「夏目漱石」 1867-1916 思想家・小説家・英文学者・漢文、俳句作り(正岡子規)。東京帝大英文科、江戸牛込生まれ。
小説は、心・三四郎・坊ちゃん・虞美人草など。時代は、英語を学ばなければ大学に進学できない時代に。
夏目漱石が晩年の9年間を過ごしたのは「早稲田南町の借家、漱石山房」。漱石山房で、文壇第1作の虞美人草 を完成。
我輩は猫であるは、ホトトギスの連載 小説で、文壇デビュー前の作品と云う。
三四郎、それから、門などの代表作を 次々と朝日新聞に発表し たが、明暗を 執筆中、持病のため50歳を目前に亡 くなる。
夏目漱石の死後、遺族は漱石山房を購 入したが、戦災で焼失している。戦後、新宿区に移管され区立漱石公園 が造られた。
夏目漱石誕生150周年平成29年 (2017)に向けて、漱石山房記念館の 竣工が進行中と云う。
神楽坂通り「相馬屋」は、夏目漱石をはじめ多くの文人たちの原稿用紙を扱ってきた老舗。
江戸時代に紙問屋として創業し、将軍家、宮内庁御用達をつとめてた店で、漱石は、相馬屋製と銘打った原稿用紙で多くの名作を書いたと云う。
変貌する神楽坂
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昔ながらのお茶店 親子連れが多い。
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街路時の樹木
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「善国寺」 日蓮宗
安土桃山時代の文禄4年の1595年、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建されるが、火災に見舞われ、麹町を経て1793年、に
現在地へ移転した。
本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれる。
現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられている。
池上法類神楽坂法縁縁頭寺。
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「文化財」 毘沙門天像 - 新宿区指定有形文化財(彫刻)像高30cm、木造の毘沙門天像。(製作時期は不明)
開山の日惺上人が池上本門寺へ入山する際、関白二条昭実より贈られたとされる。
なお通常は御簾が掛かっているため像を直接見ることはできない。
御開帳の日は、(毘沙門天が寅年、寅の月、寅の日に初めてこの世に姿を現したとされる古事に因み)毎年1月・5月・9月の寅の日とされている。
浄行菩薩
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石虎(狛虎)阿形石虎 - 新宿区指定有形民俗文化財。
本堂の左右には神社の狛犬のように阿吽一対の狛虎像が置かれている。
案内板には「石虎」と表記され、制作は江戸時代後期のもので、保存状態は向かって右側の阿形が比較的良く残っている。
向かって左の吽形には全身にヒビ割れや多少の欠けと縞模様に若干の磨耗がありこれは東京大空襲による損傷とその後の修復の痕と云う。
虎の作風は頭部が扁平し前肢が長大でどちらかといえば類人猿にも近い印象の肉付きの良い作風の像で、台座部にも虎のレリーフ彫刻が施されている。
毘沙門天と狛虎
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本殿
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石塔
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老舗のうなぎ屋
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店内には横綱「白鵬関」のポスターが
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ウナギの骨で日本酒を
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中町公園(小さい公園がいくつもある)
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浄土宗の「光照寺」牛込城跡
14世紀、赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が今の光照寺辺たりに牛込城を築いたのが神楽坂の始まりという。
神楽坂上付近は牛込城の城跡と云う。光照寺を見てもここがお城だったとは全く想像できない。家康公の江戸開幕のころは、荒れ地や沼地だった新宿区で唯一、町としての形態があったところだといわれている。開幕後、牛込城は、軍事的必要性が無くなり廃城に。
光照寺
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「大胡氏」は、鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。
上州八家の一つで、藤原秀郷の子孫・藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別系統)の庶流にあたると云う。
足利成行の庶子重俊が大胡太郎を称した。永禄年間には既に牛込にいたとされ、赤城神社(現在は移転)を創建したと伝わる。
牛込に移った大胡一族は勝行のとき「牛込氏」を称している。
現在は土塁等の遺構は残念ながら見当たらない。
近くの公園
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小田原の後北条家に仕えた牛込氏の居城跡と云う。
光照寺の境内
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城主・牛込氏は、
群馬県の赤城の領主だった大胡氏を始めとし、南関東へ進出後、牛込の姓を名乗るようになり、神楽坂駅の裏側には「赤城神社」という神社が、
北条家と対立する上杉方の太田道灌氏の地で関係は不明。
後北条家が滅んだ後は、牛込氏は、徳川家康につき、その際にこの牛込城は取り壊しに、現在の光照寺も一般の墓地のみが広がる小さなお寺で、
周りも普通の住宅街、寺院前に設置された案内板ある。
周りは住宅
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寺の前は、地蔵坂が。
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大久保通り
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JR飯田橋駅へ 牛込橋
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千代田区飯田橋、江戸時代、外堀に機能を果たし、神田川が流れていた。新宿区と結び、東端の日本橋川の河岸として栄えた。
明治に入り、「靖国神社」が創祀され、その門前町となる。
JR・営団地下鉄東西線・有楽町線・南北線の飯田橋駅が
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「甲武鉄道飯田町駅」
明治22年、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、28年、には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅に、37年、我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置した。
その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長し、明治39年、甲武鉄道は国有化され、昭和8年、飯田町駅は貨物専用駅・
この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川側にあった。
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「飯田橋」
江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありません。
明治初年の1868年、簡単な木橋がかけられ、明治14年、土居が掘切られて車の通行ができる橋になった。
1890ねん、鉄製の橋にかわり、昭和4年の1929年、現在の橋がかかった。
現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われ、戦後の町。
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