syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

那須戦争博物館 1

2017-09-28 | 四季折々 syuのふた旅
「自分史」から
日露戦争から第一次世界大戦を経て、大正12年に関東大震災、大正14年は普通選挙交付またラジオ放送が始まった。
ドイツではヒットラーが『わが闘争』を出版し、世界の情報も急にスピード化してくる。
昭和に入ると、蒋介石の国民党の大改革があり、毛沢東は江西省片岡山に根拠地を構えた。昭和3年、第1次張作林爆死事件発生。蒋介石が前面に出てくる。日本の第一山東出兵が始まった。
昭和6年、満州事変となる。
経済では、昭和4年、ニューヨーク、ウオール街の株価が大暴落し、世界は大恐慌に陥る。
人口ばかりがふえ、資源の乏しい日本への影響は大きかった。オーストリア中央銀行が破産、ドイツに大きく波及、金融恐慌で失業者が町に溢れた。
世界は大変な不況に陥っていく。
第一次世界大戦は、ヨーロッパ中心の民族的対立を背景にした世界戦争であった。
その時の同盟国を見ると、ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア4カ国と
イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア、と日本であった。
「第二次世界大戦」は、
経済が絡む世界大恐慌で、世界は再分割されていった。
後進資本国の日本、ドイツ、イタリアは、高い技術を持っていたが資源は無く、先進国イギリス、アメリカなどの経済制裁を受け、国民が食べていけなくなると言う深刻な問題を抱えていたのだ。
昭和6年、犬養首相が暗殺され、世にいう5.15事件がおき、軍部が力をつけていく。
昭和14年、ドイツではヒットラー、アメリカではルーズベルトが政権を握り、これが、やがて始まる第二次世界大戦への導火線となっていった。

“軍人に賜りたる勅論”
 一つ 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし、
 一つ 軍人は礼儀を正しくすべし、
 一つ 軍人は信義を重んすべし……。

その頃の歌  “兵隊さんありがとう”
       肩を並べて兄さんと、今日にも学校へ行けるのは、兵隊さんのお陰です、
       お国のために、お国のために戦った、兵隊さんのお陰です、

私は、その2度とない激動の昭和日本に生まれ育ち、少年時代から平成、現代までの状況を書き残しておきたいと思い立ったのである。

私が生まれたのは、1938年の昭和13年8月15日。
昭和11年、2・26事件が起がおきている。翌年中国盧溝橋において日・中両軍がぶつかり日中戦争が始まった。
昭和13年国家総動員法が公布された。
翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄してきた。ソ連との間でも、ノモンハン事件がおきている。
1939年ヨーロツパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争となっていった。
第2次世界大戦の火蓋がいよいよ切られたのである。
翌1940年日独伊3国同盟が結ばれ、1941年、昭和16年日本にもついに米英との全面戦争に突入した。
初戦は、優勢だった日本軍は、やがて劣勢となり1944年(昭和19年)サイパン島の日本守備隊が全滅。
それからずるずると後退していくのである。
その頃からアメリカのB29による本土空襲が激しくなってきた。
私たち、一家は父のみを東京に残し埼玉県秩父郡影森村という山奥に疎開した。東京に生活していた者にとっては、それはそれは寒いひもじいつらい疎開生活であった。
昭和20年8月15日終戦。私は村の国民学校1年生だった。
夏休み中であったが其の日、当時国民学校を宿舎として駐留していた兵隊たちと一緒に校庭で玉音放送を聞いた。
当時の教育により、まだ小学一年生だったが、やがては、自分も兵隊さんたちの後をついで、死を覚悟で戦いに行くのだと心に決めていた。
玉音放送はよくわからなかったが、日本が負けたと聞かされ、悔しさと悲しさで胸が張り裂けそうになった記憶がある。
そのときはそのように思いつめたが、早くもその夜、これでやっと東京に帰れるのだ、もう空襲はないのだという安心感、またうれしさで胸が一杯になり眠れなかった。しかし、そのように感じることは何となく罪深いことだと思っていた。
小学生だった私の未熟な頭ではあるがこんなことを考えていた。
・もしドイツが大敗していなければ、
・アメリカにあれだけの資源が無ければ、
・ドイツ、日本に作戦ミスが無かったなら、
・もう一国資源のある大国が同盟であったなら、日本は決して負けなかっただろう。
強兵の掛け声のもと、人間の限界まで鍛えぬかれた日本兵は、世界で1番強い。負けるのはおかしいと疎開から東京に戻るまで信じていた。
この年の9月半ば親とともに帰京。あの荒れ果てた焼け野原を目にしたとき、敗戦という現実を知った。荒廃した東京は表現できないほどであった。
上野駅に着いたのは夕方の4時ごろだったと思う。人、人で駅の構内から駅前、西郷さんの銅像、アメヨコ、ガード下にゲートルを巻いた引揚者がいぱっいであった。親子
ずれの乞食、浮浪児、さらに死んでいる赤ん坊の姿も目にした。
ガード下では死体となって横たわる中年乞食の体には蛆虫がわいていた。

