syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

西大寺と弓削道鏡

2014-02-27 | 気まま旅
 
近鉄「大和西大寺」駅前、芝町に「西大寺」がある。正式名は、「勝宝山 四王院 西大寺」。真言律宗の総本山。
南都七大寺の一つ、山号ー秋篠山、本尊釈迦如来、札所ー真言宗十八本山15番・ 大和十三仏霊場2番・ 南都七大寺5番
西国愛染十七霊場13番・ 神仏霊場巡拝の道 第23番。

764年恵美押勝の謀反発覚を機に、称徳(孝謙)天皇が、四天王像造立を発願し、その翌年に創建されたと伝えられている。
当初の大伽藍は、平安時代の遷都後次第に衰微している。

私鉄近鉄は、西大寺から奈良線と京都線分かれる。東大寺に対し西にある西大寺、南門現在閉鎖中、東門から
  

中興の祖と仰がれる「叡尊」により復興が図られた。衰微と復興を繰り返し、江戸時代の緒堂宇再建を得て現在に。

孝謙(称徳)天皇 718-770 仏教保護で国を乱した天皇、聖武天
皇の皇女、ただ一人皇室の嫡流を継ぐ女性で、父の後皇位に次ぎ仏教政治を展開し「淳仁天皇」に譲った後実権を持ち淳仁天皇を淡路島に送り、再び皇位について「称徳天皇」と名乗っている。
天皇は、妖僧と云われた「弓削道鏡」を引き立てた事でも知られている。宮廷一の「藤原仲麻呂」を除き、道鏡一派による思いのままの仏教
保護が成された。孝謙天皇の後「光仁天皇」は、官寺の僧侶の権限を削っている。

西大寺小坊町に、南都七大寺の一つ
  

弓削道鏡 772年頃の僧皇位を狙った僧。奈良時代末期法相宗の僧、河内国の小豪族・弓削氏出、
称徳天皇は、道鏡皇位につけ神託があったが、実現せず、天皇死後、道鏡は、下野国薬師寺に追いやられている。
どうして天皇は、道鏡を。それは、道鏡が「宿曜秘法」を身に付け、重病の孝謙上皇を、呪力で、救われ寿命が延びた信じたと云う。
道鏡のその後は、記録に無い。

伽藍は、東西両塔を持っている。再三の火災で荒廃した時も、鎌倉時代祖「叡尊」により復興
    

叡尊は、1201年、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。
11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、1235年、35歳の時に初めて西大寺に住した。
その後一時海龍王寺(市法華寺町)に住した後、1238年西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。
叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努め、また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。
その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の 1391年に出された「西大寺末寺帳」には8か国、同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている。
なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している。

四王金堂は江戸時代、寺の中でも重要な堂・像はたびたび補修「天邪鬼」は、創建以来と云う。
    

伽藍と仏像、境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建つ。本堂前には東塔跡の礎石が残る。(国宝)

「天邪鬼」天衣無縫の表情が人々に愛されている。          本堂
  
 
東塔跡・ 西塔跡・ 本坊・西室・書院・ 寺山大師 護摩堂・ 鐘楼・ 石落神社( 西大寺南町の飛地境内にある)・ 光明殿・ 塔頭 一之室院
護国院・ 増長院・ 華厳院・ 清浄院・ 法寿院
聚宝館 - 寺宝を展示する宝物館である。 塔本四仏坐像(重文) - 釈迦如来、阿弥陀如来、阿閦如来、宝生如来の4体で木心乾漆造である。今は失われた五重塔の初層に安置されていたと思われるもので、奈良時代末期の作。4体のうち阿閦如来像は奈良国立博物館、釈迦如来像は東京国立博物館に寄託されている。

