素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

今朝の月はきれいだった

2009年09月07日 | 日記
 勤めていた頃は,早朝か夜によくウォーキングしていたが、仕事を辞めて、日中に時間のゆとりができると、自然にその時間のウォーキングはなくなっていった。
 昨日の福澤諭吉展で、散歩党のことが妙に印象に残ったせいか、今朝、5時すぎに目が覚めると、ためらうことなくウォーキングにでかけた。まだ、太陽の姿もなく、東の方の山の端が、うっすらと赤みがかり、夜明け前の静寂の中、ひんやりした空気を感じながら歩いていて、視界が開けたところに来た時、西の空を見上げると薄く青みがかった空に、お月様だけがポッカリ浮かんでいた。十八夜ぐらいだから、目には満月のように写り、その凛とした姿には息を呑んだ。

 万葉集の柿本人磨の歌、『東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ』がこれかと 感じ入った。

 しかし、この後がいけない。これをデジカメに残そうと家に急いで帰り、カメラを持ち出し写してみたが、機械を通した月は、ほんのけし粒ほどで、肉眼で見ている風景とは全然異なる。何回か試みたがやはり結果は同じ、この時「おいおい忘れたのか?」という声が聞こえた。

 夏休み、盆で浜島へ行った時、いとこが私の父の画集を見ながら、山の雰囲気がよく出ていると言った後、「信州へ行った時さ、豪快な山の美しさに感動してさ、シャッター切りまくったんやんか、でも、帰って現像したらげっそりやんか、あんなに大きく見えた山が、ちっちゃく写ってるだけ・・・」絵に比べて写真はむずかしいという話になり、その時、私は「リアルに正確にとらえているのは、カメラの目。人間の目に見えたものは、脳によってデフォルメされた像って、どこかで読んだことがある。・・・・」と脳によって、人間の物の見え方は変わる。群集の中でも、自分の待っている人はパツと飛び込んでくる。みたいなことをしゃべって、その場はけっこう盛り上がった。

 今見える月の美しさも、脳のデフォルメの結果、写真に残そうなんて考えたらダメ。所詮無理な話。わかっていたはずのことを瞬間忘れさせたほどの見事さだったとしておこう。
 自分の目で見て、耳で聞いてと五感で感じる『生(らいぶ)』感覚を大切にしていこうと肝に銘じた。そのことを忘れないためにも、写真は掲載しておこう。

 

 
コメント
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