syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

鴨川の美しい海岸 その海岸に建つ総合亀田病院  

2019-01-21 | 気まま旅
市名は、古代豪族「加茂氏」に由来すると云う。
「加茂氏」は、神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族。
代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。
子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となり、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。

「源頼朝家臣・金山城主 東条氏」が支配
天正八年の1580年に大多喜城主・正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こした「正木憲時の乱」で攻め落とされたのが史料上の唯一の所見という。
長く正木氏の属城として、長狭郡の支配拠点となっていたとみられる。
1180年、石橋山合戦で敗れて安房に渡った源頼朝を貝渚で襲撃した「長狭六郎常伴」が金山城主であったというが不明。
1445年、「里見義実」が「安西景春」を降ろした後、金山城に立て籠もる「東条左衛門常政(秋重、重永)」を攻めて落城させ、常政は討ち死にし、
里見義実は安房の統一を完成させたという。
天文年間には、正木氏の属城となり、金山城には「勝浦城主・正木時忠の弟、弘季」が在城したという。
1580年、正木憲時と里見義頼の抗争(正木憲時の乱)では、憲時は金山城に弟の正木石見守道俊を守らせており、里見義頼は、勝浦城主・正木左近大夫頼忠を先鋒に東安房へ侵攻、葛ヶ崎城を落とし、金山城も攻め落として、正木道俊を「興津城」に追ったと云う。
正木憲時は、1581年、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定された。
金山城はこの頃廃城になったと考えられている。

JR千葉市蘇我駅ー内回り木更津・君津・館山と外回り茂原・御宿・勝浦の発着駅ー安房鴨川駅
    

眼下は太平洋が広がる「魚見塚展望台」が
海抜約110mから見る海岸線は、素晴らしいが、あいにく、今日は、朝から大雨、鴨川松島は隠れていました。


「長狭街道」ー房総半島を横断する主要道路で江戸時代より東京湾と太平洋を結ぶ街道として栄えた。
毎年冬に「長狭街道駅伝」が、鋸南町保健福祉センター「すこやか」 - 鴨川市総合運動施設間で毎年スタートとゴールを交代して開催。
起点は、鴨川市横渚 長狭街道入口スクランブル交差点(千葉県道247号浜波太港線交点)・終点は、安房郡鋸南町保田 保田交差点(国道127号・千葉県道238号保田停車場線交点)総延長:27,007m。「東京湾アクアラインで鴨川市亀田病院までバスが出ている。約85km」。

「久留里街道」ー鴨川市外房地域より都心への最重要幹線道路。
千葉県道路公社管理の有料道路「鴨川有料道路」も含んでいる。鴨川日東バスなどの高速バスも走行。
起点は、 千葉市中央区塩田町 (蘇我陸橋南交差点、国道357号交点)ー終点は、 鴨川市横渚 (横渚交差点、国道128号交点)
有料道路あり、鴨川有料道路(君津市笹 - 鴨川市打墨)。

                 海岸沿線、国道128号線から


二級河川・「加茂川」は、安房地域で最大規模となる河川で、長狭平野の中心を貫く長狭街道に沿うように流れている。
鴨川市西部に源を発し概ね東に流れ、鴨川市貝渚と鴨川市前原の境界から太平洋に注ぐ。
流路延長24.7km。二級河川指定区間は鴨川市金束谷川合流点から河口までの22.25km。支流ー川音川・銘川・金山川など。

             近代的ビルの亀田総合病院近く
    

            龍性院ー山号・飛梅山    真言智山派
    

「須賀神社」
須佐之男命を主神とし罔象女神・源義家公を合祀する神社。
創立年代は不詳であるが社伝によれば、天正の1573~1593年頃、京都より勧請したといわれる。
鴨川市広場地区の鎮守し明治6年村社に列し、さらに大正14年神饌幣帛供進指定社となる。
明治14年同町内にあった無格社水神社及び白幡神社を合祀した。本殿は、1850年の修築と云う。

7月例大祭・南房総最大神輿2.6tと神社前に「万灯」が集合する。
    

諏訪神社、長野県諏訪(高島城の諏訪一族、高梨・望月氏等が)安房鴨川などに移住の記録があると云う。

「高島城」-長野県諏訪市高島にある。別名は、諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていた が、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われたと云う。
                    諏訪神社
    