南門・ 東門・ 四王堂南門・ 北通用門など貴重な建造物が残っている。境内が国の史跡指定。

塔跡ー基壇だけが大寺の面影が
    

「国宝」
「十二天像の水天」(国宝)剥落・退色が目立つが、現存遺品の少ない平安時代前期、9世紀の仏教絵画の大作として貴重。奈良国立博物館に6幅、東京と京都の国立博物館に3幅ずつ寄託されている。
「金銅透彫舎利容器」 (国宝)   金銅透彫舎利容器 - 高さ37センチの小品ながら、各所に繊細な透彫を施した入念な作で、鎌倉時代の金属工芸を代表するものの1つである。

「金銅宝塔及び納置品(壇塔)」 - 宝塔とは、円筒形の塔身に屋根を乗せた形の塔。
本作品は高さ約90センチの金銅(銅に金メッキ)製の塔だが、木造建築の外観を忠実に模している。
内部には叡尊が所持していた舎利を納め、1270年の作。

「鉄宝塔・舎利瓶」 - 前期金銅宝塔と同形式の塔。
鉄製で高さ172センチの大型塔である。内部に水瓶形の銅製舎利容器5基を納める。1283年の作

「金光明最勝王経10巻(附 月輪牡丹蒔絵経箱)」762年の書写。(指定の経箱は鎌倉時代の作)

「大毘盧遮那成仏神変加持経7巻」766年、称徳天皇付きの女官吉備由利が発願し、西大寺四王堂に安置した一切経の一部など。

重文・史跡なども多い。

本坊・西室・書院・ 寺山大師・ 護摩堂・ 鐘楼・ 石落神社 - 西大寺南町の飛地境内にある。
光明殿 光明殿・ 塔頭 一之室院・ 護国院・ 増長院・ 華厳院・ 清浄院・ 法寿院と聚宝館 - 寺宝物館が点在する。

藍染塔・舎利塔・宝塔など、                    鐘楼
    

「真言宗」は、弘法大師空海開宗、774年讃岐国生まれ、儒教・道教・仏教三学を学び後遍歴修業、14歳で儒・道・仏の比較して論じた
「三教指帰」書いている。
23歳の804年遣唐使に随行し入唐、西安の青竜寺「恵果」の弟子となり密教の奥義を受けている。
帰国後、和気氏高雄山に住み真言密教を広めた。823年「東寺」を真言密教の根本道場としている。

山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来、             大茶盛は名物1・4・10月茶会が
    

次回は、平城京へ。

志賀直哉旧居 高幡サロン

2014-02-25 | 気まま旅

「奈良下の禰宣道」は、奈良公園から春日大社を経て高畑→頭塔→奈良町に、 下の禰宣道は、「ささやきの小径」として散策路になっている。 鹿の親子が飛び出してきた。
山道を抜けると、志賀直哉旧居。


「志賀直哉」1883-1971 独自のリアリズムを形成した小説家。
宮城県の名家、学習院に学び、東大文学部中退、学習院時代の武者小路実篤らと雑誌白樺・創刊、第一号「網走まで」、次いで
「大津順吉」「留女」等と続き写実描写によって純粋な自我を感じさせる短編を発表。父と対立し尾道・松江等転々として千葉県に落ち着き父と不和解消。
「和解」「暗夜行路」刊行を始め、奈良に住む、文化勲章受賞する。

志賀直哉は1910年に「白樺」を創刊、実父との対立から広島県尾道に住み、夏目漱石の奨めにより後に「暗夜行路」の原型となる「時任謙作」を執筆している。

1913年には上京していたが、同年8月に里見と芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰る途中、線路の側を歩いていて山手線の電車に後からはね飛ばされ重傷を負う。

東京病院に暫く入院して助かったが、療養のために兵庫県にある城崎温泉「三木屋」という旅館に宿泊。その後は松江や京都など各地を点々とし、1914年には結婚する。
1917年には「佐々木の場合」「好人物の夫婦」「赤西蠣太の恋」などの作品を発表し、同年10月には実父との和解が成立。
事故に際した自らの体験から徹底した観察力で生と死の意味を考え執筆され、簡素で無駄のない文体と適切な描写で無類の名文とされている。

