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シェイクスピア研究会の頃

2021-01-17 12:55:35 | シェイクスピア

2021年1月15日(金曜日)のNHK『あさイチ』に、プレミアムトークのゲストとして俳優の吉田鋼太郎君が登場。大学時代、彼と一緒にシェイクスピア劇をやっていたので、懐かしい話が続々と出てきました。上の写真も紹介されましたが、1978年の5月に上智大学のシェイクスピア研究会で上演した『ロミオとジュリエット』の時の写真です。主役のロミオを演じた吉田鋼太郎君の向かって右にいるのが私で、顔にぼかしが入っていますが、ロミオの親友のベンボーリオの衣装を着ています。





しかし全国放送の電波でシェイクスピア研究会のことが紹介されたのはすごいことです。1969年に「シェー研」と呼ばれたシェイクスピア研究会ができて、10年の間に13本のシェイクスピア作品が上智小劇場で上演されました。日本語で上演された最後の一本を除いて、原語で上演されました。

私が大学に入学したのは1975年のこと。シェイクスピア研究会は1974年の公演後、活動を中止していましたが、たまたま同級生が、シェイクスピア研究会の公演を見ていて、その情熱のおかげで研究会が再興されることになります。その同級生に勧誘されて、シェイクスピアの「テンペスト」の読書会に参加することになり、その後、卒業までどっぷりと演劇活動に浸かることにななるのです。

1977年5月、私たちにとって最初のお芝居の “A Midsummer Night‘s Dream”(夏の夜の夢)の上演となります。私は妖精の王のオベロンを演じました。吉田鋼太郎君が入ってきたのはそんな時です。彼は、シェイクスピア研究会に入るために上智に来たというくらいで、すぐに参加してきました。

妖精の役が足りなかったので、妖精役として練習に参加したのですが、どうもイメージに合わないということで、裏方に回り、照明アシスタントをすることになるのです。

1977年の10月に “Twelfth Night”(十二夜)が上演されるのですが、私は道化のフェステを演じ、吉田鋼太郎君は、セバスチャンとして出演することになります。

1978年5月、”Romeo and Juliet”(ロミオとジュリエット)の上演となります。吉田鋼太郎君がロミオ、私はロミオの親友のベンボーリオと、ロレンス神父の二役を演じました。こちらが、その当時のチラシですが、これは私がデザインしたものです。



そして1979年6月、”Two Gentlemen of Verona”(ヴェロナの二紳士)が、それまでの伝統を破って初めて日本語で上演されることになります。この作品の台本は私が作り、吉田鋼太郎君が演出を行いました。

私はこの年の3月で卒業しているはずだったのですが、一般教養の単位が2単位不足していたという驚愕の事実が卒業の二週間くらい前に判明し、留年を余儀なくされます。自分の不注意が原因なのですが、就職が決まっていた地元の愛知県の公立高校に断りを入れたり、引っ越し先やアルバイト先を急遽探さないといけないという非常事態で、シェイクスピア劇の中の出来事かと思えるほどの現実でした。

卒業できないとわかった日の夕方、千葉県の岩井の民宿で行われていたシェイクスピア研究会の合宿所に何の連絡もなくたどり着くのですが、突然、亡霊のように現れた私を見て、吉田鋼太郎君は驚くとともに笑ってもいました。すぐに、私は公爵の役と、アントーニオの二役で舞台に立つということになります。



こちらがその時のチラシ。私がデザインしました。イラストも自分です。



これは上演パンフレットの一ページです。



ついでに公爵として出演中の私です。シェイクスピアも自分で書いた作品に自分も出演していたという噂もありますので、さらにシェイクスピアに近づいた気がしました。

この作品はそれまでのシェイクスピア研究会の伝統を破って日本語での上演を行ったのですが、これにはいくつか理由があります。

吉田鋼太郎君は、英語の台詞では言葉に自分の気持ちを乗せることに限界があると感じていました。また、シェイクスピア研究会のメンバーも英文科の学生は少なくなっていました。物理学科や、ドイツ文学科など雑多な集団になっていました。英語での上演に不自由さを感じるようになっていました。