スリをした1人の浮浪児が、大男につかまり殴られ頭から血を出していた。
浮浪児は一生懸命謝ったが、その大男はそれでもやめずに叩き続け、3メートルあまりふっ飛ばした。
少年は私と同年ぐらいと思われた。
周りの大人たちはただ見ているだけだった。・・・・・・。

ここで太平洋戦争のこと。
日本は(1941年)昭和16年12月8日真珠湾奇襲とマレー半島上陸作戦で米・英と戦争に入って真珠湾作戦は宣戦布告が外務省の手落ちにより、アメリカへの通告が遅れ「だまし討ち」といわれている。心ならずも残念なことだ。また、肝心の敵航空母艦が湾に不在だったことが悔やまれる。
マレー半島作戦は2ヶ月で1,100kmを突破、翌年2月15日シンガポールが陥落させた緒戦の勝利には目を見張るものがあった。昭和14年9月欧州でドイツが破竹のいきおいでポーランドを攻め、ドイツ有利に戦いを進めている中、3国同盟を結んだ。  このことが対米戦争にまで至ったのは一部の政治家、一部の軍隊の独走によると言う解釈がよく言われるが、事実は日本国民大半がこの決定には、共感していたのだ。その後の戦いが不利に転じ、ついには負けてしまうが、その主な原因は、ミツドウエイ海戦で戦艦「大和」を活用しなかったなど、むしろ山本五十六の消極的作戦に問題があったと私は思う
 俳優の三国連太郎氏があるテレビで「日本に帰ったとき子供たちがアメリカ兵にお菓子を求めている姿を見て悲しかった」と言っていた。大人達も必死だったのはわかる、しかし子供たちには何の力もない、どれだけひもじい思いをして多くの子供が死んでいったか。それを見ていながら、当時の大人たちはいったい何をしてくれたのか。終戦記念日が来るたびに悲しい。
昭和20年3月10日の東京大空襲はB29が334機襲来、焼夷弾総重量1667t投下、一夜で10万人あまりが死亡。4月18日東京を中心に6都市空襲。
多数の犠牲者が出た。・・・・・・・・。

  「那須戦争博物館」正面入り口(左に棗の木が、明治38年ロシア司令官ステッカ会見に中国産ナツメの木)


                   明治の軍服乃木陸軍大将


                       97式中型戦車


               敷地6700坪・建物420坪・総展示数15000点。


               住所ー那須町高久(那須街道・御用邸隣接)




                       陸軍戦闘機


                     日本軍ロケット砲


                         砲弾


                         砲弾


                       海軍60k爆弾他


                      大活躍した「ゼロ戦」








昭和6年頃、初の臨時ニュース「満州事変」勃発。・国産映画のトーキー化・内閣は、浜口雄幸から若槻礼次郎(民政党)
  16年頃、松岡外相日・ソ中立条約調印・御前会議で日米戦争決定・小学校を国民学校と改称 内閣華族近衛文麿から陸軍東条英機。