あらすじは、東京山手線の電車にはねられ怪我をした「自分」は、後養生に兵庫県の城崎温泉を訪れる。
「自分」は一匹の蜂の死骸に、寂しいが静かな死への親しみを感じ、首に串が刺さった鼠が石を投げられ、必死に逃げ惑っている姿を見て死の直前の動騒が恐ろしくなる。
そんなある日、何気なく見た小川の石の上にイモリがいた。

驚かそうと投げた石がそのイモリに当って死んでしまう。哀れみを感じると同時に生き物の淋しさを感じている「自分」。これらの動物達の死と生きている自分について考え、生きていることと死んでしまっていること、それは両極ではなかったという感慨を持つ。そして命拾いした「自分」を省みる。

深い森に囲まれて森林浴、アセビの名所の散歩道。人通りが少なくひっそり、歴史も深く、静かに歩きたいときには「下の禰宜道」
    

1929年に竣工した志賀直哉自らが設計したとされる和洋中折衷住宅。
モダンな食堂兼娯楽室とサンルームと庭園を備え、多くの文人画家の集いの場となっていたから、彼らの間で「高畑サロン」と呼ばれた。

書斎は、天井が葦張りの数奇屋作りで窓から和風庭園と借景である若草山の眺望をうることができる。
ここで「暗夜行路」、「鳥取」、「雪の遠足」、「リズム」、「万歴赤絵」、「日曜日」、「颱風」、「豊年虫」 などの作品が書き上げられた。2008年から当時(昭和初期)の姿に復元する改修工事が。

「下の禰宜道」を抜けると、志賀直哉旧居
  

志賀直哉旧居 (奈良市高畑)は、小説家志賀直哉の旧居「高畑サロン」とも呼ばれ、一般公開されている。
奈良文化女子短期大学のセミナーハウスとしても使用されている。

直哉は、奈良の文化財と自然を愛し、自ら希望して、
    

1925年(大正14年) 京都山科から奈良市幸町に転居。昭和4年 奈良市幸町から上高畑に転居。昭和12年 「暗夜行路」を完結する。

1938年(昭和13年) 上高畑から鎌倉に転居。

関西一円の古美術行脚を                 奈良京都を中心に
    

開館時間  AM8:40~PM4:30、(休館日 - 木曜)。
竣工 1929年、 構造は、 木造、数寄屋造、 敷地面積 1,440m²、 延床面積 - 442m²。

志賀直哉一家揃って                  中庭
  

奈良福井の大師「不空院」は、鑑真の住坊跡に建立された寺院と伝え、810 - 824年には空海が興福寺南円堂(八角円堂)建立に先立ち、その雛形を当寺に建てたという。
鎌倉時代には西大寺の叡尊、興福寺の円晴、唐招提寺の覚盛、西方院(唐招提寺子院)の有厳が当院で戒律を講じたという。
室町時代には興福寺の二大院家の1つの大乗院の末寺となっていた。
近世は本堂に弁才天が安置されていること、また院号の「不空院」が転じて「福院」とも呼ばれたことで、「かけこみ寺」として奈良町の芸妓達の信仰を集めていたと云う。
1854年の安政の大地震で堂宇が倒壊。大正年間に三谷弘厳によって再興された。

奈良福井の大師                  「不空院」
  

萩の古寺「新薬師寺」
聖武天皇眼病平癒祈願の為、747年に光明皇后が建立したとあるが確かな事は解っていない。
堂には、薬師如来(国宝)と十二神将11体が安置されている。

薬師如来は、平安初期の一本造りで、大きな目が特徴の魅力的な風貌の仏様。本尊を守る十二神将は、躍動的な造形美の天平仏である。
この寺独特の仏で知られている。(撮影禁)入場料600円。

