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旅行記、世相独言

宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅(JALどこかへマイル第4弾) 第3回:中尊寺と毛越寺(平泉文化を求めて) (その1)中尊寺

2022年12月25日 15時28分00秒 | JALどこかへマイル
宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅(JALどこかへマイル第4弾)

第3回:中尊寺と毛越寺(平泉文化を求めて) (その1)中尊寺

令和4年11月17日~19日


(写真類はクリックで拡大します)

 優香館を10時に出発。青空のもと、来た道を南下することおよそ70km。11時前に平泉・中尊寺に到着。すでに第1駐車場は多くの車で埋まっている。金色堂の近くまで車で行ける道もあるが、ほとんどの人は月見坂を散策しながら本堂を目指す。

        
             中尊寺案内図(左:55年前のもの 右:現在のもの)

 55年ほど前、重いリュックとテントと担ぎながら、この坂を歩いてテントの張れそうな場所を捜したが、結局中尊寺の宿院(東稲荘1泊2食付き880円)に泊めてもらった記憶がある。名残の紅葉を愛でながら北上川を一望する東物見を経て本堂にたどり着く。ここで御朱印をいただく。

        
    月見坂(左:55年前、テントを張る所を捜しながら 右:現在の第1駐車場からの登り口)

  
   弁慶堂                東物見(左:55年前の眺望  右:現在の眺望)

        
月見坂 地蔵堂あたりの紅葉の名残      55年前の中尊寺宿院(東稲荘1泊2食付き880円)

 中尊寺は、天台宗東北大本山で、松島の瑞巌寺同様、慈覚大師円仁により850年に開山。十二世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった多くの命を供養するため大伽藍を造営したが、十四世紀に堂塔の多くが焼失している。

  
    中尊寺本堂(比叡山延暦寺同様「不滅の法灯」が護持され、本尊は釈迦如来坐像)

 金色堂の手前の讃衡蔵(宝物館)で、共通の拝観券(800円)が発行されている。
 金色堂は中尊寺創建当時の姿を今に伝える建造物で、1124年清衡公によって上棟され、経典に説かれた「皆金色」の極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした秀衡公の想いを往時の工芸技術を集約した御堂と言われている。三基の須弥壇の上には阿弥陀如来を中心に菩薩、持国天、増長天等が囲み稀有な仏像構成となっている。

    
左:峯薬師堂(落葉で覆われた池面) 中:55年前竣工間近の覆堂、金色堂は東京で修復中) 右:現在の金色堂覆堂

 金色堂は霊廟でもあり、中央の壇の内部に造営した初代清衡公、向かって左の壇に薬師如来を本尊とする毛越寺(もうつうじ)を造営した二代基衡公、右の壇に源義経を奥州に招き入れ阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立した三代秀衡公の亡骸、そして源頼朝に攻められた四代泰衡公の首級が金色の棺に納められ今も安置されている。
 三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院を残し、1189年奥州藤原氏は滅亡した。

    
金色堂(1124年造立「皆金色」の極楽浄土を表現) 須弥壇上の本尊阿弥陀如来等の諸仏と壇内部は霊廟  金色堂御朱印

 金色堂は、1288年鎌倉幕府が建てた覆堂によって風・雨・雪等から永らく守られてきた。現在の覆堂(古くは鞘堂と言われた)は、1965年に完成した鉄筋コンクリートの覆堂で、私が学生時代に訪れた時(1965年8月)は、鞘堂は完成間近で、金色堂は東京で修復中であった。ちなみにこの時の中尊寺の拝観料は100円。700年近く金色堂を守ってきた旧覆堂は、重要文化財として金色堂の近くに移設されているが、「五月雨の降り残してや光堂」と詠んだ芭蕉は、この覆堂の金色堂を見て詠んだんだろう。

         
左:金色堂を長年守ってきた旧覆堂(鞘堂と呼ばれていた) 右:この覆堂内の金色堂を芭蕉は詠んだに違いない

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宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅(JALどこかへマイル第4弾)第2回:松島海岸と宮澤賢治記念館 山の神温泉(優香苑)

2022年12月19日 22時46分42秒 | JALどこかへマイル
宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅(JALどこかへマイル第4弾)

第2回:松島海岸と宮澤賢治記念館 山の神温泉 優香館(建築美旅館を求めて)

(写真等はクリックで拡大します)
令和4年11月17日~19日


 二日目、松島公園の駐車場は比較的小ぶりなものが多いようなので、秋保温泉を午前9時に出発。約45km離れた松島公園に10時前に到着、幸い一番観光に便利な第一駐車場に停めることが出来た。

 おりしも朝の陽光が松島海岸の水面に反射し、遊覧船が行き交っている。駐車場のすぐわきに松島のシンボル、国の重要文化財「五大堂」がある。807年東征時に坂上田村麻呂が建立し、その後慈覚大師円仁が五大明王像を安置したのが、その名の由来とか。現建物は1604年伊達政宗が創建し、33年に一度五大明王像(秘仏)が開帳されている。直近の開帳は平成18年。