那須の宿とコース料理

2017-09-26 | 四季折々 syuのふた旅

「那須に大運河計画が」
1877年の明治10年、那珂川上流で実地調査が始まり、翌年8月には精密な測量が。測量の結果、東京までの水路に必要なのは約45キロの掘削。
「水路の延長 11里16町51間5尺・高低差 1165尺・河川横断 5カ所・水門 52カ所・橋梁 61カ所・工費 16万6000円」
測量結果は14冊の冊子にまとめられたが、総工費は膨大で、とても民間だけで実現はできません。 
そこで、鍋島氏は、明治12年、「那須原水路開鑿之儀上申」を政府に提出し、国の協力を求め、この請願を受け、明治12年、伊藤博文、松方正義が那須野を巡覧し、結局、工事の許可はおりませんでした。
同じ頃、福島県で安積疎水が開削中で、資金の余裕がなかったからと云う。
運河の計画が思うように進まないなか、明治13年、肇耕社(後の三島農場)や那須開墾社などいくつかの大農場が発足し、開拓事業にはもちろん水が必要なので、大運河は後まわしにして、まずは入植者の生活用水や牛馬の飲用に足りるだけの疏水を開削することになります。
この申請は、「那須原水路開鑿之儀付願」というもので、起業公債資金から2万2707円の下付が認められ、
明治15年、竣工式を迎えた。
飲用水路は開通しましたが、印南丈作と矢板武らは、さらに大運河開削の運動を続けます。
しかし、度重なる請願も空しく、結局、大運河構想は実現に至りませんでした。
灌漑用大水路は太政大臣の許可を受けており、明治18年に、「大水路の竣工式」が行われた。
こうして完成したものが、今日「那須疏水」と呼ばれる大水路群。
「安積疏水」「琵琶湖疏水」とともに「日本三大疏水」の1つ。
開通式には、北白川宮親王、山県有朋、三島通庸ら大物が参列するほどの大事業と云う。大正初期約150HAの水田が・現在1000HAを超えると云う。

                    予定通り「那須道の駅」着




                   高速バスは、宿入口で停車した。


                       部屋から中庭を


      那須山ー南月1776m・茶臼岳1915m・三本槍岳1917m・三倉山1854m-


「那須岳」という名前の山があるわけではない。(このあたりにある山々を指した 総称)
     那須岳の主峰である茶臼岳の別称とすることも、那須三山と呼ばれる茶臼岳・朝日岳・三本槍岳。


宿の隣が「那須御用邸」
栃木県那須郡那須町・1926年の大正15年・ 昭和元年ー主に8月 - 9月に訪れていると云う。
平成20年、天皇・皇后の意向を受け、初めて秋の時期に訪れた。
平成23年、御用邸敷地の約半分が一般開放、「那須平成の森」として開園した。





















大正15年頃は
日本初の普通選挙実施・その年の12月大正天皇死去47歳、年号昭和と改元・NHK日本放送協会設立ー内閣 若槻礼次郎(憲政会)
翌年昭和2年第一次山東出兵 内閣 田中義一(政友会)アメリカの児童から日本の児童へ送られた「青い目のお人形」。

「那須街道」
律令時代の昔より那須町には「東山道」と呼ばれる道があり、「源義経」が平家追討の挙兵に応じて平泉から鎌倉へ向かった道である。
「義経街道」、また白河の関に通じることから「関街道」とも呼ばれている。
東山道を白河の関から伊王野まで、義経伝説と共に里山風景を楽しみながら。

高速バスで那須へ

2017-09-23 | 四季折々 syuのふた旅
高速バスで那須へ旅に出ます。
JR新宿駅南口改札口から直結で「パスタ新宿・乗車場所」へ。
新宿を午後1時出発~那須高原の目的地には午後4時過ぎ「新宿ー池袋ー王子ー首都高ー外環自動車道ー東北自働車道ー川口ー浦和ー岩槻
久喜ー加須ー羽生ー館林ー佐野藤岡ー栃木ー都賀西方ー鹿沼ー宇都宮ー上河内ー矢板ー西那須野塩原―那須ー那須街道へバスで。

