に召し出され、小姓を務め、
1580年、徳川秀忠(当時2歳、清成は26歳)の傅役を任される。
1590年、秀忠の供をして上洛し、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された時、清成は、「鉄砲隊」を率いて江戸入りの先陣を務めた。
甲州街道・と鎌倉街道の交差付近に陣を敷き、遠見櫓を築いたという。
家康より四谷から代々木村にかけて20万余坪もの広い屋敷地を賜り、この拝領地は後に新しい宿場(内藤新宿)開設。
明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された。
関東八州庶務奉行・関東総奉行・江戸町奉行、老中などを歴任、行政面にて大きな功績をあげ、秀忠の傅役時代からの同僚である青山忠成と共に、幕府初期の治世を支えた。
1600年、関ヶ原の戦いでは秀忠に従い上田合戦に従軍している(江戸で留守居を務めていたとする資料もある)。
「1606年」大御所家康の怒りを買い、秀忠によって青山忠成と共に関東総奉行の職を停止され籠居を命じられる。
家康が江戸近郊の狩場へ鷹狩に出かけたところ、禁猟であるはずの狩場内に狩猟罠が仕掛けられており、これを許可したのが両名であったためとされる。本多正信らのとりなしにより切腹は免れ、勘気が解かれたものの、以後は政治面から遠ざかることとなった。
この事件は秀忠の征夷大将軍就任の翌年に起きたため、背景に家康と秀忠の実権争いがあるとする説や本多正信による陰謀とする説などが存在するが、真相は不明ー慶長13年の1608年、江戸にて54歳で病没した。跡を長男の清次が継いだ。