新薬師寺                   古い山門
    

新薬師寺は、創建時、金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったと云う。
が、次第に衰退した。「続日本紀」によれば、780年の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。
また、962年に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはなかったと云う。
現在の本堂は様式からみて奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したもので、現本尊の薬師如来像は様式・技法上、平安時代初期の制作とするのが一般的だが、本堂建立と同時期までさかのぼる可能性も指摘されている。
1180年の平重衡の兵火で、東大寺、興福寺は主要伽藍を焼失したが、新薬師寺は焼け残った。
鎌倉時代には華厳宗中興の祖である明恵が一時入寺し、復興に努め、現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものであると云う。

「南都鏡神社」は、新薬師寺に隣接している。
社伝には、遣唐使発遣の祈祷所であった当地に平城 天皇即位の大同元年 806年 新薬師寺鎮守として創祠されたとある。
祭神は天照皇大神 、藤原広嗣公、地主神で、本殿は奈良市指定文化財。

新薬師寺に隣接                  南都鏡神社
    

「開化天皇春日率川坂上陵」が、駅前三条通りにある。
代数は、第9代天皇、開化天皇。父 孝元天皇・母 皇后欝色謎命  陵 名「春日川坂上陵」、陵形は、前方後円 。
所在地は、市油阪町。

三条通り商店街・ホテルの間に            「開化天皇陵」
  

次回は、近鉄線二つ目「西大寺」方面に。  

興福寺 五重塔

2014-02-23 | 気まま旅
縄文・高塚遺跡、大淀桜ヶ丘遺跡、布留遺跡、宮滝遺跡。弥生・鍵遺跡、新沢一町遺跡。古墳・桜井メスリ山古墳、佐紀盾列古墳
宮山古墳、見瀬丸山古墳、明日香村高松古墳。588年蘇我馬子法興寺建立。593年聖徳太子摂政(推古一年)。
中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿暗殺。694年持統天皇「藤原宮」に遷都。710年平城京に遷都・藤原不比等春日に氏寺興福寺移す。

登大路町「法相宗」総本山。南都七大寺の一つ。本尊は、釈迦如来。669年藤原鎌足の病気平癒を祈願して、京都山科に建立され「山階寺」に始まる。
その後、厩坂、平城遷都後現在地に移り「興福寺」を号したと云う。

「札所」西国三十三所は、 8 長谷寺 -- 9「興福寺」-- 10 三室戸寺 (南円堂)・ 南都七大寺2番・ 西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道16番。

右猿沢池、左興福寺・鎌倉時代の三重塔は、平安様式。          南大門跡並んで五重塔と続く
    

「藤原鎌足」610-669 大化改新推進者、古代の中央豪族で藤原氏の祖。
中大兄皇子と結び蘇我入鹿を倒す。大織冠を与えられている。天智天皇(中大兄皇子)と大海人皇子との争いを仲裁した話は知られている。
額田王を取り合い争い、酒宴の場で天皇に無礼をし皇子を罰しようとしたが鎌足が押し止めたと云う。
近年、「阿武山古墳」が鎌足の墓と云われている。

平安時代初期までに、中金堂・東金堂・五重塔・北円堂などの諸堂宇がととなっていた。

南円堂、西国33所9番札所・本尊不空羅索観音   銅灯籠                  国宝館
    

藤原氏の氏神である春日社の実権も持っている。平安時代末には、多くの僧兵を抱え、朝廷に対して強訴に及ぶなど強大な力を持ち、
「奈良の法師」と呼ばれて恐れられた。
1180年の兵火では、平重衡による焼き討ちで伽藍のほとんどを焼失するが、鎌倉時代に復興されている。

                     中金堂は工事中
  

仏教の修復新造「無著菩薩・世親菩薩立像」に代表されるような写実的彫刻が多く残されているが全て運慶一派があたっている。
「伽藍と文化財」1717年の火災で講堂・中金堂・中門・南大門・南円堂などを失っている。その後、南円堂は再興されている。

                             本坊
  

伽藍の中心である中金堂は、一世紀後に仮堂が建立、明治の廃仏稀釈は「興福寺」の弱体化に拍車をかけ、「築地塀」は、取り払われた。
一乗院は、没収され多くの建築物は、売却されるなど、廃寺同然の状態となった。