「東北自動車道」
は、1987年の昭和62年9月ー 川口JCT - 浦和IC間が開通により全線開通し川口JCTで首都高速川口線と接続。平成4年に、 羽生IC開通・平成11年、 鹿沼IC - 大谷PA間6車線化、大谷PA - 宇都宮IC間も6車線化。
平成14年、 浦和IC(川口方面)出入口開通・平成21年、 黒磯板室IC開通・ 佐野SAスマートIC、上河内SAスマートICへの福島方面出入口追加され、
那須高原SAスマートICへの福島方面出入口追加の連結し、平成23年、 東北地方太平洋沖地震の影響で路線が大きな損傷を受け、川口JCT - 碇ヶ関IC間で通行止め、4月10日 、 応急復旧工事を終え、全線開通。
2012年3月、東日本大震災の復興支援として、白河IC - 安代ICは全日全車種、安代IC - 青森ICは土・日・祝日の普通車・軽自動車等(ETC搭載車限定)で無料措置を実施し、北海道・東北を結ぶ重要幹線道路に。

                    バスタ新宿待合所


高速バスの椅子が固く乗り心地は悪い。車窓から外を見ていると、30年前以上の仙台赴任時代を思い出していた。
その時を自分史に書いている。

私が、仙台に転勤してから、一年目のこと。冬のボーナスの時期であったから12月10日前後であろう。
金曜日の夜、郡山からそのまま我が家に帰った。仙台はそのころまだ新幹線が開通してなく、上野から4時間かかった。
月1回は、自宅の荻窪へ家族に会うために帰るようにしていた。
その年は、東北は、雪も無く穏やかな12月で、販売車もまだ普通タイヤで、スパイクタイヤは、後部座席に乗せていた。
そろそろ変えなくてはと思っていたが普通タイヤのまま帰郷し、自宅に午後9時ごろ着いた。
久しぶりに家族と会い土曜日は、近くのレストランで外食。翌日も洗濯物とアパートで足りない物を揃え、夕食の弁当をもって午後2時ごろ家を出た。
大体このようなパターンの生活であった。
その日の東京は暖かい、上着もつけずワイシャツ1枚で我が家を出た。翌月曜日には朝礼があり本社の部長も来る予定になっていた。
得意先にもアポイントをとっている。今頃部長たちも汽車で仙台に向かっている頃であろうと想像しながら東北高速道に入った。
道は空いていた、日曜日の夕方東北方面に行くのはそういない。
スピードを上げ気持ちよく栃木インター、宇都宮インター、と過ぎ、那須パーキングエリヤで休んだ。
時計を見ると4時を指していた。仙台まであと2時間ぐらいだから遅くも7時ごろには着くだろうと思いながら出発した。
何か普段と違っていた、逆コースの上りが1台も走ってこない。
外は風が出てきたようでハンドルが重たくなってきた。車内の温度は急に下がり、暖房の効きが悪く、今まで脱いでいた寒いので背広を着た。
那須の山々は、真っ白であった。
私は、雪景色の山が好きだ。立体感が出て大きく神秘的に見える。
白河の手前辺りからパラパラと雪がフロントガラスに当たりだした。
もしかするとこの先雪が降って普通タイヤではだめだとスパイクタイヤに取り替えた。
それから10kほど行く間に、1台2台と立ち往生している車があった。
その車を横目で目ながら明日の仕事のこともあり前進していった。
だが雪はどんどん降ってきた。
そのうち吹雪となり横殴りに成ってきた。
もう前方は2-3m先しか見えなくなっていた。
ワイパーが利かなくなりフロントガラスは氷、白い幕になった。
当然除雪はされておらず、トラックの残したタイヤのワダチ跡のみが頼り。道は凸凹で20k以上出すと上下に弾みスピードを出せない。
15k・で走行していると、運悪く、大型トレラーが後部について来た。
ライトを上に向けぴったりつけクラクションをやたらに鳴らした。
進路も変えられず、止めることも出来ず前方は見えず、暖房も効かず、如何することも出来ない。
後ろは無視してそのまま15kで進んだ。
高速の1―2kmの長いのには驚いき、走れど走れど白河、15kのスピードで一夜を走り続けた。
外が明るくなりだした頃、やっと郡山ICに着いた。
先ずインターを降り一番近いホテルに飛び込んだ。
その時空は青空で、朝日が眩しかった。
時計を見ると午前6時を指していた。
上司に事情を話し、その日は、会社を休んだ。
そのときの緊張で胃潰瘍に。(完治するまで4年間を苦しんだ)