            
     朝の日本三景「松島海岸」                重要文化財「五大堂」

 瑞巌寺、松島青龍山瑞厳円福禅寺がその正式名称。9世紀初頭慈覚大師円仁により天台宗延福寺として開創。13世紀に幕府執権北条時頼により臨済宗円福寺となり、関ヶ原の戦い以降、衰退していた円福寺の復興を伊達政宗が注力。仙台城の築城と併せて1604年から自ら縄張りを行い、紀州熊野の用材を求め、畿内名工130名を呼び寄せ、更に1608年寺の大鐘を鋳造、その鐘に「山を号して松島と曰い、寺を名付けて瑞厳と曰う」との一文があり、これが瑞巌寺という呼称の初出で、以降正式名称を松島青龍山瑞厳円福禅寺に改めたようだ。1609年に工事を完了し、以降江戸時代を通じて伊達家の菩提寺として領内一の規模格式を誇った。

            
    松島青龍山瑞厳円福禅寺案内パンフ            瑞巌寺御朱印

 入り口で御朱印帳を預け、台所の役割を担う国宝の庫裡(くり)から入り、同じく国宝の本堂を見学する。正面38m、奥行24m、10の部屋を持つ本堂の中心となるのは室中(孔雀の間)で、狩野左京筆「松孔雀図」(復元模写)が見事。平成30年に10年に及ぶ平成の大修理が完了している。再び庫裡から出ると宝物館(青龍殿)があり、お寺にまつわる様々な宝物を鑑賞することが出来る。
 参道の脇に多くの洞窟遺跡群が見て取れる。洞窟の壁面には供養塔、戒名等が無数に見ることが出来、30年近く前に来た時は直近まで行けたが、今は少し距離を置いて案内路が設けられている。

            
    台所の役割を担う国宝の庫裡          正面38m、奥行24m、10の部屋を持つ本堂  

            
         本堂の庭園               参道脇の洞窟遺跡群の一つ 

 宿でもらった地域クーポンは二人で6000円。今日中に宮城県で使わないといけない。宿で2000円使ったので、残りを土産物屋で探し求める。なぜか「ずんだ餅系」のお土産がやたらと多い。せめて2.3日の猶予があれば仙台空港でもっとましなものが買えるのだが、これから岩手県に向かうので、とりあえず4000円の土産を買い、花巻に向け出発する。

  
                  宮沢賢治記念館の入り口

 松島から150kmほど東北自動車道を北に走らせると、花巻に岩手が生んだ偉人「宮沢賢治」の記念館がある。4年間に安比高原のゴルフツアーの際にも訪れており、その時のブログでも紹介している。宮沢賢治の深遠な思想や世界観には、とてもついて行けないが、記念館では「科学」「芸術」「宙(そら)」「祈」「農」の5部門で彼の足跡を展示・紹介している。彼が見たまことの世界、イーハトーブの心象世界を少しでも感じ取れれば、と思い2度目の訪問となった。
 前回訪問時は、童話「セロ弾きのゴーシュ」が特別展示されていたが、今回は童話「カイロ団長」。1896‐1933のわずか37歳の短い生涯を疾風のごとく駆け抜けた宮沢賢治の世界はとてつもなく広い。

  
        宮沢賢治の足跡を「科学」「芸術」「宙(そら)」「祈」「農」の5部門で展示するホール

 今宵の宿は、花巻温泉郷の奥に位置する神の山温泉「優香苑」、宮大工建築と温泉かけ流しの湯宿という触れ込みに興味を覚え、記念館から20kmほど内陸に車を走らせる。
 木造2階建ての客室が一番館から八番館まで本館(のみ3階建て、玄関)を中心に左右に長い廊下で結ばれ、二つの浴場等の諸施設が配置されている。

            
                  花巻温泉郷山の神温泉「優香苑」 

            
        優香苑の平面図              本館玄関のロビー

 我々の部屋は本館に近い三番館の2階、エレベーターがないので階段利用となる。部屋は、二人には広い三間和洋室(和室2間10畳・6畳とツインベッドルーム)。
 宮大工が手掛けたというこの宿、全館に格子模様の格天井や所々に巧みな細工が施されて、木のぬくもりに包まれた、従来の宿と異なる趣のある空間の中で過ごす旅となった。

        
     今回の部屋は三番館二階の321号室(木のぬくもりに包まれた10畳、6畳、ツインベッドルーム)

 宿のもう一つの売りが、PH9.3のアルカリ性単純温泉。大浴場「とよさわの湯」の広い露天風呂に入っていると、少し雨が降り出し、翌日の天候が心配されたが、夜の間の雨で、翌朝は部屋の近くの「こもれびの湯」で陽光を迎えることが出来た。部屋の温・湿調整もしっかり出来ていて快適な睡眠と、おいしい会席料理、まったりした湯を存分に味わって、最終日の旅程に出発!。

            
      大浴場「とよさわの湯」の露天風呂      小浴場「こもれびの湯」の露天風呂       

            
      今宵の食事の始まり                 今宵のお献立   

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宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅(JALどこかへマイル第4弾) 第1回:仙台牛タンと青葉城址、秋保温泉(巨大風呂を求めて)

2022年12月18日 15時21分47秒 | JALどこかへマイル
宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅(JALどこかへマイル第4弾)


第1回:仙台牛タンと青葉城址、秋保温泉(巨大風呂を求めて)

