syuの日記・気まま旅

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柳の銀座 築地小劇場開場

2020-08-28 | syu散歩

「築地小劇場 開場」 「土方与志・小山内薫」 京橋区築地二丁目の出来た。
東京メトロ日比谷線築地駅からほど近い、東京都中央区築地2丁目11番地にあたりで、記念碑が残っている。
劇場の面積は100坪弱、平屋建てで、客席は400 - 500席・電気を用いた世界初の照明室を備えていたと云う。
クッペル・ホリゾント(クッペル=ドーム、ホリゾント=舞台背景の幕)と呼ばれるドーム型の湾曲壁を設け、天井が高く、可動舞台を備えていた。
高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たした。
劇団はかねて小山内の主張であった俳優の養成にも力を入れ、日本の新劇運動の拠点となった。築地小劇場の出身者には千田是也、滝沢修らがおり、第2次世界大戦後の演劇界に活躍する多くの人材を輩出している。
築地小劇場の成り立ちは1923年の大正12年、に起きた関東大震災と関係している。
演劇研究のためドイツに留学していた土方は、関東大震災の報を聞き、予定より早く同年暮れに帰国。
震災復興のため一時的に建築規制が緩められたことを知り、仮設のバラック劇場の建設を思いついた。
年が明けると小山内を訪ねて構想を固め、劇場建設と劇団の育成に取り掛かった。半年ほどで劇場を建設し、開場まで漕ぎつけた。
第1回公演は、開設翌日の6月14日と云う。
土方が表現主義の演出をおこなったラインハルト・ゲーリングの「海戦」、およびチェーホフの「白鳥の歌」、マゾオの「休みの日」を公演した。
開場の際に、小山内が従来の日本の戯曲を批判する発言をしたため、文壇から反発の声が上がり、多難であったと云う。

「大和田建樹」 1857-1910年
日本の詩人、作詞家、国文学者で、東京高等師範学校教授。
「鉄道唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの作詞者として知らる。
日本海軍
1) 四面海もて囲まれし 我が「敷島」の「秋津洲」 外なる敵を防ぐには 陸に砲台海に艦
2) 屍を波に沈めても 引かぬ忠義のますらをが 守る心の甲鉄艦 いかでたやすく 破られん
3) 名は様々に分かれても 建つる勲は「富士」の嶺の 雪に輝く「朝日」かげ 「芙蓉」のそらを照らすなり
日本陸軍
出陣 天に代わりて不義を討つ 忠義無双のわが兵は 歓呼の声に送られて 今ぞいでたつ父母の国 勝たずば生きて還らじと 誓う心のいさましさ
斥候 或曰は草に伏し隠れ 或いは水に飛び入りて 万死恐れず敵情を 視察し帰る斥候兵 肩に懸かれる一軍の 安危はいかに重からん
工兵 道なき方に道をつけ 敵の鉄道うちこほち 雨と散りくる弾丸を 身にあびながら橋かけて わが軍渡す工兵の 功労何にかたとうべき
砲兵 鍬取る工兵助けつつ 銃取る歩兵たすけつつ 敵を沈黙せしめたる 放つに当たらぬ方もなく その声天地に轟けり
歩兵 一斉射撃の銃先に 敵の気力をひるませて 鉄条網もものかわと 躍り超えたる塁上に 立てし誉れの日章旗 みなわが歩兵の働きぞ
騎兵 撃たれて逃げ行く八方の 敵を追い伏せ追いちらし 全軍残らず打ち破る 騎兵の任の重ければ わが乗る馬を子のごとく いたわる人もあるぞかし
幅重兵 砲工歩騎の兵強く 連戦連捷せし事は 百難おかしてゆそうする ひょうろくしちょうのたまのぞ わするな一日おくれなば 一日たゆとう兵力を
衛生隊 戦地に名誉の負傷して 収容せらるる将卒の 命と頼むは衛生隊 一人味方の兵のみか 敵も融てぬ同仁の 情けよ思えば君の恩

次回は、真下飛泉「戦友」を。























鞍馬天狗 大正時代の映画 

2020-08-25 | syu散歩


「憲政会」
大正5年の1916年、-加藤高明を総裁として立憲同志会・中正会・公友倶楽部の三派合同により結成された政党。
第二次護憲運動の中核となった。
昭和2年の1927年、政友本党と合流し、立憲民政党と改称。