                        バスタ新宿待合所


                        那須行きバス乗車


「足立区・荒川」
「伊奈 忠治」 江戸時代初期の代官頭。
武蔵小室藩主・伊奈忠次の次男。通称は半十郎。
勘定方を勤めていたが、父の没後、跡を継いでいた兄・忠政が元和4年の1618年、34歳で若さで没し、嫡男・忠勝が8歳の幼少であった。
家督は忠勝が、関東代官職は27歳の忠治が継ぎ、関東代官となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山城を拝領していたため、兄の配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。
忠治は、父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わった。
江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。
なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくば市真瀬にある。
旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来する。
父の忠次も埼玉県北足立郡伊奈町の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となった珍しい例であると云う。



埼玉県甲武信ヶ岳(2475m)の真の沢が源流、赤沢と合流から「荒川」に。
秩父山地のV字状谷・寄居町で関東平野を南流足立区から隅田川ー東京湾に注いでいるが、本来は、関東平野に出て扇状地を形成していた。下流部の流路は、現在の元荒川の川筋であった。
洪水対策・耕地化のため、1629年「伊奈忠治」によって熊谷市で締め切り、瀬替えされー入間川につなげて現在に。



北区の「岩淵水門」から21km下流の荒川放水路(現在の本流)は、大正13年人工的に掘削された河川で、隅田川流路に。
埼玉県の農業用水に使われ、秋ヶ瀬水堰から朝霞水路は、朝霞浄水場にひかれている。(都の上水の4分の1)



高速バスは、埼玉県羽生市で利根川を渡り「栃木県の館林・佐野市」と順調に走行、一時休憩場の「佐野SA]へ、
栃木県は、関東地方の北部内陸県、東から西に、東部は八溝山地・西部に帝釈山地・南北に延びる中央平地の三分され、八溝は、丸みの山並みで
那珂川水系の小谷が発達・西部は、谷深く山険しい関東の秘境で奥日光は知られている・中央平地は福島県内陸と連続し、古来から東北の通路、
県は、冬「那須おろし・男体おろし」の空っ風が吹き降りて降雪がかなりである。
7・8月は、雷雨が多く全国有数県、が雷雨は、夏農作物に恵みを。(雷電神社多い)



940年「藤原秀郷」・平将門を討つー下野守に就任  1901年「田中正造」鉱毒被害を明治天皇に直訴



1973年足尾銅山閉山。 1982年東北新幹線 大宮ー盛岡間開通した。



「佐野SA]
佐野市は、県南西 古代・中世の「佐野荘」が。

万葉集、「下毛野美可母の山の小楢のすま麗し児ろは誰が持たむ」-三毳山(225m)がある。和泉式部集・枕草子にも「佐野の舟橋」が



「山本有三」 明治20年ー昭和49年の大正・昭和小説家で劇作家で政治家(文化勲章受章)
極貧の家に生れた愛川吾一は、貧しさゆえに幼くして奉公に出される。
やがて母親の死を期に、ただ一人上京した彼は、苦労の末、見習いを経て文選工となってゆく。
厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿。
「路傍の石」から。