「前原・横渚海岸ー 海浜プロムナード」
弓なりに美しくカーブした海岸線が魅力的な前原・横渚海岸は、日本の渚百選のひとつ。
右手には名勝・鴨川松島の一角をなす荒島が望め、硬軟合わせた海岸風景が満喫 できる。
夏には市内最大の海水浴場となり、早朝から多くの人々が詰めかける

                 夏は、花火大会
  

「小松原山・鏡忍寺」ー日蓮宗本山(霊蹟寺院)。山号は小松原山。

1264年の文永元年、日蓮聖人が、「東条景信」に襲撃され、同行の「鏡忍坊・日暁」と共に天津の城主「工藤吉隆」が討たれた。
1281年、小松原法難の地に、工藤吉隆の子、日隆が日蓮の命により建立。妙隆山と号し、後に鏡忍坊の名に因み小松原山鏡忍寺と改める。
現住職は43世ー 原 日透貫首。

日蓮宗は、昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。岡本山日宣寺(南房総市犬掛)・袈裟山掛松寺。
また、鏡忍寺は特定の法縁に属さない別格山である。

  宗祖四大法難・小松原法難霊ー鏡忍寺                      手洗鉢
    

「東条 景信」-生没不詳、鎌倉時代前期の武将。安房国長狭郡東条郷の地頭を務めていた。
1253年の建長5年、「日蓮聖人」は、比叡山で修学を終え、清澄寺において自己の法華経信仰を説いた。
このとき東条景信の信仰している念仏も住生極楽の教えどころか無間地獄に落ちはいる教えであると述べ、法華経のみが成仏の法であると述べたことに怒り、日蓮を殺害しようとしたが清澄寺の道善坊の取り計らいで事なきを得た。
日蓮は念仏宗を批判することをやめず、その後も他宗教排撃を弘通活動の中で盛んに行っている。
景信はこの信仰上の恨みとともに、日蓮やその両親が恩顧を受けた領家の尼の所領を景信が侵略した時、日蓮が領家の尼の味方をして領家側を勝訴に導いたことなどから、一層の恨みが募ったのではないかと思われている。
景信は1264年、日蓮聖人が天津の領主「工藤吉隆」のもとへ招かれた帰途を待ち伏せ襲撃したが討ちもらした(小松原法難)。
東条景信のその後の消息に関しては現在のところ正確にはわからないが一説によると1291年、63歳にて病死したとされる。
この説によれば小松原で日蓮を襲撃してから27年後に没したことになる。

              仁王門                             降神槙
    

「工藤吉隆」- ?-1264 鎌倉時代の豪族。
安房天津の領主。
日蓮に帰依する。
文永元年、安房滞在中の日蓮を館にまねいたところ,日蓮と対立する「地頭・東条景信」らが長狭郡東条郷小松原で一行を襲撃したので現場に急行し,
日蓮の弟子ー「鏡忍坊日暁」とともに討ち死にした(小松原の法難)。

「加藤清正」は、熱心な日蓮宗の信徒であり、日蓮宗の寺を数多く創設して いる。
鏡忍寺は、波の伊八として名高い武志家の菩提寺で、「祖師堂裏 の墓地には、初代伊八信由から五代伊八信光までの墓があるという。

清正、1562-1611 賤ヶ岳の七本槍の一人、猛将、肥後国の大名、関ケ原の戦いでは東軍に。熊本城築城、家康による毒殺説あり。

鐘楼堂                       境内(報恩塔など)
    

小松原は、松の木が多く見られ、中でも祖師堂前の「祖師御手植菩提松」はひときわ目立つが、現在の境内には松の大木はほとんど見られない。
「降神の槙」と称され、日蓮遭難時に鬼子母神が降臨して助けたと伝えられる槙の古木は、「二王門」近くに今もあり人目を引いている。

                 「降神槙」は千年以上古木
    

東条景信の一団に襲われた際に、路傍の樹の上に鬼子母神が現れ、危うく難を逃れたと伝えられるマキは市の天然記念物に指定され、今でも境内に大きく枝を広げています。
祖師堂の欄間を飾る「波の伊八」の七福神の彫刻三面、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門が、市の有形文化財に指定.