私はまた別の意味で日本語での上演を考えていました。大学の4年で愛知県の教員試験に合格していたので、就職活動をすることもなく、少々余裕がありました。それで、シェイクスピア研究会の次の公演のための作品として、「ヴェロナの二紳士」の翻訳に取り掛かっていたのです。

この作品は、シェイクスピアの初期の喜劇作品なのですが、あまり評価されておらず、上演数も少ない作品でした。日本語の翻訳で読んでも、英語の原文で読んでも、わかりにくい表現が多い。当時は大受けだった冗談も意味不明になってしまっている。でも読み込んでみると、とても面白い作品だと思いました。

その面白さが時代の変化で伝わらなくなってしまっていました。それはとてももったいないことだと思った私は、シェイクスピアが当時、表現しようと思っていた笑いと、情熱と、若さを、蘇らせることが自分の使命だと感じたのです。

連日、大学の図書室にこもり、この作品の日本語台本を書き始めたのです。翻訳を超えて、シェイクスピアの当時の思いを翻訳しよう試みました。本当はどういう思いだったのかは検証しようがなく、自分自身の勝手な思い込みだったのですが、不遜にも当時の私は、自分と同世代の頃のシェイクスピアと時間と空間を超えてシンクロしていた気分でした。

若いから何でもできたということかもしれませんが、原作の地方都市ヴェロナと大都市ミラノという設定を、自分の中では、豊橋(自分の故郷の近く)と東京という関係に置き換えて理解しました。また、召使いの一人を東北弁にし、もう一人を大阪弁にするなどして、笑いの表現を増幅させようと試みました。

当時、血液型の性格判断が流行っていましたが、以前のシェイクスピア研究会はA型が多く、芝居の雰囲気も重厚感がありました。ところが「ヴェロナの二紳士」の参加メンバーはB型が多く(ちなみに吉田鋼太郎君はAB型、私はO型)、雰囲気はがらりと変わっていました。登場人物の多くが、本心とは裏腹の言葉を語り、軽薄さがテーマの一つだったので、このB型チームはぴったりでした。重厚感はなくとも、軽妙でテンポが早く、爽やかさが残る作品となりました。

この年、関東地区の大学のシェイクスピア研究会の連盟の選考で、この「ヴェロナの二紳士」が作品賞を受賞しました。

この後、「終わりよければすべてよし」の上演を、これも日本語で準備していたのですが、残念ながら実現できずに終わりました。

「あさイチ」でも紹介されていましたが、発声練習や、ヨガ的な柔軟体操、ランニングなどはほぼ毎日やっていて、体育会系かと思えるくらいのトレーニングをしていました。この四谷の土手でも発声練習や、芝居の練習していましたね。



時間があまれば、手当たり次第に戯曲を取り出して、即興で読み合わせをしたりしていたのが懐かしいです。



吉田鋼太郎君は、その後、プロの俳優としての道を歩み、私は、海外向けの広告代理店で仕事をすることになります。それぞれ別の道を歩み、私は昨年シンガポールで広告の仕事で起業しました。

大河ドラマの「麒麟がくる」で1月10日に松永久秀役が自害するというシーンがありましたが、この大河ドラマの主役が松永久秀だったのかと思えるほどの豪華な死に際でした。私がこのシーンで見ていたのは、シェイクスピアでした。学生時代から延々と演じてきたシェイクスピアがこのシーンに凝縮されていた気がします。

私の場合、演劇とは別の方向に進みました。長年勤めた会社を辞めて、昨年シンガポールで起業しました。直後のコロナ禍で、先行きが心配な状況が続きますが、「なるようになる」という視点をシェイクスピアが教えてくれたような気がすると思っています。どんな困難な状況があろうとも、やがて解決がもたらされる。

今はコロナで大変な時期でありますが、やがて事態は収束し、時代は進んでいく。シェイクスピアのことを考えながら、徒然なるままにそんなことを考えていました。
コメント (12)
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