(写真等はクリックで拡大します)
令和4年11月17日~19日


 有効期限が迫ったJALマイルの活用策として、「JALどこかへマイル」制度を活用し、今まであまり行けていない東北方面を狙った。JAL指定の4空港の中からこれまたJAL指定の空港を着発とするこの制度。最初の指定4空港は青森、花巻、仙台、石垣、ラッキーにも東北に行ける確率が大きいので、これをOKすると翌日仙台空港が指定された。
 過去第1弾は、新潟空港拠点「山形一周の旅」、第2弾は札幌空港拠点「洞爺・支笏湖の旅」、第3弾は松山空港拠点「足摺・四万十・四国カルスト・道後の旅」(いずれもブログ掲載しています)、そして今回第4弾は仙台空港拠点「宮城・岩手の温泉巡りと松島・平泉の旅」を計画。
松島は27年ぶり、平泉は実に55年ぶりである。以下の3回に分けて紹介します。
第1回:仙台牛タンと青葉城址、秋保温泉(巨大風呂を求めて)
第2回:松島海岸と宮澤賢治記念館 山の神温泉(建築美旅館を求めて)
第3回:中尊寺と毛越寺(平泉文化を求めて)

 伊丹空港の駐車場は高いので今まで空港周辺の民間駐車場を利用していたが、今回初の利用。なんと予約料と駐車料の二本立て。朝の高速ラッシュで少しやきもきしたが離陸1時間前に入庫でき、さくらラウンジで一服。仙台行は午前10時半発JL2205便。

 27年前の東京単身赴任時に鉄道駅周辺だけを知る仙台、5分ほど遅れて機は無事到着。早速昼食を取るべく空港ビル3階の寿松庵へ。牛タンを食する機会は恐らくここだけと思い、牛タンシチューセットを注文。お箸で食べれる柔らかさの美味シチューを私はパンで、女房はライスで、昼食をとる。
            
           空港ビル3階の寿松庵の牛タンシチューセット   

 今回はトヨタレンタカーでSサイズを予約し、ヴィッツが用意されていた。仙台空港と市内青葉城址とは予想以上に距離があり、それというのも先の大地震の影響で通行止めの箇所があるため、随分迂回して到着した。

            
             城址址からの仙台市街地の眺望

 仙台城は、初代仙台藩主伊達政宗によって造営された城。東が広瀬川、南が竜の口渓谷、西が青葉山に囲まれた天然の要害で、その始まりは戦国時代にこの地を治めていた国分氏が青葉山に造った山城を利用して築かれたようで、1602年に本丸と東丸(三の丸)が整備され、その後二代藩主忠宗が二の丸を造営し、ここがその後の藩政の中心となったようだ。
 政宗はこの城に天守閣を設けず、1610年に畳約430畳の本丸大広間を完成させている。全部で14の部屋があり桃山建築の粋を集めた豪壮華麗な建物だったようで、その礎石が残っている。

            
       仙台城見どころマップ                 本丸大広間の礎石

            
         本丸大広間の復元図                本丸大広間地絵図  

 また、正宗公没後300年を記念して1935年に造られた37歳の伊達政宗騎馬青銅像は、残念ながら今年3月16日の地震で破損し、来年3月まで修復撤去されている。
 初代の像そのものは数々の変遷を経て1964年復元され、台座の銅板レリーフには政宗の生涯4場面が描かれているそうだ。(元服時、朝鮮出兵時、遣欧使節団支倉常長の見送り時、権中納言授位時の束帯姿)

            
    仙台城址のシンボルは修復移動            本来ならこのような!  

 本丸跡には、荒城の月の句碑がある。滝廉太郎作曲、土井晩翠作詞のこの曲は、明治生まれの晩翠が修学旅行で鶴ヶ城 跡を訪れた際に荒れ果てた姿を目にして、故郷の青葉城 と重ね合わせ、そのイメージをもとに 詩を書いたと言われている。
 また、明治35年に建立された仙台鎮台(第二師団)戦没者を慰霊する昭忠碑は、東日本大震災で頂部の青銅製の鵄(とび)が翼を広げた姿の像が落下し、修復された後、基壇部に新たに台座を設けて展示されている。元は全体で約20mもある巨大な像。
 本丸跡の仙台城見聞館には、仙台歴史ミュージアムネットワーク(歴ネット)シート(見聞館のものはシートNO1~10、無料)も置かれているので、必見。

     
仙台出身「土井晩翠作詞」の「荒城の月」句碑  昭忠碑の青銅製の鵄像   仙台歴史ミュージアムネットワークシート 

 仙台市内を一望する青葉山城址、二の丸あたりに東北大学のキャンパスがあり、坂道と格闘する学生諸君の若さを羨望しながら、今宵の宿「秋保温泉ニュー水戸屋」に向かう。

 秋保と書いて「あきう」と読む。秋保温泉郷の奥には自然美豊かな磊々(らいらい)峡、秋保大滝、二口峡谷等の名勝があるが、今回は温泉郷止まり。この秋保温泉の歴史は古く、名取の御湯と称され、別所、野沢と共に日本三御湯に数えられるようで、伊達政宗も秋保の湯を愛し、伊達藩の御殿湯となったようだ。