                     見事な彫刻が
  

「日蓮四大法難ー伊豆法難 - 佛現寺、蓮着寺。小松原法難 - 鏡忍寺。松葉ヶ谷法難 - 本圀寺。龍ノ口法難 - 龍口寺。

                       祖師堂
    
   
   碑ー小松原の 秋静かなり かくりせの 人呼ぶ如く 百舌鳥の 高鳴く


2009年12/10掲載した「大多喜城」の記事を参考に」。

大多喜城は中世の頃、小田喜城(小田喜の城)と呼ばれ16世紀前半代に武田氏が入城したと言われている。
1540年頃は安房の里見氏の重臣正木氏が入り、以後4代に渡り上総正木宗家の居城として発展した。
1590年北条氏の小田原城が「秀吉」に攻め落とされると、「家康」が江戸城に入った。

1609年スペインのドン・ロドリコは「濠に囲まれた高台にあり、門は鉄で出来、内部は金、銀の配色で美しい城」と驚いている。
  
初代の本多忠勝(1548~1610)徳川の四天王の一人、通称「平八郎」は幼少より家康に仕え、数々の武功を揚げた。
上総国で10万石を貰い大多喜城に入る。関が原の戦いでは軍監を務めた。

忠勝は伊勢国十万石に転封となり桑名城主となる。
武田信玄は「家康に過ぎたるもの二つ、唐の頭と本多平八」と褒め讃えた。

その後59度の合戦に参加し、抜群の功を立てながら一度も傷を負わなかったという。
          
城内は、博物館になっており、武器、武具など武家社会に関する資料が展示されている。入館料 ¥200
大多喜の街並みは、房総の小江戸とも呼ばれている城下町、薬草園、忠勝の墓所などがある。

日蓮誕生の誕生寺ー鯛の浦と清澄山へ

2019-01-19 | 気まま旅
「清澄寺」
清澄山参道、65号線を清澄養老ライン81号線で鴨川に下る途中に、日蓮が入門し出家した清澄寺。
境内中央の大杉は、樹齢1000年をこえる清澄寺の歴史を物語る霊木とされている。根回り17、5m 樹高47m。
  
771年天台宗の寺として開創、三大虚空蔵尊の一つとして、深く信仰されている。
日蓮宗の開祖「日蓮聖人」は1233年12歳のときに、小湊からこの寺に入り、道善法師に師事し、出家得度した。

JR外房線上総一の宮駅、一時間1本「清澄寺」まで、直行便マイクロバスが出ている。  


「安房国」「房総」は、房総半島東西に連なる「上総丘陵の南斜面」に位置、海岸線に沿う狭い台地、黒潮の影響を受け、冬は暖かく・夏は涼しい。
最近は花卉・枇杷栽培が盛んに、平安時代初期の「古語拾遺」によると、「阿波の斎部(いんべ)の居る所、安房と名づく、太玉命を祀り安房の社
と云う」とあり、阿波(徳島県)の人々が移住したところから「安房郡」と名付けたと云う。
「続日本紀」718年「上総国、安房等の4郡を割き・安房国を置く」とある。4郡は、平郡・安房・朝夷・長狭である。国府は三芳村府中付近
その後武士団丸氏が活躍し、源頼朝の再起の地。
15世紀の滝沢馬琴「南総里見八犬伝」で知られた「里見氏」が勢力を張っていく。
豊臣秀吉時代「里見氏」江戸期「後北条氏」-幕府領・旗本領などに分割されていく。元禄期の浮世絵師「菱川師宣」は、鋸南町の出身

「天津小湊町」は、鯛の浦の面した漁港地区、日蓮聖人生誕地で「誕生寺」の門前町。

「日蓮・両親閣・小湊妙蓮寺」ー誕生寺と逆方向すぐー
御廟堂の中にお大きな宮殿があり、その宮殿の中に日蓮父母の御廟があると云う。
宮殿後ろ左には妙日、右には妙蓮の石像が安置され、宮殿の真後ろには棟板本尊。