                            東金堂
    

神仏分離で「春日社」とも分けられ、旧興福寺境内と猿沢池、その周辺は奈良公園として再生されている。現在の寺域は、旧境内。

国宝ー北円堂・三重塔・五重塔・東金堂など、重文ー大湯屋など堂宇が残る。北円堂は、鎌倉時代造営の八角堂で、運慶作の弥勒仏、
無著菩薩、世親菩薩などを安置する。
猱沢池と五重塔が良く合うが1426年再建されている。五重塔は、東寺に次ぐ高さでやく50m。東金堂は、1415年再建で天平古様式をつたえ、
堂内に国宝の「木造維摩居士坐像・文殊菩薩坐像」など安置。
西金堂に国宝阿修羅像が(知名度高い)、、、、、他にも多数の国宝・重文が残されている。一部国宝館に保存されている。

巡礼参詣者が多い   會津八一氏は、奈良の古跡古美術を詠んだ歌人、古刹寺院を中心に歌碑が建立されている。その一つ
  

明治に入り、「廃仏毀釈」が騒がれた頃、「興福寺の五重塔や三重塔」が破格の値段、叩き売り状態で売りに出された。
興福寺は宗名や寺号を名乗ることも許されず、境内以外全て没収されるという窮地に立たされ、廃寺同様に、買い手のついた五重塔は、薪の材料にされかかり、それを奈良町の人々の大反対により、なんとか薪材になることを逃れた。
興福寺の再興が熱心に願われ、明治14年にようやく寺号の複合が許された。
翌年には管理する権利が興福寺に返され、再興への道を歩み、後年には「世界遺産」に登録されるまでに。
奈良県には、社寺などの歴史を見ると、幾度も焼失したり、歴史の中で翻弄されて、悲しい軌跡を歩んでいるものが多い。

ライトアップされた五重塔                おん祭で遅くまで猿沢池は賑わっていた。
  

次回は、市内の志賀直哉旧宅へ。

2月堂お水取り 3 4月堂

2014-02-21 | 気まま旅
正倉院工事中と、朝からの雨で人影が無い、大仏池に幼稚園があるのか制服を着た園児と若いお母さん達が、忙しそうに2~3組いるだけであった。東大寺の裏手、龍蔵院・持宝院・宝厳院とお地蔵・中性院・観音院・神宝殿の間に「四月堂」で、向かいに「二月堂」「三月堂」
「手向山八幡宮」と並んでいる。

746年以降、「法華経」を講ずる法華会が旧暦3月に行われる堂を「三月堂」と呼ばれている。ここにも国宝が多く、日光。月光仏など知られた仏像が多く天平彫刻の宝庫と云われている。

二月堂は、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定。「お水取り」の行事が行われる建物。


二月堂は、1669年の再建で、本尊十一面観音像(秘仏)前で罪を懺悔する「修二会」の為の堂で、旧暦二月行われる。

東大寺では、檀家的制度が無い、東大寺は多くの観光客収入によってなりたっている。東大寺の僧侶は、24人と云う。寺内に僧侶は、ほとんど見たことない。
「修二会」は天平時代から1200年続いている。


春を呼ぶ「お水取り」の行事は二月堂で「修二会」、3月1日二週間で、12~14日は夜に行われる達陀は、約40k大松明を持った僧が
回廊を走る抜ける様は勇壮である。
雨の静かな雰囲気の堂であった。

本尊にささげる「お香水」を井戸から汲む


740年から7年頃の建築一番古い「法華堂」1198年増築されている。毎年3月「法華会」が行われている。

東大寺二月堂の「お水取り」は、旧暦二月(現在は三月一日から十四日まで)におこなわれることから正しくは修二会という。奈良に春を呼ぶ行事として知られている。
「お水取り」では身心の穢れを祓った練行衆と呼ばれる僧侶たちが本尊十一面観音像の前で観音の宝号を唱え、五体投身などの荒行を行うことで罪障を懺悔し、天下安穏・五穀成熟・万民豊楽を祈願する。東大寺の実忠和尚が天平勝宝四年(752)に創祀した十一面観音悔過の行法に始まるといわれる。「不退の行法」として千二百五十年余りの間、一度も休むことなく続けられてきた。