「鞍馬天狗」が映画に
大佛次郎・東京帝国大学法学部卒業後、外務省嘱託で翻訳の仕事をしていたが、演劇にのめり込んで大量の洋書を購入する費用のために、大衆雑誌『新趣味』に西洋の伝奇小説の翻訳を掲載して原稿料を稼いでいた。
関東大震災を機に外務省も退職したために生活費も稼がなくてはならなくなったが、「新趣味」も廃刊になり、新しく創刊された「ポケット」の編集長から「髷物」をと言われ、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」からアイデアを得た「隼の源次」を書いたところ採用され、ついで以前に『新趣味』に連載したことのあるジョージ・ウーリー・ゴフ「夜の恐怖」(1923年9-11月号)の中の「金扇」に着想を得て「鬼面の老女」を執筆、登場する黒頭巾の武士には謡曲から思いついた「鞍馬天狗」を名乗らせた(1924年5月号)。すると編集長から、鞍馬天狗を主人公にして作品を書いて欲しい、この雑誌の「心棒」にすると言われ、「快傑 鞍馬天狗」シリーズとしてこの年に8作の短編が書かれた。
この第2話「銀煙管」で鞍馬天狗が倉田典膳という名前を名乗っている。
1925年になると同誌で長編「御用盗異聞」を連載。さらに翌年には「小鳥を飼う武士」を連載した。
鞍馬天狗の人気は高く、1924年に実川延松が鞍馬天狗役(ただし脇役)で「女人地獄」が映画化。
1925年には”目玉の松っちゃん”こと当時のスーパースターである尾上松之助主演で5編が映画化された。1927年には「少年倶楽部」で”少年のための”という副題で、杉作少年の登場する「角兵衛獅子」を、伊藤彦造の挿絵で連載し人気となった。
これが嵐長三郎(嵐寛寿郎)主演で「鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子」として映画化され大ヒットし、嵐寛寿郎の当たり役となって数多くの映画化がされた。頭巾の後ろから髷の出るスタイルも、この作品で長三郎のアイデアで生まれた。
大佛次郎も1926年に『照る日くもる日』、1927年に「赤穂浪士」を新聞連載するなど、活動の幅を広げていく、「御用盗異聞」以降では、西郷隆盛をはじめとする維新勢力の目的を選ばぬ倒幕活動に鞍馬天狗は懐疑的な態度を持ち、これらについて村上光彦は、大佛が当時のマルクス主義運動にもある種の共感を覚えつつも運動の圏外にとどまり「革命家にとって目的が手段を正当化するか否か」がシリーズに一貫するテーマの一つだと述べており、「角兵衛獅子」からは「明るく、無益な殺生を嫌い、敵にも優しい人間像」、「フェアプレイの理想を追う剣士」が定着。
1930年代の「地獄の門、宗十郎頭巾」では、当時警察が共産党に送り込んだスパイ活動に示唆を得たと思われる、組織の裏切り者が題材になっており、またジョゼフ・コンラッドなどの作品の影響も窺える。
戦後になって大佛次郎は、かつて寄稿していた文芸雑誌「苦楽」を復刊し、呼び物として「新東京絵図」を連載、明治維新後の1869年の東京を舞台として、ここで鞍馬天狗は海野雄吉という名前の市井の人物として登場する。これは執筆当時に米軍占領下にあった東京の世相を反映しているとも言われる。

「天長節」 今日の吉き日は 大君の うまれ給いし 吉き日なり 今日の吉き日は 御光の さし出給いし 吉き日なり ひかり編き 君が代を 祝え諸人
      もろともに 恵み編き 君が代を 祝え諸人 もろともに

「敵は幾万」
      1)敵は幾万 ありとても すべて烏合の 勢なるぞ 烏合の勢に あらずとも 味方に正しき 道理あり 邪はそれ正に 勝ち難く 直は曲のぞ
        勝栗の 堅き心の 一徹は 石に矢の立つ ためしあり 石に立つ矢の ためしあり などて恐るる 事やある などてたゆとう 事やあり
      2)風に閃く 連隊旗 しるしは昇る 朝日子よ 旗は飛ぶくる 弾丸に 破るるほどこそ 誉れなれ 身は日の本の つわものよ 旗になほじそ
        進めよや 斃るるまでも 進めよゃ 裂かるるまでも 進めよや 旗になほじそ はじおなせよ などて恐るる 事やある ・・・・・・・。