栃木市に、山本有三ふるさと記念館・蔵の街が。平安時代は、下野国の中心地(国庁跡が)


              栃木都賀JCT・PAー鹿沼ー宇都宮ー那須へ

昭和47年東北自動車道一部開通
1972年の昭和47年頃は、米・ニクソン大統領が初の中国訪問・田名角栄「日本列島改造論」発表・日中共同声明に調印・横井庄一軍曹グアム島で救出
連合赤軍浅間山事件・パンダのカンカンとランラン上野動物園到着11月公開。

大手町から神田橋

2017-09-21 | 四季折々 syuのふた旅
「関東平野」 ー日本最大の平野・本州太平洋岸中央部にあるー
茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・神奈川(6県)とーきその中央に「東京」
北に阿武隈山地・奥羽山山脈南部火山群・足尾山地ー西に関東山地ー南に三浦、房総半島ー東に鹿島灘、九十九里浜で地形は沖積低地と洪積台地、丘陵
第三紀末以降に関東平野の中心部が沈降し、周辺部が隆起する関東造盆地運動が活発になったために出来た平野。
平安時代中期に開発が始まっている。特に江戸・明治に入り東京を中心に交通網が整備された。
東京湾には、京浜工業地帯・京葉工業地帯の重化学工場・近代産業が集中し全国第一の都市化した。

「神田川」
水源は、三鷹市井之頭池の湧水ー武蔵野台地に谷を刻み東流し、善福寺川と妙正寺川を合流して中央区東日本橋で隅田川に注ぐ。
本来は、飯田橋付近で南流し、大手町付近で日比谷入り江(日比谷公園)に注ぎ、船運に利用されていた。
江戸時代は、江戸城外堀を兼ねて「御茶ノ水」駅付近の開削し、神田川に流路で隅田川へ。外堀は現在文京区と千代田区の境界部に。

                秋葉原駅周辺と電気街は、外神田


      内神田は、武家、大名屋敷が多かったが、外神田は、下級幕臣・御家人・徒組・組屋敷が


    江戸初期に始まった神田明神天下祭は内神田にあった。神社は外神田に移り現在の5月神田祭に。


「内神田」
千代田区の北部に位置し、神田地域 (旧神田区)に属する。
町域北部は、神田警察通りに接しこれを境に千代田区神田美土代町・神田司町・神田多町・神田鍛冶町にそれぞれ接する。
東部はJR中央線の線路に接しこれを境に千代田区鍛冶町に接し、南東部は中央区日本橋本石町に接し、南部は日本橋川に接し、これを境に
千代田区大手町に接する。
西部は、本郷通りに接しこれを境に神田錦町に接し、内神田はは商業地であり、高層建造物が多く見られ、西部の内神田一丁目は東側を本郷通りに西側を外堀通りに挟まれた区域である。
中部の内神田二丁目は東側を外堀通り、西側を内神田中央通りに挟まれた区域、東部の内神田三丁目は東側を内神田中央通り、西側をJRの線路に挟まれた区域を云う。
内神田の名称は、広義には江戸府内・総構え内(外堀にあたる神田川以南)の神田全域、現在の神田川・日本橋川・竜閑川跡に囲まれた逆三角の区域を指す名称である。対して江戸府内の外れであるものの、神田明神移転後に門前町として栄えた地区を指す名称として「外神田」が用いられた。



                 昔と変わらない「丸の内ビル」


丸の内は、我が国のビジネスセンターである。
江戸時代初期は波打ち際であった。後大名屋敷・明治に陸軍練兵場・三菱の岩崎弥太郎氏が買収され、三菱は、ここにロンドンのロンバート街をまね赤煉瓦のビルを次々建てた。今の丸の内は、年々東京海上ビル等高層ビルが。