日蓮聖人の両親のご廟所・1253年、清澄寺のお山で立教開宗・山から降りた聖人は、父母を教化し、 父に妙日、母に妙蓮寺
    

      孝養父母第一に、小湊妙蓮寺  本堂


「日蓮の母感謝の心・ 誕生寺」 ー県鴨川市小湊ー

母は、病気の平癒祈願を感謝し信仰に励まれた地が誕生寺の所と云う 生まれた地は今は海となって居ると云うが海には大鯛が踊り岸には蓮華が咲き丘には清水が湧き出したと三奇瑞を今に傳えられて居ると云う。

                 山内には、幼少期の日蓮像


1276年、日蓮の弟子の「日家」が日蓮の生家跡に、高光山日蓮誕生寺として建立。(1498年・1703年、2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転)
(生家跡伝承地は沖合いの海中にあると云う。)
26代、「日孝」が「水戸光圀」の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称したが、1758年、仁王門を残して焼失し、
1842年、に49代「目闡」が現存する祖師堂を再建。
近代に入り、大正天皇の病気平癒の廟所が建立され、その後、昭和から平成にかけて、50万人講を発願して諸堂を復興、
1992年の平成4年、落慶法要が行われた。平成13年、風景100選に選定。

佛教の研鑽を逐え故郷に帰り父に妙日 母に妙蓮の法号を贈り自らは一字づつとり日蓮と改めたと云う。
    

御影体内文書(日静筆・室町期)
江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰。

現住は84世石川日命貫首(本山水戸久昌寺より晋山)。潮師法縁。
「文化財」-大壁画 散華霊鷲山(石川響作)・富木殿女房御返事 (日蓮真蹟)・薬王丸画像・誕生寺古図・ 御影体内文書(日静筆・室町期)

    

「仁王門」
1706年、建立ー平成3年大改修。
入母屋造二重門、間口8間、宝暦の大火の際焼け残った誕生寺最古の建造物。
金剛力士(仁王)像は松崎法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。(千葉県指定有形文化財)

「本堂」
1991年、建立。間口7.8間、奥行き8.8間の単層入母屋造り本瓦葺。
水戸光圀の寄進による十界本尊木像(大仏師左京康裕作)がある。天井に仏教植物の天井画(石川響筆)82枚。
日家、日保像等が安置される。

「祖師堂」
1842年、建立。入母屋造、総欅造り雨落ち18間4面、高さ95尺。建材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し、譲りうけたもの。
日蓮像が安置され、聖人像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進による。
堂内右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれ、堂内の天蓋等の仏具類は明治天皇の生母である中山慶子一位局や、大正天皇の生母・柳原愛子一位局による寄進。

「本師殿宝塔」
1988年、完成。総高26m、塔体印度砂岩切石貼。釈尊像(西村房蔵作)を安置。

「宝物殿」
1989年、に新築開館。面積366m²、日蓮真筆、歴代の墨蹟、里見家、加藤清正、水戸光圀等の遺墨、明治皇室よりの拝領品、日蓮聖人御一代伝記画十八枚等を展示。

「客殿」
1933年、建造。総檜造りで宮家の接待所として造られ、貴賓殿と称した。

「誕生堂、鐘楼堂、大田堂、竜王堂など」

    

「願満の鯛」
1991年、祖師堂の日蓮像を修理するため解体したところ、胎内から4代日静筆の古文書と薬草が発見。
古文書には「生身の祖師」の名と宗祖誕生の時と所が記され、日蓮が母を蘇生させた伝説から、当山の日蓮像は「蘇生願満の祖師」と呼ばれる。
この願満の祖師のお使いとして鯛が使われており、山内では鯛のお守り「願満の鯛」が売られている。
日蓮宗信徒に限らず、周辺地域では鯛を食べる事を嫌う人が多いと云う。(願満の鯛は近所にある清澄寺の五角の合格枡と共に有名な縁起物)

「立正安国論」(1260年)
鎌倉での日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結び、小町大路を中心に辻説法を行い、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として、他宗を厳しく批判。
(妙法寺、安国論寺、長勝寺が日蓮の旧跡に建てられたとしているが、その場所は定かではない。)。
1260年の文応元年、立正安国論を著し、宿谷光則を通じて、時の権力者「北条時頼」に提出した。
立正安国論では、天変地異や疫病は、法然の念仏宗や禅宗などの邪宗を信仰するからであるとし、法華経を信じなければ、「他国の侵攻も受ける」などの批判を行っている。