「普通選挙法公布」   第1次加藤高明内閣は衆議院議員選挙法改正法律案を第50回帝国議会に提出。 貴衆両院での修正を経たのち可決成立した同改正法(普通選挙法)は、大正14年の1925年5月5日に公布さた。
これにより、選挙人資格から納税要件が撤廃され、満25歳以上の男子に選挙権が。







 







日本海̠海戦

2020-08-21 | syu散歩


明治38年5月27日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し未曾有の勝利を収めたことによりロシアは継戦意欲を失い、アメリカ大統領の仲介で米国ポーツマスにおいて日露講和条約が締結された。
日露戦争の勝利により、我が国は独立を全うし国際的地位を高め、また、有色人種として蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に希望を与え、独立の気運を促進しました。
当時16歳であったインドの独立運動家で後に首相となったネルーは、日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、インド独立のため命を捧げる決意をしたと自伝で述べ、子供に話したと伝えられている。
「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。アジアの一国である日本の勝利は、アジア全ての国々に大きな影響を与えた。私は少年時代、どんなに感激したか・・・・」

ロシア皇帝は、不利な戦況を挽回するため、明治37年、ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする第2太平洋艦隊を、次いで翌年2月、第3太平洋艦隊をバルト海のリバウ海軍基地から極東に派遣した。(第2、第3太平洋艦隊の総称がバルチック艦隊)
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、
バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、猛訓練を続けながら待ち構えました。
明治38年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は直ちに出撃、対馬沖でバルチック艦隊を迎撃し、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を撃破、降伏・・・。
1)日清談判 破裂して 品川乗りだし吾妻艦 続いて金剛 難波艦 国旗堂々ひるがえし 2)西郷死すも 彼がため 大久保殺すも 彼のため 遺恨重なるチャンチャン坊主 日本男児の村田銃 3)剣の切っさき味わえと わが兵 各地に進撃 難なく支那兵 斬り倒し 万里の長城 のっとって 4)一里半行きや北京城よ 城下の盟いを結ぶ
実に満足 慶賀の至り 愉快 愉快 大勝利

「日本海海戦」 作詞者不詳
1)敵艦見えたり ちかずきたり 皇国の興廃 ただこの一挙 各員奮励努力せよと 旗艦のほぼしら信号揚る みそらは晴るけど風立ちて 対馬の沖に 波高し
2)主力艦隊 前を抑え 巡洋艦隊 後に迫り 袋のネズミと囲み撃てば 見る見る敵艦乱れ散るを 水雷艇隊駆逐隊 逃がしはせじと 追いて撃つ
3)東天赤らみ 夜襲はれて 旭日かがやく 日本海上 今はや遁れるすべもなして 撃たれて沈むも降るもあり 帝国万歳万万歳

「日本海海戦」 大和田建樹
海路一万五千里 万苦を忍び 東洋に 最後の勝敗 決せんと 寄せこし 敵こそ 健気なれ・時維れ38年の 敵艦見ゆとの 警報に 勇み立たる 我が艦隊
・・・・・・・1番から7番まである。








のがるる








佐久間艇長・坂元少佐(赤城の奮戦)