            
        今宵の宿ニュー水戸屋            宿の平面図に占める湯殿の広いこと

 ホテルニュー水戸屋は、豊富な湯量(ナトリウム・塩化物泉/低張性弱アルカリ性高温泉)と十六趣の湯殿を売り物にしている。とにかく風呂場が大きい。形や湯温の異なる湯殿が沢山あるが、泉質は皆同じ。仙台の奥座敷で団体客目当ての宿のようで、コロナがおさまりつつあるこの時期、アジアからの団体客もバスで到着していた。ただ、お客は戻りつつある一方でスタッフが少ないのか、夕食時の会席料理も次々と提供され、折角の美味しい温かい料理も食べる時には冷めてしまって、残念であった。


            ニュー水戸屋の十六趣の湯殿                会席和コースのお献立    

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南紀白浜のミニ新名所

2022年11月13日 19時48分54秒 | コーヒーブレイク
南紀白浜のミニ新名所

 南紀白浜には、恐らく20回以上訪問をしているが、初期の観光を除くとほとんど温泉、グルメ、ゴルフに訪問が集約される。今回も正に温泉と九絵会席の訪問であったが、白浜の「旅館むさし」が紹介する珍しいスポットが目にとまったので行ってみた。

 
      白浜のお馴染みの光景                白良浜(いずれもホテルマリオットから撮影)

白浜の北部には有名な円月島、京都大学白浜水族館、番所山公園などがある。高台の公園内には和歌山が生んだ世界的な博物学の巨星、南方熊楠(みなみかたくまぐす)の記念館もある。このため、学生の遠足等で公園入口は観光バスがよく停まっている。

 
  地図の上部左側に番所山公園               お馴染み円月島

今回紹介するミニ新名所は、番所山公園の入り口に面した海岸沿いにある洞窟である。大型バスで来た人は公園入口で下車、後は徒歩で公園内を登っていく。マイカーも同様、もしくは入口信号に従って一車線の細い道を登っていくので、海岸沿いの洞窟に気づく人はほとんどいない。
折角ここまで来たのなら、是非立ち寄っては如何でしょうか。円月島が全く違った角度で見ることも出来ます。

  
                  全長10数メートルの洞窟です

              
    洞窟内の開口部から撮影          洞窟を出たところから見る円月島

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行ってきました、ブラタモリで玄武洞と竹野海岸

2022年10月20日 22時19分17秒 | 異文化体験_日本
行ってきました、ブラタモリで玄武洞と竹野海岸
 
2022.09.15-16

(写真はクリックすることで拡大します)

 城崎温泉に行くたびに円山川の対岸の玄武洞を遠目に見ているのだが、立ち寄ったのは数十年ぶり。さらに城崎温泉街を抜けて海まで少し足を延ばすと竹野海岸に至る。宿は休暇村竹野海岸。ブラタモリ風に紹介しよう。

            
 豊岡 玄武洞 城崎温泉 竹野海岸の位置関係        玄武洞の名の由来と玄武洞公園

《天然記念物・玄武洞》
玄武洞は、約160万年前の火山活動で、流出マグマが冷えて固まる際に収縮して、溶岩の表面から中心部に向かって規則正しい割れ目を創り出し、柱状節理を形成して誕生したとされている。この玄武岩の大露頭は、地磁気逆転の発見にもつながった場所でもある。

江戸時代:この洞周辺の岩石は灘石と呼ばれ、採石場として利用されたようだ。
1807年:儒学者柴野栗山は、この洞の岩石が作り出す節理や断面模様から、中国の妖獣「玄武」を連想し、玄武洞と命名した。
1884年:小藤文次郎がこの岩石を玄武岩と命名した。
1925年:以前は洞内に入ることが出来たようだが、この年に発生した北但大地震で大きく崩落し、崩れた玄武岩は城崎温泉街を流れる川の護岸等に利用されている。
1926年:京都大学松山基範が、世界に先駆け「地磁気の逆転」を発見
(玄武岩に含まれる鉄分は、溶岩が冷却固化する際、地球の磁石の方向に磁化されるが、玄武洞の岩石が逆向きに磁化されていることを発見、その後多くの火成岩の磁気調査を行い、1929年地磁気逆転の可能性を示す論文を世界に発表)
1931年:玄武洞・青龍洞が国の天然記念物に指定される

      
    天然記念物「玄武洞」             天然記念物「青龍洞」

   
    横向き節理の「白虎洞」と拡大写真

玄武洞公園の中心にあるのが、天然記念物「玄武洞」。人工的に作られた洞穴と掘り残された柱との対比が圧巻の景色を醸し出している。
天然記念物「青龍洞」は、柱状節理の美しさを堪能できる見ごたえのある洞である。
「白虎洞」では、水平方向に延びた細い柱状節理の断面を見ることが出来る。一般的に柱状節理はゆっくり冷えたところほど太くなるので、この付近は溶岩が早く冷え、溶岩の外縁部に近いことが分かる。