    

「鯛の浦遊覧船」
海面に群がる特別天然記念物の「鯛」。小弁天と大弁天の二つの島を周遊する遊覧船、船上・船内から水深10~20mに天然鯛の群れを眺められる。
今日は、天候不順で欠航。
                  誕生寺の前が遊覧船乗り場

三大朝市の勝浦ー金目鯛が美味い

2019-01-18 | 気まま旅
勝浦市は、県南東部、鴨川・御宿の間で同じ外房海岸、勝は潟・浦は海浜を意味する。平安中期、上総介興世王が八幡岬に「勝浦城」を築き
後に里見氏の家臣「正木氏」の居城。江戸時代に入り、徳川家康の家臣「植村泰忠・3000石」で入封し、1682年4代「忠朝」の時に
勝浦藩が成立、後江戸中期には、幕府直轄領や旗本領となった。
植村氏は、地域産業復興の為「朝市」を開設、-勝浦三町江戸まさりーと云われる賑わいの中心に。
「興津」は、東北地方と江戸を結ぶ「東廻り」の航路の拠点地。
漁港は、イワシ、サバの水揚げが多い港、遠洋漁業基地ともなった所でカツオの水揚げは県内最大漁港、海岸全域「南房総国定公園」
鵜原理想郷おせんころがし断崖・海中展望塔の海中公園・守谷洞窟・レジャーランド観光地もある。
内陸の上総丘陵部は、「夷隅川上流域」にあたり、リゾート開発も進んでいる。

「興世王」 生年不詳 - 940年
平安時代中期の皇族。出自については、伊予親王の玄孫で、時世王の子とする説がある。
信憑性に乏しい。承平天慶の乱の首謀者の一人。官位は武蔵権守従五位下。また、新皇を名乗り挙兵した「平将門」から上総介に任じられるが、これは正規の官職ではない。

「外房里見家 家臣団・正木通綱」~1533。
外房正木氏当主。正木家は内房の系統と外房の系統に分かれる。
外房正木氏は内房正木氏の庶流ながら大きな勢力を持ち、里見家当主から厚遇された。
大膳亮。永正五年、里見義通が安房鶴谷八幡宮を修繕すると、国衙奉行として祭祀に従事。
大永六年、後北条家への攻撃のため品川に出陣。天文二年、稲村城に呼ばれたところを、敵対の意志有りとして里見義豊に討たれた。
子は時茂、時忠。その後、外房正木氏は正木時茂の系統である小田喜正木氏、正木時忠の系統である勝浦正木氏に分かれ、小田喜正木氏の当主は正木通綱と同じ大膳亮を名乗り、勝浦正木氏の当主は左近大夫を名乗っている。

「植村 泰忠」1539 -1611
安土桃山時代の武将、江戸時代初期の旗本。植村泰職の子。土佐守。子に植村泰勝、植村政泰、植村家政室。
幼くして父を亡くし、三河国鳳来寺の大叔父二位法印教円に育てられ、鳳来寺薬師別当となり、安養院と号す。
三方ヶ原の戦いに僧兵を率いて徳川家康に加勢し、戦後に還俗し、遠江国榛原郡内に領地を賜る。
小田原征伐における武蔵国岩槻城攻略で親族の本多忠政とともに参戦し、武功を挙げ、家康の関東入りに従い、上総国夷隅郡勝浦3000石を。
関ヶ原の戦い後に2000石を加増され、勝浦を居所とし、それまでの勝浦城を廃城にし、勝浦の街の基礎を築いたと云う。
領民に市を開かせて、日本三大朝市に数えられる勝浦の朝市のはじまり。

  

勝浦海岸から、陸地に、「久留里線・小湊鉄道、上総中野駅・大多喜(城)・養老渓谷」に。
市内には、「海中公園」「県立海の博物館」「季節の花々の・花野辺の里」「宇宙通信所」等がある。
これから向かう安浦トンネルを抜け、勝浦湾突端「八幡岬公園」へ。

日本三大朝市・飛騨高山朝市・輪島朝市・勝浦 朝市の3つの朝市。昔から生活に溶け込む朝市で、新鮮な食べ物が .
    

