近鉄「大和西大寺」駅前、芝町に「西大寺」がある。正式名は、「勝宝山 四王院 西大寺」。真言律宗の総本山。
南都七大寺の一つ、山号ー秋篠山、本尊釈迦如来、札所ー真言宗十八本山15番・ 大和十三仏霊場2番・ 南都七大寺5番
西国愛染十七霊場13番・ 神仏霊場巡拝の道 第23番。
764年恵美押勝の謀反発覚を機に、称徳(孝謙)天皇が、四天王像造立を発願し、その翌年に創建されたと伝えられている。
当初の大伽藍は、平安時代の遷都後次第に衰微している。
私鉄近鉄は、西大寺から奈良線と京都線分かれる。東大寺に対し西にある西大寺、南門現在閉鎖中、東門から
中興の祖と仰がれる「叡尊」により復興が図られた。衰微と復興を繰り返し、江戸時代の緒堂宇再建を得て現在に。
孝謙(称徳)天皇 718-770 仏教保護で国を乱した天皇、聖武天
皇の皇女、ただ一人皇室の嫡流を継ぐ女性で、父の後皇位に次ぎ仏教政治を展開し「淳仁天皇」に譲った後実権を持ち淳仁天皇を淡路島に送り、再び皇位について「称徳天皇」と名乗っている。
天皇は、妖僧と云われた「弓削道鏡」を引き立てた事でも知られている。宮廷一の「藤原仲麻呂」を除き、道鏡一派による思いのままの仏教
保護が成された。孝謙天皇の後「光仁天皇」は、官寺の僧侶の権限を削っている。
西大寺小坊町に、南都七大寺の一つ
弓削道鏡 772年頃の僧皇位を狙った僧。奈良時代末期法相宗の僧、河内国の小豪族・弓削氏出、
称徳天皇は、道鏡皇位につけ神託があったが、実現せず、天皇死後、道鏡は、下野国薬師寺に追いやられている。
どうして天皇は、道鏡を。それは、道鏡が「宿曜秘法」を身に付け、重病の孝謙上皇を、呪力で、救われ寿命が延びた信じたと云う。
道鏡のその後は、記録に無い。
伽藍は、東西両塔を持っている。再三の火災で荒廃した時も、鎌倉時代祖「叡尊」により復興
叡尊は、1201年、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。
11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、1235年、35歳の時に初めて西大寺に住した。
その後一時海龍王寺(市法華寺町)に住した後、1238年西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。
叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努め、また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。
その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の 1391年に出された「西大寺末寺帳」には8か国、同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている。
なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している。
四王金堂は江戸時代、寺の中でも重要な堂・像はたびたび補修「天邪鬼」は、創建以来と云う。
伽藍と仏像、境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建つ。本堂前には東塔跡の礎石が残る。(国宝)
「天邪鬼」天衣無縫の表情が人々に愛されている。 本堂
東塔跡・ 西塔跡・ 本坊・西室・書院・ 寺山大師 護摩堂・ 鐘楼・ 石落神社( 西大寺南町の飛地境内にある)・ 光明殿・ 塔頭 一之室院
護国院・ 増長院・ 華厳院・ 清浄院・ 法寿院
聚宝館 - 寺宝を展示する宝物館である。 塔本四仏坐像(重文) - 釈迦如来、阿弥陀如来、阿閦如来、宝生如来の4体で木心乾漆造である。今は失われた五重塔の初層に安置されていたと思われるもので、奈良時代末期の作。4体のうち阿閦如来像は奈良国立博物館、釈迦如来像は東京国立博物館に寄託されている。
南門・ 東門・ 四王堂南門・ 北通用門など貴重な建造物が残っている。境内が国の史跡指定。
塔跡ー基壇だけが大寺の面影が
「国宝」
「十二天像の水天」(国宝)剥落・退色が目立つが、現存遺品の少ない平安時代前期、9世紀の仏教絵画の大作として貴重。奈良国立博物館に6幅、東京と京都の国立博物館に3幅ずつ寄託されている。
「金銅透彫舎利容器」 (国宝) 金銅透彫舎利容器 - 高さ37センチの小品ながら、各所に繊細な透彫を施した入念な作で、鎌倉時代の金属工芸を代表するものの1つである。
「金銅宝塔及び納置品(壇塔)」 - 宝塔とは、円筒形の塔身に屋根を乗せた形の塔。
本作品は高さ約90センチの金銅(銅に金メッキ)製の塔だが、木造建築の外観を忠実に模している。
内部には叡尊が所持していた舎利を納め、1270年の作。
「鉄宝塔・舎利瓶」 - 前期金銅宝塔と同形式の塔。
鉄製で高さ172センチの大型塔である。内部に水瓶形の銅製舎利容器5基を納める。1283年の作
「金光明最勝王経10巻(附 月輪牡丹蒔絵経箱)」762年の書写。(指定の経箱は鎌倉時代の作)
「大毘盧遮那成仏神変加持経7巻」766年、称徳天皇付きの女官吉備由利が発願し、西大寺四王堂に安置した一切経の一部など。
重文・史跡なども多い。
本坊・西室・書院・ 寺山大師・ 護摩堂・ 鐘楼・ 石落神社 - 西大寺南町の飛地境内にある。
光明殿 光明殿・ 塔頭 一之室院・ 護国院・ 増長院・ 華厳院・ 清浄院・ 法寿院と聚宝館 - 寺宝物館が点在する。
藍染塔・舎利塔・宝塔など、 鐘楼
「真言宗」は、弘法大師空海開宗、774年讃岐国生まれ、儒教・道教・仏教三学を学び後遍歴修業、14歳で儒・道・仏の比較して論じた
「三教指帰」書いている。
23歳の804年遣唐使に随行し入唐、西安の青竜寺「恵果」の弟子となり密教の奥義を受けている。
帰国後、和気氏高雄山に住み真言密教を広めた。823年「東寺」を真言密教の根本道場としている。
山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来、 大茶盛は名物1・4・10月茶会が
次回は、平城京へ。