  
    「北朱雀洞」       玄武洞の成り立ちが分かる「南朱雀洞」と拡大写真 

「南朱雀洞」「北朱雀洞」は、比較的小さな洞であるが、南朱雀洞では節理形成に至らないごつごつした溶岩流の先端部分と、その先に節理の見られる部分を見ることが出来る。

《休暇村・竹野海岸と猫崎半島》
今日のお宿は、休暇村・竹野海岸。海の幸と温泉を堪能した翌朝、宿舎の周りの遊歩道を散歩する。海水浴の季節は終わっているが、大浦浜にはカヌー教室の親子カヌーが豆粒の大きさできれいな水面をゆっくりと移動している。沖合の3つのこぶが特徴の「猫崎半島」は、兵庫県の最北端で但馬海岸の原風景を形成する樹種スダジイ、タブノキの原生林があり、ブラタモリ風に解説すると半島左二つのこぶは固い流紋岩、右の低いこぶは柔らかい砂岩・礫岩で構成され、3つのこぶを形成しているとのこと。

     
宿舎の部屋から見た光景(沖合の3つの丸いこぶが猫崎半島)   秋の旬彩会席(前菜)

     
    宿舎周辺の遊歩道          大浦浜方面(透き通った海面でカヌー遊び)

      
エメラルドグリーンの海が広がる第2展望台からの眺望    兵庫県最北の猫崎半島

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行ってきました、県民割りで休暇村南淡路と淡路島の歴史探訪

2022年07月15日 19時56分11秒 | 異文化体験_日本
行ってきました、県民割りで休暇村南淡路と淡路島の歴史探訪

2022年7月7日-7月8日


(画像はクリックしていただくと、拡大します)
 台風一過の七夕の日、7月14日まで延長された県民割りを利用して「休暇村南淡路」に車を走らせました。2年前に同じく淡路島の「ホテルニューアワジ」に旅行したのがまさしくgo to travelが始まった10月1日で、淡路島にはお得感を味あわせてもらっている。
            
        淡路島ガイドマップ            淡路ハイウェイオアシス

 今日も明石海峡大橋を望む淡路ハイウェイオアシスは、大いに賑わっている。小休止のあと、神戸淡路鳴門自動車道を津名一宮ICで降り、最初の訪問地伊弉諾神宮に向かう。

《伊弉諾(イザナギ)神宮》
 古事記や日本書紀の冒頭に国生みの夫婦神として登場する男神・伊弉諾(イザナギ)大神(主祭神)と女神・伊弉冉(イザナミ)大神(配祀神)を祀る日本最古の神社。
              
                  伊弉諾(イザナギ)神宮の参道

 神宮略誌によると、境内地は、神代の昔に初めて夫婦の正道を契り定められ、大八洲の国々を修理固成され、更に万物万象と神々を生成された伊弉諾大神が、御子神なる天照皇大御神(お伊勢さま)に譲位され、淡路の多賀の地に御自ら幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)を構へられたと傳へる故地で、「日之少宮(ひのわかみや)」ともいう。
 淡路国一宮、旧官幣大社の格式で、伊勢神宮と同緯度に位置している。御朱印をいただいたが、確か今までいずこも300円であったが、今回は500円に。
 境内にはご神木の樹齢約900年の「夫婦の大楠」があり、延命長寿、縁結び、子授けの信仰が篤い。この日も多くの参拝者があり、境内の放生池の周りでは結婚記念写真の撮影が行われており、白無垢の新婦はさぞかし暑かろうとお察し申し上げる。

        
          茅の輪くぐり(左回り、右回り、最後にまっすぐくぐり抜ける)

        
          神宮本殿           境内放生池(左手木陰でカップルの撮影が)    

            
 ご神木・樹齢約900年の「夫婦の大楠」   御朱印(500円、これもインフレ?)

 この辺りはお香づくりが盛んなようで、沢山の工場がある。島の西岸を走るR31を少し南下すると「ウェルネスパーク五色」がある。別名、高田屋嘉兵衛公園。淡路島が世界に誇る郷土の偉人である。5年ほど前、この公園に隣接する「スプリングゴルフ&アートリゾート淡路」でプレイ&宿泊した際に初めて知った高田屋嘉兵衛にまつわる施設である。

          
    ウェルネスパーク五色(地図下方に菜の花ホール)  高田屋嘉兵衛顕彰館

《高田屋嘉兵衛顕彰館 菜の花ホール》
 高田屋嘉兵衛をお忘れの方も司馬遼太郎の長編小説「菜の花の沖」の主人公で、2001年1月からNHKで全5回シリーズで放映され、江戸時代、北前船で命をかけて海に生き、たった1人で大国ロシアと外交を繰り広げ、波乱万丈の生涯を送った大商人と言えば思い出す方も多いのでは。

          
    顕彰館の入場案内パンフ    司馬遼太郎「菜の花の沖」(S57.7.25 第1刷 文藝春秋)

 1769年現洲本市五色町の農家の長男として生まれ、北方に着目し、函館を拠点として上方への商品流通に注力、幕府にも協力し択捉島―国後島間の航路を開拓し、北方漁場開拓も行った。嘉兵衛が北方で活躍していた時に、ゴローニン事件が起こり、航海中の嘉兵衛はロシアに捕らえられたが、この機に彼はたった一人で日露両国の交渉に尽力し、ゴローニン釈放に漕ぎ着けた。江戸期に日露民間外交の先駆者として偉大な功績を残し、50歳で郷土都志に戻り、1827年59歳で生涯を閉じた。