「遠見岬神社」-祭神・天冨命。
神武天皇の側近として活躍した「天富命」、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の
布良の浜に上陸。
祖神である「天太玉命」を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。
天日鷲神の後裔の勝占の忌部須須立命は、八幡岬突端富貴島の天冨命の居跡に社殿を建立、開拓の祖神として祀ったのが当社の起こり。
1601年の大津波で岬突端の富貴島にあった社殿は決壊し社宝の多くが流失し、決壊した社殿と御神体が高磯の浜に流れ着き、流れ着いた
「宮の谷」に社殿を再造営、里見氏・安房正木氏および近郷領主の信仰が篤かったという。
1659年、領主の「植村土佐守」が神占によって現在地の「宮山」に遷祀したといわれ、現在の社殿は、1849年、改築。
江戸時代までは富大明神と称したが、明治6年、「遠見岬神社」と改称し郷社に列したと云う。
社殿のあった富貴島は、津波や元禄16年の1703年、大地震で海没し、現在は、一部が平島として残されているのみで、勝占の忌部が住んだこの地は勝占と呼ばれるようになり、「勝浦」の地名の由来といわれている。                        遠見岬神社
    

「勝浦・本行寺、釈迦堂」
暦応2年の1339年、日続によって真言宗から日蓮宗に改められたと伝えられている。
1723年、五十座に際し、池上本門寺より日蓮上人の御歯骨が分与され厨子に奉安。
日蓮宗寺院の多い千葉県にあっても重層建築の釈迦堂は珍しいという。
日蓮上人の御歯骨を奉安するため建てたところから、舎利塔の意も含んで重層としたのではないかと考えられている。
三間堂で重層方形造り桟瓦葺で棟上に擬宝珠をのせ、上層には唐様式も加味され、整った美しい建物となっている。
                      本行寺ー市指定文化財
    

「八幡岬公園・勝浦城址」
勝浦湾の東側に突き出た細長い半島。三方を海で囲まれた要害であるこの地には、勝浦城があった。
徳川家康の側室で、水戸光圀の祖母にあたる「お万の方」の像が立ち、城址周辺は公園。
断崖に勝浦城址が、築城時期については様々な伝承がある。城郭の形態をなしたのは、「正木時忠」からではないかと考えられ、それ以前は
真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられている。
正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明で、1539年から1541年にかけてではないかと考えられている。
正木氏は時忠から時通・頼忠と続き、1590年、小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく「植村泰忠」に接収。
郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残って、廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、
お万の方の銅像が青い太平洋を見つめている。
                       八幡岬公園
  

「勝浦正木氏」
大多喜正木氏とともに里見氏に属し、天文年間から永禄年間にかけ東下総に侵攻し、小見川に城砦を構えて6年間占拠したというが、その時期や東下総侵攻の実態はよくわかっていないと云う。
勝浦正木氏は内房にも出撃拠点を持ち、金谷城を属城としたが、1553年、「房州逆乱」の後、金谷城は内房正木氏へと譲渡。
1564年、年の「第二次国府台合戦」で里見氏が北条氏に大敗すると、正木時忠は里見氏を離反し、北条氏に通じ、伊豆に五男の邦時(頼忠)を人質として差し出し、同年12月には時忠の嫡男・時通が一宮城を攻略して正木大炊介を没落させたことが上杉謙信書状に見える。
北条氏政は伊豆から勝浦城に軍船を回航するなどして、勝浦正木氏を支援している。
1576年、正木時忠が没すると、再び里見氏に属し、1579年頃、小田原に人質に出されていた頼忠が帰国して城主となった。
大多喜城主・正木憲時が里見義頼に叛旗を翻した「正木憲時の乱」では、里見義頼に属し、先鋒として金山城や吉宇城の攻防戦に参戦し、勝浦城は一時正木憲時に攻め取られたともいう。
1590年、小田原の役では里見氏に属したが、里見氏の上総没収によって勝浦城は廃城とされ、植村泰忠が勝浦に陣屋を構えたとある。
養珠院・お万は、伊豆で北条氏の人質となっていたが、北条氏の滅亡により徳川家康の側室として召しだされ、紀伊徳川家の祖となった
「徳川頼宣、水戸徳川家の祖となった徳川頼房」を生んだ。

