素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

香山リカ×五木寛之『鬱の力』を読む

2009年09月30日 | 日記
 それぞれ書かれた本で慣れ親しんでいる二人の対談をまとめた本なので、私にとっては読みやすかった。心に残ったフレーズがいくつかあった。
  *「鬱な気分」と「うつ病」は分けて考えないといけない。
  *鬱という言葉はもともと生命力を内に秘めた状態で、鬱イコール悪ではない
  *時代にも『躁の時代』と『鬱の時代』がある。
  *自分の内面に向き合うことが大切。
  *泣くこと、悲しむことから力をもらうこともある
  *自分が鬱のとき、自分もつらいけど人も大変だという思いやりとか他者理解を持つことも大切
  
 私自身、10代半ばから躁と鬱の波に悩まされてきた。「躁の自分」はより良く、より正しく生きることを説く『人生論』に耳を傾けるが、「鬱の自分」はそれらを非常に疎ましく思う。どちらか一方であればすっきり生きることができるが、自分の中に2つの自分が同居して、一定の周期で交互に現れるので始末が悪かった。

 いろいろな本を読み、たくさんの人と出会う中で、少しずつそういう自分とのつきあい方がうまくなっていったように思う。「鬱の自分」が出ている時は無理をしない。五木流に言えば「鬱々と生きる」ことを是認する。仕事を持っている時はなかなかつらい状態である。若いときは「あせり」を感じたが、だんだん自分にとっては必要なものだという「あきらめ」になり、つきあい方を覚えた。

 長い長い『躁』と『鬱』とのつきあいの中で、あとがきの最後で書いている五木さんの言葉は実感としてわかるのである。

 
 私は鬱という感覚を、ひとつのエネルギーとしてとらえてきた。ベルグソンのいうエラン・ヴィタールの抑圧された現象こそが、鬱々たる気分だと考えている。そしていま、戦後六十年の躁の時代が終わって、本格的な欝の時代がはじまったと感じる。そしてこの欝の季節は、これから半世紀は続くにちがいないと思っている。
 季節に関係なく、人の生きる道は一定だ。しかし、夏と冬では暮らしかたがちがう。鬱をいやがって、忌むべきものとして排除しようとするかぎり、私たちはつねに見えない影におびえつつ生きなければならない。
 酸っぱい葡萄や、渋い柿にもあじわうべき方法がある。

《注》エラン・ヴィタール
    「{潜在していたものが現象化する}際の{進化の躍動、爆発}」という概念

 



 
コメント
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