  
館内展示例(北前船等、高田屋嘉兵衛とピョートル・リコルド像)   館外:高田屋嘉兵衛とゴローニン提督像

(休館日:火曜日 入館料:大人500円)
(ゴローニン事件については、今日の北方領土問題とも関連する出来事で、ウィキペディア等を参照されたし)

 高田屋嘉兵衛顕彰館からR31をしばらく南下すると2.5kmの白砂が続く日本の渚100選にも選ばれた慶野松原海水浴場がある。周辺民宿が多数あり、40数年前幼い子供たちを連れて海水浴に来たのを思い出す。この辺りは有名な淡路瓦の名産地でもある。ここからは一路福良へ。

《休暇村南淡路》
         
     高台に建つ休暇村南淡路            部屋から見る福良港

 鳴門の観潮船が発着する福良港を見下ろす高台に位置する休暇村シリーズの宿舎。コロナの影響で近場の休暇村を利用した旅が多いが、今回は紀州加太、南紀勝浦に続く3件目である。
 今回の楽しみは温泉、グルメ、天体観察。食事は旬のはも三昧か牛ぎゅう懐石か迷ったが、牛ぎゅう懐石に。結果、旬のものを食べるべきであったと反省。
         
       牛ぎゅう懐石          七夕に期待の400mm天体望遠鏡

         
       7月8日の福良港の御来光          露天風呂から見る大鳴門橋

 当館ご自慢の400㎜天体望遠鏡は、七夕、天の川はおろか雲に邪魔されて月さえも見ることが出来ず、これまた残念。
チェックアウトまでに、大鳴門橋を遠望する露天風呂・大浴場に都合4回の温泉入浴を堪能した。

 帰路は、国生み伝説の「オノコロ島」と言われる沼島(ぬしま)が見れる東海岸沿いをドライブ。福良からR76で洲本まで、途中時期は過ぎたが水仙郷や淡路島モンキーセンター等もある。あいにく昨日と違って今日は曇天、視界も悪く沖合4.6kmの沼島は島影を見る程度で、更に対岸の友ヶ島や加太方面は認識できず。
        
     国生み伝説の「オノコロ島」と言われる沼島(友ヶ島、加太方面への視界は開けず)

 単調な海岸線を走っていると、モンキーセンターのところで、海から4匹の猿が路面を横切って山に戻るところに遭遇。しばし睨み合いのあと、山の方に消えていった。
ハイウェイオアシスで、二人で4000円の商品券を使って沢山のお土産を買い、無事帰路につきました。

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1月29日 今日は何の日 「南極の日」

2022年01月29日 23時26分47秒 | 世相独言
今日は何の日? 1月29日はわが国では「南極の日」

 本日、国立極地研究所名誉教授・佐藤夏雄氏(越冬隊長等を歴任)の話を聞く機会がありました。
世界的には、12月14日が南極の日(1911年ノルウェイ・アムンゼンが南極点に到達の日)
一方、我が国では1月29日は1957年昭和基地が開設された日。

 南極と言えば、白瀬中尉や観測船「宗谷」、ソ連「オビ号」、樺太犬タロー・ジロー等、思い出深い名前が思い起こされますが、今日の話で印象深いのは、このプロジェクトの発足経緯でした。当時小学生だった私には知りえなかった話です。
 
 氏の話によると、まだまだ戦後復興の色濃い日本で国民を特に若者を元気づけようと、二人の男が中心になって動いたとのこと。1955年、朝日新聞の矢田喜美雄記者とこの分野で国際的に著名だった永田武教授。
 朝日新聞社が日本学術会議に南極観測参加を支援表明し、その数か月後の1955年11月政府が閣議決定(当時の国家予算9915億円に対し10億円を予算化、朝日新聞も国民(当時の日本人口約8000万人)に1.5億円の寄付を募ったようです。
 南極基地建設には国際承認が必要で、多くの先進国から日本の参加に反対意見もあったようですが、永田教授らの働きで承認を取り付け、直ちに灯台補給船だった宗谷を砕氷船へ改修、1,000社に及ぶ物資提供協力等のもと、急ピッチで諸準備を行い、閣議決定からおよそ1年後の1956年11月8日観測船宗谷が出港したという。

 私が驚き、強く印象に残ったのは、この閣議決定を含むプロジェクトのスピード感と、この国家プロジェクトを仕掛けたお二人の年齢です。永田武教授43歳、朝日新聞矢田喜美雄記者同じく43歳。
 戦後復興の中で、若者に日本が世界に伍して歩む夢を与えようとした43歳のお二人と、それにいち早く応えた政府。この活力こそ、少子高齢化社会の暗闇でさ迷う今日の日本が失ってしまった一番大きなものではないでしょうか?