修二会において、最初と最後にお参りされる三社、興成神社・飯道神社・遠敷神社。こちらの三社は二月堂練行の神社で、三社とも実忠和尚の勧請と伝える。飯道・遠敷・興成の三社はいずれも二月堂鎮守神である。

「興成神社」(東大寺境内)、祭神 豊玉媛命。
良辨杉ー二月堂のすぐ下に鎮座する。お水取りのおたいまつには、上から火の粉をあびるようなところにあり、近くに若い世代の良弁杉がある。祭神は豊玉媛命で、玉依姫命は御妹で海神といわれる。二月堂練行の神社で、一説に東大寺八興社の一社とされている。
社殿は板玉垣をめぐらし、西に鳥居が立つ。二月堂からの見た目。近くにあるのは良弁杉。現在のものは三代目。その伝説は昔から芝居などで有名。

「飯道神社」(東大寺境内)、祭神 軻具突智神・埴山媛命・稚皇産霊神
瓦葺三扉の社殿に軻具突智神・埴山媛命・稚皇産霊神の三神が祭られている。軻具突智神は火の神、埴山媛命は土の神、稚皇産霊神は五穀の神といわれる。「はんどう神社」また、「いいみち神社」と呼んでいる。
「遠敷神社」(東大寺境内)、祭神 彦火火出見命・ 若狭井戸

二月堂の北東に当たる上手にある、板玉垣と鳥居の中に瓦葺の社殿が鎮座する。二月堂お水取り行法は、福井県小浜市の遠敷川の神水を遠敷明神が二月堂観音に送水し、この閼伽水をくむ行法であって、遠敷明神を祭る神社が若狭彦神社で、その祭神が彦火火出見命である。

お水取り              普段は、静かな境内


堂の手前左右(南北)に階段があり、堂への通路となっている。北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通る。南側の階段は3月12日深夜の「水取り」の時に若狭井へ下りる際に使用される。堂の手前には鎮守社の1つである興成社(こうじょうしゃ)があり、その脇に良弁杉がある。また、堂の下方(西方)には、修二会に関わる付属建物である参籠所、閼伽井屋、仏餉屋(ぶっしょうのや)、湯屋などが建つ。

堂内の構成は複雑で、一般的な仏堂建築とはかなり異なっている。平面は前述のとおり正面7間、奥行10間で、後寄りに3間×3間の内陣を設ける。内陣中央の須弥壇には秘仏本尊の十一面観音を安置し、その周囲は修二会のさまざまな作法が行われる場で、練行衆以外の立ち入りは禁止されている。内陣外側の左右と背面(北面・東面・南面)は1間幅の外陣となり、外陣のさらに外側(北面・東面・南面)は小部屋に仕切られ、「局」(つぼね)と呼ばれている。内陣の手前(西面)は5間×3間の板床の礼堂となり、礼堂の左右(南北)は北が「勧進の間」、南が「例時の間」と呼ぶ小部屋になっている。礼堂の手前(西側)にも局があり、「西局」と呼ばれる。西局の西側、すなわち建物の正面は吹き放ちの舞台となっている。

弁天堂                 三月堂(法華堂)       若狭井・開山堂等が


鎮守社
二月堂の手前(西)に興成社、東北に遠敷社、東南に飯道社がある。
遠敷社はお水取りと縁の深い、若狭の遠敷明神を勧請したもの。飯道社は由来ははっきりしないが、実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡の
飯道神社を勧請したものとされ、興成社は東大寺の地主神である。
修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜(正確には15日未明)には、練行衆が修二会のとどこおりない執行を願い、感謝するために、練行衆がこれら3社に参詣する。
これを「惣神所」と呼んでいる。