「本郷通り」 都道403号線・455号線・国道17号線。
文京区本郷を通ることから、この名が付けられた。
国道17号線内(湯島聖堂前交差点 - 東大弥生キャンパス前)は、都内で震度6弱以上が観測される地震が発生した場合、発生直後は緊急自動車専用路(第一次交通規制)となる。
その後も、緊急交通路(第二次交通規制)となる。
国道17号線内は中山道、都道455号線内は日光御成街道(岩槻街道)の道筋である。現在でも国道17号の一部区間
(都内では豊島区の西巣鴨交差点以北が「中山道」と呼ばれ、本郷通りの延長線上にある国道122号の一部区間が「岩槻街道」)



「神田橋」
千代田区を流れる日本橋川に架かる橋。
右岸は、大手町一丁目、左岸上流側は神田錦町二丁目、同下流側は内神田一丁目となる。
橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来。
江戸城の増築により外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられた。
寛永時代の地図では「大炊殿橋」の名で記されている。
神田橋から上野広小路を通り寛永寺へと通じる道は、歴代の徳川将軍が寛永寺に参詣する際に通ることから「御成道」と呼ばれた。
現在でも、天皇皇后両陛下が車で北関東方面に向かう際にここを通ることから、「御成道」の名は残っていると云う。
1923年の大正12年、関東大震災で崩壊し、現在の橋は
1925年に架け替えられたものである。
新たな橋は単純鈑桁橋で、石灯籠を思わせる親柱と、橋のたもとには復興に尽力した太田圓三の碑がある。
橋の左岸上流側にはバスケットボールのコートなどを備えた神田橋公園が、(常磐橋修復工事の資材運搬に使用するため一時閉鎖中)









散歩コースー大手門・平川門・田安門・牛ヶ淵・千鳥ヶ淵・半蔵濠・桜田濠・桜田門・皇居外苑(30年前の話)

「外堀通り」
都道405号外濠環状線、都港区新橋一丁目を起点にし、都港区新橋二丁目を終点。
皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の特例都道である。本線の通称は「外堀通り」、延長12,375m。環状道路であるが、その形は中央通りとの重複を避けるべく少し歪んでいる区間がある。
(開通区間の新橋四丁目から虎ノ門二丁目(特許庁前付近)までの支線と、特許庁前付近から昌平橋交差点までの本線は環状第2号線の一部を構成する)



                        御宿稲荷神社






「出世不動尊」
第二次世界大戦後、神田鎌倉町の要請を受けて、出世不動通りが管理し、都内でも由緒ある不動尊として知られており、明治の頃には毎月二日、十五日、二十日、二七日に縁日が行われ、植木商などが市を出し盛況であった。
後に縁日は毎月二七日のみとなるが、縁日と歳末の羽子板市には多くの人が集まり大変にぎわったという。
現在の本堂は、ビルの谷間に昭和63年、完成した。
出世不動とは、相撲取りが信心すれば出世すると言い伝えられたことが始まりと言う説も

                           不動尊


「JR神田駅」
1919年の大正8年、鉄道院中央本線の駅として開業。大正14年、東北本線の駅が開業。乗り換え駅に。昭和6年には東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)の駅が開業し歴史がある。現在は、中央本線、京浜東北線、山手線、地下鉄銀座線が停車。

           昭和35年頃上野駅前とここ神田駅前に純喫茶「千代田苑」があった。


     父の実家が日本橋小伝馬町にあり、戦後、お正月になると父に連れられこの駅で下車した。


昭和25年・1950年頃ー朝鮮戦争勃発・警察予備軍令公布・山本富士子第一回ミス日本に・湯川秀樹、ノーベル物理学賞、中間子論で受賞。
内閣、民自党、自由党ー吉田茂(26年に、サンフランシスコ講和会議開催・日米安全保障条約調印)