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半世紀 50年

2022年01月27日 12時06分23秒 | コーヒーブレイク
半世紀 50年

 この方を覚えておられる方も、めっきり少なくなったのではないでしょうか。横井庄一さん(1915~1997)、元日本軍兵士。
           

 1972年1月24日、グアム島の奥地で現地住民に発見され、日本軍が玉砕した1944年8月から28年間、捕虜になることを禁じた軍令を守り、グアムのジャングルで人知れず生き延びてこられ、「恥ずかしながら生きながらえて帰ってきました」と母国に帰還されました。
ちょうど今から50年前のことです。
この知らせは、戦後27年高度成長期真っただ中の日本国中に衝撃が走りました。私たち若者には戦争の実感を間近なものにし、死亡通知を受け取った遺族の方々にはもしやわが父、わが息子もと。(さらに1974年フィリピン・ルバング島から小野田寛郎さんが29年間の潜伏を経て帰還されました)

 横井庄一さんは発見後、グアム島に初めて出来た日系ホテル「グアム第一ホテル」で10日間ほど過ごされ、2月2日に帰国されました。
我々夫婦はその3ケ月ほど後に、心の片隅に少し複雑な思いを偲ばせながらグアム第一ホテルに新婚旅行で訪れました。ビザとイエローカードを持ち、1ドル360円、円の持ち出し規制の中で。
大阪伊丹空港からパンナム機でグアム島へ、帰路は就航が始まったばかりのジャンボジェットに乗りたくて羽田経由で伊丹に戻りました。当時の伊丹空港は、ジャンボジェットが離着陸出来るだけの滑走路延長がなかったためです。

40年後の2012年9月、私は再びグアムの地に降り立ちました。タモン湾に面し当時一軒家だった日系のグアム第一ホテルは、建物は存続していましたが、経営は台湾系の企業に代わっており、タモン湾周辺には様々なホテルやDFS等の施設が林立し、昔の面影を見出すことは出来ませんでした。

朝日新聞2022年1月25日号夕刊の横井庄一さんの記事を見て、50年前を思い起こしてみました。

  
元日本兵発見を伝える新聞  グアム島初の日系ホテル「グアム第一ホテル」 台湾系の経営に代わった現在のホテル

  
左:50年前のタモン湾から恋人岬方面の景色 右:ホテル等が林立する現在の景色  PANAMのジャンボジェット  

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行ってきました 雄琴温泉と比叡山周辺の秋を求めて

2021年11月29日 21時41分27秒 | 異文化体験_日本
行ってきました 雄琴温泉と比叡山周辺の秋を求めて

― (その1)近江神宮・坂本城址・日吉大社 ―

― (その2)雄琴温泉・比叡山ドライブウェイと延暦寺 ―

2021.11.18-19

 コロナの影響も和らいできた11月、近くにありながら行ったことのない雄琴温泉をベースに周辺の紅葉を求めてドライブしてきました。写真の関係で2回に分けて投稿します。写真はクリックで拡大します。


(その2)おごと温泉・比叡山ドライブウェイと延暦寺

【おごと温泉】
 かつての滋賀県最強の風俗街・雄琴も、昨今はすっかりイメージチェンジをして家族連れも多い「おごと温泉」として活況を呈している。初の訪問で少し高台の「里湯昔話 雄山荘」に投宿。お湯は単純温泉でPH9とアルカリ度が高く、まったりしたお湯である。寺社参りで石段昇降に疲れた足にはもってこいの温泉である。

        
湖畔の夕暮れの雄琴(おごと)温泉(HPより借用)       雄山荘の部屋からの眺望

    
        宿舎自慢の大浴場と露天風呂(女風呂は混雑、男風呂は2,3人)       本日のお品書き

【比叡山延暦寺】

        
  比叡山延暦寺ガイドマップ          比叡・奥比叡山ドライブウェイの見どころ

 雄琴温泉のすぐ近くの仰木ゲートから奥比叡ドライブウェイに入る。今が盛りの紅葉を楽しみながらゆっくり走らせる。
まず最初に到着するのが、延暦寺三塔の中で一番北に位置する横川(よかわ)地域。源信、親鸞、日蓮、道元などの名僧が修行に入った地である。
遣唐使船を模して造られた横川中堂と、おみくじ発祥の地とされる元三大師堂に参拝。鐘楼でひと突き、山々に響く音色が心地いい。高野山と違って比叡山は坂や石段が多い。昨日からの昇降で足の疲れが頭をもたげる。

  
横川地域は、親鸞、日蓮、道元等が主に修行  紅葉に彩られる横川中堂の舞台    横川中堂(聖観世音菩薩)     

  
鐘楼(山に溶け込む余韻の長い鐘音)   元三大師堂(四季講堂)       おみくじ発祥の地だそうです 

 ドライブウェイが次に導くのが西塔地域だが、その途中に琵琶湖を一望する峰道展望台があり、根本中堂の方向を見つめる巨大な伝教大師像も設置されている。残念ながら琵琶湖は靄がかかり湖東地区を明確にとらえることが出来ない。

      
琵琶湖を一望する展望台の伝教大師像       薄くもやがかかり展望はいまいちだが鮮やかな紅葉が  

 西塔地区には三井寺の金堂を移築した延暦寺最古の建物、釈迦堂があり、その手前ににない堂がある。ここも階段がきつい。ドライブウェイに並走して東海自然歩道が整備されており、健脚な信心深い参拝者が歩いている姿が林間に見受けられる。

  
駐車場からにない堂へのアプローチ      釈迦堂(釈迦如来)    釈迦堂への下り階段(昇降階段・坂の連続)
  