観音院          絵馬堂               校倉などが


「行基堂・不動堂」は、大仏殿や二月堂の賑わいと比べてほとんど観光客は少ない、 酉年の方やお不動さんが好きな方は。

東大寺には二月堂、三月堂のほかに、「四月堂」というお堂がある。お水取りが行われる有名な「二月堂」・不空羂索観音の法華堂「三月堂」
影に隠れてひっそりと佇んでいるのが、三昧堂と呼ばれる小さなお堂。毎年四月に法華三昧会という法事が行われたことから、いつしか
「四月堂」と呼ばれるようになった。
「四月堂」の本尊は、腕が42本の、高さ266cm、千手観音立像。静かな中に厳しさを合わせ持った表情は、何事にも動じない決意を感じさせる

                    不動堂


「若狭彦神社」は、福井県小浜市にある神社。
式内社(名神大社)、若狭国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
上社・下社の2社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社という。遠敷明神とも呼ばれる。

手向山八幡宮                                           本殿


祭神ー若狭彦神社(上社) 若狭彦大神 (彦火火出見尊) 若狭姫神社(下社) 若狭姫大神 (豊玉姫命)。創建ー和銅7年(714年)

八幡宮周辺境内                                  池


伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。
白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。
今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。

神社拝殿                                谷川喜六慰霊碑


「西南役陣亡陸海軍人の碑」は、谷川喜六が明治26年 に、(瀬戸内海で商船と衝突沈没)殉職者と喜六氏の亡父50回忌を
東大寺大仏殿で営み、 それを紀念してこの慰霊碑を建立。とある。

 
次回は、興福寺へ。

世界遺産・東大寺

2014-02-19 | 気まま旅
9・10月は、雄鹿の角が大きく硬くなる、雄鹿の立派な角も人間に怪我を負わすので秋の風物詩「角伐り」がある。鑑賞席がも置けられ
男達の取り押さえ奮闘を見る事が出来る。
県指定文化財の「翁舞」豆比古神社も10月、談山神社の「蹴鞠祭」が11月。若草山「山焼き」が1月中旬。大安寺「光仁会」(光仁天皇
62歳皇位開運長寿の行事が1月下旬。「鬼追う式」興福寺が2月。西日本四大性神事飛鳥坐神社の「おんだ祭」(縁結び子宝で知られている)2月上旬。「チャンチャン祭」大和神社4月と奈良ならではの古式伝統行事が行われている。

3月に行われる「修二会・お水取り」は、東大寺二月堂本尊十一面観音の前で、東大寺僧侶が、全ての人の罪を懺悔し、国家の安泰と万民の
幸せを祈る法要が「修二会」。
752年に実忠和尚が笠置山の竜穴で菩薩の行法を見た事から、二月堂を建立し旧暦の2月に始めたと云う。
古代インドの火法とも云われる荒行で、400kgものの大松明を手にした修行僧が、二月堂内を駆け回る様子は勇壮。

「行基」668-749 奈良時代の百済系渡來氏族出の僧侶。法相宗の道昭のもとで学ぶ、師の影響にとって、社会事業で人々を救おうとした。
広く諸国を巡り、僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船2・池15・溝7・堀川4・直道1など造ったと云う。
朝廷は、勝手に民間を遊行する行基の一行は、寺院寂居の僧侶の掟に背くと云って弾圧したが、朝廷は行基を招き入れ、大仏建立をする。
最後は、大僧正に任じられている。
「行基年譜」で行跡を記している。行基以降僧侶の民間布教は出ていない。

近鉄奈良駅前                        「行基」像


世界遺産「東大寺」は、奈良公園北東華厳宗総本山。
南部七大寺の一つ、本尊は、像高さ14.87m国宝銅造盧舎那仏坐像「大仏」で、奈良の大仏さんの名で親しまれている。
平城京の東方に建てられた官大寺と云う意味と云う。
聖徳太子の発願で「光明皇后」の勧めにより建立されたと云われている。

