昨日の「余録」の一段落目にこうあった。
「台湾坊主大荒れ・・・・雪戦争」。社会面にこんな見出しが躍っていたのは1969年3月12日の小紙夕刊である。東京はこの日30センチの積雪と交通の混乱に見舞われたが、おとといの都心の積雪27センチはそれ以来、実に45年ぶりの大雪だった▲・・・
これを読んでそういえばと大学受験のことが思い出された。当時は国公立大学は一期校、二期校と分けられて各大学で入試がなされていた。一期校は3月上旬、二期校は3月下旬に試験があった。私は一期校の千葉大学園芸学部造園学科が本命で2年連続受験していずれも「桜散る」の電報をもらった。最初の受験が1969年であった。確かに寒かった。雪も積もっていた。大学の斡旋してくれた松戸市の旅館で十数人の受験生が雑魚寝状態であったが、旅館の人が寒かろうと火鉢を出してくれたのはいいが、炭が不完全燃焼みたいな臭いをだし、一酸化炭素中毒になるのでは?という恐怖で睡眠不足気味になった。
暖房設備も完備しておらず試験会場は冷蔵庫状態でコートを着込んだままの受験となった。雪でぬれた靴が冷えてトイレに立つ人も多かったが、20名の定員に100名ぐらいの受験生という規模だったのでアットホームな雰囲気が漂っていた。
おそらく受験のあった3月上旬はまだましで、その後にドカッと大雪になったことになる。45年前のことを思い出させてくれた「余録」だった。
大学受験といえば、今日の朝刊に《赤本創刊号を探せ》という見出しが目に留まった。「赤本」とは懐かしい。この大学入試過去問題集にはお世話になった。というより自分の希望校に関する唯一の情報であった。今年で創刊60周年を迎えるそうだ。京都市にある出版元の世界思想社教学社が創刊号を探しているというもの。
1954年に「京大入試」「市立大・神大入試」「同志社・立命館入試」の3点がそれぞれ「55年版」として創刊されたという。創刊号の部数はせいぜい数百部程度で社の倉庫にも残っていない。多分当時としては現在の375大学で計200万部にまでになるとは思っていなかったのであろう。創業者の高島國男さんが2009年に84歳で亡くなり、創刊号を知る社員が誰もいなくなった。「これではわが社のルーツが失われる」と昨年末から「最古の赤本を探せ」プロジェクトを開始したという。「56年版」も無いらしい。これを利用した受験生は現在77歳前後。
記事の中で、「出てくれば奇跡的」というコメントを寄せている人を見て違う驚きを持った。肩書が《東京・神田神保町の赤本専門古書店「山口書店」店主、山口真人さん(53)》とあった。さまざまな事件や出来事があった時に必ずその道の専門家がいることに常々驚嘆してきたが、「赤本にも!」であった。曰く
「30年近く赤本を扱っているが、私が見た最も古いものは1964年版。使い終われば捨ててしまうものなので、市場に出回りにくい。創刊当時の古い赤本が出てくれば奇跡的だ。」 なぜか日本の活字文化の深さを感じたのである。
余談ではあるが、昭和44年、45年とチャレンジした千葉大学園芸学部造園学科の入試問題の実物を私は未練たらしく未だに持っている。余白に書き込まれている文字もまた私の青春の欠片の一つである。こういう人間もいるし、先の本草漢学塾「山本読書室」跡の土蔵の例もある。可能性は永遠のゼロではないだろう。

「台湾坊主大荒れ・・・・雪戦争」。社会面にこんな見出しが躍っていたのは1969年3月12日の小紙夕刊である。東京はこの日30センチの積雪と交通の混乱に見舞われたが、おとといの都心の積雪27センチはそれ以来、実に45年ぶりの大雪だった▲・・・
これを読んでそういえばと大学受験のことが思い出された。当時は国公立大学は一期校、二期校と分けられて各大学で入試がなされていた。一期校は3月上旬、二期校は3月下旬に試験があった。私は一期校の千葉大学園芸学部造園学科が本命で2年連続受験していずれも「桜散る」の電報をもらった。最初の受験が1969年であった。確かに寒かった。雪も積もっていた。大学の斡旋してくれた松戸市の旅館で十数人の受験生が雑魚寝状態であったが、旅館の人が寒かろうと火鉢を出してくれたのはいいが、炭が不完全燃焼みたいな臭いをだし、一酸化炭素中毒になるのでは?という恐怖で睡眠不足気味になった。
暖房設備も完備しておらず試験会場は冷蔵庫状態でコートを着込んだままの受験となった。雪でぬれた靴が冷えてトイレに立つ人も多かったが、20名の定員に100名ぐらいの受験生という規模だったのでアットホームな雰囲気が漂っていた。
おそらく受験のあった3月上旬はまだましで、その後にドカッと大雪になったことになる。45年前のことを思い出させてくれた「余録」だった。
大学受験といえば、今日の朝刊に《赤本創刊号を探せ》という見出しが目に留まった。「赤本」とは懐かしい。この大学入試過去問題集にはお世話になった。というより自分の希望校に関する唯一の情報であった。今年で創刊60周年を迎えるそうだ。京都市にある出版元の世界思想社教学社が創刊号を探しているというもの。
1954年に「京大入試」「市立大・神大入試」「同志社・立命館入試」の3点がそれぞれ「55年版」として創刊されたという。創刊号の部数はせいぜい数百部程度で社の倉庫にも残っていない。多分当時としては現在の375大学で計200万部にまでになるとは思っていなかったのであろう。創業者の高島國男さんが2009年に84歳で亡くなり、創刊号を知る社員が誰もいなくなった。「これではわが社のルーツが失われる」と昨年末から「最古の赤本を探せ」プロジェクトを開始したという。「56年版」も無いらしい。これを利用した受験生は現在77歳前後。
記事の中で、「出てくれば奇跡的」というコメントを寄せている人を見て違う驚きを持った。肩書が《東京・神田神保町の赤本専門古書店「山口書店」店主、山口真人さん(53)》とあった。さまざまな事件や出来事があった時に必ずその道の専門家がいることに常々驚嘆してきたが、「赤本にも!」であった。曰く
「30年近く赤本を扱っているが、私が見た最も古いものは1964年版。使い終われば捨ててしまうものなので、市場に出回りにくい。創刊当時の古い赤本が出てくれば奇跡的だ。」 なぜか日本の活字文化の深さを感じたのである。
余談ではあるが、昭和44年、45年とチャレンジした千葉大学園芸学部造園学科の入試問題の実物を私は未練たらしく未だに持っている。余白に書き込まれている文字もまた私の青春の欠片の一つである。こういう人間もいるし、先の本草漢学塾「山本読書室」跡の土蔵の例もある。可能性は永遠のゼロではないだろう。
