毎週日曜日に掲載される写真家宮間俊樹さんの「芭蕉の道」も8回目で仙台までやって来た。宮間さんの紀行文を読みながら日本大地図と照らし合わせ、角川ソフィア文庫の「おくのほそ道」を読み進めるという形が出来てきた。
20年以上使われずに引き出しの隅に追いやられていたライト付きの拡大鏡がとても役に立つ。
長谷川櫂さんは「おくのほそ道」の前半は「歌枕」を訪ねて心の世界を展開するということが主眼だったと記している。王朝時代、和歌を詠むための題材として選ばれた名所である歌枕がみちのくには数多くあった。ただそれらは王朝時代の歌人たちが現実に見たものではなく想像力で作り上げた名所である。和歌を通して心の中で築き上げられてきた架空の名所を巡ることで芭蕉は何かをつかもうとしていたのではないか。と長谷川さんは考えている。
今回の宮間さんの紀行もその「歌枕」を求めてのものだった。岩沼市の「武隈の松(二木の松)」宮間さんが見たのは植え継がれての7代目の松。芭蕉の見たのは5代目らしい。ここで、角川ソフィア文庫で原文を味わう。
武隈の松(たけくまのまつ)
岩沼に宿る。
武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。
根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。
まづ能因法師思ひ出づ。
往昔、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とはよみたり。
代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になん侍りし。
武隈の 松見せ申せ 遅桜 と、挙白といふ者の餞別したりければ、
桜より 松は二木を 三月越し
次に、目指したのが、歌枕「十符の菅」(仙台市宮城野区)、宮間さんが見つけた案内板には次のような記述があった。と検索してわかった。
「十符の菅」「十符の池跡」
「十符の菅」は、中世以来「みちのくの 十符の菅薦 七符には 君を寝させて 三符に我が寝む」等と詠まれ、その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質なものといわれ、陸奥の歌枕として知られていた。
第四代藩主伊達綱村がこの地を訪れ、「十符の菅」の名所が荒廃しないよう菅守を設け保護し栽培することを家臣及び村中の者に命じた。
元禄二年(一六八九)五月八日(新暦六月二十四日)には松尾芭蕉と曽良がこの地を訪れている。芭蕉が著した「おくの細道」には「かの画図にまかせてたどり行かば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅薦を調て国守に献ずと云り」があり、「十符の菅薦」が藩主に献上されていることが記されている。また、この文中に見える「おくの細道」が「奥のほそ道」の書名の由来となったともいわれている。
(岩切歴史探訪会)
ただ、岩間さんはそれらしき植物は見つけられなかったみたいだ。通りかかった人に「十符の菅」をッ尋ねると「あいつ(芭蕉)が来た時も山しかなくて、こんな感じだったと思うよ」との返答。長谷川さんが「芭蕉は歌枕ではなく歌枕の廃墟を旅したのです。そこで感じたのは失望と幻滅でした。」と書いていたことと符合して面白かった。
こういう感じで読んでいくので1週間充分楽しめるのである。ちなみに調べてみると「「十符の菅」を育てている人がいるみたいで写真があった。
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昨日、新型コロナウイルスの感染状況を示す独自基準「大阪モデル」が赤信号となり、通天閣や太陽の塔が赤色にライトアップされた。今日から1ヶ月高齢者の外出自粛要請が出た。直近1週間で新規感染者に占める70代以上の割合は6.9%と低いが、入院患者では70%を超えるからみたいだ。意味があるのかと疑問もあるが、地図上の芭蕉の旅は自粛生活にはピッタリかな。
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長谷川櫂さんは「おくのほそ道」の前半は「歌枕」を訪ねて心の世界を展開するということが主眼だったと記している。王朝時代、和歌を詠むための題材として選ばれた名所である歌枕がみちのくには数多くあった。ただそれらは王朝時代の歌人たちが現実に見たものではなく想像力で作り上げた名所である。和歌を通して心の中で築き上げられてきた架空の名所を巡ることで芭蕉は何かをつかもうとしていたのではないか。と長谷川さんは考えている。
今回の宮間さんの紀行もその「歌枕」を求めてのものだった。岩沼市の「武隈の松(二木の松)」宮間さんが見たのは植え継がれての7代目の松。芭蕉の見たのは5代目らしい。ここで、角川ソフィア文庫で原文を味わう。
武隈の松(たけくまのまつ)
岩沼に宿る。
武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。
根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。
まづ能因法師思ひ出づ。
往昔、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とはよみたり。
代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になん侍りし。
武隈の 松見せ申せ 遅桜 と、挙白といふ者の餞別したりければ、
桜より 松は二木を 三月越し
次に、目指したのが、歌枕「十符の菅」(仙台市宮城野区)、宮間さんが見つけた案内板には次のような記述があった。と検索してわかった。
「十符の菅」「十符の池跡」
「十符の菅」は、中世以来「みちのくの 十符の菅薦 七符には 君を寝させて 三符に我が寝む」等と詠まれ、その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質なものといわれ、陸奥の歌枕として知られていた。
第四代藩主伊達綱村がこの地を訪れ、「十符の菅」の名所が荒廃しないよう菅守を設け保護し栽培することを家臣及び村中の者に命じた。
元禄二年(一六八九)五月八日(新暦六月二十四日)には松尾芭蕉と曽良がこの地を訪れている。芭蕉が著した「おくの細道」には「かの画図にまかせてたどり行かば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅薦を調て国守に献ずと云り」があり、「十符の菅薦」が藩主に献上されていることが記されている。また、この文中に見える「おくの細道」が「奥のほそ道」の書名の由来となったともいわれている。
(岩切歴史探訪会)
ただ、岩間さんはそれらしき植物は見つけられなかったみたいだ。通りかかった人に「十符の菅」をッ尋ねると「あいつ(芭蕉)が来た時も山しかなくて、こんな感じだったと思うよ」との返答。長谷川さんが「芭蕉は歌枕ではなく歌枕の廃墟を旅したのです。そこで感じたのは失望と幻滅でした。」と書いていたことと符合して面白かった。
こういう感じで読んでいくので1週間充分楽しめるのである。ちなみに調べてみると「「十符の菅」を育てている人がいるみたいで写真があった。
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昨日、新型コロナウイルスの感染状況を示す独自基準「大阪モデル」が赤信号となり、通天閣や太陽の塔が赤色にライトアップされた。今日から1ヶ月高齢者の外出自粛要請が出た。直近1週間で新規感染者に占める70代以上の割合は6.9%と低いが、入院患者では70%を超えるからみたいだ。意味があるのかと疑問もあるが、地図上の芭蕉の旅は自粛生活にはピッタリかな。