トウキョウの表玄関・東京駅

2017-09-18 | 四季折々 syuのふた旅
戦争で中断した中学修学旅行が復活したが、まだ、当時は、食糧難で「米」を各自持参してのお粗末な修学旅行。
我が家は、細長い赤いすじのある「外米」を持参。集合場所が、東京駅で夕方であった。
初めと乗る夜行寝台車、身を寄せながら空腹を押さえながら夜を過ごした。朝日が昇る頃に、やっと「名古屋~」。
ホームの水道で顔を洗った記憶が、また、雨続きで疲れ早く帰りたかった。
少ない餞別で京都名物の「八ツ橋」を買って弟の喜ぶ姿を想像しながら帰宅した。

昭和40年・新婚旅行で初めての新幹線に乗るために東京駅へ、「伊豆一周3日間寿コース」、数人の友人に見送られ、1時間で「熱海駅」に。
みかん数個食べたら熱海であった。

東京駅と云うと子供の頃思いだす。
今の八重洲口辺り、雨が降ると水はけが悪い為、水たまり場となり,いろいろなトンボが取れると聞いて町内の子供たちと夕方になると出かけていた。
捕り方は、竹竿の「もち」が使えないのでメスのトンボを糸に吊るし回しているとオスが絡んで捕れ,好きな様に捕れたのを思い出す。



「岩崎弥太郎」 1834-85 三菱財閥の創始者、土佐生まれ・九十九商会後三菱商会設立・帝国郵便蒸気船会社の競争に勝つ大きく発展
為替業・海上保険業と事業拡大ー日本郵船設立。

明治20年新政府は親兵不要、陸軍用地75000坪民間払い下げたが買い手無し、三菱、岩崎弥之助に頼み込み150万円・8回払い・明治23年頃。
三菱の社内から「無駄な土地を買った」と不評、非難を浴びている。弥之助は、「竹でも飢えてとらでも飼うか」とやけ気味であったと云う。
当時は、草ボウボウの原っぱ、人よんで「三菱ヶ原」と云った。
ホタル・蝙蝠・バッタが、。大正3年総工費280万・総人夫73万人・坪数65000坪・煉瓦760万個・鉄道総裁後藤新平が
世界一の駅を作った。

「辰野金吾」  1854年ー 1919年。(満64歳没) 佐賀県・東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)
母校 工部大学校ー所属組織 辰野葛西事務所、辰野片岡事務所ー主な業績、 日本銀行本店・東京駅

          デザイン 歴史主義建築・設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。










「原敬」 1856-1921 初の政党内閣を組織した平民宰相。
南部藩重臣の子・大阪毎日新聞社長・1900年立憲政友会創立に参画し、伊藤博文内閣で逓信大臣に、1,2次西園寺内閣の内務大臣、政友会総裁
政党内閣を組織した。腐敗政治で東京駅南改札口で暗殺。

「犬養毅」 1855-1932 5・15事件で殺害された政治家(東京駅電車ホームで)
満州事変阻止に尽力したため、軍部と右翼に反感を買う。



「東海道新幹線」
新幹線開業前、東西の大動脈である東海道本線は高度経済成長下で線路容量が逼迫しており、抜本的な輸送力増強を迫られていた。
これに対し日本国有鉄道(国鉄)は、十河信二国鉄総裁と技師長の島秀雄の下、高速運転が可能な標準軌新線を建設することを決定。
1959年(昭和34年)新丹那トンネル熱海口で起工式を行って着工し、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した。
計画段階では「東海道新線」と呼ばれていたが、開業時には「東海道新幹線」と命名され、「新幹線」という呼称は戦前に東京駅 - 下関駅間で計画された「弾丸列車」の内部呼称に由来するといわれている。





「後藤新平」 1857-1929 大風呂敷と称された帝都復興院総裁・政治家・岩手県
板垣退助を往診し、政治家へ、ドイツ留学し帰国後衛生局長となる。山本権兵衛内閣で内務大臣兼帝都復興院総裁へ、関東大震災で復興計画を立案
そこで、大風呂敷と非難された。



結婚した昭和40年(1965)頃は、佐藤首相(自民党)首相として戦後初めて沖縄を訪問。
新三種の神器ーカラーテレビ・カー・クーラー。日本総人口1億人突破。