勝浦城主・正木時忠の娘「お万の方」は、
豊臣秀吉率いる軍からの小田原攻めによ­って勝浦城が落城した際、この断崖絶壁に布を垂らして海へ降り、小船を使って脱出し­たと言われが


川津海岸の高台に官軍塚が、明治新政府と旧幕府勢力との間で戦われた戊辰戦争で、旧幕府の海軍副総督榎本武揚は、徳川恩顧の武士団を率いて北海道に渡り、函館の五稜郭に立てこもり、明治新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩主・津軽承昭が、五稜郭を攻めますが、激しい抵抗を受けて、苦戦。
これを知った承昭の実兄で熊本藩主の細川韶邦は、明治2年、藩士約350人を軍艦に乗せ、横浜港から援軍を送ります。しかし翌3日の夜、勝浦沖で暴風雨に遭い船は沈没。乗組員は荒波の中に投げ出されてしまいます。 勝浦の村人たちは、総出で救助にあたりましたが、200余人が犠牲に。
このときの遭難者を埋葬供養したのが「官軍塚」で、県の史跡に指定。
官軍塚には、熊本藩士と同郷の俳人中村汀女が往時をしのんで詠んだ句碑や、歌人斎藤茂吉の歌碑があり、また初夏にはアジサイも咲きそろう。

    

「養珠院」1580 - 1653
徳川家康の側室。徳川頼宣・徳川頼房の母。名は万、実父は勝浦城主「正木頼忠」。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩家老の「三浦為春」
母は、北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭娘、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女、板部岡江雪斎姉の娘・姪)と諸説ある。
実父の頼忠は上総勝浦城の正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の後を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚。
万はこの義父の元で育てられる。伊豆で成長した万は16,7歳の頃、家康に見初められ側室。
万は、1602年、に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。
1603年、には、長福丸には常陸国水戸20万石が与えられ、1606年、鶴千代に下総国下妻10万石が与えられた。
1609年、長福丸は駿河国・遠江国50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封され、後に頼宣は紀州徳川家初代藩主に、頼房は水戸徳川家初代藩主に。
義父の「蔭山家」は、代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した。
家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、
日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。
この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。
これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。
すると万は、「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免したと云う。
当時かなりの話題に、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという。
彼女は家康の死去した後、1619年、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。1653年に、万は死去。

墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺。1654年、徳川頼宣により建立された墓所。
駿府城の万の居間が移築され、妙法華寺奥書院として現存。

            山梨七面山白糸の滝にも養珠院像がある。
    

「灯台」
大正6年、海抜70メートルの「ひらめきヶ丘」に建設。燈高21メートル、光度1­4万燭光。
                   八幡岬灯台
 
                    八幡岬
  

リアス式海岸、水深8m以上と云う・魚の生態や海底観察も出来る



























































熱海糸川二分咲きの桜 名所お宮の松は?

2019-01-16 | 気まま旅
                  2019年1月6日現在の熱海桜 2分咲きでした。




        



                          画


                        寛一お宮像


                       初代松の年輪


                        初代松


                        現在の松


                     熱海駅から2つ目の「伊豆多賀」駅


                        国道135号線                  


                         長浜海岸                        

                        


                          足海

                         



                          


                         正面に初島

初春ー咲き始めた熱海の梅 来宮神社2000年の大楠

2019-01-13 | 気まま旅
熱海梅園の梅が咲き始めました。2019年1月6日撮影

                  熱海梅園まつり 1月5日~3月3日




                  第75回目 梅まつり


                  3~4分咲きの紅梅




                 丹那トンネル殉職碑 参拝




                     東海道本線

              


                  伊豆国霊社ー熱海来宮神社

                   


                      本殿



               樹齢2000年 大楠 (天然記念物指定)「神の魂にお降リ願う木」                      


不老長寿・無病息災 願い事を心に、幹3周ー寿命3年延びる。

              宮神輿渡御  (毎年7月15日)


                      糸川 熱海桜へ


                        正面初島


                    次回熱海銀座ー糸川熱海桜を