2020-08-18 | syu散歩
砲艦 赤城


「佐久間艇長」
1901年、海軍兵学校(29期)卒業。 後に内閣総理大臣を務めた米内光政は、兵学校時代の同期生。
1903年に海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎え、日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいた。
日露戦争後は水雷術練習所の学生として採用され、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1906年に川崎造船所で建造された日本が初めて持った第六潜水艇隊で森電三艇長の下で副長を命ぜられ、1908年には第六潜水艇隊艇長に昇格した。
1910年、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中沈没して佐久間以下14名の乗組員全員が殉職した。
その年4月17日に第六潜水艇が引き揚げられ、艇内から佐久間の遺書が発見された。その遺書の内容は、発表されるや大きな反響を呼び、同日中に殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた。佐久間の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行されたと云う。
「第六潜水艇沈没と遺書」
「後に水交社から写真版で出版された佐久間艇長の遺書
第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗組員14名全員が殉職した。調査委員会では、佐久間大尉の安全性を軽視した日頃の行動と、煙突の長さ以上の深度への潜航を命じたこと(本当にそのような命令があったのか、正しい命令が誤解、誤記されたのかについては議論があるが)が原因と結論されている。
殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。
佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた
                           謹ンデ陛下ニ白ス
                           我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
                           我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ
「佐久間艇長」 作詞者不詳
1)はなわちりても 香を残し 人は死しても 名を残す 天晴れ佐久間 艇長は 日本男児の 好亀艦
2)時は4月の 15日 艦長部員を 引率し 呉沖遠く 乗り出す 船は第六 潜水艇
3)沈みしままに 浮かばずと 悲報天下に つたわりて 眉をひそめる 同胞の 驚き憂い いくばくぞ
4)間もなく所在を 探りえて 引き上げ鉄扉を 打ち破り 見ればいたまし あな悲し 呼べど答えぬ 14人
5)司令塔上 厳然と 指揮せる儘の艦長は 従容自若 死につきし 最後の雄々しさ いさましさ


「坂元八郎太」 1854-1894 海軍軍人 海軍兵学校5期卒業
明治22年イギリス出張・明治24年ロシア帝国公使館武官、航海術学ぶ・明治27年赤城艦長就任している。
日清戦争・黄海海戦に参戦、赤城と共に戦死。

「坂元少佐」 佐佐木信網  赤城の奮戦
1)煙る浪かはた雲か 遙かに見ゆるうす煙 海原遠くながむれば 嬉やまさに敵の艦
2)あふるる勇気おさえつつ 待つに待ちたる敵の艦 砕きてうちて黄海の もずくとなさん時の間に
3)とどろく砲の音すごく さかまく浪の音荒く 海洋島の沖つ辺に はげしき戦い起りたり
4)艦の中にも赤城艦 艦は小さくかよわきも 鉄よりかたき心もて 士卒は艦を進むなり




 
















紀元節

2020-08-14 | syu散歩

「神武天皇」日本初代天皇 紀元前711年・在位紀元前660年

「紀元節」
古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、日付はー1873年(明治6年)2月11日に定められたが、戦後は、1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止。戦前は、祝祭日の中の四大節の一つ。現在の「建国記念の日」。
政府は、1935年(昭和10年)10月1日、紀元二千六百年祝典準備委員会(会長・内閣総理大臣岡田啓介)を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進。
準備委員会は、のちに「紀元二千六百年祝典評議委員会・会長:阪谷芳郎」が設置されると廃止された。
内閣に設けられた「内閣紀元二千六百年祝典事務局」の局長には歌田千勝が就いた。
1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王(総裁代理:昭和天皇、雍仁親王の弟宮・高松宮宣仁親王)、副総裁:内閣総理大臣・近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・徳川家達)を創設。
神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。
研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格し、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されたと云う。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催され、11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。
式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。(長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」(祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。

紀元節 高崎正風
1)雲に聳ゆる 高千穂の 高根おろしに 草も木も なびきふしけん 大御世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
2)海原なせる 埴安の 池のおもより  ひろき めぐみの波に 浴みし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
3)天のひつぎの 高みくら 千代よろずよに 動きなき もとい定めし そのかみを 仰ぐ今日こそ たのしけれ
4)空にかがやく 日の元の よろずの国に たぐいなき 国のみはしら たてし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ

紀元二千六百年 増田好生
1)金鵄輝く 日本の 栄ある光 身にうけて いまこそ祝え この朝 紀元は 2600年 ああ 一億の胸はなる
2)歓喜あふるる この土を しっかと我等 踏みしめて はるかに仰ぐ 大御言 紀元は 2600年 ああ 肇国の雲青し
3)荒ぶ世界にただ一つ 揺るぬ御代に 生立ちし 感謝は清き 火と燃えて 紀元は 2600年 ああ 報国の血は勇む 
4)潮豊けき 海原に 桜と富士の 影織りて 世紀の文化 また新 紀元は 2600年 ああ 燦爛のこの国威

「1940年東京オリンピック」
昭和15年・9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現・東京23区)で開催されることが予定されていた夏季オリンピック。
史上初めて欧米以外の、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたが、日中戦争(支那事変)の影響等から政府が開催権を返上、実現には至らなかった。