 延暦寺の中心地域、東塔地域はさすがに多くの参拝者とバス・車で混雑している。大講堂、延暦寺総本堂の根本中堂、文殊楼を参拝、最後に大講堂前の鐘楼(平和の鐘)で諸祈願のひと突き、もはや足の限界である。根本中堂は2016年から60年ぶりの大改修中で、終わるのは令和8年3月を予定。ご本尊薬師如来像の前には1200年以上「不滅の法灯」が輝き続けている。延暦寺を代表して根本中堂で御朱印をいただく。御朱印所は全山15ケ所あるので、全部いただくと4500円必要。

  
延暦寺バスセンターに近い大講堂    改修中の根本中堂へのアプローチ  60年ぶりの改修、令和8年3月末までを予定

    
延暦寺の諸堂巡拝券(1000円) 根本中堂の御朱印(釈迦如来ゆえ医王殿) 根本中堂前の文殊楼

 帰路は、比叡山ドライブウェイで田の谷峠ゲートを経て、西大津バイパスから名神高速道路、近畿自動車道、大した渋滞もなく夕刻までに帰宅出来ました。

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行ってきました 雄琴温泉と比叡山周辺の秋を求めて

2021年11月29日 12時17分30秒 | 異文化体験_日本
行ってきました 雄琴温泉と比叡山周辺の秋を求めて

― (その1)近江神宮・坂本城址・日吉大社 ―

― (その2)雄琴温泉・比叡山ドライブウェイと延暦寺 ―

2021.11.18-19

 コロナの影響も和らいできた11月、近くにありながら行ったことのない雄琴温泉をベースに周辺の紅葉を求めてドライブしてきた。写真の関係で2回に分けて掲載します。写真はクリックで拡大します。



(その1)近江神宮・坂本城址・日吉大社

 おりしも阪神高速・環状線の工事封鎖で、連日近畿自動車道は大渋滞。この日も普段45分で行ける岸和田・和泉ICから吹田ICまで2時間ほどかかったが、名神高速は渋滞なく最初の目的地「近江神宮」に10時半頃到着。

【近江神宮】
        

 年初に行われる全国競技かるた大会や6月第1日曜に行われる鏑流馬神事で有名なこの神宮は、御祭神が天智天皇、667年大津近江京への遷都の跡地に昭和15年鎮座された。
 第38代天皇・天智天皇(626-672)は、中大兄皇子としても知られ、我が国法律の源をなす「近江令」の制定や、国民教育の道となる学校制度を創始、更には漏刻(水時計)を設け、社会生活の基盤となる時刻制度を確立したことでも有名である。
 藤原定家選(諸説あり)とされる小倉百人一首の選定に際し、その巻頭を飾るのが、天智天皇のこの歌で、歌かるたの祖神として広く仰がれている。
「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」
(あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもては つゆにぬれつつ=秋の田に作った仮小屋にいると、屋根を葺いた苫の目が荒いので私の袖は夜霧に濡れてしまう)
ちょうどこの時期、七五三詣での親子づれも散見された。

            
近江神宮楼門(境内側から見てます、七五三詣でもちらほら)    外拝殿(内拝殿 本殿と続く)


年頭のかるた祭りは有名       6月第1日曜日開催の鏑流馬神事  天智天皇が漏刻(水時計)を設置し時刻制度を確立

【坂本城址公園】
      
坂本城址公園に建つ明智光秀の像         琵琶湖の湖面に渡来した沢山の水鳥たち

 1571年、信長の命により琵琶湖水運による交易、比叡山延暦寺に対する抑えとして、明智光秀が築城した坂本城は、初の瓦葺き天守を持つ水城。本能寺の変後焼け落ち、丹羽長秀により再建されたが1586年廃城となった。
 坂本城の最南部と思われる辺りに城址公園があり、光秀の石像が立っている。この公園の北方に湖中に没した本丸の石垣と胴木が見つかっている。

      
 坂本城の配置図と復元模型(この公園より北側にあり、湖の中に本丸の石垣と胴木が見つかっている)

【日吉大社】
      

 近くのすし屋で昼食後、日吉・日枝・山王神社の総本宮である日吉大社に詣でる。
 東西二つの本宮があり、東本宮は大山咋神(比叡山の山神様)、西本宮は大己貴神(大津宮遷都の際三輪山よりお迎えした国家鎮護の神)を祭神とし、両本殿は国宝。

      
山王鳥居(神仏習合の信仰を表す「合掌鳥居」)   日吉大社の花手水(季節の花々でもてなしてくれる)

      
西本宮楼門(重要文化財) さるは神様の使い「神猿(まさる)」=魔が去る、何より勝る   楼門の四隅に棟持ち猿が(〇印)

          
西本宮本殿と東本宮本殿(共に国宝、屋根が独特の形(日吉造(ひえづくり)、床下に仏事を営んだ下殿(部屋)があった

            
4月の山王祭の桃山~江戸時代に制作された7基の神輿(重文)の一つ   秋には境内3000本のもみじ祭り

 平安遷都の際には、当地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師(最澄)が叡山延暦寺を開山後は天台宗の護法神として、今日に至っている。4月には春の訪れを告げる湖国三大祭「山王祭」が行われる。11月1日から12月5日まで、境内3000本の紅葉まつりが行われている。

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