光明皇后 701-760 聖武天皇の皇后・藤原不比等3女、甥の藤原仲麻呂を引き立て、支配する紫微中台は、太政官を凌ぐ権威を持つようになり紫微令の仲麻呂の専制が行われた。皇后は、病人を救う、施薬院と孤児院の「悲田院」を設置し、仏教の教えによって千人風呂を設け
千人の体を清め、千人目の病人の体を洗っている。その病人は、仏の姿になったと云い伝わる。
聖武天皇と仲良く仏教興に尽くした。2人は佐保山稜に合葬された。

世界遺産・古都奈良文化財                「東大寺」


大仏の造営は、743年紫香楽宮(滋賀県)造営の最中に、金剛盧舎那大仏像造立の詔が発せられ、平城遷都後の747年、大和国の金鐘寺
の地で造立が再開されている。
741年全国国分寺の中心となり、総国分寺と呼ばれた。金光明四天王護国寺とも云い、国家鎮護記念法灯を伝えている。

若草山と大仏殿は奈良のシンボル、          我が国代表の大寺天平~鎌倉の仏像群が


奈良時代、寺社中最大の封戸と墾田を有する勢力を持った「盧舎那仏」は、「法華経」の宇宙である蓮華蔵世界を統一する仏で、
大仏造営勧進の役は、僧「行基」が命ぜられている。
国家的大事業で、銅13万3千貫約500t・錫・練金・水銀・炭などが使われいる。流し込み作業で749年完成。
752年に開眼供養が営まれた。金色に輝いた大仏であったと云う。
平安時代の地震で頭部が落下している・1180年「平 重衝」の焼き討ちにあっている・1567年兵火で仏殿炎上等があったが、
徳川綱吉・母桂昌院等の援助で1692年現在の大仏殿が完成し現在に。

東西相対して「運慶」・「快慶」の作とされる阿吽一対の国宝乾漆金剛力士立像


本尊盧舎那大仏の東方に木造妙意観世音、盧空蔵菩薩坐像を脇侍に、四天王像の内広目天・多聞天立像を安置し、南面して建ち、南方正面
に南中門がある。大仏殿前には、寺創建当初の国宝八角燈籠が置かれている。
南大門は寺の正面

大仏殿東側、二月堂・三月堂・四月堂が立つ、三月堂背後に「お水取り」で知られている。    


木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。
如意輪観音像は 1738年ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて 1752年の完成。

南大門                         銅灯籠                 大仏殿


多聞天像(金堂東北隅)・広目天像(金堂西北隅)・虚空蔵菩薩像(重要文化財)・意輪観音菩薩像(重要文化財)・金銅八角燈籠(国宝)
金銅八角燈籠の音声(おんじょう)菩薩像(西北面)など多数ある。

大仏殿世界最大の木造建築      これで創建時の三分の二         東大寺の本尊「大仏」


「正倉院」東大寺境内にある宝物庫。は、工事中で休館していた。

正倉院は、元来、寺院の倉庫の一画を指していたが、現在正倉院のみが存在し、檜造り、で単層、寄棟本瓦葺、高床式、校倉造りで、
間口33m奥行9.4m床下2.7m南北両倉と、両倉を繋ぐ中倉からなる一棟三倉の建物で、二階建、建築年代は不明と云う。

「正倉院」                講堂あと北西にある宝物公開10月


8世紀中ごろと云われている。
宝物は、聖武天皇遺品、武具、文具、古文書類、中国製品、西アジア、ギリシア、ローマなど9000点あると云う。

工事
大正2年の解体修理以来、約100年ぶりの大修理となる正倉院の屋根瓦葺き替え工事。
4年に及ぶ工事期間中、正倉院外構の一般公開は休止されていますが、この工事期間中に現場公開が実施されているとの事。

広々とした正倉院前               (朝から雨)


次回は、東大寺三月堂へ。